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オホーツク挽歌考 (一・帰り道)

全五回連載の一回目です。

 昔々、東京と札幌を映画の撮影で頻繁に往復していた頃のこと。札幌からの帰途、時間の余裕のある時など、高速バスとフェリーをえっちら乗り継いで帰京した。理由はしごく簡単、安かったからで、今のようにLCCが充実していなかった時代、重宝したものだ。さすがに少々しんどかったけど。

 札幌からバスで約2時間、有珠山サービスエリアで短い休憩を取った時のこと。正面に噴火湾(内浦湾)、右手に有珠山と昭和新山を望む雄大なパノラマ、のはずなのだが、あいにくの小雨が降りしきる曇天。噴火湾は灰色のグラデーションで空と一つに溶け合い、昭和新山は霧雨に煙り今にも消え入りそう。晴れていたら噴火湾の向こう側に駒ヶ岳も見渡せるとか。全体に輪郭があいまいな風景の中、正面にある大きな石碑がやけに堂々と存在を主張している。こんなところに文学碑が?もしやと思い近寄ってみると、やはり宮沢賢治(1896年~1933年)の「噴火湾 (ノクターン)」詩碑だった。文化勲章受章者の金子鴎亭の筆になる詩の一節が刻まれていた。


 噴火湾のこの黎明の水明り 室蘭 

 通ひの汽船には二つの赤い灯がと

 もり 東の天末は濁つた孔雀石の縞

 黒く立つものは樺の木と楊の木

   駒ヶ岳 駒ヶ岳


 「噴火湾 (ノクターン)」は詩集「春と修羅」(1924年)所収、「オホーツク挽歌」章の五つの詩篇からなる詩群の最後の一篇。他に「春と修羅」には収められなかったが、この旅から生まれた詩編が五つある。賢治は1923年夏、花巻農学校生徒の就職依頼という名目で樺太まで旅をするが、よく知られているように、この「オホーツク挽歌行」は、前年11月に喪った愛妹トシの魂のゆくえを探し求める、悲痛な傷心旅行だった。

 この時の旅程と詩作の関係は、おおざっぱに、7月31日夜花巻発。「青森挽歌」→8月1日朝青森から連絡船で函館へ。さらに札幌を経て旭川へ→8月2日早朝旭川着。「旭川」。夜稚内から連絡船で樺太大泊へ。「宗谷挽歌」→8月3日大泊から豊原市へ→8月4日栄浜へ。「オホーツク挽歌」「樺太鉄道」→8月7日鈴谷平原へ。「鈴谷平原」→8月11日帰途。未明に噴火湾を通過、函館、青森へ。「噴火湾 (ノクターン)」→8月12日盛岡より徒歩で花巻へ――というもの。つまり「噴火湾 (ノクターン)」は、時系列でいえばこの旅程の最後、樺太からの帰途の夜明け前の列車内で生まれた作品だ。


  フアゴツトの声が前方にし

  Funeral march があやしくいままたはじまり出す

    (車室の軋りはかなしみの二疋の栗鼠)

    《栗鼠お魚たべあんすのすか》

    (二等室のガラスは霜のもやう)

  もう明けがたに遠くない

  崖の木や草も明らかに見え

  車室の軋りもいつかかすれ

  一ぴきのちいさなちいさな白い蛾が

  天井のあかしのあたりを這つてゐる

     (車室の軋りは天の楽音)

   

           「噴火湾 (ノクターン)」


 夢と記憶が混交した世界。その夢現の意識、聴覚にひとすじの曙光のように射す車室の軋る音。やがてそれは天から降り注ぐひとつの音楽となる。ファゴットの調べに導かれたFuneral march=葬送行進曲、ということはおそらくベートーヴェンの交響曲第3番「英雄」の第2楽章、その荘厳な響き。ここの部分を読むと私などはアンドレイ・タルコフスキーの「ストーカー」(1979年)のラストシーン、通り過ぎる列車の音の中、少女マルタの耳にベートーヴェンの「歓喜の歌」が鳴り響くシーンを連想する。小さな奇蹟と希望――。

 聴覚から視覚へ、次第に目覚めゆく意識がとらえる、薄明に輝き始めた噴火湾の風景。「駒ヶ岳 駒ヶ岳」のリフレイン。詠嘆は最高潮に達し、この決意の挽歌行、旅の終わりになっても決して癒されることのなかった亡妹への想いがつづられる。


  駒ヶ岳 駒ヶ岳

  暗い金属の雲をかぶつて立つてゐる

  そのまつくらな雲のなかに

  とし子がかくされてゐるかもしれない

  ああ何べん理智が教へても

  私のさびしさはなほらない

  わたくしの感じないちがつた空間に

  いままでここにあつた現象がうつる

  それはあんまりさびしいことだ

    (そのさびしいものを死といふのだ)

  たとへそのちがつたきらびやかな空間で

  とし子がしづかにわらはうと

  わたくしのかなしみにいぢけた感情は

  どうしてもどこかにかくされたとし子をおもふ


             「噴火湾 (ノクターン)」


 この北海道・樺太旅行と「銀河鉄道の夜」の成立との関係、つまり「銀河鉄道の夜」の<原型>としての「オホーツク挽歌行」ということについては、色々なところで論じられ、魅力的な論考も多いように思う。そもそも魂のゆくえを探し求めるとはどういうことだろう、北海道には他にも「オホーツク挽歌」関連の詩碑はあるのか、いつか詩碑を巡りながら、私なりの「オホーツク挽歌」への考えをまとめたいものだ――などと夢想しているうちに、短い休憩時間が終わってしまい、バスは函館を目指して出発、まだまだ帰路は長い、うんざりするほど――。

本雑文の考察の舞台ともなっております北海道の美しい自然を背景にした小説「カオルとカオリ」をセルフ出版(ペーパーバック、電子書籍)しました。ティーンエイジャーである2人のカオルと1人のカオリが織りなす四つの物語から成る連作形式の作品で、青春の希望と蹉跌、愛と孤独、死などをテーマにしています。第一部の「林檎の味」はこちらで公開しています。

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