想いを隠してくれない
討伐戦でもその強さを遺憾なく発揮して活躍してみせたらしいイストは、大怪我をして帰ってきた。
幸いにも退役を余儀なくされるような傷が残るものではないというが、しばらく絶対安静らしい。
今回の遠征では、そんな兵士たちがたくさんいた。医務室のベッドが足りなくなり、兵舎の一階部分を臨時の救護室にしている。
食堂まで食べに来られない怪我人たちのために、ヤンネとシヴィは食事を配って回る任についていた。
痛々しい怪我を目にするのは、正直なところ恐ろしかった。それでも、温かい食事を喜ぶ兵士たちの明るい表情に安心する。
それはイストも例外ではなかった。
怪我で思うように動かない体にはむっつりとした表情を隠さないけれど、食事を前にするとほっと頬を緩める。
「イスト、やっぱりお前さんの怪我が一番ひどいなあ」
ヤンネは容赦なくそんなことを言いながら、豪快な量を盛り付けた木皿をシヴィに手渡す。
匙を手に木皿の中身をかき混ぜるシヴィをちらりと見ながら、イストはヤンネに答えた。
「寝ていれば治るらしいですから、それほどでは」
そして、口を引き結んでシヴィを見すえる。
明確な拒否の視線にひるみかけたシヴィだったが、やむを得ない状況だからと思い直して、麦粥を匙で掬った。怪我人の胃腸に負担の少ないよう塩漬け肉と野菜を細かく刻んでよく煮込んだ粥は、厨房から運んでくる間も冷めにくくまだ湯気を立てている。
「口を開けてください、イストさん。熱いから気をつけて」
「……自分で食えると言っている」
「その手でどうやって食べるつもりなんですか?」
かれこれ三日目になるこのやりとりは、最後には無言のにらみ合いになり、やがて食欲を前になすすべのないイストが諦めて口を開ける。
「お前さん、懲りないな。そんなに俺に食べさせてもらいたいのか」
「ヤンネさんに頼んだら火傷する。遠慮しておきます。でも、なにも君が……むぐっ」
シヴィが開いた口に匙を入れたせいで、イストは不満そうに口を閉じて咀嚼を開始した。
ヤンネの言った通り、イストの怪我が一番酷いものだった。
剣を固く握りこんでいたという右手の強張りはいまだ取れず、加えて魔獣が最後に暴れたときにかすめた鉤爪から両腕でかばった傷はようやくふさがったばかり。
両手を使うこともままならないとなれば、食事は困難だ。
怪我や体の世話は医者や衛生兵が行っているらしい。食事に関しては運ぶついでに、と厨房の面々に任された。
どこもかしこも、人手が足りていない。
他の兵士たちは片手の自由がきくため、食事の介助が必要なのはイストだけだった。時間がかかる代わりに、回る順番を最後にしている。
口の中のものを飲みこんで、イストはまた何か言おうとした。
シヴィはすかさず匙を口に運ぶ。
「これは私の、私たち厨房で働く者の仕事です。私が一番下っ端なので、厨房を抜ける時間が長くても支障が少なくて済みますから」
怪我をした兵士たちに食事を運ぶ役割がシヴィなのは、これが理由であった。
ヤンネは一番力持ちなため、重い鍋の載った荷台を運ぶのに適役だったのだ。
「イスト、それで足りるか?」
「はい」
「じゃあお代わりはいらんな。シヴィ、先に戻ってるぞ」
配り終えたら、ヤンネは次の食事の支度に加わるため、シヴィを置いて先に厨房へ戻る。
「わかりました」
ヤンネの足音と荷台を引く音が遠ざかっていき、部屋には静けさが満ちた。時折匙と皿が触れ合う音がするばかりで、二人の間に会話はない。
無言になると、どうしても、少し前のヤンネとの会話を思い出す。
(私なんかが、心配していたなんて、伝えてもいいのかな)
遠征部隊が帰ってきて、初めに食事を運んだとき。
怪我の重さに顔を強張らせたシヴィを、イストは何も言わずに見つめていた。そのあまりに普段通りの視線に次第に落ち着いてきて、「お帰りなさい」とだけ、ようやっと口にできた。
そのあとは、食事の介助をするしないで揉めて、「お疲れ様でした」も「町を守るためにありがとうございました」も「帰ってきてくれてよかったです」も、言いたいことは何も言えていない。
そもそも、恩があるなどとは言われても少し関わりがあるだけのシヴィにそんなことを言われて、イストは何を思うだろう。
シヴィは気持ちを伝えるつもりはなかった。
シヴィがひそかに幸福を感じているこの穏やかな時間が、やがてイストの怪我を癒して、彼が思うようにまた戦えるようになれば。
それだけで、いい。
最後の一口を食べ終えたイストは、満足そうに息をついた。
「お水も、飲みますか?」
「頼む」
陶器の吸い飲みはそれなりに重たい。シヴィは慎重に持ってイストの口元へ運んだ。
「ありがとう。美味かった」
食べさせてもらうという状況からか、イストは少し気恥ずかしそうに礼を言う。
「よかった。ゆっくり休んでください」
「……ああ。……シヴィ、面倒をかけてすまない」
食器を片付けていたシヴィは、真剣な声音に顔を上げた。
「そんな」
「きちんと眠れているのか? 厨房も、仕事が増えて忙しくしていると聞く」
少し疲れが顔に出ていたのだろうか。
そう考えながら、シヴィはねぎらいが嬉しくて思わず微笑んだ。
「大丈夫ですよ。……イストさんは? お怪我、痛むでしょう」
「慣れているから平気だ」
イストも、少しだけ柔らかい笑みを浮かべてくれた。
そんな雰囲気に背中を押され、シヴィは意を決して口を開く。
「……あの、私」
言いよどむシヴィに、イストは怪訝そうに眉を寄せた。
「なんだ」
シヴィは大きく息を吸う。
「とても、心配していました。イストさんのこと」
「は……」
イストは大きく目を見開いた。
「それだけです、ごめんなさい!」
耐えられなくなって、シヴィは立ち上がった。ぱっと身を翻し部屋から駆け出す。と、そこで、厨房へ下げるはずの食器を忘れていることに気づき、そのままの勢いで取って返した。
呆気に取られているイストのベッド脇まで駆け寄って、食器を持って再び駆け出す。
「シヴィ、」
「忘れてください!」
何を言われるのか聞き届ける勇気はかけらもなく、シヴィは遮るようにそう言って部屋を飛び出す。
顔が熱くなって、心臓もどくどくとうるさい。
(明日から、どうしよう……)
息を切らして厨房に戻ったシヴィは、口々にかけられる心配の言葉に、か細い声で「なんでもないです」としか答えられなかった。
それからは、どこかぎこちない接し方をしてしまって。お互いに、あのときのシヴィの発言について触れられずにいた。
イストが何か言いたげにしていることは何度かあったけれど、目を合わせないシヴィの様子に、言いあぐねているようだった。
狡くて、情けないことはシヴィ自身がわかっていた。
そんな日々は飛ぶように過ぎ、イストの怪我は回復し、ベッドの住人でもなくなって、シヴィのひそかな幸福の時間は終わってしまった。
まだ完全に元通りとはいかないまでも、イストは早くも訓練に復帰したらしい。
実地任務に出られる許しは出ていないそうで、以前のような遅い時間ではなく、比較的早めに夕食を食べに食堂にやってくる。
あるとき、食べ終えて食器を下げに来たイストに尋ねられた。
「今日は遅いのか」
反射的に、シヴィは首を横に振る。
「……いえ、今日は当番ではありません」
「そうか」
視線が交錯して、シヴィは居心地悪く目を逸らしてしまう。
(気づかれて、ないよね)
今日、本当は戸締りの当番だ。加えてヤンネは用があって早く帰るそうで、帰り道は一人。
訓練しかすることがなくて退屈だとこぼしていたイストのことだから、きっとシヴィが遅く帰るのならば送っていこうと考えてくれているのだろう。
それでも、まだ怪我も治りきっていない人に、無理をさせたくなかった。
その夜。細い月と星明り、遠くに見える門の灯りの他、厨房の裏手に光源はない。手元のランプで足元を照らしながら、シヴィは足早に帰路についたのだが。
門まで行く途中の訓練場にまだ灯りがついているのを見て、少しだけ嫌な予感がした。
何かが鋭く空を切る音がする。しなやかで素早い身のこなし、軽い足さばき。
その人は。
立ちすくんでしまったシヴィに気づいて、彼の人は振っていた木剣をおろして汗を拭った。
「まさか、シヴィか?」
灯りの下に一歩踏み出したシヴィの気まずそうな表情に、イストは呆れのような吐息をこぼす。
「嘘をつかれるとは思っていなかった」
「どうして……」
それ以上何も言えないシヴィに、イストは木剣を少し持ち上げてみせた。
「……素振りだ。ぬるい訓練ばかりで体がなまる」
「まだ治りきっていないんでしょう? 休んだ方がいいのでは」
次に何を言われるか予想がついて、先手を打ったつもりだったけれど。
イストは何でもないように言う。
「いや、いい。ついでだ、送っていこう」
「大丈夫ですから、お願いです、だってあんな大怪我をしたのに……」
傷を保護するためなのか、まだ腕の包帯は外れていない。見てはいないが腹にも傷を負ったと聞いていた。
シヴィはなんとか押しとどめようと、無意識に側によってイストの顔を見上げた。
懇願するシヴィの視線に、イストがわずかにたじろいだのがわかった。
「心配、してくれているのか」
「心配しますよ!」
間髪入れず肯定すると、イストは真顔で黙り込む。
やがて彼は、ほんの少しだけ、唇の端を持ち上げた。
「……そうか」
どこか満足そうなその表情に、シヴィは首を傾げた。
「あの、イストさん?」
「なら、俺が君を心配したっていいだろう。門までなどすぐそこだ」
くるりと体の向きを変えて、さっさと歩きだしてしまう。
シヴィは慌ててその背を追った。もう何を言っても止まってくれないとわかって、あきらめる。
「……ありがとうございます」
「ああ」
短い返事の声は、いつもながら優しくて。
シヴィはそっと、胸を抑えた。
やがて門までたどり着くと、イストはシヴィに向き直る。
つきものが落ちたようなすっきりとした表情だった。
「シヴィに話がある。明日、どこかで時間はあるか」
「え……」
穏やかに問われたその言葉に、シヴィは戸惑った。
なんとか頭を巡らせて、答える。
「夜でもいいですか? 明日も戸締り当番を代わることにします」
「わかった」
その日も、シヴィが部屋の前にたどり着いて振り返るまで、門の近くでランプが揺れていた。