2-07 令嬢と悪魔な家令〜いいでしょう。暇つぶしに仕えてさしあげます〜
病弱の伯爵令嬢ジョアナリーザは、主治医が両親と家令に自分の余命があと半年だと告げているのを密かに聞いてしまう。
「神さまを信じて日々祈りを捧げていたのに、それでも良くならないなんて。……いっそのこと悪魔にでも祈ろうかしら」
自分の運命を悲観し、投げやりな感情のままそう呟くと、本当に悪魔が現れた!?
余命を延ばすのは、祈りではなく対価。
それはジョアナリーザの魂?
悪魔によって明かされる若き家令の秘密とジョアナリーザの余命の真実。
これは契約した悪魔から暇つぶしに仕えられ、時々甘やかされながら、人並みに幸せな人生を送ることになった令嬢の物語。
「原因は不明ですが、ジョアナ様の余命は……」
十七歳の伯爵令嬢ジョアナリーザ・ロッドリーは、わずかに開いている重厚な扉の隙間から、部屋の中の様子をこっそり覗き見していた。
中にいるのは、少し前にジョアナリーザの診察を終えたばかりの主治医カーンと彼女の両親であるロッドリー伯爵夫妻、そして伯爵家に仕える若き家令ロエル・シモンズ。
「……あと半年くらいかもしれませんな」
眉間に深い皺を寄せたカーンの告げる診察結果は、その場の重苦しい空気に更に重石を載せた。
「ああ、そんな……ジョアナが!?」
小さな悲鳴をあげ、抱き合う伯爵夫妻。愛する娘の余命宣告に、ふたりは悲痛な表情を浮かべ涙を流し始めた。
(わたしが? わたしの余命が……あと半年ですって!? まさか……嘘よ)
ショックを受けたジョアナリーザは、寝間着にガウンを羽織っただけの格好で、人気のない広い廊下の壁に手を這わせながら、ただフラフラと歩いている。
(……信じられない!!)
幼いころから、すぐに熱を出したり寝込んだりしていたものの、ひどい病いにかかったことはなかった。それがここ数年体調が悪く、最近は特に体がだるく息苦しかった。
鏡を見れば、艶やかだった自慢の金色の髪は老婆のごとく褪せた銀色になり、肌も青白く不健康そうだった。紫水晶にたとえられていた美しい瞳も濁っているように見えた。
(おかしいわ。カーン先生から言われた通り、出された薬はきちんと飲んでいたし、安静にしていたというのに……どうして快方ではなく余命宣告になるの?)
点々と連なるランプの仄暗い灯りだけが、唯一彼女に寄り添っている。ジョアナリーザの足は自然とお気に入りの場所へと向かっていた。
すぐそこなのに、既に息があがっていて遠くに感じる。こんなに体力が落ちていたのかと、ジョアナリーザは堪らなく悲しかった。
(子どもの頃はまだ、走ることだってできたのに……)
ジョアナリーザのお気に入りの場所とは、両親がほとんど外出できない愛娘のために揃えた本や、様々な国から取り寄せた骨董品が集められた小部屋で、彼女にとっては夢と憧れの詰まった大きな宝箱だった。
鳥と蔓草模様の扉を開き、部屋の中に入れば、白檀のような甘美な匂いにつつまれる。
あと半年、ただ死を待つだけの人生は嫌だと、ジョアナリーザは強く思う。
(人間のお医者さまじゃ、わたしを救えない。神さま、どうかお願いします。わたしをお救いください。わたしは教えに背いたことなどありません。こんな……屋敷に閉じこもってばかりで終わる人生なんて絶対に嫌です。王都に行って、王宮のきらびやかな舞踏会でダンスを踊りたい。旅行もしてみたい。甘い恋も、結婚だってしたい。もっと長く生きていたい!!)
ジョアナリーザは、天を仰ぎながら心の中で叫んでいた。
「ジョアナ様、おひとりで歩き回ってはいけません。お体は大丈夫でございますか?」
いつの間にか家令のロエルが、ジョアナリーザのすぐ背後まで来ていた。
彼の物静かな態度と漆黒の髪と深い青の瞳、その整った顔立ちは、彼に冷たい印象を与えている。実際は、いつも自分を気にかけてくれる優しい人だとジョアナリーザは思っていた。
三年前に年老いた家令兼執事の後任のため、ロッドリー伯爵家にやってきた。親交のあるシモンズ男爵家の四男で、伯爵家の家令をしながら領地運営を学び、ゆくゆくはひとり娘であるジョアナリーザの婿になり、伯爵の跡を継ぐのではと使用人たちが噂しているのを聞いたことがあった。
今の精神状態のジョアナリーザには、ロエルの気遣いさえ虚しい。
「大丈夫よ。心配してわざわざ追いかけて来てくれたのね。……ロエル、わたしの余命は本当にあと半年なの?」
「先ほどのカーン先生の話を立ち聞きしておられたのですね? そのようなことはありません。良くなりますよ、きっと……」
そう言いながらも目を逸らすロエルの態度に、ジョアナリーザは落胆した。
「神さまを信じて日々祈りを捧げていたのに、それでも良くならないなんて。……いっそのこと悪魔にでも祈ろうかしら」
「悪魔に祈るなど、正気ですか!?」
「悪魔は何か対価を払えば、願いをかなえてくれるのでしょう?」
「迷信ですよ」
「それでも、今のわたしには最後の救いかも」
「ジョアナ様、そのようなことをおっしゃるのはおやめ下さい。本当に悪魔に目をつけられたらどうするのです」
ロエルに冷ややかな声で諌められるジョアナリーザ。
(悪魔……、見たことも会ったこともないけれど)
突然、不可解な音が聞こえてきた。
書斎机の上に置かれていた美しい硝子のインク壺の蓋が、ガタガタと揺れている。それがひとりでに持ち上がり、ゴトリと天板に落ちて転がった。
「ひっ……!?」
ジョアナリーザとロエルは、その光景に息を飲む。
続いて羽根ペンが軽やかに宙を舞い、インクをつけると、机の上に無造作に散らばっていた一枚の紙に、今は使われていない古代文字をサラサラと書いていく。
普段からこの部屋に来て、古代文字で書かれた古書を解読するのが好きだったジョアナリーザには、大まかな内容が理解できた。
ーーワレヲヨンダカ? ワレト、トリヒキスルカ?
(取り引き……って、ま、まさか、悪魔が語りかけてきているの? そもそも、悪魔って実在してるの?)
怖さより驚きと好奇心のほうが勝っていた。
「何が書かれているんだ!?」
ロエルの顔は、すでに恐怖で引き攣っている。
「自分と取り引きするか、ときいているわ」
ジョアナリーザは、なんとか平静を装った。
「読めるのですか? 悪魔の書いた文字が!? ジョアナ様が悪魔に祈ろうか、などと軽はずみなことを言ったから……。恐ろしいものを呼び出したのは、あなただ。あなたの責任だ!」
すっかり落ち着きを失ったロエルから憎しみに満ちた目を向けられ、人差し指を突きつけられる。その指先はガタガタと震えている。これが超常現象を前に慌てふためく人間の本来の姿だろう。
容赦なく自分をののしるロエルに、ジョアナリーザは幻滅した。
これまでの彼の気遣いは、うわべだけのものだったのだと気付かされる。
ジョアナリーザがひそかに抱いていた美しい家令ロエルへの好意は消え失せた。頼れるものは自分だけだと、改めて勇気を振り絞る。
(余命半年のわたしに、怖いものなどないわ)
「悪魔なの? そこにいるの? 取り引きしてもいいわ。わたしの余命を延ばすことはできる? そのための対価は何?」
ジョアナリーザは、胸の中に広がりつつある恐怖と戦いながら、毅然とした態度で言い放った。
ーーヨメイヲ、ノバス、デキル。タイカハ、タマシイ
黒い文字が、また羽根ペンによって新たに綴られた。
ロエルはとうとう腰を抜かしたようで、口をだらしなく開けたまま、壁を背にその場にしゃがみ込んでいる。明らかに放心状態だった。
ジョアナリーザは恐怖心を飲み込み、さらなる取り引きに挑む。
「わたしの魂は簡単には渡さない。まずはわたしの余命をおばあさんになるまで延ばすのよ。わたしの身に危険が迫ったら、当然守ること。それから、わたしが死ぬまで、わたしだけに仕えること! そして、できる限りわたしの願いを叶えて。そうしたら、わたしが死んだあとの魂は悪魔の好きにしていいわ」
まずは余命を延ばすことに必死で、死後のことなど、どうにでもなれとの思いだった。
ーーショウチシタ
「きゃあ!」
凄まじい強風が巻き起こり、ジョアナリーザは目が開けていられず、息も苦しくなり、両腕で顔を守った。
すぐに風は止み、その部屋は恐ろしく静かな空間に戻った。
ジョアナリーザは、ゆっくりと目を開き、呼吸を整える。
「!!?」
ジョアナリーザの目の前に、先程まで床にへたり込んでいたロエルがしっかりと立っていた。
「はじめまして、ジョアナリーザ様。悪魔のシェイエーズです」
目を細め口角を上げ、蕩けるような笑みを浮かべながら、右手を体に添え優雅な挨拶をする美形。このように甘い顔をするロエルを見たことはなかった。
(どういうこと? ロエルの体だけど、中身は彼ではなくシェイエーズと名乗る悪魔だというの? じゃあ、ロエルの意識というか、自我? 魂? はどこへ行ったの?)
悪魔との交渉はうまくいったようだが、この状況が理解できず思考が追いつかないジョアナリーザは、ふらついた。
「ひゃあ〜」
素早く背中に腕が回され膝裏を掬われ、体が浮いた。異性に横抱きにされるという初めての体験に驚き焦るジョアナリーザ。
「ジョアナ様の足元がおぼつかなく、危のうございましたので失礼いたします。魂が霞になるほど退屈していたところです。まあ、悪魔が家令というのも面白いかもしれません。いいでしょう。暇つぶしにあなたに仕えて、たまに興が乗れば願いも叶えてさしあげます。取り引き成立。契約でよろしいですね」
耳元にくすぐったい息を感じ、ジョアナリーザの心臓の鼓動が跳ね上がった。
正真正銘の【悪魔の囁き】。
「っっ!!」
(この人はロエルではなく悪魔! ま、まずは冷静になるのよ、わたし……。神さま、わたしはこれからどうなるのですか!? どうぞ、わたしをお守りください!)
ジョアナリーザは、悪魔のしっかりした腕の中で、結局は無意識に神に祈っていた。