第三十八話 私の騎士さま
私と先輩は、食事を終えたら、もう休むことにした。
結構遅い時間だし、私はちょっと酔ったみたいだから。
「先輩?」
「え?まだ、起きてたの?」
「はい。先輩が変なことをしてくれないので、眠れません」
先輩が何か、ぶつぶつ言っていたけど、夜だからはっきり聞こえた。
こいつ、寝ぼけてるって。
「寝ぼけていません」
私は、真面目なんです。
「先輩は、私をどう思っていますか?」
「前にも言ったけどさ」
「建前はいいです。本当のところ、どう思っていますか?」
「君こそ、どう思っているの?」
「私ではなく、先輩です」
「カワイイ後輩と、そう思っているよ」
「ひとりの女性としては、どうなんですか?」
「ひとりの女性?もちろん、魅力的な女性と思っているよ」
「だったら、何で一緒に寝ているのに、何もしないんですか?」
「するも何も、私が何かしたら、君はどうする?」
「殴ります」
「ほら」
「殴られてもいい、殺されたっていいって思うほど、欲しいものってないんですか?」
「唐突だねえ。私には何も無いよ」
「家族が欲しいって、思ったことはないんですか?」
「昔は、あったなあ」
「今は?」
「贅沢だよ、私には」
「意味が分かりませんけど?」
「慰謝料を払い続け、住宅ローンも払い続けた結果が、今の私だ」
「もう、終わったんですよね}
「慰謝料はね。住宅ローンは、まだ少し残っているよ」
「だったら」
「だからだよ。もう、他人の人生に関わろうって、思えないんだよ」
「大げさではありませんか?」
「私の二十代を返せって、妻に言われたあの日のことを、今でも夢に出るんだよ」
「関係ありませんよ」
「大ありだよ」
「どうして?」
「だって、好きだから、愛していたからこそ、結婚したんだよ」
あの母を、何でそんなに愛することが出来る?あの母に、そんな価値ありますか?
それって、先輩が騙されたってこと?
父も、騙されたの?
だとすると、あの男は?
「だから、結婚は怖いと?」
「違うな。その人の人生を、間違った方向に向けてしまうのが、私には怖いんだよ」
「結婚に、間違いとかあるんですか?」
「現にあっただろう?」
「タネ無しですか?」
「そう。こればかりは、努力でどうにかなるものでもないし、時間の制約がある」
「思い込みでは?」
「二十代でお母さんになり、早くて四十代でおばあちゃんになる。これが出来なければ、結婚は失敗なんだよ」
「私には、よく分かりません」
「君も、もうすぐ分かるよ。今はまだ、若いからね」
「分かりたくもありません」
「まあ、私だって分からないよ。ただ、妻を悲しませた責任は、夫である私にはあると思う」
「勝手に離婚して、勝手に悲しんだだけでは?」
「それを含めての、結婚なんだよ」
「それで、私のことはどう思っているんですか?」
「もう、寝なさい」
「先輩?」
「お願いだから、もう寝なさい」
「・・・・・おやすみなさい」
「はい、おやすみなさい。いい夢を」
先輩の声が、ちょっとだけ怖かった。
先輩の触れてはいけない何かに、私は触れてしまったんだろうか?
でも、どうしてだろう?
先輩が、泣いているような気がした。
たったひとりで、泣いているような気がした。
そばにいたかった。
あの時、先輩の側にいたかった。
泣いている先輩の頭を、撫でてあげたかった。
悲しんでいる先輩を、抱きしめてあげたかった。
もう、怖くないよって。
これは私の、本当の気持ち。
私は、夢を見た。
先輩が、母に罵られている夢を。
先輩は黙って、言われるまま耐えていた。
先輩!先輩!
もう、そんな女なんて、放っておいて私と一緒になりましょう。
今度こそ、幸せになりましょう。
でも先輩は、ただ笑っていた。
悲しそうな顔で、私に微笑みを送ってくれた。
先輩は、私に何かを語り掛けていた。
私には、聞こえなかった。
朝起きたら、先輩がうなされていた。
「先輩、先輩、先輩、先輩?」
何だか、嫌な感じがした。
「ああ、おはよう」
ああ、良かった。いつもの先輩だった。
「おはようございます。朝ごはん用意しますから、顔を洗ってきてください」
どうしよう?聞くべきなのだろうか?聞かない方が、いいのだろうか?
「ああ、ありがとう」
でも、あの夢はなんだったんだろうか?
母とは随分会ってないけど、あの頃のように、眉間に皺を寄せ、ヒステリックに何かを喚いていた。
先輩は、黙って罵られていた。
私の二十代を返せって。
もしそんな場面に出くわしたら、今度こそ私が先輩を守る。
私は、そう決意した。
「時間差をつけて、出勤しよう」
先輩は、私におかしな提案をしてきた。
「どうしてですか?」
「噂になったら、君も困るだろう?」
「困ると思うぐらいなら、先輩を私の部屋にお泊めしません」
先輩は、どう思っているんだろうか?私と噂されるのって、本当は迷惑なんだろうか?
「多分だけど、噂の怖さを、君は知らないんだろう」
「知ってます。一応、Z世代ですから」
ああ、そういうことか。
そんなどうでもいい悪意よりも、直接来る悪意の方が、本当に怖いんですよ?
先輩も、知っているはずです。
でも、本当なら知らない方がいいです。
「あ!咲良ちゃん、おっはよ~!」
チッ。ブタ野郎だ。朝から、気分が悪くなった。先輩と一緒に出勤出来て、せっかくのいい気分だったのに。でも、一応挨拶はしないと。先輩の立場もあるし。
「おはようございます。昨日はありがとうございました」
「え?何のこと?」
「勝呂先輩のお仕事を、引き継いでくれたことです」
「ああ、大丈夫だよ。他の女子社員にお願いしたら、喜んでやってくれたから」
「そうですか」
ホント、最低な奴だ。女子をなんだと思っている。
「ところで、ミシュランの三ツ星レストランの予約が取れそうなんだけど、週末はどうかな?」
「結構です。作業を手伝ってくれた、女子社員を連れて行ってください」
「なんで?」
「お手伝いをしてくれたんですから、それぐらいのご褒美はいいと思いますけど?」
「あいつらとは、身分が違うよ」
ブタ野郎が、下卑た笑い顔をした。実にいい笑顔だと思う。益々、嫌いになれるから。
「身分?」
「そう、身分。君は総合職、彼女たちは一般職だったり非正規労働者だったりするから」
「それって、倫理規定違反ではありませんか?」
「うん?みんな、そう言っているよ」
「みんなって、誰ですか?」
「ええっと、どうしたの?大丈夫?」
「答えてください。みんなって、誰ですか?」
誰だ。そんなことを言う奴は。
彼女たちだって、立派な人間だ。誰かに後ろ指さされるような、そんな人たちでは無い。
ママに下着を用意してもらっている、お前よりは遥かに立派だ。
親のコネが無ければ、何も出来ないクズだ。
そんなお前が、立場を振りかざすか?甘えるな!
「どうしたの?らしくないなあ。咲良ちゃん、もしかして怒っている?」
「私を咲良って呼んでいいのは、勝呂先輩だけです」
「そういやあ、今日も勝呂さんと一緒に出勤してきたけど?どうして?」
「私の自由です」
「次からは、僕と一緒に出勤しようよ。今夜は、僕の家に来なよ。母も喜ぶよ」
「嫌です」
「そう言わずにさ。何だったら、咲良ちゃんのご両親に、ご挨拶に行こうか?咲良さんをくださいって」
「私、人を差別する人って、虫唾が走るんです。お願いですから、私の前から消えてください」
自分でも驚くほど、冷たい視線をブタ野郎に向けた。
ブタ野郎は、動揺した。私には、それがおかしくって、つい冷笑してしまった。
それを見たブタ野郎は、逆切れをした。
私は、しめたと思った。
ここは、会社のエントランス。しかも、朝の出勤タイム。最高のタイミングだ。
衆人環視の中、ブタ野郎が分かりやすい行動に出てくれたら、話しは簡単になるから。
「お、おい!人が親切に言ってやっているのに、何を図に乗っていやがる?」
いいねえ。実にいい!ブタ野郎は、そうでなくっちゃ。でもさ、発言とは裏腹に、態度がビビってますよ?もう少しぐらい、虚勢を張りましょうよ。
「どっちがですか?」
「女の癖に、な、生意気なんだよ」
ダメねえ、声が上ずってますよ?もう少し、ドスの利いた声でお願いしますよ。練習しなかったんですか?どうも、時間が掛かりそうだ。とりあえず、ダメ押ししないと。就業前だから、もう時間が無いしね。
「その女にいきがるのが、あなたの倫理ですか?お里が知れますね?」
嘲笑ってやった。正直、私のこんな表情を先輩には見せたくないけど、先輩はブタ野郎の方を見ていたから、私のこの表情に気が付いていないだろう。でも、想定以上に効果はあったみたいだ。私のこんな嫌な顔を、先輩に見られてしまうかもしれないという、リスクを取った甲斐があった。
「このアマ!いい加減にしろ!」
ブタ野郎は、私に平手打ちをしようとした。私は心の中で、うまくいったと思った。けど、演技はしないと。私は咄嗟に、あくまでも咄嗟に殴られるのを、手で防ごうとしたフリをした。
私はそのまま殴られ、悲鳴を上げながら、吹っ飛んだふりをしようと待ち構えていたら、先輩が私の前に立ちふさがった。
何で?ちょ、ちょっと?
それって、先輩のキャラじゃないでしょう?どうして?
「え?勝呂さん?」
むしろ、ブタ野郎の方が驚いた声を出していた。先輩の背中しか見えないから、ブタ野郎の表情は見えないけど、少なくとも動揺はしているようだ。ああ、これでこのショーは終わりか。失敗したなあ。
でも、先輩が今まで聞いたことが無いぐらい、凛とした感じの話し方をした。私は、その話し方に驚いた。
「いい加減にしなさい」
「だって、このアマが」
「このアマではありません。坂上さんです。それに、どのような理由があろうとも、女性に手を上げるのはどうでしょうか?人として、男として最低ではありませんか?」
「だって、このアマが生意気言うから。勝呂さんだって、聞いていたでしょう?」
「ええ、聞いていましたよ。あなたが、しつこく言い寄るところも」
「この女の、味方をするんですか?ああ、そうですよね。この女を助けて、気に入ってもらおうって、そんな魂胆ですか?いい年して、ホント最低ですね?だいたい、人に仕事を押し付けておいて、二人で仲良く帰る訳だ。おっさんの癖に、ホント気持ち悪い。年を考えたらどうですか?」
まずい、本気でブタ野郎を殺したくなったけど、先輩は冷静で居るようだ。背中しか見えないけど。
私はその先輩の背中を、不謹慎だけど指でなぞりたくなった。せめて、触りたいという誘惑を、なんとか抑えた。ダメダメ、今はそんなことをしている場合か。
一応、すぐに警察に通報出来るようにしておこう。
「でもね、勝呂さんのようなおっさんは、咲良ちゃんみたいな女性の相手になんかされないですよ。俺みたいな、将来有望な男子こそが相応しいって、勝呂さんだって分かっているでしょう?少しは、空気を読んでくださいよ」
誰が、将来有望だって?不祥事を起こして、刑務所行きがあんたに相応しい末路だろう?どうせ何かあったら、ママに助けてもらうんだろう?ホント、最低なブタ野郎だ。先輩の爪の垢でも、煎じないで腹いっぱい飲ませてやろうか?というか、お前が空気を読めよ。
「だから?」
先輩の意外なまでの冷たい声に、また私は驚いた。今日は、先輩の色んな発見がある日だ。もっと、見せてください。先輩のすべてを。
私の関心は、ブタ野郎ではなく先輩の方に向いてしまった。せめて、先輩の表情ぐらい見たかったなあ。
「だから、俺と咲良ちゃんとの仲を、これ以上邪魔しないでください。最初が、肝腎なんですから」
お前はもういいから、尻尾を巻いて逃げろよ。先輩との時間を、これ以上邪魔するなよ。
「君さ、女性をモノとして見ているようだけど、女性も意思のあるひとりの人間なんだよ。分かる?」
「そうですよ、だから俺みたいな選ばれた人間が、きちんと導いてあげないとダメなんですよ」
「君のそれは、DVって言うんだけど?」
「はい?」
「君はよっぽど、甘やかされて育てられてきたようだね。もう一度、人生をやり直した方がいいよ」
「な、なにを」
「このままだとね、誰からも相手にされなくなるよ。君は若いから、やり直せるうちにやり直した方がいい。まずは、親元から離れることだ」
先輩、すごい!何で?どうして?先輩!大好きです!!抱き着きたい!!!
「あんた、俺のママを悪く言ったな!」
やっぱり、ブタ野郎は母親をママと呼んでいたか。でも、似合ってるよ。マザコンには。
「言ってないけど?」
「言った。俺のママは、世界で一番優れているママなんだ。それをお前!」
先輩は咄嗟に後ろ手で私を横に避け、ブタ野郎の攻撃を真正面から受けてしまった。
先輩、それはまずいですよ。
案の定、先輩は倒されてしまった。
しかもブタ野郎は、倒れた先輩に馬乗りになって、殴りかかっていた。
私は、悲鳴を上げた。音声を録音していたけど、監視カメラもあるから、証拠は十分だろう。アリバイ作りを強固にするための悲鳴のつもりだったけど、半分以上は本気だった。いや、マジの悲鳴だ。
だって、先輩がブタ野郎にマウントを取られた格好なので、さすがにやばいと思ったから。
どうする?私が割って入るか?いや、せっかくブタ野郎がボロを出してくれたのだから、私は怯えたふりをしないと。早く、誰か止めて。
警察は何をしている?警備員はどこに居る?
「お前なんてな、ただの老害なんだよ。会社の役立たずなんだ。自覚しろ!死ね!今すぐ死ね!オレが殺してやる!」
死ぬのは、お前だ。絶対に殺してやる。
私は自分を、必死に抑えた。ここまでお膳立てしたんだから、私がぶち壊すわけにはいかない。でも、誰か居ないのか?誰も、先輩を助けないのか?
みんな、見て見ぬふりをしているのか?それって、人としてどうなの?
ダメだ。警察が来るのを、とてもではないけど私は待っていられない。
こいつは、本気で先輩を殺す気だ。いや、すっかり我を失っている。
もう、いい。こいつを、ぶっ飛ばす!私は、ブタ野郎に近づいた。思いっきり、殺意を放ちながら。
「オレと咲良ちゃんとの仲を邪魔しやがって、いい気になるな!お前は、お邪魔虫なんだよ!」
あ?やっと、来た。
ブタ野郎は、警察官と警備員の二人に後ろから抱きかかえられていた。
「離せ!オレを離せ!こいつをぶっころしてやる!八つ裂きにしてやる!オレに恥をかかせやがって!」
ブタ野郎は暴行の現行犯で、緊急逮捕された。
犯罪者が警察官に手錠を掛けられるのを、私は初めて見た。
手錠を掛けられた時のブタ野郎の驚きの顔は、まるでドラマみたいだった。
でも、良かった。
間に合った。
「先輩!」
私は倒れている先輩に、飛びつくようにして抱き着いた。私は少し、泣いてしまった。
「ああ、無事だった?」
「無事です。先輩こそ、何でそんなに頑張るんですか?」
「さあね。よく分からないや」
安心したように、先輩は崩れるようにして気を失った。
「先輩!先輩!先輩!しっかりしてください!」
私は、懸命に先輩を呼びかけた。
先輩を、ひたすら呼び続けた。
救急隊が来ても、気付かないぐらいに。
先輩。
私は先輩と一緒に、救急車に乗りこんだ。




