町を、守ってくれて
イストと初めてまともに会話をした夜から、数週間もたたないうちに。
平穏は、突然終わりを告げた。
魔獣の群れが町になだれこむ惨事が起こったのだ。
少し前から兆候はあったらしい、というのはすべて落ち着いてから聞いた話で、その瞬間は本当に突然としか言いようがなかった。
よく晴れた日の昼下がりだった。夜の支度にとりかかる前の時間、店の前の掃き掃除に出たところで、遠くの方でもうもうと土煙が上がっているのが見えた。
微かに聞こえる悲鳴のような声。何かが近づいてくる乱雑な足音の群れ。
恐怖で身が固まったのは、一瞬だった。
すぐに店の中に取って返し、主人に状況を伝える。
主人はさっと青ざめた。シヴィもきっと、同じくらい血の気の引いた顔をしているだろう。
買い出しに出たおかみさんが、まだ戻っていないのだ。向かった店は、この食堂よりも町の外側に近い。
「おかみさんに知らせてきます!」
そう言うや否や、シヴィは食堂を飛び出した。シヴィの名を呼ぶ声がした気がしたけれど、いてもたってもいられなかった。
(もう二度と、失いたくない……!)
恐怖で乱れる呼吸を感じながら、おかみさんが向かった店へとひた走る。
店の軒先で足を押さえてうずくまるおかみさんを見つけたときには、土煙はもうすぐそこまで迫っていた。
「シヴィ、あたしのことはいいから、早く逃げな」
「でも、」
置いていくなんてできない。迷いは短かった。
シヴィはおかみさんを説き伏せて、肩を貸した。よろよろと歩き出す。
地響きのような音は、すぐ後ろまで来ていた。けれど振り返る余裕なんてない。建物の影に隠れるように少しずつ歩みを進める。
(たとえここで魔獣に殺されても、私は、私が正しいと思うことをするだけ)
シヴィはとにかく夢中だった。
だから、そのとき聞こえた声を、はじめは夢だと思った。
「なぜ、まだこんなところにいる!」
鋭く問いかける声とともに、一陣の風が吹いた。
太陽の光を反射した白刃がシヴィの目の端に映ったかと思えば、次の瞬間、背後でおぞましい末期の叫びが上がり、どさっと何かが倒れ込む重たい音が続く。
震え強張る体をなんとか動かして振り返ると、強い光を宿した瞳に見据えられる。
魔獣の返り血を浴びて佇む、イストがそこにいた。
「イスト! 一人で突っ走るな!」
その太い怒鳴り声の主は、ラウノ隊長だった。
後ろに兵士たちを引き連れてやってくるその姿を見たとき、シヴィの体から力が抜ける。
(助かった……)
その場に座り込みそうになってしまい、シヴィは慌てて足に力を入れる。支えているおかみさんのぬくもりにも、勇気づけられた。
イストの方を見ると、彼はラウノ隊長たちの方をちらりと一瞥し、すっと顎を引いた。
頷いたように見えるその仕草のあと、イストは剣についていた血を落とすように一振りし、道の向こうから迫る魔獣の方へと駆け出して行く。
「あいつ……おい、誰か早くイストを追え!」
ラウノ隊長は部下にそう指示すると、シヴィたちの方へやって来た。
「大丈夫か? 逃げ遅れたんだな」
「おかみさんが、足を」
とっさにそう答えたシヴィに向けて、ラウノ隊長は安心させるようにニッと笑った。
「基地まで連れて行かせるから、心配するな」
「悪いね、あたしがどんくさいばかりに」
おかみさんの声には、いつもの元気の良さがなかった。
けれど、それに答えるラウノ隊長は、いつも以上に頼もしい声でこう言った。
「町を守るのが、俺たちの仕事だ」
それから、ラウノ隊長は部下の一人にシヴィとおかみさんを基地まで安全に連れて行くよう指示し、自分も土煙の上がる戦場へ駆けていく。
シヴィは兵士について歩き出しながら、一度後ろを振り返る。
素早い剣戟と、わき目もふらぬ身のこなし。
凶悪な牙を持つ四つ足の魔獣相手に身を躍らせるイストの背中が、目の奥に焼きついていた。
その日、町の住人達は高い塀に囲まれた基地の中で、遠くにかすかに聞こえる獣の唸り声と地響きとを聞きながらも、なんとか気持ちを保って一夜を明かした。
町になだれ込んだ魔獣の群れを処理しきったのは、未明のことだったという。
朝、眠い目をこすって起き出した町の人々と、戦いから帰った兵士たちは、ひとまず戻った平穏を喜び合った。
基地の司令官の命で食糧庫が開かれ、炊き出しが始まる。シヴィはじっとしていられず、厨房の隅に加わったり、スープの皿を配って回ったりしていた。
疲れていても寝るより前に食事をしたいのか、くたびれた顔をした兵士たちは我先にと食事を欲しがっている。
配りながら、シヴィはイストを探していた。
どうしても、昨日助けられた礼を言いたかったのだ。
しばらく探し回ってようやく見つけたイストは、井戸の近くの木にもたれて座り込んでいた。
腕と足に、赤茶けた染みがところどころについた包帯が巻かれている。そしてさらに、口で包帯の端をくわえ、もう一方の腕に巻こうとしているところだった。
シヴィは震える足で近くに寄り、血の気が引く思いで問いかけた。
「お怪我を、したんですか」
シヴィたちをかばって戦ったときの傷だろうか。
イストはシヴィが近づいてくるのにとっくに気づいていたからか、彼女の方を見ようともせず、ぶっきらぼうに答えた。
「大した傷ではない。……何の用だ」
イストの声はしっかりしていた。強がっているような雰囲気も感じられず、なによりよくよく近づいてみてみれば、包帯はくたびれていて、血の染みは古い物らしかった。
少し安心して、シヴィは持ってきたトレイを差し出した。スープは少しだけ冷めてしまったようだが、まだほんのりと温かい。
「司令官様の、ご命令で。兵士さんたち全員に配るようにと」
器用にも片手で包帯を巻き終えたイストは、やっとシヴィに視線を向けた。
そして、ふんと鼻を鳴らす。
「……君みたいな子供まで、炊き出しの手伝いか」
「もう、子供ではありません」
反射的にそう言い返したシヴィを、イストはいぶかし気に見上げた。
スープをいらないとは言われなかったのと、見上げられている居心地が悪く、シヴィは少し距離をあけて座りこんだ。
「……15と言っていなかったか」
思わず、シヴィはイストの横顔を見つめた。頬に土がついている。
「覚えていたんですね」
「……」
「昨日、16になりました」
「……そう、か」
シヴィの言葉に、イストはただそれだけ言って頷いた。
沈黙がおりる。
やがてイストは、短く礼を言ってスープ皿を手に取った。匙を動かす手が、しばらく止まらない。
相変わらず、食欲旺盛な人なのだ。
シヴィはそんなイストの姿を見ていて、ようやく実感がわいてきた。
(生きてるんだ、イストさんも、私も)
あっという間に皿を空にしたイストは、ふうと息をついて目を閉じた。
意を決して、シヴィは話しかける。
「あの」
イストは束の間目を開けてシヴィを見たが、すぐにまた目を閉じてしまった。けれどその視線が会話を拒んではいなかったと感じて、シヴィは続ける。
(私とおかみさんを助けてくれて……ううん、違う)
「町を、守ってくれて、ありがとうございました」
「は……」
イストは目を見開いて、シヴィを見つめた。
そしてゆっくりと、唇の端を持ち上げる。呆れたような、自嘲の表情だった。
「守れたというのか、この状況は」
「私はそう思います」
迷わずに頷いたシヴィに、イストは眉根を寄せる。
「なぜ」
「だって私たちは、今ここに生きているから。町の人たちも、家が壊れてしまった人もいるけど……この基地に避難できたから、生きています。兵士さんたちのおかげです。だから……ありがとうございます」
たどたどしくも、シヴィは懸命に話した。
しばらくの間、イストは何も言わなかった。じっと、シヴィの言葉を受けて考えているようだったが、やがて一言だけ。
「そうか」
そして、包帯に包まれた腕を見つめて。
「……そうか」
噛み締めるように、ただただ、そう言った。