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あんまり優しく聞こえるから


 魔獣の群れが町になだれ込む事件から、およそ一年と少し経過した。

 

 シヴィは今も、この町で生きている。

 一年前と違うのは、彼女がたった一人で暮らしているということだった。

 

 日も昇りきらない早朝、誰に出かける挨拶をするでもなく、狭い貸部屋の鍵を閉め、シヴィは生まれ育った町の寂れた通りを一人歩く。

 

 やがて彼女は堅牢な基地の塀をくぐり、薪小屋を行き過ぎ、厨房の裏口からその細い身を中に滑り込ませた。

 

 シヴィは基地の厨房で職を得て、生計を立てていた。

 町に残った者たちはみな、長旅に耐えられない老人たちや、行く当てのない女子供だ。基地の中でなにがしかの職を得て、基地の近くに集まるように部屋を借りて住んでいる。

 

 半年前、シヴィの養い親だった食堂の主人夫婦は、この町を出る決断をした。

 事件以降、もともと減っていた住人は次々と内地への移住を決め、町はどんどん寂しくなっていった。兵士は少しばかり増えたが、客がいなければ食堂も立ち行かない。

 

 主人夫婦は、兵士たちの憩いの場にもなっていた食堂を守ろうと懸命に努力していた。

 けれど貯えも底をつき、彼らは諦めざるを得なかった。少しずつ侵食する魔獣の生息域に怯えて暮らすのも限界だったのだ。

 

 内地の街で宿をやっているという主人の兄からの誘いもあり、そこで世話になることに決めたらしい。

 シヴィも一緒に行くものと、おかみさんは思っていたらしい。おそらく、主人もだ。

 けれど、シヴィはついて行かなかった。

 これ以上、迷惑はかけられないと思ってしまった。

 迷惑などではないと言って、おかみさんは泣いていた。

 それは本心だろうと信じられるけれど、受け入れる側はわからない。独り立ちする年齢を迎えた養い子までついていったら、困らせてしまうかもしれない。

 そう思うと、足がすくんだ。

 シヴィ一人が肩身の狭い思いをするのはべつに構わない。世話になった二人にまでそんな思いをさせてしまったら。

 シヴィも悲しかったけれど、一人で生きていく決意は固かった。

 そして何より、シヴィには勇気がなかった。新しい土地で、新しい出会いの中で、やっていく勇気が出なかった。

 






 同じように基地の厨房で働く人々は、皆シヴィより年上だ。気にかけてもらっていることをありがたく思いながら、シヴィはなんとかやっていけていた。

 

 朝は皆、黙々と仕込みをする。基地内の畑や家畜、内地から送られてくる食糧を使って、兵士たちの食事を作る。

 

 この日のシヴィは、常よりも気合が入っていた。

 厨房の一員になってから半年、ようやく下ごしらえ以上のことを任せてもらえるようになったのだ。

 

「シヴィ! 今朝は大漁だぞ」

 

 かまどに火を入れていたシヴィの背に、大きなガラガラ声がかかった。

 声の主は、この厨房を取りまとめている気のいい男で、名をヤンネという。元は兵士だったが何年も前に退役したそうで、まだこの基地の食事を当番制で作っていた頃の腕を買われ、今に至る。

 

 シヴィが振り向くと、ヤンネは大きな木桶を掲げて満面の笑みだった。日に焼けた頬には引き攣れたような傷痕が残り恐ろしい外見だが、人のいい笑みがその恐れを霧散させる。

 

「ヤンネさん、何が獲れたんですか?」

 

 シヴィがたずねると、彼はますます笑みを深めた。

 

「よく太った鱒だ。半分は塩漬けに回して、あとは今日煮込んじまおう。きっとうまいぞ」

 

 ヤンネが掲げる木桶を覗き込み、シヴィはわくわくした。

 鱒は食堂でもよく扱っていた魚だ。よく獲れる時期には、大きな身をごろごろいれて家畜の乳と煮込んだシチューが看板メニューで、兵士たちにも好評だった。

 

「シチューにしましょう、ヤンネさん」

「お、いいな。シヴィ、おまえさんならあの味、再現できるか?」

 

 ヤンネは嬉しそうに言った。

 何を隠そう、彼も食堂にはたびたび足を運んでいた。ラウノ隊長とも知己だという彼をシヴィも何度か見かけたことがあり、この厨房で再会したときにはお互い見知った顔に驚いたものだ。かのラウノ隊長とは、友人ゆえか豪快なところがよく似ている。

 

「レシピは覚えていますけど、上手くできるかどうか」

「それでいい、やってみろ」

「はい!」

 

 気負って頷いたシヴィが身を固くしているのを、ヤンネはおおらかに笑い飛ばした。



 


 

 かくして完成したシチューの大鍋を前に、とうとう兵士たちの食事時で配りはじめるという段になって、シヴィは急に恐ろしくなった。

 きちんと味見もしたし、ヤンネも懐かしくて上手いと大喜びだった。

 自分でも上手くできたと思ったのに、何か失敗してはいないかとか、すべて自分の願望が見せた幻だったのではとか、悲観的な考えが頭を支配する。

 

 焦げ付かないよう鍋をおたまでかき混ぜているシヴィの前に、人影が立つ。

 染みついた習慣で、シヴィはすかさず深い木皿にシチューをよそった。こぼさないよう慎重に、それでも素早く、目の前の兵士が持つトレイに皿を置く。

 

「ありがとう」

 

 耳になじむその声に、シヴィは思わず目を上げた。

 束の間、兵士と目線が絡まる。

 

(イストさん)

 

 どくんと跳ねた鼓動に動揺して、シヴィはさっと顔をおろした。

 

 イストは隊長になっていた。もともと強かったという彼が、あの事件以降さらに強さを増したらしいのだから、しかるべき地位に上っていくのも当然のことなのだろう。

 中央に転属したラウノ隊長の推薦であるというから、人柄も評価されたのではと推し量れる。

 

 そうした地位についても変わらない礼の言葉に、シヴィはいつも胸を高鳴らせ、ついその背を目で追ってしまっていた。

 

 ここまでくれば、色恋沙汰に疎く縁のないシヴィも自覚する。

 

 いつのまにか、シヴィはイストに対して恋をしてしまっているらしいのだ。

 なぜかはわからない。いつからかも。あの日助けられたからなのか、それとも、ささやかな「ありがとう」を告げる声が、あんまり優しく聞こえるからなのか。

 

 けれど残念と言うべきなのか、イストはこの一年、厨房で働くシヴィを認識していないらしかった。

 

 何度かじっと目を見られているような気はするのだが、特に話しかけられるということもない。

 そのことを、シヴィが全く気にしていないかと言えば噓になるが、だからといってどうこうしようとも思っていなかった。

 

 イストにとっては、シヴィはただ数回会話をしただけの、かつて行きつけだった食堂の給仕。名前や存在すら覚えていなくとも無理はない。まして今厨房で働くときは、髪も鼻から下もすべて布で覆っていて個人の判別は難しいと来ている。

 

(遠くから、見ているだけでいい)

 

 シヴィにとって初めてのこの恋は、実を結ぶ想像すらできずふわふわとしていた。



 

 はず、だったのだけど。

 その日の夜、遅い夕食を取る兵士たちもあらかた引き上げ静かになった厨房に、ヤンネを訪ねてきた人物がいた。

 

「おう、イスト! どうした?」

 

 ヤンネが呼びかけたその人物の名に、シヴィは驚いて手を滑らせた。

 磨いたばかりの鍋が、床を転がって騒々しい音を立てる。

 

「すみません……」

 

 消え入りそうな声でそう言ってしゃがみ込んだシヴィに、視線が突き刺さった。

 

「大丈夫か、怪我はないだろうな」

 

 心配して声をかけてくれるヤンネに、なんとか頷きを返す。

 

「君は……」

 

 イストが呆然と呟く。

 

 視線がかち合い、シヴィは頬の熱を感じて慌てて顔を俯けた。もう片付けの時間で、口布を外してしまっていることに気がついたのだ。

 

「なぜ、君がここに」

 

 俯けた視線の先に、一歩近づくイストの靴が映る。

 シヴィの体は勝手に動いて、大柄なヤンネの背に隠れた。

 

「お前ら、知り合いか? シヴィ、大丈夫だぞ、イストは不愛想でちとひねくれてるが、優しくていい奴だ」

「……知って、ます」

 

 シヴィのか細い返答は、ヤンネの豪快な笑い声にかき消えた。

 イストが律儀に質問に答えている声がする。

 

「自分もあの店には、ラウノ隊長に連れて行ってもらっていましたから」

「ああ、ラウノの奴も常連だったなあ」

「それと、すみません。実は哨戒任務の帰りでまだ夕食にありつけていなくて」

 

 自分のことから話題がそれて、シヴィはそっとヤンネの背に隠れるのをやめた。いくら驚いたからといって、あまりに子供じみた行動だったと恥ずかしく感じる。

 

「なんだ、そうだったのか。まだ残ってるぞ……シヴィ、お前さんもついでに食ってったらどうだ」

 

 ヤンネがいきなりシヴィの方を振り返って、そんなことを言いだした。

 

「え!?」

 

 イストがじっとシヴィを見おろしている。その視線をちらりと見返すと、常と同じ無表情が、どこか不機嫌にも見えた。

 

「今日は少し遅くなったからな。持ち帰って食ったら腹が減っちまう」

「あの、はい、でも」

 

 おろおろしているシヴィに構わず、ヤンネは落ちてきていた袖をまくりなおしてずんずんと厨房の奥へ向かいながら、大きな声で言った。

 

「よし、お前ら座っとけ、持ってってやる」

「ありがとうございます、ヤンネさん」

 

 しれっと礼を言って、イストはさっさと近くのテーブルについてしまう。

 そして、まだ動けずにいるシヴィに視線を投げた。

 

 どうやらイストは、シヴィに同席を促して、何か言いたいことがありそうだ。

 ぎこちない動きで椅子を引き、シヴィはいつも兵士たちが食事をしているテーブルにはじめて落ち着いた。

 

 正面のシヴィを見すえて、イストは口を開く。

 

「朝のシチューは、君が?」

 

 シヴィはとても目を見れなくて、慌てて頷いた。

 

「はい」

「そうか。納得した。同じ味だったな」

 

 ふっと微かに笑みをこぼしたイストの表情と声音が優しいものだったので、シヴィもようやく肩の力を抜く。

 

「そうできていたら、良かったです」

 

 しかしシヴィが安心できたのもほんの一瞬だった。

 

 イストはすぐに眉間にしわを寄せ、難しい顔になったのだ。

 薄い唇がためらうように、次の言葉を紡ぐ。

 

「どこか似ているなとは思っていた。まさか町に残っているとは」

 

 この話をされるだろうとは思っていたが、シヴィは何も答えられなかった。

 だまってしまったシヴィに何を思ったか、イストは落ち着きなくテーブルを指でとんとんと叩き、言葉を探している。

 

「店の主人とおかみさんは、内地に移ったんだろう。ついていったものとばかり思っていたが」

 

 安全とは言えないこの町に残っていることを、咎められているのだろうか。

 他でもないイストに言われることが悲しくて、シヴィは彼の感情を探りたくて目を合わせる。

 シヴィの答えを待つように口を引き結んだイストの目には、咎める色はないように思えた。

 

「……どこにも行けなかっただけなんです。この町で生まれて、ここしか知らないので」

 

 シヴィの吐露した本音を受けて、イストは微かに頷いた。

 

 もちろん、親類を頼っていく主人夫婦の負担になりたくないという思いも強かったけれど、それを口に出すのは二人のせいにするようで嫌だった。

 

 シヴィはどうしようもなく臆病で、知らない土地に行く不安に勝てなかっただけなのだ。

 

「何ができるのか、それで生きていけるのかもわからないのに、どこに行けばいいかなんて……」

 

 頼れるうちは、主人夫婦に頼ってもよかったのだろう。でも、いつまでも寄りかかっているわけにもいかない。そうなったとき、頼ってばかりいたシヴィにできることはそう多くないだろうという予感がした。

 

「金勘定だって仕込まれていただろう」

 

 イストは眉を寄せてそう言った。

 シヴィは首を横に振る。

 

「簡単な計算しかわかりません」

 

 イストはなおも、何か言おうとした。

 けれどそのとき、ヤンネが皿を運んでくる。

 

「イスト、そうカリカリするな。まずは腹を満たせ」

「ヤンネさん」

 

 イストは少しばつの悪い顔をして、口をつぐんだ。

 ヤンネがにっと笑って、皿をテーブルに置く。

 

「香草焼きだ、うまいぞ」

「……ありがとうございます」

「いただきます、ヤンネさん」

 

 不思議な食事が始まった。

 

 シヴィは思い出したように空腹を訴えるお腹に抗わず、フォークを手に取った。

 イストは相変わらずいい食べっぷりだ。時間も遅いのでよほど空腹だったのか、すでに皿の半分が空になっている。それでもシヴィの食べる分より多いのだから、さすがだ。

 しかし少しお腹が落ち着いてきたからなのか、イストはシヴィの皿を見ていぶかしむように首を傾げた。

 

「それだけしか食わないのか」

「……皆さんがたくさん食べるんです。私は普通です」

 

 体を鍛えているわけでもないシヴィは、それでも小食というほどではない。

 

 あらかた片づけを終えてしまったのか、ヤンネも皿を持って同じテーブルにやって来た。

 ヤンネの皿に盛られた量を見て、なぜかイストがシヴィの皿を見てくる。

 

(戦っているイストさんや、体の大きなヤンネさんと同じ量を食べられるわけないでしょう!)

 

 イストが何を考えているのか手に取るようにわかって、シヴィは笑いそうになってしまった。

 そうこうしているうちに、イストもヤンネもあっという間に皿を空にしてしまう。

 一番量が少ないはずのシヴィは、まだ食事を終えていない。

 

「……この基地の守りは確かに固いですが、内地の方がはるかに安全でしょう。なぜ厨房で働くのを止めなかったんですか」

 

 いきなり自分の話になって、シヴィの手は止まってしまった。

 イストの声なのに、だからこそ、聞いていたくない。

 

「心配なのはわかるがな、シヴィはもう立派な大人だ。自分のことを自分で考えて決めてるんだ。俺はそれを助けてやりたいと思ったまでだし、住民を守るためにこの基地があるんだろう」

「……まあ、基地の中なら、一応は安全か」

 

 ヤンネに諭され、イストは納得しかねるような表情ながら、低くつぶやいた。

 確かに基地の中ならば安全だろう。ただ、兵士の家族でもない人間が基地の敷地内に住むことは基本的にない。

 

 ややこしくなるとはわかっていたが、誤った認識を持たれても困る。シヴィは律儀にも訂正した。

 

「いえ、私は基地の外の貸し部屋に……」

 

 途端に、イストが目を瞠る。

 

「一人で住んでいるのか? 基地の外に?」

「はい」

 

 素直に頷くシヴィに、イストは目を眇めた。

 

「ヤンネさん」

「おい、イスト、俺を睨むな。シヴィの場合は基地の中なんて別の意味で危ないだろうが」

 

 小柄な自身のことをちんちくりんであると認識しているシヴィにとって実感はあまりないが、独身の若い女性である以上、自衛の必要がある。兵士たちの基地の出入りには記録が付けられるため、外に出てまでシヴィに悪さを働く輩はいないだろうとはヤンネの言だ。加えて、口を酸っぱくして気を付けろとも言われている。

 

 イストはしばし考えて、やがて夢から覚めたような顔でシヴィを見た。

 

「……ああ、そういう危険もあるのか」

 

 少々失礼な反応ではないだろうか。シヴィはむっとした。

 

「子供だと思っているでしょう」

 

 不満を隠そうともしないシヴィの表情を珍しげに見返して、イストは唇の片端を上げた。

 

「……さあ、どうだかな」

 

 そんな二人のやり取りを見て、ヤンネが豪快に笑う。

 

「そこに思い至らんとは、相変わらず色気より食い気だなあ」

 

 ヤンネの揶揄に、イストは肩をすくめる。

 

「まあ、イスト。基地の外とはいっても塀が見えるくらい目と鼻の先だ。ちょっと走ればすぐ逃げ込める」

「そうですか」

「今日みたいに遅くなる日は俺が見送ってるからな、心配いらんさ」

 

 そこまで説明して、イストはようやく納得したようだった。

 

 ヤンネには本当に、世話になっている。けれど過保護というほどではない距離感は、シヴィを大人として認めてくれているようで、感謝してもしきれなかった。

 

 それにしても。

 イストは見かけによらず随分と心配性なのだと、シヴィは思った。



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