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小説家と檸檬

作者: ミツボシ

『小説家と檸檬』


「いらっしゃいませ!!!!」


店主の威勢の良い声が響いた。

僕は店主に促されるまま、カウンター席の一つに腰を下ろした。







『カフェ』という単語も、すっかり世の中に馴染んだものだ。

昨今は、休日をオシャレなカフェでゆっくり過ごすのが、充実した生活を送る上での大事な条件であると考える人も少なくない。

だが、この世には色んな人間がいる。

例えば、「カフェに行く人間」と「カフェに行かない人間」とか。






真っ白な原稿用紙が写し出されたパソコンの画面を睨み付けはじめてから、一体何時間たっただろう。

もはやため息をつくことさえも億劫に感じられるほど、僕は心底疲れきっていた。

「もう、何も書けない」


窓の外には、桜の蕾が開花するタイミングを今か今かと待ちわびている、そんな光景が広がっている。






加太 結城 (27歳)男性。

職業『小説家』


この小説家のデビューは華々しいものだった。

誰もが憧れる人気雑誌が毎年行う、新人発掘の小説コンテスト。

そのコンテストに、当時若干18歳の少年がたった一週間で書き上げたという、とあるミステリー小説がエントリーされてきた。

その作品のストーリーの緻密さ、18歳から紡ぎ出されるとは思えないほど、美しく正確な言葉選びに、審査員である大物作家達が皆口々にこう言った。


『怪物が現れた。言葉の怪物が』と。


そこから、僕の小説家人生は始まった。

書籍は飛ぶように売れ、僕の作品は映画、アニメ、ドラマ、舞台、あらゆるメディアで取り上げられるようになった。

ただ、長続きはしなかった。

僕は、この世に存在する言語の組み合わせを、全て自分の作品に落とし込んでしまったのかと錯覚してしまうほど、

ある日突然何も思い付かなくなってしまった。

何を書いても「どこかで読んだことがある」ように感じてしまうようになった。


出版会社の担当者は僕が一番ウンザリする4文字のとあるカタカナ語で、いつも通り電話の向こうから僕を励ます。

「先生。ただのスランプですよ」と。

そして、こう続ける「気晴らしに、カフェにでも行かれてみてはどうです?うちの出版社からも、カフェの特集本がいくつも出ています。良ければ数冊お届けしま・・・」

「はいはい、どうもありがとうございます。検討します。お疲れ様でした!」

言葉を遮るように、やや強引に電話を終わらせた。


どうせ何も変わらないと分かっていても、これ以上パソコンとお見合いを続けていれば、画面の中に架空の嫁でも作り出して楽しくお喋りでも始めてしまいかねないと思い、とりあえず外の空気を吸いに出掛けることにした。

ただ、担当者のアドバイスを聞き入れるつもりは無かった。


自宅から数分歩いた所にある公園のベンチに僕は腰を下ろした。

調子の良いときはよく、ここに人の往来を見に来たものだ。

他人を観察していると、良いアイデアが浮かんできた。

最近はそれもめっきりなくなったが。


「はぁーーーー・・・」

よくもまぁ、飽きもせずため息ばかりつけるなと、自分で自分に呆れていると、隣のベンチから女性2人組の会話が聞こえてきた。


「それ加太結城じゃん。懐かしーー!!ドラマ見てたな~。っていうか古ーーー!!もはや『あの人は今』状態の人じゃん。ほんと今あの人何やってんだろねー?逆に気になるぅ~」


「しょうがないでしょ!!彼氏が加太ファンでさ~『お前も読め』とか言うから、しかたなく読んでんの!!正直、この気取った文章好きじゃないんだよね~。何でこれがかつてのベストセラーだったのか、私には理解できないなぁ~」



最悪。

運が悪いなんてものじゃない。

もはや何かに憑かれてるとしか思えない。

気晴らしどころか、よけいに気が滅入る展開だ。

どうする?どうすればいい?

「はーい!!時代に取り残されたかつての人気作家こと、加太結城ご本人さまの登場でーーす」なんて言いながら、女子高生の背後から派手に登場してみせるか?

頭の中で想像はいくらでも膨らむが、声だけが出せなかった。

かろうじて、立ち上がり歩く力だけが残っていた。

鉛のように重い足を、自宅がある方角に向けてなんとか進めてみる。


「よし、帰ろう。早く帰って今日はもう休もう。でも帰って、休んで、朝になったら・・明日になれば、何か思い付くのか?また白紙の原稿用紙と見つめ合わなきゃならない。これからもこれが続くのか?・・・僕って、・・一体何なんだろう。」


通いなれた道が、先の見えない樹海のように見えた。

ここは、確かいつも歩いている道。

人通りが少ないのを良いことに、ここを行き交う車は、皆まあまあなスピードで走り去っていく。

排気ガスの不快な匂いに、いつも少し顔を強ばらせながら歩いている。

道路の反対側は、確か空き地・・・自宅はあっちで、こっちがいつも行ってるコンビニで・・・

出版社へ行くにはあそこを曲がって・・・

そうだ。

ちゃんと理解出来ている。

僕はまだ正気を保てている。

大丈夫、大丈夫、大丈夫・・・


だい・・

じょうぶ・・?











「もう、消えてしまいたい」










僕の頭にぼんやりと、しかし輪郭ははっきりとした、そんな考えが浮かんでしまった。

『心の糸が切れる』

我ながら、まるで小説家のような表現を思い付いてしまった。



少し離れた所から、大型トラックがこちらに向かってくる。

スピードを落とす気配はない。

タイミングを見計らって、あのトラックの前に飛び出したら・・・

そう思いながら、トラックが迫ってくる道に向かって歩みを一歩、二歩と進めようとした。

その時、














ーーバッッッシャッッッッ!!!!













冷たっっっ!!!何これ、水!!?

あまりに突然の出来事だったが、僕の後頭部から背中辺りにかけてびっしょりと濡れていることを認識するのに数秒もかからなかった。

春とは言え、日が暮れた後の空気はまだまだ冷たい。

そこに、水を掛けられただと?


「もももももももも申し訳ございませんお客様ぁぁぁぁぁっっっっっ!!!!!!」


振り替えると、恐らく数秒前には水で満たされていたであろう、空のバケツと杓子を持った男が声を荒立てていた。


「ほんっっっっとうに!!!!申し訳ございませんお客様。おおおお怪我はございませんでございましたでしょうか?お客様!!!」


ここのところ、すっかり人間らしい感情を失くしていた僕の中に久しぶりに沸いた『怒り』だった。

僕は勢いに任せて、

「『ございませんでございましたでしょうか』ってどんな日本語だよ!!小説家なめんな!!っていうかお客様ってなんだよ!お前のお客様になった記憶なんか無いんだよ!!!そんで水かけられてんのに『お怪我』なんてするかよ普通!!!」


さっきまで死のうとしていた人間とは思えないほど覇気のある声で、空のバケツと杓子を持ったままあたふたするその男に向かって言い放っていた。


「そそそそれはよろしゅうございました!!!

いや、よろしくない!!

服を乾かしましょう!

そのままでは風邪をひかれてしまう!

さあ!どうぞこちらへ。」


白いシャツに、紺色とか藍色とか、とにかく深みのある濃い青色のエプロン姿という出で立ちのその男が指差す先に目をやると、

てっきり空き地だと認識していた場所に、小さな建物がある。


「(あれ、ここって空き地じゃ・・)」

そう思うより先に、建物の前に立て掛けられた小さな黒板が目に入った。

「・・・コーヒー・・・軽食・・・・スイーツ、何・・ここカフェ?」


「はい!!わたくしの店でございます!!お客様!!!!」

背が高くてスラッとしたモデルみたいな体型。

髪は綺麗にセットされ、シャツも真っ白で皺一つない。

少し、中性的な顔立ち。

僕より3つか4つ上・・。

職業柄、人に対する観察眼には多少の自信がある。


この男、流行りの言葉で表すなら「爽やか三十路イケメン」ってところか。

次の新作の主人公にでもしてみるか?


ところで、その「爽やか三十路イケメン」でどうやら小さなカフェの店主であるらしいこの男は、相変わらず元気よく僕に話しかけてきている。


「どうかされましたか!!お客様!」

「あのさ、だからそのお客様っていうの辞めてよ。まだあんたのお客様になったつもり無いんだけど!!」

「『まだ』?では、『これから』お客様になるということで!!!」

「うん、まぁ・・・そういうことで良いよ。で?入っていいの?僕(お前のせいで)びしょ濡れだけど?他のお客さんに迷惑じゃない?」

「大丈夫です。他のお客さんなんていませんから!!!」

「元気いっぱいなのは良いけれど、それで経営大丈夫?」

「問題ありません!!!」


妙にテンションの高いその男に導かれるまま、僕はそのカフェに足を踏み入れた。



店内は、壁も床も木目調で統一されていて、5席くらいのカウンターと4人がけのテーブル席が2つという、小規模な造りになっている。

「こんな店、いつのまに出来たんだ?いや、そんな事よりこの店・・・」

僕は、店内にとある違和感を覚えたが、その正体を突き止められずにいた。


「お召し物が乾くまで、大変恐縮ですが・・こちらをどうぞ」

男が差しだしてきたのは、自らが身に付けているエプロンと同じ色の深い青色のトレーナー。

胸の部分にシャレた筆記体で文字が書かれている。


「アズ・・る?アザ・・なんて書いてあるんだこれ?」


「Azurで、アジュール。当店の店名でございます。」


「へぇ、これって何語?どんな意味があんの?」

「フランス語で青。また、天然石ラピスラズリの色を表す言葉でもございます。お客様、ラピスラズリという石にどのような意味があるのかご存じで?」

「さぁ?パワーストーンに興味持つほど、僕は可愛い生き物じゃないからなぁ。」

「そうですか?お客様、中々可愛い方だと思いますが」

爽やかイケメンがカウンター越しにサラリと言い放つ。

やっぱり次の新作の主人公にしてやろうか?

そんな考えを巡らせてる間にも、男は話を続ける。

「ラピスラズリは幸福を運んでくる石とされていますが、幸福を得るために必要な試練や苦悩も同時に連れてくると言われています。持つものに対して少々厳しい石なのですよ」

「幸福を得るには、それ相応の対価が必要ってこと?神様も随分意地悪だな」

「わたくしも、この店を持てるようになるまで、色んな試練に耐えてきましたので、同じ意味を持つこの石の名に関連した言葉を店名にしたいと思ったのですよ。お陰さまで、今お客様にお貸ししたトレーナーのような、ノベルティグッズまで作れるようになりました!!」


男は随分流暢に話す。


「で?お客様・・・あ、もうお客様とお呼びしても・・・?」

「こうなっちゃもう流石に『お客様』だろ」

「ありがとうございます。ところで、さきほどはあの路上で何をされていたのです?」


そう言われて、思わず言葉を飲み込んだ。


「別に・・・ちょっと、考え事してただけ」

「そうですか。普段はあの路上で立ち止まる人はほとんど居ません。ですので、私もいつもの調子で盛大に水撒きをしておりましたところ、ちょうどあなたがそこに居合わせた結果、このようなことに・・・」

「あんた経営者だろ?もっと周囲に気を配った運営したほうが良いよ?時間帯の問題もあるかもだけど、今もこうして客は僕だけだし」

「ご助言、まことにありがとうございます」

今さらになって、この男の妙に恭しい言葉遣いが、不思議と嫌いじゃないことに気づく。

自分の作品も、かつては日本語の美しさと繊細さが最大の特徴として評価されていて、自分もまた美しい日本語が好きだから、自然と受け入れられているのだろう。


「さて、それでは・・・そろそろご注文を。お召し物が乾くまでもう少々かかりそうですし。」

店主はそう言いながら、カウンター越しにメニューを差し出してきた。

「あ、そっか。一応僕、客だもんな。じゃぁえっと・・・」

正直、カフェに入ることは全くの想定外。

そもそも『カフェ』というものに行く習慣なんて全く無いから、何を注文すれば良いかさっぱり思い浮かばない。

しばらくの沈黙の後、

「では、わたくしにおまかせいただくのはいかがです?」


『おまかせ』

考えることに疲れた人間にとって、なんと魅力的な響きだろう。

「そうだなぁ・・・じゃぁそうしようかな。でも、あんまお腹空いてないから飲み物だけで良いよ。身体冷えたかもしれないから、暖かいもので」

「かしこまりました」


店主はそう言うと、すぐに作業を始めた。

まず天井付近にある戸棚から小さい木製のトレーを取り出し、その上に白い大きめのマグカップを置いた。

次に男はカウンターの反対側にあるキッチンにくるりと体の向きを変えると、ケトルに水をそそいで火にかける。

すぐ近くのガラスの引き戸がある棚の中から大きめのビンを引っ張りだし木製トレーの隣に置いた。

止まることなく、足早に冷蔵庫からレモンを取り出し、果物ナイフで手際よくスライスした。

ほんの数分前に、路上で立ち尽くす男に水をぶっかけるような失態を犯す人間とは到底思えないほど、その作業には一寸の無駄も無かった。

そうこうしてると、ケトルの注ぎ口から勢いよく蒸気が吹き出し始めたのが見えた。

「(お湯、沸いたみたい)」

僕がそう声をかけようとしたのとほぼ同時に、男がサッとケトルを手に取り、白いマグカップに沸かしたての湯だけを注いでいく。

カフェに行く習慣が無い僕にでも、それが「カップを暖める」ためだということくらいは理解できる。

カウンターごしに男とふと視線が合う。

口元がほんの少し微笑んだように見えた。

僕に対して「よくご存じで」とでも言いたげな表情だった。


何だか、調子が狂う。


カップを暖めている間に、男はティースプーンを戸棚の引き出しから取り出してトレーにセットした。

カップの湯が捨てられ、代わりにビンの中のものが注がれる。

少し濁っている黄色い液体。

カップの7分目くらいまで湯を注いだ後、スライスしたレモンを沈め、ティースプーンがセットされたトレーと共に、目の前に差し出される。


「おまたせいたしました。レモンジンジャーコーディアルのお湯割でございます」


湯気と共にたちのぼる香りに思わず顔が綻ぶのが自分でも分かった。

レモンの爽やかな香りとほのかなジンジャーの切れのある香りが交互に嗅覚に訴えかけてくる。


まてよ、嗅覚?香り?匂い・・そうか!!

ここで、この店に入った瞬間に感じたとある違和感にようやく気がついた。





ーーーこの店、匂いがないーーー





今目の前に置かれている黄色い飲み物から立ち上る湯気の匂い以外、周囲のものから一切匂いが感じられないのだ。

カフェなら、コーヒーやフード、何かしらの匂いが漂っていても良さそうなのに。


「熱いので、お気をつけを」


上質なミステリー作品の登場人物にでもなったような気分に浸っている僕に、男が心地よい声で言った。

男の言葉を受け、恐る恐るカップの中身を啜った。





「・・・・・美味い。」

小説家が聞いてあきれると自分で思うくらい、

「美味い」以外の言葉が出てこなかった。


「良かったぁぁぁぁぁ~~~~。これで口に合わないなんて言われたら、客に水をかけるわ不味いものを出すわで、わたくしはとんでもない店主になってしまうところでございましたねぇ」


「とりあえず、口コミサイトに悪口をかかれる恐れは無くなったから安心してよ。だけどこれ、レモンの酸味がちょうど良い。疲労回復にはクエン酸がいいっていうのは本当なんだなぁ。ジンジャーのおかげで身体も暖まってきたよ」

「それはそれは、まことに恐縮でございます」

「そのビンに入ってるやつをお湯で割って飲むんだ。どこかに売ってるの?」

「これは、当店自家製のコーディアルでございます。コーディアルというのは、フルーツやハーブを砂糖に浸けたもので、主に水や炭酸、寒い時期はお湯で割って飲むためのもので、イギリスやオーストラリアではごく一般的な飲み物なんですよ」

「へぇ~、リキュールのアルコール無し、みたいな感じかな?自家製ってことは、あんたの手作り?水撒きのやり方は別として、客に提供するものの品質は確かだな。それに清潔だし。こんなに余計な匂いのしない飲食店は始めてだよ」

「清潔なのは、・・まぁ、この店は汚れようがないですからね」

そう言って男は少し寂しそうに笑った。


「それで?もう、落ち着かれましたかな?」

「・・・え?」

「さしでがましいようですが、あなた何か思い詰めておいででしたね?」

「なんで、そんな事が分かるの」

「わたくしには実は、とある特技がありましてね・・・」

「何?特技って。立ち止まってる男にドンピシャで水をかける以外の特技だろうな?」

「そこまでの冗談を言えるという事は、随分とお気持ちが落ち着かれた様子ですね」


そう言われて、思わずハッとした。

そうだ、僕はほんの数分前までひどく落ち込んでいた。

いや、確かにこんなことを考えていたような気がする。

「消えてしまいたい」

でも、今はそんな気持ちが嘘のように消え去っている。

僕はあの時、何を考えていた?

さっきから、頭の中を様々な思考が駆け巡るけど、何一つとして『答え』に辿り着かない。

とりあえず、目の前の疑問から片付けようと僕は判断した。



「で?あんたの特技って何?」

その問いに対して、男からはなんとも意外すぎる答えが返ってきた。



















「わたくしには何故か分かってしまうんです。















死のうとしている人間が」










「・・・・・・・何?」








「こんな事、信じろという方が無理というはなしです。ですが、自分でも分からないのですが、わたくしには、これから死のうとしている人が分かるのです」


「分かるって、悪霊とか死神とかがその人に憑いてて、それが見えるとか?」


「いえいえ。そうではありません。あなたに何か憑いてるかどうかは、わたくしには分かりませんので、どうぞご安心を」


「(それって安心材料になるか?)」


「何かが『見える』のではなく、あくまでも『分かる』のです。もっと詳しく言えば、『わたしの前に現れる』です」


「・・・じゃぁ、僕やっぱり・・・・死のうとしてたんだ、あの時。」


「自覚が無いのですか?」


「分かんない。とにかく、消えたいって思ったのは確かだね。」


「何故、消えたいと思ったのです?」


「なんでかな?

僕、小説家なんだけど、もう何ヵ月も前から、満足のいくものが全然書けてなくて。

そのうち、小説家なんかになって本当に幸せだったのか?

小説家である自分に酔ってるだけで、ほんとは才能なんて無かったんじゃないか?


そんな風に思い始めたら、

『僕って何なんだろう?』って考えちゃって・・・

それで・・・




あれ?」




気がつくと、一つ、また一つ、ポタポタと雫が落ちてはカウンターの木目に染み込んでいくのが見えた。


「嘘でしょ・・・いい歳して、泣いてる?あぁーー恥ずかしい!!あり得ない。ちょっと店主さん、あんまこっち見ないでもらえる?あっちむいててよ・・」

そう言って顔を上げた先に男の姿は無かった。


「え、あれ?ちょっとどこ行ったの?」


「はい?何か言いましたか?」


「うっわっっっっ!!!」

冷蔵庫がある方からノーテンキな声がして、思わず驚いてしまった。

店主は小さなガラスの器を持って僕の前に戻ってくるなり、

「あれ、目どうしました?あ、花粉症ですか!?」

「・・・そうだよ花粉症だよ!!今年酷いんだよ!!もうずっと涙止まらなくって辛いったら!!」

目が涙ぐんでいる理由を上手く誤魔化せたようでホッとした。

「それはそれは。早めに耳鼻科に行くことをオススメいたします。ここを出て斜め向かいの耳鼻科がオススメです。

あとこれを、お好みで。」

そういいながら、持っていた小さなガラスの器を僕に差しだしてきた。

「ハチミツです。気持ちが落ち着いてくると、レモンの酸味はやや強く感じられると思われます。良ければこれで味の変化をお楽しみ下さい」


ハチミツをひとすくいしたティースプーンごとカップに入れ、数回円を描いた後、再びカップの中のものを口に含んだ。



レモンの酸味が和らぎ、甘味で口の中が満たされていく。

僕の身体が、甘味をドンドン受け入れていくのが手に取るように分かる。

程よく冷めたカップの中身を、一気に喉に流し込んでしまった。

「はぁ~~、こんなに変わるんだね。ハチミツだけで。」

「レモンは本来、それを単体で食すことはほとんどありません。絞った果汁や、皮に含まれる香りを、料理やお菓子に利用します。私はそんなレモンが時々不憫に感じられるのですよ。ありのままの姿では、受け入れてもらえない。生まれながらに試練を課されたような、まるでAzur・・ラピスラズリの運命を背負わされたようで。でも、それもまたレモンの存在意義なのかもしれない。あなたにも、あなたなりの存在意義あるのでは?」


「僕なりの、存在意義?」


「あ、これは大変だ。お客様もう閉店時間でございます。お客様の服は・・・すっかり乾いておりますよ」


「あ、あぁそう?ありがとう。すっかり長居してしまったな。そろそろ帰るよ。じゃ、お会計お願い」


「お代は結構。水をかけてしまったお詫びです」


「そう?悪いね。じゃ、おことばに甘えて」


着替え終わり、借りていたトレーナーを手渡したのと同時に店主はこう言った。


「あ。そうそう良い忘れておりましたが、当店は本日を以て移転することになっておりまして」


「移転?そうなの?どうりで、妙に片付いた店内だと思った。で、どこに移転するの?新天地で軌道にのるまで大変だろうから、僕が常連客の一人になってあげるよ!コーディアルのお湯割、また飲みたいし」


「それはたいへんありがたい話ですが、移転先は未定なのでございます」


「そうなの?じゃぁ、・・・ちょっとまって!!何か・・書くもの・・・」

僕はとっさにポケットに入っていた小さなスケジュール帳のメモ用紙を一枚破り、自分の携帯番号を書き目の前の男に差し出した。


「移転先が決まったら連絡してよ。絶対行くから」


「さようでございますか。では、ありがたく受け取らせていただきます。いつご連絡出来るか、お約束はいたしかねますが・・」

また寂しそうに男は笑う。


「うん。楽しみにしてるよ。

じゃ、今日はありがとう。

それと、さっきの話・・僕なりの存在意義。

今の僕がありのままで受け入れてもらえないのなら、変わらなきゃいけないタイミングなのかもね。自分を変えること。今の僕に課された試練だと思って、もう一回頑張ってみるよ」


「大丈夫です。あなたはきっと、変われます・・・よ・・・」


店主のその言葉を聞き終わるよりも前に、自分が建物の外に立っていることに気がついた。

数秒後、大型トラックが目の前を走り去って行った。

排気ガスの匂いに少し顔を強ばらせた。


「ここで何してたんだっけ?それに、この香り・・あれ?ここって、確かなんとかっていう・・・えっと・・・なんていったっけ?」



頭の整理が追い付かぬまま、口の中と鼻の先に仄かなレモンの存在を感じとる。

ふと足元に目をやると、何故か自分の携帯番号が書かれたメモが落ちていた。


「おかしいな、僕いつレモンなんか?それに、なんでこんなとこにこんなメモ落としてんだろ?それと確か、さっきあの女性二人の会話を聞いて・・・・ん?まてよ・・・そうだ!!!」


自分の思考が追い付いていないことに混乱しつつも、僕は家路を急いだ。

何がなんだかわからなかった。

だけど、早く帰りたい。早く帰って・・・




翌朝、僕は自宅のパソコンを置いてある机に顔を突っ伏した状態から目を覚ました。

パソコンの画面には、いつぶりだろうか?文字でびっしり埋め尽くされた原稿用紙。




「・・・・書けた・・・」



思わず天井を見上げ、大きく息を吐いた。

ため息ではなく、深呼吸だった。


一息ついて、担当者に連絡を入れる。


「新作、読んでみてくれないかな?」

「お!ついにスランプ脱却ですね?良いカフェでも見つけましたか?」

「カフェ?いや別に、カフェにはさほど興味は無いけど」

「そうですか。では、お待ちしております。久しぶりの加太先生の新作!楽しみですなぁ~」


不安が無いわけでは無い。しかし、確実に僕の胸は期待に躍っていた。


パソコンを鞄に詰め、出版社への道を急ぐ中、

明るい声で話す女性二人組の会話がふと耳に入ってきた。



「そういえばあそこの空き地の噂知ってる?」

「知ってる!昔カフェだったっけ?確かそこの店主さん、信用してたお友達にお金を騙しとられたあげくに、心労がたたって死んじゃったんだっけ?」

「もう1つ噂があるんだよ。ほらあそこって昔から、夜は暗くて見通し悪いから変な事件とか頻繁に起こってたんだって。でも、何故かカフェが潰れて空き地になってから、なーんにも起きなくなったんだって」

「ふぅーん。空き地になると、余計に物騒なことが増えそうだけどね」

「店主さんの霊が怖くて人が寄り付かなくなったとか?」

「え、それはちょっと怖い・・・」


さっきの会話といい、担当者といい、やたらと『カフェ』という言葉が耳に入って来るけれど、僕はさほど気にせず歩き続けた。


「色々あって疲れたな・・そうだ、これ持っていったら、レモン買って帰ろう。疲れにはやっぱりクエン酸が一番。でも、僕ってそんなにレモン好きだったっけ?まぁー、いっか!!」


道路の向こう側から、仄かなレモンの香りがしたような気がした。

素晴らしい物語を胸に、僕の足取りはとても軽やかだった。


新作のタイトルは、「小説家と檸檬」

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