第七章
第七章
ネモフィラ様の式は盛大に行われたとレミファ様が嬉しそうに話してくれた。
「ネモフィラ様もお嬢様もとても輝いていました」
少し興奮気味に。
「まさか、式にお声掛けいただくとはね」
旦那様もお声が嬉しそう。
「急なお話でしたね」
「ああ。納品にいった日に言われてね。……まさか、式に同席できるとは思ってもなかったよ。あの子に直接、お祝いを言えてよかった」
「お父様……」
旦那様を見つめるセリカ様の横顔が。
ああ……。
よかった。
セリカ様が幸せなら。
それ以上、幸せなことはない。
「お母様がご一緒されたと聞いています」
「ああそうだよ。リーファ。……うん」
……旦那様。
レミファ様もセリカ様も黙ってしまった。
……そう。
この家で、家を出た子の、その後の何かにかかわること。
それは夢のようなできごとだ。
夢が実現になった。
幸せの夢。
この夢は奇跡だ。
……セリカ様は見ることができる夢だろうか。
……リーファ様が見せることができる夢だろうか。
願うなら。
求めるなら。
望むなら。
……。
「とても幸せだよ。自慢の子どもたちだ。アダン、レミファ、セリカ、リーファ。ありがとう」
旦那様が幸せそうだ。
だから。
今はそれでいい。
「お父様。私も幸せです。敬愛なるお兄様の門出にかかわることができて、本当に嬉しいです。レミファ」
優しく微笑みかけて。
「レミファのおかげよ。ありがとう」
「恐れ多いです……」
そうだ。きっかけはレミファ様の刺繍だ。
「レミファはサルビアの看板ね」
「……そうなれるよう精進します」
はにかむレミファ様にセリカ様は心から嬉しそう。
ああ。
……うん。
セリカ様が幸せで。
愛しておられる妹様が笑ってる。
それで。
それが。
全てだ。
「ありがとう。アダン」
部屋に戻ろうとする俺にセリカ様があとを追いかけてこられた。
「……いえ。自分はなにも」
「ふふふ。レミファから聞いているわ。あの子が納得する色が出るまで、あなたもつき合ってくれたと」
「……自分にできることはそれぐらいしかないので」
目を伏せる。
「あなたはそうやっていつも謙遜するけれど」
俺をまっすぐ見てくださっている。
「少し夜風に当たりたいの。付き合ってくれる?」
「……承知いたしました。セリカ様」
心なしか足取りが躍っておられる。
「ねえ。アダン」
たまにこうして二人でお庭を散策することがある。
決まってセリカ様の心が大きく動かれた時だ。
「本当に嬉しいの。この上ない幸せだわ」
普段のセリカ様ではない。
……多分、俺とリーファ様にだけ見せられるお姿だろう。
……と、うぬぼれてもいいだろうか。
「私ね。お兄様にお会いできただけでも嬉しかったの。……ネモフィラお兄様は、私とリーファをとても可愛がってくださったし、たくさんの事を教えてくださった。ネモフィラお兄様のことをアダンも覚えているでしょう?」
「はい。……俺にも、分け隔てなく接してくださいました」
「お兄様はとてもお優しい方だったから。……本当に嬉しい」
……。
…………。
「……セリカ……」
「あら? そう呼んでくれるのはいつぶりかしら」
……この呼び方をすれば変わるかと思ったが、まだ、おどける余裕はあるのか。
……違うな。
指がかすかにふるえている。
……どこまでも隠すのが上手だ。
「……ネモフィラ兄様のこと。俺も好きだ。だから。俺にも声をかけてくださった旦那様に心から感謝してる。……もう二度とお会いすることはないと思っていたし。俺なんかを盛り立ててくださって。……俺は役にたっただろうか」
「とても。とても役に立っているわ。レミファが色に困ったときに案を出してくれたそうね。話を聞いてくれたと。あの子はつい、自分の中でためてしまうところがあるから。吐き出せる相手がいることはとても大きいわ。……あの子は遠慮してしまうから。それがあの子の美徳でもあるけれど。私たち姉妹に対してもそうだから」
……セリカの表情がくるくる変わる。
声も。
ちゃんと感情が乗っている。
……普段のセリカ様は、絶対に笑顔を絶やさない。
穏やかで。優しくて。温かい笑顔。
声も。
緩やかで。爽やかで。心地いい。
こんな風に感情を表に出されない。
感情を変えられない。
……俺には変えてくれている。
「セリカ」
もう一度呼んだ。
……特に表情は変わっていない。
なら。
手を伸ばした。
……よけないか。
そのまま手を頬に。
「泣いていいよ」
……俺にはそう見えた。
嬉しそうに。
飛び跳ねるような足取りも。
妹を想って憂うのも。
全部。
全部。
「……アダンにはお見通しなのね……」
ツーっと水がこぼれた。
俺の腕につたう。
本心を隠すために、感情を変えられた。
変えることで、自分をごまかしている。
「……本当に嬉しいの。幸せよ? お父様があんなふうに笑われて……。レミファが評価されて」
笑っているけれど。
「……奇跡だもの。この上ない……」
声が震えている。
「そう……奇跡なの。……稀なことだから奇跡なの。……そう奇跡よ」
俺の腕をつかむ。
……力が入っていない。
「わかっていたの。ちゃんと理解できている。……当主になることがどういうことか」
……セリカは幼いころから、この家の当主になることを目指してきた。
そのために何が必要で、何が不必要か。
……笑顔を絶やさないのは必要なことで。
感情的になることは不必要なことで。
自分というものを消し去るのが必要なことで。
そう判断して。
そんなセリカを一番近くで見てきたリーファ様は、セリカを愛して。セリカのためにあることを選ばれて。
「この家で生きる。この家に生きる。等しくみんなを愛してる。……だから。たとえ、姉妹らしいことができなくても。たとえ、お父様たちと家族らしいことができなくても。等しく愛している。たとえ二度と家を出た家族と会えなくても。等しく想っている。サルビアとして生きること。この家を絶やさないこと。この家でみんながいた証を残し続けること。……私がそれを望んだ。そうすることを」
……まるで言い聞かせているみたいだ。
そうあることが全てみたいな。
まあ。この方にとってはそうなんだろうけれど。
そんなこの方から目を離せなくて。ずっと見てしまう。
……レミファ様のことを吐き出さないと言っていたけど。
この方もそうだ。
家族が望むものを。
優秀な娘を望むなら。
優しい姉を望むなら。
愛される妹を望むなら。
それを。
作り上げる。
「……お父様は。お母様は。……本当にすごいわ。……何年もこうして……。ああぁ……。こんなの誰も求めていない。望んでいない」
……こんな風に吐き出されるのはきっとリーファ様の前だけ……いや。
リーファ様にもされていないか。
リーファ様とセリカは一番近くにいるからこそ。
その関係はとても。
……俺は怖いと思っている。
今のセリカのほとんどを形成しているのがリーファ様によるものだから。
……家族が傷つくことを何よりも恐れている。
愛しているからこそ。
誰一人として、セリカの思う醜いものを見せないようにしている。
たとえそれが。
自分自身の感情だとしても。
「セリカ」
俺に顔を向けさせる。
「君が望むなら」
指で涙をぬぐう。
「俺をつかって」
ゆっくりと目が大きく開かれていく。
そこに俺が映っている。
……恐れ多いことだ。
俺なんかが役に立つことなんてないのに。
身を引いた。
離れた。
この方に俺ができることなんてない。
あまりにもいる場所が違いすぎる。
そう思ったのに。
こうして俺と接してくれるのが嬉しくて。
つい。
期待してしまう。
……俺にそんな目を向けてくれるのか。
「……アダン?」
無邪気な幼い子のように。
大きく見開かれた目は。
すがるような。
「……いいの?」
……。
こうして二人で話をすることはあっても。
こんなにも感情を出されたことはない。
いつだってご兄妹の事を嬉しそうに話されるだけ。
セリカを崩すことはない。
だから。
……こんな姿を俺に見せてくれるということは、それだけ俺が皆様と違うということ。
離れられないよ。
たとえ、見ているものが違っても。
望んでいるものが違っても。
生きる世界が違っても。
「……側にいて」
「うん」
「……いなくならないで」
「うん」
「……私を愛して」
「……愛してる」
「……セリカを愛して」
「……愛してる」
俺の腕には、くっきりと。つかまれた跡がついていた。
「俺を側においてください」
初めてお姿を拝見した時から。
ずっと心惹かれていた。
まっすぐ前を見られるその姿に。
純粋無垢に家族を見ているその目に。
その時その時。
一番いい答えを出していく。
愛されている。
愛している。
この家を。
俺にとってこの家を体現している人。
俺は職人としている。
礼儀作法なんて最低限で。
お客様の前に出ることはなくて。
でもそんな俺に、声をかけてくれて。
この方の横に並べるようになりたい。
そんな夢を見て。
この方の見よう見まねで動きを。
この方の眼に映るのは美しいものであってほしいから。
なんて思っている俺もたいがいだけれど。
この方の見ている世界は俺は見ていない。
俺の世界はこの方だから。
だから。
言うつもりはなかった。
目に映らなくてもいい。
ただただ。俺は見ているだけでいい。
この方へのこの想いを。
箱にしまって。
ふたをして。
しっかり俺の奥底に。
大切にする。
それが俺にできるこの家への恩返しだから。
……だけど。
欲張りになったな。
大人になるにつれて。
旦那様は俺を重宝してくださった。
それがただのひいきにならないように。
サルビアにふさわしくあれるように。
そう思えば思うほど。
この方が輝いていって。
……その輝きはまるで呪いのようで。
手を伸ばしてしまった。
二人で話せる時間が幸せで。
セリカでいいという言葉に甘えて。
俺に見せている姿は他の方は知らない姿で。
それが嬉しくて。
言い聞かせていようと。
俺にできることがこの方を愛することなら。
それは俺ができる唯一のことだ。
俺の心のままに。
跡をそっとなでる。
弱弱しかったのに。
こんなにもくっきり跡がつくぐらいには俺にすがってくれた。
俺を求めてくれた。
……俺を愛してくれるかどうかはわからないけれど。
愛してなくていい。
あの方は愛されることを望んでいて。
愛することはすでにされている。
その愛する対象は家族で、俺じゃない。
だから。
いい。
この跡が。
愛おしい。
「……いいなあ。アダン。……セリカに愛されている」
窓から見える景色。
セリカがアダンにお礼を言いたいからって別行動した。
……わかってた。
窓に手の跡がつくから普段はしないけれど。つい手を伸ばしてしまった。
セリカがアダンの事を好きなのは。
アダンがセリカにとって特別なのは。
「私じゃだめか」
思わず声に出てしまう。
ああ。レミファが部屋に入ってくれててよかった。
……わかってた。
セリカが求めているものは。
あの子が求めているものは。
「……それでも。私はあの子の側にいたいの。セリカを見ていたいの」
相思相愛であることは。
私の入る隙間はそこにはなくて。
その席にはアダンが座る。
私の座る席は別の席。
「その席まで取られたら苦しいけれど」
こんな感情。みんなには見せられないよ。
とはいえ。
あの様子だと相思相愛であることは気づいてない。
お互いただただ一方的な感情だと思ってる。
アダン。
伝える気ないように見てたけど。まあ手を伸ばすよね。
「いいなあ」
私には見せない姿だろうな。
暗いけれどはっきりとわかる。
しっかりと見つめ合う二人は。
……ああ。ほんと。
「ほんと。そういうところは困った子だけれど」
求められるもの全てをあの子は叶えてきた。
だから自分の願いなんてあの子にはなくて。
みんなの望みを叶えるセリカの望みを叶える。
それが私の望み。
……それが私の罪滅ぼし。
私がセリカをそうさせたのだから。
アダンがあの子を愛してくれるなら。
私はセリカを愛そう。
セリカが愛するものでいよう。
あの子の目に映る資格のあるものでいよう。
セリカのために生きると決めた。
お父様の言うように主人を愛する。
セリカの愛するものを愛そう。
この家のために生きると決めたセリカのために。
「セリカは私の憧れで、私の理想。そんなセリカが愛してと願う相手がアダンなら。セリカが選んだ相手なら。私は」
そっと目を伏せた。
あの子が幸せならそれでいい。
願いをかなえるセリカを私は。
私がなりたいと願ったそのものだ。
だから。
アルファーラになるんだ。
セリカはアルファーラにならない道を選んだ。
当主になる道を選んだ。
「私は何があっても肯定し続ける」
部屋に戻って、一冊の本を手に取る。
「アルファーラがそうであるなら。サルビアがそうであるなら。それが正しい姿だから」