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オホーツク挽歌考(四・復活)

全五回連載の四回目です。

 北海道・稚内と樺太・大泊を結ぶ稚泊連絡船の開通、すなわち内地と樺太が鉄道一本でつながるようになったのは、宮沢賢治の出発のわずか3か月前、1923年5月1日のことに過ぎない。この最北の地への直通列車の開通を待って、賢治はやる気持ちで旅立ったに違いない。

 宗谷海峡を越える夜が「喪の仕事」としてのこの旅のクライマックスだったのかもしれない。あるいは賢治の生涯でも、ここまで宗教的感情が白熱したことがあったか。


 こんな誰も居ない夜の甲板で

 (雨さへ少し降ってゐるし、)

 海峡を越えて行かうとしたら、

 (漆黒の闇のうつくしさ。)

 私が波に落ち或ひは空に擲げられることがないだらうか。

 それはないやうな因果連鎖になってゐる。

 けれどももしとし子が夜過ぎて

 どこからか私を呼んだなら

 私はもちろん落ちて行く。


 われわれが信じわれわれの行かうとするみちが

 もしまちがひであったなら

 究竟の幸福にいたらないなら

 いままっすぐにやって来て

 私にそれを知らせてくれ。

 みんなのほんたうの幸福を求めてなら

 私たちはこのまゝこのまっくらな

 海に封ぜられても悔いてはいけない。

                

                「宗谷挽歌」


       ×          ×          ×     


 仏教ならば転生といい、キリスト教ならば復活といい、これら超自然的な概念を、人間的次元・地平に引き寄せてとらえ直すならば、畢竟、<再会への希求>ということに尽きないだろうか。

 イエスの復活物語、とりわけルカ伝24章の「エマオの旅人」は大変感動的だが、最古の福音書で客観性が高いといわれるマルコ伝での復活の記述の簡素さ、具体性の乏しさ、とってつけた感から、これらキリスト教信仰の核となる復活譚は後世の付加なのだろう。おそらく、<原事実>としては、イエスの刑死から50日、「喪の仕事」として集っていたであろう弟子たちの身の上に起きた異様な体験、使徒行伝2章「聖霊降臨」があったのであろう。何かに憑かれたように、口々に異国語で話し出すなどという、読んでいてもよく分からない、逆にわけが分からない故にリアルな、弟子たちが体験した尋常ならざる霊的変容、「ヌミノーゼ(Numinose)」とでもしかいいようのない戦慄と魅了の<原体験>を、聖霊の降臨としてとらえ、そうした宗教体験を通じ、師との再会の希みを宣教的・文学的に再編したものがイエスの復活伝承となり、復活したイエスの臨在と同伴というゆるぎない信念に成長したのではないか。


       ×          ×          ×     


 (私を自殺者と思ってゐるのか。

  私が自殺者でないことは

  次の点からすぐわかる。

  第一自殺をするものが

  霧の降るのをいやがって

  青い巾などを被ってゐるか。

  第二に自殺をするものが

  二本も注意深く鉛筆を削り

  そんなあやしんで近寄るものを

  霧の中でしらしら笑ってゐるか。)


            「宗谷挽歌」


 宗谷海峡を越える夜、賢治の身に何が起こったのか。傍から見れば自殺志願者に間違われかねない異様でひどいあり様だったようだが、「ヌミノーゼ」的な体験はあったのか。


 永久におまへたちは地を這ふがいい。

  さあ、海と陰湿の夜のそらとの鬼神たち

  私は試みを受けやう。


              「宗谷挽歌」


 「妖しい術」を示唆するかのような謎めいた言葉で「宗谷挽歌」は結ばれるが、直前に原稿の欠落もあり、文意は確定のしようもない。


 海面は朝の炭酸のためにすつかり銹びた

  緑青(ろくせう)のとこもあれば藍銅鉱(アズライト)のとこもある

  むかふの波のちゞれたあたりはずゐぶんひどい瑠璃液(るりえき)

  チモシイの穂がこんなにみぢかくなつて

  かはるがはるかぜにふかれてゐる

    (それは青いいろのピアノの鍵で

     かはるがはる風に押されてゐる)


                     「オホーツク挽歌」


 樺太に渡ると転調でもしたかのように、清澄で平穏な詩風となる。サガレン(サハリン)の地霊=ゲニウス・ロキのなせるわざか。


   白い片岩類の小砂利に倒れ

   波できれいにみがかれた

   ひときれの貝殻を口に含み

   わたくしはしばらくねむらうとおもふ

   なぜならさつきあの熟した黒い実のついた

   まつ青なこけももの上等の敷物(カーペット)

   おほきな赤いはまばらの花と

   不思議な釣鐘草(ブリーベル)とのなかで

   サガレンの朝の妖精にやつた

   透明なわたくしのエネルギーを

   いまこれらの濤のおとや

   しめつたにほひのいい風や

   雲のひかりから恢復しなければならないから


               「オホーツク挽歌」

 

 当時、鉄道で行ける日本最北端の町・栄浜。賢治は海岸に倒れこむように眠る。大地にひれ伏して眠る男。イメージとしては、ここでも私はタルコフスキーの「ストーカー」、「ゾーン」探索の場面を想起するが、シンボリックには、ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」、ゾシマ長老の「復活」を描く「カナの婚礼」の感動的な一節を連想する――「彼(=アリョーシャ)が大地に身を投げた時は、か弱い青年に過ぎなかったが、立ち上がった時は生涯ゆらぐことのない、堅固な力をもった一個の戦士であった」。

 この旅で、霊的な<原事実>としてトシと再会・交流するというような希みが果たされることはなかったであろう。しかし、ひれ伏し、恢復し、立ち上がる、象徴的な次元での「復活」(ロシア語でのこの言葉の原義はこのようなものだという。ドイツ語でいうauferstehen か。乞御教示)を通し、トシの臨在、同伴を感じるようなことはあったのではないか。あるいはそれは生涯を通じてかもしれない。


 爽やかな苹果青(りんごせい)の草地と

 黒緑とどまつの列

  (ナモサダルマプフンダリカサスートラ)

 五匹のちいさないそしぎが

 海の巻いてくるときは

 よちよちとはせて遁げ

  (ナモサダルマプフンダリカサスートラ)

 浪がたひらにひくときは

 砂の鏡のうへを

 よちよちとはせてでる


            「オホーツク挽歌」


 「オホーツク挽歌」はとりわけ美しい自然描写でしめくくられる。そしてここで繰り返される梵語「ナモサダルマプフンダリカサスートラ」=「南無妙法蓮華経」は次の「樺太鉄道」でも3回リフレインされる。


 やなぎらんやあかつめくさの群落

 松脂岩薄片のけむりがただよひ

 鈴谷山脈は光霧か雲かわからない

    (灼かれた馴鹿の黒い頭骨は

     線路のよこの赤砂利に

     ごく敬虔に置かれてゐる)

    そつと見てごらんなさい

    やなぎが青くしげつてふるえてゐます

    きつとポラリスやなぎですよ

 おお満艦飾のこのえぞにふの花

 月光いろのかんざしは

 すなほなコロボツクルのです

   (ナモサダルマプフンダリカサスートラ)


                   「樺太鉄道」


題目を繰り返し唱える鉄道旅。「銀河鉄道の夜」の、ジョバンニのどこまでも行ける切符、そこに印刷された「いちめん唐草のような模様の中に、おかしな十ばかりの字」。この不思議な文字は「妙法蓮華経」のサンスクリット語表記だという論考は説得力があるように思う。(「宮沢賢治の真実 ―修羅を生きた詩人 」今野勉)


 こんやはもう標本をいつぱいもつて

 わたくしは宗谷海峡をわたる

 だから風の音が汽車のやうだ

 流れるものは二条の茶

 蛇ではなくて一ぴきの栗鼠

 いぶかしさうにこつちをみる

    (こんどは風が

     みんなのがやがやしたはなし声にきこえ

     うしろの遠い山の下からは

     好摩の冬の青ぞらから落ちてきたやうな

     すきとほつた大きなせきばらひがする

     これはサガレンの古くからの誰かだ)


                   「鈴谷平原」


 こうして賢治は樺太からの帰途につく。サガレンの風に吹かれ、この地の「古くからの誰か」に背中を押されるように――。


本雑文の考察の舞台ともなっております北海道の美しい自然を背景にした小説「カオルとカオリ」をセルフ出版(ペーパーバック、電子書籍)しました。ティーンエイジャーである2人のカオルと1人のカオリが織りなす四つの物語から成る連作形式の作品で、青春の希望と蹉跌、愛と孤独、死などをテーマにしています。第一部の「林檎の味」はこちらで公開しています。

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