2-24 砂の星のアプス―
口腔から肺、胃にいたるまで液体に満たされた『溺死体』が発見された。水資源に乏しい砂の惑星・エンキにおいては非常に珍しく『贅沢な』死因であった。
事件解決に臨む女性捜査官オフェリアは、事故死で片付けようとする上司に反発し、独自に捜査を開始する。遺体から検出した『水』を分析することで犯人にアプローチしようとしたオフェリアは、しかし、衝撃の事実に直面する。
乾燥した惑星の最奥には水に似た『生物』が潜んでいた。古代神話の水の神になぞらえて、密かに『アプス―』と呼ばれる『彼ら』は、侵入者である人類に対して何を考え企んでいるのか──オフェリアは単身で立ち向かう。
忍び寄る未知の生物と対峙するSFホラーサスペンス!
「事故死、それで決着だ」
「あり得ません」
ボウエン警視は、調査結果を保存した記録媒体をデスクに投げ出して短く告げた。対するオフェリアは、さらに短く切り返す。椅子に掛けた上司の前に、憤然と仁王立ちして。
ばん、と掌を机に叩きつけると、記録媒体が小さく跳ねる。ボウエン警視の薄い唇が歪み、何か言おうとするのを無視して、オフェリアは捲し立てる。
「ここは、緑美しい地球でしたか? 違いますよね? 海はおろか河も湖も、水たまりさえ存在しない砂の星、熱と乾燥の植民星エンキ! ここでどうやって、事故で『溺死』できるんですか?」
ひと息に言い切ると、机越しに身を乗り出し、上司を睨め下ろす。と、薄くなり始めた頭頂に視線が刺さっているのを感じたのか、ボウエン警視は椅子を引くと目を逸らした。この上司は押しに弱い。
「そういうこともあるだろう」
「遺体は、胃から肺から食道まで『水』が詰まっていたんですよ? 配水管に穴を開けるか農業用貯水槽に忍び込んで盗み飲みしたんでしょうか。文字通り腹いっぱいに水を呑んで窒息死した『後』、誰にも気づかれずに郊外に出てから倒れた、と? 被害者はゾンビだったとでも!?」
オフェリアが畳みかけると、ボウエン警視の眉間の皺が深まった。部下の詰問に対する答えを、何ひとつ持ち合わせていないからだろう。
惑星エンキにおいて人類が活動可能な面積はごく小さい。星都イシュタルのほかは、何か所かのレアメタル採掘場だけが辛うじて環境を整えられている。地表の大半を占める砂漠に安易に足を踏み出そうものなら、瞬く間に熱気に炙られて身体中の水分を失い、ミイラとなり果てる。
この星では、郊外で死体が発見されること自体は珍しくない。極度の乾燥によって死体の風化は早いから、自殺にしろ他殺にしろ痕跡を消せると考える者が多いのだ。
今回も、最初は自殺が疑われた。遺体に外傷はなく、身なりからして失業者と思われたから。だが、検死の結果判明したのは、この惑星にはあり得ない死因および『凶器』だった。
何しろ、エンキでは水は配給制だ。プールもシャワーも、水道でさえ、ほとんどの住人はフィクションでしか知らないのだ。今回の犯行を行うだけの水を確保するのは、一般市民には難しい。
「これだけ水を『贅沢に』使った殺しは、見せしめなのかもしれません。死体の遺棄も含めて、ひとりやふたりでできることじゃない。水の配給に関する利権、盗水──マフィアが絡んでいるかも。看過できません」
この星の平安を守ることこそ、オフェリアの務め。犯罪の摘発は言うまでもなく、生存に必要不可欠な水資源の公平な分配は惑星社会の根幹にかかわる。巨悪の気配に及び腰になっている場合ではないはずだ。なのに──ボウエン警視は、オフェリアが提出した記録媒体を指先で捻り潰した。
「そういうこともある! 呑み込め、これは事故死だ。結論は変わらない」
「……分かりました」
分かりません、の一念を視線に込めて、オフェリアは上司の前から辞した。記録媒体のコピーは当然取ってある。何と言われようと、独自に捜査を続けるまでだ。
*
「で、またボスに嫌われたんだ?」
オフェリアの短い金髪をかき回して、アーロンは笑った。
彼のベッドで恋人らしいことをした後、上司との顛末をぶちまけたところだった。
仕事の話は甘い時間の後で。オフェリアの仕事熱心さを踏まえて、ふたりの間で決めたルールである。
「かもね。でも、だってどう見ても事故死じゃないし。捜査もしないで迷宮入りなんて職務怠慢でしょ?」
言葉では愚痴り憤りながらも、オフェリアの機嫌はだいぶ回復している。
彼女が優しく愛撫する、アーロンの焦げ茶色の髪も短い。惑星エンキでは、男女問わず髪を伸ばす者は少ない。乾燥した気候では艶やかで長い髪も贅沢品だ。
いっぽうで、身体を重ねていても触れ合う肌はさらりとしたもので、諸々がべたつく不快さはないから、極端な環境も一長一短だ。
アーロンの目に映るオフェリアの姿は、警官の制服を着用している時よりもずっと寛いで、幼く見える。ごく親しい相手にしか見えない表情を見下ろすアーロンの微笑は満足げで。その笑顔が近づいて──キスの音だけは少し湿っていた。
吐息を交わす合間、オフェリアの唇を食むようにして、アーロンは囁いた。
「色々と問題はあるんだろうけどね。頼ってくれたのは嬉しいよ。俺としても興味深い結果だったし」
「結果、出たの!? どうだった!?」
「ああ。楽しみにしてくれよ」
とたんに唇を離し、目を輝かせて身を乗り出すオフェリアに、アーロンは笑ってシャツを羽織り、ベッドを離れた。
ふたりとも、甘い空気は瞬時に蒸発させている。仕事熱心というならアーロンも同じ、彼は惑星エンキにはある意味不似合いな、「水」の研究者なのだ。
捜査中止を言い渡されたオフェリアが、比較的素直に引き下がったのは、アーロンがいるからこそだった。
今回の事件でもっとも不可解かつ特徴的なのは、凶器の「水」だ。
犯人がこの凶器を選んだ理由は、いくつか考えられる。刃物や銃弾のように遺体に痕跡を残さないこと。被害者を苦しませること。エンキでは貴重な物質・特異な殺し方であり、ゆえに社会に動揺を与えられること。……最後の理由ゆえに、ボウエン警視は捜査に消極的だったのだろうけど。
とにかく、凶器をそのままに死体を放置した犯人は、足がつくことはないと高を括ったのだろう。だが、それは思い違いだ。砂の星の緑化のために日々研究を重ねているアーロンは、この惑星上のすべての水の性質を熟知している。飲用、農業用、工業用──地区レベルでの微細な成分の違いに至るまで。
「試験管一本分のサンプルがあれば、出所が分かる、って言ってたものね。これで、現場や被害者の特定に近づけるかも!」
オフェリアは、遺体から採取した「水」を恋人に渡していたのだ。本来重大な違反だが、「凶器」の総量がほんの少し減ったところで、誰も気づきはしないだろう。
冷蔵庫に向かったアーロンを追って、オフェリアも慌ただしく下着を纏った。水以外の飲料はもちろん輸入されているから、ビールでも冷えているのかと期待したのだけれど──アーロンが突き出したのは、見覚えがある試験管だった。
「捜査に役立つかどうかは分からないが──ともあれ、驚くべき結果だったよ」
「冷蔵庫に入れてたの? 遺体が呑んでたやつよ?」
「結果を聞いてからだと、見る目が変わるだろうから。君に見せたかったんだ」
引いた眼差しに、アーロンはマッドサイエンティストめいた熱狂と慈愛が混ざった微笑で応えた。オフェリアの額にキスを落としてから、彼はどこか得意げに試験管を高く掲げる。
「『これ』は水じゃない。つまり、いわゆるエイチツーオーでは『ない』! これは、むしろ──」
むしろ、何なのか。オフェリアは聞くことができなかった。あるいは、聞かずとも分かってしまった。
試験管を封していた樹脂性の栓が、内側から押し上がる「水」の圧に負けて外れて飛んだ。ぽん、と。シャンパンを開封する時に似た音が軽く響いて、栓が天井にぶつかって床に落ちる。
目盛りによると20ミリリットルだったか、ひと口で飲み込めるていどだったはずの「水」は、体積を何十倍かに膨らませてアーロンの腕を滴り落ちる。彼の見開いた口を、鼻を口を覆って。揺れる「それ」の内部に零れた気泡が、アーロンの肺から空気が奪われ「それ」に置き換わりつつあることを教えていて。
「アーロン!?」
オフェリアの口から響いた悲鳴は、警官らしくない動揺した小娘のものでしかなかった。薬物常用者や武装した強盗と対峙しても怯まない彼女が、今は無様に取り乱している。
でも、だって。目の前で恋人がもがき苦しみんでいる。彼の表情は苦痛と恐怖に歪み、助けを求めて手を伸ばしている。なのに、何もできない。どうして冷静でいられるだろう。
「アーロン、アーロン……っ」
音を立てて倒れたアーロンの腹が、ぼこりと膨らむ。オフェリアには、その理由が想像できる。あの遺体には、胃から肺から食道まで「水」が詰まっていた。
内側から浸食する「水」に虚しく抗うアーロンの動きは、みるみるうちに小さくなっていく。恋人の身体に泣いて取りすがり、彼の体温が冷えて行くのを感じながら、オフェリアはアーロンが言おうとしていた言葉の続きを噛み締めた。
これは、水なんかではない。意志を、悪意を持った──生物、なのか。
「なんで……」
こんなものが。こんなことが。幾つもの思いを重ねて呟いた瞬間、ドアが音を立てて開いた。次いで室内に複数の足音がなだれ込む。
「何なの──」
オフェリアは、慌てて無防備に晒した肌を隠すものを探した。シーツを引っ掴んで身体に巻き付けてから改めて見れば、足音の主たちは見慣れたイシュタル市警の制服を纏っている。オフェリアの同僚たちだ。でも、なぜこんなに早く、通報もなしで?
疑問と動揺によって凍り付いたオフェリアの思考と身体を解凍したのは、聞き覚えのある声だった。
「オフェリア・ウッド捜査官。非常に残念だ。優秀で正義感の強い君が、痴情のもつれで恋人を殺めるとは」
「──え?」
「非常に残念だ」
喘いだオフェリアを、黒い銃口が睨む。そして、見慣れた上司の、どこか疲れた眼差しが。彼の役職で、現場に出るなどあり得ないのに。
銃を構えたボウエン警視は、言葉通り悲しげに眉を下げ、ゆるゆると首を振った。
「だから事故死だと言ったのに」





