第五十一話 私の罪
先輩は、何も聞いてこなかった。
何も聞いてこないのは助かるけど、どこか不安な感じがする。
でも、先輩は私の不安を感じ取ったのか、駅に着くまで私の手を握ってくれた。
先輩の手は、温かかった。
きっと、私の手は冷たかったんだろう。
「先輩、先にお風呂頂きます」
「うん?私もすぐに行くよ」
「はい、待ってます」
私は軽く身体を洗い、バスタブに浸かりながら、先輩が来るのを待っていた。
ずっと、ずっと待っていたような気がする。
「おじゃまします」
相変わらず、おずおずと入ってくるけど、先輩のお風呂ですけど?
まあ、いいですけどね。可愛いし。
すると先輩は、私の髪を洗おうとしていた。
「咲良さん、髪留めを解いてくれるかな?」
「今日は、そんな気分じゃありませんから、いいです」
「そう?だったらなおのこと、咲良さんの髪の毛を洗わせて?」
「先輩?」
「何も無かった。平常運転だよ」
私は、先輩に甘えることにした。
でもね、先輩のそんな優しさが、かえって私を傷つける事って、あるんですよ?
でも、その優しさに救われる。
私って、やっぱり変だ。
先輩はいつものように、私の髪を丁寧に洗ってくれた。
この時間が、一番好きなんだと思う。私の髪の毛を、先輩が丁寧に指ですいてくれると、何とも言えないぐらいの幸せを感じる。
もう、それだけでいいと思うぐらい。
「先輩」
「何かな?」
「なんで、何も聞かないんですか?」
「う~ん、何を聞いたらいいのか、正直分からないんだよ」
「私、最低な女なんですよ」
「ふ~ん」
「そこは、否定するところじゃないですか?」
「うん、そうだね。咲良さんは、最低じゃないね」
「先輩、ずるいです」
「ほら、一応人生の先輩だし、それなりに経験も積んでいるしね」
「もう、いいです」
「うん、いいよ。今は、君の髪の毛を洗うのに、集中したいしね」
「先輩」
「なんだい」
「愛してます。本当です」
「うん、ありがとう」
「先輩がもし、警察に捕まるようなことがあっても」
「捕まらないよ」
「でも、母さんが」
「どういう容疑で、私は捕まるんだい?」
「え?誘拐?監禁?」
「なんでさ」
「分かりません」
「私と咲良さんは、お互いに納得して婚姻届けを出したんだよ。それで誘拐って、変じゃないかな?」
「そうなんですか?」
「そうだよ。もちろん、君が私に愛想を尽かして出て行こうとして」
怖いことを言おうとしたので、私は慌てて先輩の言葉を遮った。
「そんなことしません!」
思った以上に、大きな声になった。それでなくても浴室は響くから、私もちょっとびっくりしたけど。
「だから、たとえ話だって」
「すみません」
「まあ、一般論だけど、別れたい妻を無理やり引き留めたら、まあそこで監禁とかになるのかな?」
「そうなんですか?」
「そう、だって大事なことはさ、本人の自由意志だからね」
「私、先輩のお嫁さんでいたいです」
いつまでも、ずっといつまでも、一緒に居て欲しい。
でもこれは、私の我儘じゃないのか?
先輩を巻き込んで、それでいいのだろうか?
「私もだよ。君の側に居たいよ」
「もし、母さんが来たら」
「その時は、警察に通報しなさい」
「え?」
「だって、君を強要しようとしているのは、あの人でしょう?」
「そうなりますか?」
「そうなります」
「迷惑になるんじゃ」
すると、先輩は私の髪をわしゃわしゃし始めた。
先輩にそんなことをされるのって、初めてだ。
「せ、先輩?」
私はすっかり動揺したけど、どこか嬉しくて楽しい。
「ほら、富める時もだよ。迷惑云々は、考える必要無しだよ」
「先輩、どうせカッコつけるなら、もっとちゃんと言ってください」
「だって、セリフを忘れちゃったんだよ」
「だからですか、前の奥様のお顔を忘れたのは?」
「いや、本当に分からなかったんだよ。怖いね、歳月って」
「でも母さんは、先輩の顔がすぐに分かったみたいですよ?」
「そうみたいだね。何でだろう?」
「先輩が、変わらないからでしょう?」
「君がなんで、私の前の妻の話を聞きたがっていたか、これでよく分かったよ」
「先輩、私を軽蔑しますか?」
「またあ」
「だって」
「だってもないよ。ホント、君って面倒くさいね。もっと、シンプルに行こうよ」
「先輩こそ、もっとちゃんと考えてください」
「ああ、それは無理ね」
「先輩」
「仕方ないじゃないか。こうやって、今まで生きてきたんだから」
「なら、私が先輩を守ります」
私は握った手を、先輩に向かって大きく伸ばした。
「ええっと、なに?」
「応じてください」
「今、私は君の髪の毛を、懸命に洗っている最中なんだけど?」
「先輩?」
「ああ、分かったよ」
私の仕草に応じた後、先輩は私の手を握ってくれた。
トリートメントがついた手だから、ちょっと握りづらいけど。
それでも、私は嬉しかった。
お風呂から上がった後、私は夕飯の支度をした。
先輩が風呂から上がる前に、ちゃっちゃっと作ろうと思う。
すると、郵便物が目に入った。
「何が来ているのかな」
一つは、市役所からだった。
開けて見ると、私たちの戸籍が、弁護士に閲覧されたとの連絡だった。
恐らく、母が依頼した弁護士だろう。
「遅いよ。前もって知っていたら、もっとやりようはあったのに」
そしてもう一つの郵便物が、来るのを今か今か待っていたモノだった。
先輩と私の、DNA鑑定を依頼した研究機関からだった。
「今、来るのか?」
正直、今は困ると思った。
でも、いずれは知らないといけない。
もし結果が思わしくなくても、私はそれを墓場まで持っていく覚悟を持とうと思う。
だって、先輩は悪くないんだから。
先輩に背負わせることは、絶対にしない。
これは、私の罪だから。
私は、封筒を丁寧に開けた。
そして、封筒から中身を取り出して、書類を広げた。
やはり、DNAの鑑定結果だった。
私はその結果を、凝視した。




