2-06 愛しき冷血宰相へ別れの挨拶を
「どうかもう私のことはお忘れください。閣下の幸せを、遠くから見守っております」
とある国で、宰相閣下が結婚するという新聞記事が出た。
これを見た地方官吏のコーデリアは突如、王都へ旅立った。亡き兄の友人であり、年上の想い人でもある「彼」に別れを告げるために。
だが目当ての宰相邸では使用人に追い返されて途方に暮れる。そこに出くわしたのは、彼と結婚するという噂の美しき令嬢の姿だった――。
これは、冷血宰相と呼ばれた彼の結婚を巡る、恋のから騒ぎ。最後はハッピーエンドで終わるめでたしめでたしのお話です。
『"ウォルシンガム宰相、ついに結婚へ"
――政府筋のとある高官より我が国の"冷血宰相"ウォルシンガム卿が近々結婚するとの情報が本紙に入った。
ウォルシンガム卿は三十七歳。これまで独身を貫いてきた。
お相手とされるガプル公爵令嬢は、五年前に亡くなったガプル公爵の長女。現在は社交界に咲く名花として名前を知る紳士方も多い。彼女は父親から多額の財産を受け継いでいる上、美貌と才知にも恵まれている。
政府高官は取材に対してこう締め括った。「とてもお似合いの二人ですよ。釣り合いが取れているのでしょうね」。突如降ってきたこのビッグカップルの続報が待たれる』
あの"冷血宰相"が結婚するのか。
男は薄っぺらい新聞に載った小さな記事に目をとめる。
彼は片田舎にいる地方官吏。王都の中心にいる宰相閣下とは縁もゆかりもないが、唯一、「宰相閣下と同い年」という事実が彼の関心を惹いたのだった。
この国では三十七歳で未婚は珍しい。平凡さを自認する男でさえ、帰宅すれば三児の父である。
「若いころはよほど遊んでいたんだろうな〜」
遊び飽きて、結婚。それでも年下の美しい令嬢と結婚できるのだから、宰相は生まれながらの勝ち組だ。清々しいぐらいに住む世界が違いすぎる。
「人生ってやつはなんでこう……なんだかなぁって気持ちになるなあ。ちょっと見ろよ、宰相が美人のご令嬢と結婚だってさ、コーデリ、ア? っておい、俺の新聞だぞ!」
男は隣席の同僚コーデリアに話を振ろうとしたが、口をあんぐり開けたまま固まった。
突如、コーデリアが新聞を奪って、食い入るように記事を読み始めたからである。
コーデリアは二十代半ば。仕事を恋人にしたので婚期を逃したとひそかに揶揄されている地味な同僚である。地味なくせに、細かいところに気がついていちいち指摘してくるし、柔軟に仕事をすることも知らないので、仕事相手とよく言い争っている。
融通が効かない困った後輩なのだが、表面上は礼儀正しいので、先輩が職場に持ち込んだ新聞を何も言わずにひったくるとは思わなかった。
顔を新聞紙面に擦り付けるようにして記事を読み耽るコーデリアに軽口を叩く。
「あはは。コーデリアも一人前に結婚の話題に興味があるんだな。そうかそうか。でも残念ながら、宰相閣下は別の女と結婚するようだぞ」
冗談のつもりだった。
だって、宰相閣下は雲の上の人物。こんな田舎の官庁に務める官吏とは何の関係もないだろう。
「あ……」
思わず、といった風情で溢れた彼女の吐息が耳に残る。
紙面から顔を上げた彼女の目は赤くなっていた。
「ちょ、え、ど、どうした……?」
コーデリアは強い女である。たとえ上司であっても道理に反することは猛然と抗議をし、出張先で魔獣の襲撃にあっても住民の避難誘導に尽力し、目と鼻の先に魔獣の牙が襲いかかってもなお、ぴくりとも眉根を動かさなかったという。
そんな彼女が無防備な表情をさらしている。
どうしてか、彼はひどく罪悪感を抱き、彼女を見ていられなくなった。
「いやいやいや、コーデリア。宰相に失恋したわけでもあるまいし……なぁ?」
茶化しの最後は、誰に向けたわけでもない問いかけ。
呼応するように彼女は立ち上がった。
始業前の庶務課の一室はしん、と静まり返り、上司を含めた全員の目が、コーデリアひとりへ注がれていた。
彼女は気にしたそぶりもなく、上席の机の正面に立ち、「二、三日程度、お休みをいただきます。場合によっては少し伸びるかもしれませんが、よろしくお願いします」と震え声で言い切った。
突然の休みの申し出である。上司なら理由のひとつぐらい聞きたいところだろうに、気の弱い上司は、かくかくと振り子のように頭を上下しただけだった。
コーデリアは目に涙を溜めたまま、始業前の机を片付け、カバンを手に持った。
「……失礼します」
彼女の足音が聞こえなくなってから、部屋のあちこちでため息が聞こえてきた。
――コーデリアはいったいどうしたんだ?
上司も同僚もみな問いたかったに違いない。
ただひとり、彼の脳裏には例の結婚記事が踊っていた。
「いや、まさかな」
相手は中央の重要人物だ。コーデリアは、別の記事を見て取り乱しただけなのだ。あの記事が突然の有休取得の理由ではない。きっとそうだ。
さて。彼は新聞の続きを読もうとしたが、コーデリアに持って行かれたことに気づくと机に突っ伏した。
……コーデリアは、どうして涙を?
職場を後にしたコーデリアは、帰宅してすぐに革のトランクに荷物を詰め込むと、二時間後には王都行きの飛竜に乗って、空の上にいた。
長距離移動のための飛竜便は高くつくが、馬よりもはるかに早く目的地に到着できるのだ。
飛竜の背に揺られて王都まで数時間。観光に出かけるのなら、この空の旅も心躍るものだっただろう。
――君も、王都に来てみるといい。
ふと耳の奥で、以前聞いた「彼」の声が蘇る。
――君の好きそうなケーキを出してくれるパティスリーも多い。服がほしいなら流行の仕立て屋もいる。興味があるなら案内しよう。
――身の丈に合いません。王都に行かなくともほしいものはそろってますから。
そう、「ほしいものはそろっていた」のだから、コーデリアは地元から出たいと思わなかった。
……目の奥がじんわりと熱を持ったので片手で乱暴にこする。
空の旅を終え、王都の駅亭に着いた。飛竜と別れて辻馬車を拾う。「ウォルシンガム宰相邸へ」と御者に告げる。
御者は黙って馬車を走らせた。
訪れた屋敷前には記者と思しき男たちがたむろっている。時々、屋敷の使用人が出てきて、彼らをおっぱらっているようだ。
コーデリアは記者たちが散ったタイミングで、使用人のひとりに話しかけた。
「ウォルシンガム宰相と面会したいのですが」
「はあ? だれだ、あんたは」
若い男の使用人は、あやしむ視線を隠しもしない。
「コーデリア、と申します。宰相閣下の……知人、です」
彼女は懸命に己を奮いたたせた。
「お話ししたいことがあり、参りました。宰相閣下にお取次ぎ願えないでしょうか?」
「ふう……ん?」
男は、コーデリアの頭の先から爪先までじっとりながめると、「はっ!」と鼻で笑った。
「なんだ、閣下のファンか。妄想はなはだしいぞ。おまえのような粗末な女と旦那様が知り合い? そんなわけないだろ」
「本当です。閣下に、私の名前をお伝えいただければわかると思います。コーデリアです。閣下とは毎月、お会いして……」
「失せろ失せろ!」
男は聞く耳持たず、コーデリアの肩をぐい、と押した。その拍子にコーデリアは石畳の上に尻餅をつく。
使用人の男は、彼女に唾を吐きかけ、顎でしゃくった。帰れ、ということだろう。
コーデリアが俯いていると、前方できい、と門扉が大きく開いて、馬の蹄の音が聞こえてきた。
「何をなさっているの?」
声だけで、場が華やいだ。声の主が馬車から降りて近づいてくる。
薄紫のドレスを着た女性だった。
「こ、これは、ガプル公爵令嬢!」
使用人の男が慌てて頭を下げた。
――とてもきれいな人。この方が、ガプル公爵令嬢なのね。
コーデリアは打ちのめされた。何もかもが彼女と違いすぎた。色白で、上品で、愛らしくて。
彼女と比べたら、コーデリアなど路傍の石だ。美しい宝石とは扱いが違う。
――そうよね。あの人が選んだ女性だもの……。
「あら……? あなた、泣いているの?」
「いいえ、泣いていません」
コーデリアは目元を擦った。
「おかしなことをおっしゃるのね。……なにか事情がありそう」
魅惑的なゼニスブルーの瞳からは、猫のような好奇心が垣間見えた。底にある、値踏みの色も。安易な誤魔化しなど効かないだろう。
実は、と言いかけた時、例の使用人がコーデリアを羽交いじめにした。
「あーだめだ、これ以上は俺が許さん。もう一言も口を聞くな、死ね! ……ご令嬢、失礼しました、この者、頭がおかしいのです、片付けておきますので、早くお行きになってください!」
「あら、そう。……ごめんあそばせ」
使用人の言葉で令嬢の目から好奇の色があっさり消えた。貴婦人がコーデリアの前を通り過ぎていく。
使用人が高らかに叫ぶ。
「ご結婚おめでとうございます! 我々、宰相閣下の使用人一同、心からお祝いしとります!」
令嬢は微笑みを浮かべると使用人に先導されて再び馬車の人となった。
コーデリアは通行を邪魔しないように立ち上がり、門の脇にどく。背中で馬車が通り過ぎる音を聞きながら、スカートについた土埃を払う。
「クローヴィス、本当はね、私……」
呟きかけるも下唇を噛み締め、門向こうの屋敷を見上げた。しばらくそうしていたものの、結局は宰相邸前から去った。
同時刻。宰相邸の書斎にて、ウォルシンガム卿クローヴィスは眉間のシワをほぐしながらもう何十回目ともしれない自身の結婚記事を読んでいた。
執事が慌てた様子で入ってきた。
「今、使いの者が戻ってきたのですが、お会いできなかったそうです。急に仕事を早退し、どこかへ出かけたようです。おそらくは」
「この王都へ私を訪ねてくるか……使用人たちにも伝えておいてくれ」
「承知いたしました。……使用人の中にはあの方を知らない者もおります。入れ違いにならなければよいのですが」
「あぁ。必ず見つけて引き留めてほしい」
宰相は拳を額に当てて、大きく息を吐く。
――頼む、早まらないでくれ、コーデリア……。
彼らは、コーデリアがすでに屋敷前から立ち去ったことを知らなかった。