第二十二話 ひとりになった先輩
結局、契約社員が責任を取る格好になった。
その一方で、あのブタ野郎はグループ企業に出向となった。
有力者の息子だから、クビには出来ないそうだ。
むしろ、これを機にブタ野郎を会社から追い出せると、上は喜んでいるそうだけど。
だから、相打ちという恰好だけ付けて。でも、これでいいのか?
契約社員はその後、関連会社と再契約出来たらしい。理由は分からないけど。口止め料かな?いや、憶測で語ってはいけない。でも、どうしても腑に落ちない。
「なんでしょうね、これは」
「うん?何?」
「いいえ、何でもありません」
私は、先輩のお仕事を手伝っている。
私の仕事が早く終わると、だいたい先輩は残業だ。
逆に私が残業だと、先輩はそそくさと帰ってしまう。
ちょっと、私に冷たくないですか?
だから、私と先輩の帰宅時間を合わせる為に、先輩のお仕事を手伝うことにしている。
「先輩。これって、先輩のやらないといけない仕事ですか?」
「総務に、境界は無いよ」
「そうでしょうけど、限度があると思いますけど?」
「まあまあ」
よく言えば優柔不断、悪く言えば八方美人なところが、先輩にはあるようだ。
昼行燈で無かったら、どんどん仕事が回ってくるだろう。
とは言え、先輩はこれを歓迎しているようだけど。
ある時、先輩のネクタイが思いっきり曲がっていた。いや、曲がり過ぎだろう。
「先輩、ネクタイ曲がっています」
「え?」
先輩は適当にネクタイを直していたけど、埒が明かなかった。
仕方が無いので私が先輩のネクタイを直そうとすると、何故か先輩はちょっと抵抗してきた。
「い、いいよ」
「面倒です、すぐに済みます。大人しくしていてください」
とは言え、どうも最初からやり直した方がいいみたいだから、一旦ネクタイを解き、締め直していたら、先輩は顔を横に向けていた。
何それ?私のことを、意識している?
「先輩、気持ち悪いから、そういうのやめてください」
「そ、そう」
先輩は顔を私の方に向けたけど、今度は息を止めていた。
ホント、面倒な人。窒息して、死にたいの?
「先輩、息を止めなくていいですよ。かえって、気になります」
「ゴ、ゴメン」
ホント、先輩は面倒な人。
すると、今まで息を止めていたせいか、先輩が大きく息を吐いた。しかも、私の顔に向かって。おいおい。
でも、意外におっさん臭はしなかった。かすかに、ミントの香りがした。なんで?
「先輩、ガムでも噛んでいますか?」
「いいや、何も噛んでいないよ」
「でも、先輩の息ですけど、いい匂いがしますよ?」
「そんな訳は・・・ああ、そういえば昨日、歯医者に行ってきたよ」
「虫歯の治療ですか?」
「歯のクリーニングだよ、歯石取りとか検査の為に、定期的に行ってるんだよ。その時、歯に何か塗られたかも。その時、いい匂いがしてた」
「ふ~ん」
でも、なんだろう。
先輩の息の匂いが、今まで私をどうにかしようとしたあのブタ野郎どもと違って、不快な感じがしなかったのは。
どうしてですか?
本当に、歯医者に行ったからですか?
もしかして、先輩だからですか?
そう思った私は、何だか嬉しくなった。
嬉しくなったついでに、先輩のネクタイを思いっきり締め上げてしまった。
「さ、坂上さん、く、苦しい!」
「ああ、すみません。先輩を見ていたら」
「見ていたら?」
「つい、絞めたくなりました」
「ああ、そう」
先輩のそのげんなりした顔も、可愛くて素敵です。
それから数日して、私は仕事の合間に給湯室に向かった。
すると、その日は先客がいた。よくお話をする、先輩女子社員だった。
先輩女子社員は、私にお茶を淹れてくれた。
私がお茶を貰う時、急に先輩の話が出た。どうも話し相手が、欲しかったようだ。
「勝呂さんは、仕事断らないんだよね」
「どうしてでしょうか?」
「別れた奥さんの、慰謝料の為らしいわよ」
「慰謝料ですか?」
「そうそう。住宅ローンと慰謝料を支払う為に、残業や一時期バイトもしていたんだから」
「え?」
「社内結婚だったから、当時は有名な話しらしいわよ。もう、ええっと確か、20年前ぐらいかな?」
「23年前です」
「そうそう。よく知ってるわね。ああ、坂上ちゃんは勝呂さんと、仲がいいんだったっけ?」
「それほどでもありません」
私と仲良くしてくれないんですよ、あの人は。
「でも、よく勝呂さんのお仕事を手伝っているじゃない?」
「先輩には、助けてもらいましたから」
「ああ、あれね。あれは、坂上ちゃんのせいじゃないわよ」
「それでも、私は嬉しかったんです」
「ふ~ん。年上趣味なんだ」
「いえ、別にそんなんじゃ」
「まあ、あのイケメン社員を袖にしたぐらいだからね」
「一方的に付きまとわれただけです」
「一応、彼は資産家の息子だから、結構もてたんだけどねえ」
「そうなんですか?」
「顔の作りは悪くないけど、何せアレだから」
「あれって、何でしょうか?」
「彼ね、お母さん大好き人間なのよ」
ああ、そういえばそんな事を言ってたなあ。母と同居しようとか、なんとか。
「しかもね、彼は服や下着まで、お母さんに用意してもらっているのよ」
うへえ。これは本物だ。
「お嫁さんが来るまでは、お母さんが代わりをするとか」
気持ち悪い。益々、あのブタ野郎が嫌いになった。しかし、話しが終わらないなあ。お茶が冷めるんですけど。
「だから、彼とお付き合いしている女性をお母様に紹介したら、次の日には別れていたんだって」
「マザコンだからですか?」
「ううん。お母さまが、あれはダメだと言って、別れさせるのよ」
へ?何それ?
「自分でお付き合いする女性を選んでおきながらさ、母親のダメ出しで別れるなんて、ちょっと変よねえ」
「いや、まったく」
むしろ、私を紹介してもらいたい。それでお母さまにダメ出しをしてもらった方が、話しが早かったかもしれない。
情報って、大事だなあと思う。今更だけど。
「あ。私、そろそろ戻ります」
「ああ、ゴメンね。引き留めて」
「いいえ、むしろ貴重なお話を、ありがとうございます」
「ついでに、このお茶を勝呂さんに持って行ってくれる?」
「ああ、はい」
「ありがとね」
私は先輩のお茶を受け取り、先輩の席に向かった。
先輩が慰謝料と住宅ローンで、大変だったことを私は知ってしまった。
その慰謝料のお陰で、私はこの会社に居る。
先輩のお陰で、私はひとりで生きていけている。
ここまで、こうして無事にいられる。
それを思うと、複雑な心境になる。
いつか、ちゃんと話さないと。
その肝腎の先輩は、仕事もしないでただ天井を見上げていた。
「先輩、何してるんですか?」
「ああ、坂上さん。どうしたの?」
「それは、こっちのセリフですよ。天井を見上げたりして、どうしたんですか?」
「うん?見上げてた?」
「はい。しっかりと」
「見上げてたか」
「先輩?」
「いや、別に」
「先輩のお茶です」
私は先輩にお茶の入った湯のみを差し出すと、ちょっと驚いた表情をしていた。
「ああ、ありがとう。そろそろ、取りに行こうと思っていたんだよ」
「そうだったんですか」
先輩はお茶をすすり、何か考え事をしていた。
「先輩、何か悩みでもあるんですか?」
「そう見える?」
「いえ、全然」
先輩がガクッとした。
そう、悩みがあるという感じではなく、しかしどうにもならないことを思っていると、私にはそう見えた。
「先輩、仕事を終えたら、ご飯でも行きませんか?」
「すまないけど、パスね」
「先輩?」
「本当にゴメン」
「私では、お役に立てませんか?」
「う~ん、そういんじゃないんだよ」
「お話しぐらいなら、私でも聞けますよ」
「つまらない話だよ。君のような、若い子に聞かせるような話じゃないよ」
「逆に後学の為に、先輩のお話を聞かせてください」
よく分からないけど、先輩を一人にしてはいけないと、本能的に思った。どうしてそう思ったのか、よくは分からないけど。
「心配無用だよ。私は大丈夫。いつか、話してあげるよ」
「本当ですか?」
「随分、詰め寄るね」
「先輩が、心配なんです」
先輩が、きょとんとしていた。
そして、すぐに笑顔になった。いつもの笑顔ではなく、どこか寂しさをにじませたような、そんな笑顔だった。
まるで、お母さんを亡くした時の、滝川さんのような笑顔だった。
私に、心配掛けまいとする。
「お願いです。お話を聞かせてください」
私はつい、先輩の腕を掴んでしまった。
先輩は戸惑っていた。
「分かったよ。なら、近くのファミレスにしよう。お酒は、入れたくないんでね」
「ありがとうございます。では、後で」
私は、仕事を早く切り上げることにした。
先輩が残業になっても、手伝えるように。
でも、私は何でこんなに、先輩が心配なんだろう?
その正体が分からないまま、帰宅時間を迎えた。




