戦働きと吸血鬼
「あっははははは! なるほど、それで君はそんなに不機嫌そうな顔で居たのだね。フフフ、まあ一度や二度の失態くらい、初めての仕事ではありがちなものさ――クフフッ」
良く通る思春期に入ったばかりの様な声で笑われて、イタカは気恥ずかしい思いで顔が真っ赤に熱るのを、必死になって我慢していた。
たった今、イタカが長椅子を共にし笑い転げている御方は、彼女の主である三人の島主のうちの一人――シディアス公その人だ。
ガマの脂と獣脂を固めて造られた蝋燭の灯りに照らされた部屋の中で、シディアス公はイタカにしなだれ掛かるように身体を預けながら初任務の報告に耳を傾けて居たのだが、イタカが嘔吐したくだりの部分で、どうにも堪え切れずに吹き出してしまう。
「そんなに笑わないで下さいませんか? 恥を忍んで初任務の経緯をご報告したというのに、その調子でいられるのはとても気分の良いものではありません」
「ふはは、だってねえ! 十五年ぶりに会えた可愛い子が華々しい初陣の話をしていたかと思えば、恥ずかしそうに戻した事を律儀に話しているんだよ。色々感極まってしまって、笑みが溢れるのも仕方のない話だろう?」
「可愛いと仰るのでしたら、笑わない努力を致すのも主人としての役目ではありませんか」
怒るというよりも嗜める声色で、イタカは太ももの上で身をよじらせ始めたシディアス公に進言するが、彼――彼女はそれもまた可笑しいようで、くつくつと小粒な笑いを漏らし続けていた。
シディアス公は、遠目から見ると貴公子もたるやといった出で立ちであるが、よくよく観察してみると、隠しきれない胸の膨らみが見て取れる。
男装の麗人――三人の島主の中で、最も凛々しく最も霧歩む乙女を愛しているのが彼女、シディアス・ロメアス・バルキュニアだった。
「怒らないでおくれ、愛しい子。私はこうやって君たちと触れ合い語り合い、話を聞くのがとても好きなのに、嫌われてしまうのはとても心に沁みるものがあるよ。どうか機嫌を直してはいれないか」
「真面目に説得なさる時はおしりを撫で回したりはしないものですよ」
「おっと」
シディアス公は女好きでもあった。
一度部屋に連れ込めば、対話と称してあれやこれやと触りにお触る性癖があったが、無理強いまでには至らない。
イタカに嗜められて、シディアス公はすぐに手を離して胸元で腕を組んだ。
「怒らないでおくれ、愛しい子。私はこうやって君たちの膝の上で話を聞くのがとても好きなのだよ」
「態々言い直さなくていいです。それより、あれですよ、あれ。本当に宜しいのですか、私が頂戴してしまっても」
「あれ? ああ、あれねあれ。別に、良いんじゃあないかな」
イタカがあれと称してシディアス公に問いかけたものは、部屋の入口にある武器掛けに置かれた四振りのつるぎ。
彼女が託された、幾人かのミストレスたちが振るった先人たちの遺品。
「タルパマーニャがきみに贈った得物だろう? 今更私が何かを言うつもりはないよ。あれらはもうイタカのものだ。存分に振るい、存分にお使いなさい」
「……はい」
血の匂いに屈しての嘔吐が、イタカに故人たちの武器を振るうという意思に亀裂を作ったが、主人にそう言われたからには使う他にすべは無い。
精々、四振りのつるぎを腰に佩くに足る貫禄を付けなければと、イタカは決意を新たにした。
「さてイタカ。私はきみを十五年前タルパマーニャの元に送ったが、きみはこうして立派になって私のもとに還って来てくれた。きみはいち生涯を私の為に尽くしてくれるものだと信じている。私はそれに報いなければならない」
「ひとの失敗談で笑い転げてから一転、急に真面目な話を振らないでいただけますか? 悪い血でも飲みましたか?」
「し、辛辣……ッ!」
威厳も何もあったものでは無いが、シディアス公はイタカの太ももから起き上がったそばから崩れ落ちてしまう。
これでも本当に御年数百歳の開祖の一人なのだろうかと疑いたくなる気持ちも擡げたが、だらしなく開かれた口端からちらりと覗く鋭い牙が、イタカの不敬とも取れる考えを否定していた。
「わかったよ。では格好付けずに噛み砕いて言ってしまおうか。イタカ、家来になるならご褒美をあげよう。好きなお願いを言ってみたまえ」
「真面目な御主人が欲しいです」
「……厳しいことをおっしゃる」
「無理なら無理で構いません。何か別の機会に、別の願いを聞き届けていただけるなら」
「……じゃあ、それで」
実際のところ、十五年ぶりに出会ったと親しげに接されても、赤子の頃の記憶なんてものを何一つ覚えていないイタカからすれば、シディアス公のかなり親密に接せられてもこれといった感慨も湧いてこなかった。
イタカにとって、シディアス公はいわば遠く離れて暮らしていた親の様な存在だった。
突然欲しい物を聞かれても、何も思い浮かばないのは当然と呼べた。
「では、イタカ。そろそろ私の方の務めの時間が押してきているところだ。その務めの内容に関しては、パルタマーニャから聞いているかね?」
「御姉様からは茸が生えてくるんじゃないかって位、しつこく聞かされてまいりました。どうぞ、私の血をお吸いになられて、お務めに励んで頂けるなら幸いです」
「うむ。では……戴こうか」
するすると、慣れた手付きでシディアス公はイタカの上着を脱がせ、彼女の首筋を二度ほど愛しそうに擦りあげた後、その鋭く尖った牙を突き立ててちゅうちゅうとイタカの血液を啜り上げ始めた。
シディアス公、そして他二人を含む島主たちは、人では無かった。
俗にいう、吸血鬼と呼ばれる生き物だった。
シディアス公はイタカの血液を実に美味しそうに嚥下する。
イタカはただ黙ってそれを受け入れる。親と子に似た関係が、逆転でもしてしまったかのようにシディアス公を抱き、受け入れる。
吸血鬼に血を吸われるという行為は、急激な失血による倦怠感と不快感、そしてそれらを凌駕する幸福感に包まれて、通常艶っぽい吐息が漏れるものなのだが、巨大な第三の腕を携えるイタカからすると、ほんのちょっぴり血を失った程度なので何の感慨も浮かんでこなかった。
強いて挙げるとするならば、別に首筋以外から吸ってくれたほうが助かるなあという、至って能率的な感想くらいのものだった。
やがて、ひとしきり吸い終えるとシディアス公はその唇をイタカの首筋から離す。
唾液に混じった血液が、赤い架け橋を作って二人の肉体を繋ぐが、イタカは手速く乾し茸で作った薄紙で拭い取って、着位も早々に改めた。
シディアス公はその様子を苦笑いを浮かべながら眺めていた。
「そういう態度はパルタマーニャにそっくりだね、イタカ。情緒が無くて少し傷つくなあ」
「お時間が無いと仰られたのはシディアス様の方ですよね? お務めが押しているのですから、諦めてください」
「やれやれ。手厳しい」
シディアス公は身を起こすと、長椅子と対になる様に設えられた木製の机に乗せられていた手持ち呼び鈴を取り、手首の撓りを効かせて三度鐘の音を鳴らした。
すると木製の扉の向こうから三名の女中が部屋を訪れ、シディアス公の直ぐ側までつかつかと足音を鳴らして進み寄る。
「ではイタカ。謁見の時間はこれでお終いだ。誰かあの子を新しく用意した部屋にまで送り届けてあげなさい。おやすみ、イタカ。次のお役目まで、じっくりと休息したまえ」
「いと優しき島主のシディアス様。イタカはこれにて下がります。どうか、良き御聖務を」
挨拶をすませると、イタカは女中の一人に連れられて部屋の外へと足を運ぶ。
こつこつと、木製の床の足音が耳によく響き渡る。
この部屋、シディアス公の寝所の調度品は、半数以上が木製素材で設えられている。
茸類に覆われたこの島へシディアス公ら島主たちと、ここまで逃げ延びてきた人間たちが利用した移民船をばらして作り上げたのが、これら島主たちへ捧げられた家具の数々であった。
殆どの植物が茸に蝕まれ絶滅してしまったこの島では、真の贅沢品とも呼べる代物である。
例えミストレスたちであっても、島主の寝所以外では見ることも触れることも適わない代物が、そこにあった。
寝所から出る際、イタカはそっと指先で壁をなぞる。
何百年と使い込まれてきた年季入りの木材の感触は、岩肌や竹炭壁、菌類に薄く覆われた土壁とは違う独特の手触りを手のひらに残していた。
寝所から出ると、女中はうんともすんとも言わず無言のままイタカを部屋まで先導して案内する。
イタカは随分と寡黙な人だなと思いつつも、特に話しかける必要も話題もないので同じく沈黙を保ったまま、女中の後ろに付き従った。
外はすぐに石畳と変わり、それもすぐに砂利道に変わる。
この茸に覆われた島ではむき出しの石ですら珍しい方で、シディアス公の館では手入れを怠われていない事がイタカにも理解できた。
長い通路を渡ると扉が三枚続き、そこをくぐると大きな広間に出る。
天井は高く、仄かに薄暗い。ひんやりと冷たい空気が漂っていて、水の香りが強い。
それもそのはず、シディアス公の館は地底湖に作られているからだ。
石灰に覆われたこの場所では、よほど手入れを怠らなければ、茸が群生する事はない。
島に入植した過去の開拓民たちは、こういった何箇所かの非茸地帯を見つけ出し、どうにか生き延びる事に成功していたのだ。
ここシディアス公の館もまた、その最初期に形成された歴史ある開拓地の一つだった。
女中とイタカはその中を突き進む。
今彼女たち位置している場所は、シディアス公とミストレス、そして館そのものの世話をする女中たちの間だ。
茸の繁殖を万が一にも防ぐ為、そこら中に骨と革で設えた扉が置かれているのが特徴的だった。
イタカはもう何度目かも分からない扉をくぐり抜ける度に嫌な気分になったが、それもしょうがないなと諦めの境地であった。
何せ第三の腕が大きく長く太いので、一つくぐるのだけでも一苦労だ。
シディアス公の寝所に呼ばれる機会が出来る限り少なくあって欲しいものだと願いながら、地底の通路を長い時間をかけてやっとこさくぐり抜けた。
女中たちの間を抜ければ今度はミストレスの間だ。
先程よりも広く、明るく、そして何より地表に近い、ごく浅い部分に広がる生活空間だ。
ここはもう殆ど外と変わらない。油断するとすぐに茸が生えてくる危険性を孕んでいるが、逆に言えばその程度の茸量なら逆に食料として消費できる程度なので心配は要らない。
万が一にも侵食が深刻な状態に陥ろうとも、手早く協力して対処にあたれば問題なく処理できる程度なので、問題はなかった。
「あぁ~、イタちゃんだ~、おぉ~い! おぉぉ~~~い! いや、ちょっと無視しないでよぉ、イタちゃ~んっ!」
遠くで手を振りながらイタカを呼び止めるように話しかけてきたのは、初任務を共にこなしたミストレスの一人、ネウチだった。
彼女は相変わらず茸料理を両手に持った状態で、広間に置かれた骨細工の揺り椅子の上でその身をぶらぶら揺らしていた。
イタカはネウチが自分を呼んでいることにやっと気づくと、女中に手を向けて断りを入れ、彼女の下に駆け寄った。
「だれかと思えばネウチさんか。イタちゃんとか、聞きなれない呼ばれ方だったから、私の事だと気づかなかったよ」
「ちゃんと手を振って呼んだのに~! それと~、そこはネウチさんじゃなくて~ネっちゃんって呼んでよ~」
「スコちゃんイタちゃんネっちゃんか。それだとパーシさんはパーちゃんかな?」
「いやあの人は怒るから止めた方がいいよ。あ、この子は私が案内してあげるから~、お仕事に戻っていいですよぉ~」
ネウチの言葉に女中は一度頷くと、くるりと背を向け道を引き返していく。
結局最後まで一言も声を出さなかった態度に、イタカは感心とも呆れとも取れない表情で見送るが、ネウチに第三の腕をぐいと引っ張られたのを機に、視線を外しネウチへと向き直る。
ネウチは丁度、掴んだ腕を手のひらでぺちぺちと叩き始めたところだった。
「う~ん、やっぱり近くで見ると〜ひときわおっきいよねぇ~」
「触るのはいいけれど、無断で叩くのは辞めてほしいかな」
「あれぇ? ひょっとして痛かったの?」
「触覚以外は何も感じないからいいんだけど、あんまり叩かれると血行が良くなって真っ赤に染まるから、あんまり好きじゃないんだ」
「へぇ~。あ、ホントに赤くなってきちゃった。もう遅いや、ごめんねぇ~」
それでもぺちぺち叩きを止めないネウチの自由奔放さに若干辟易しながらも、イタカはさせるがままにしていた。
二人暮らしが長かった分他者との交流に飢えている為、イタカは気兼ねなく絡んでくる相手に弱かった。
少なくとも、遠巻きに自分の事を観察している他のミストレスたちよりは、ネウチに対して親近感を抱いていた。
「ふ〜ん、結構赤くなったけど、スコちゃんの触手程には色濃くならないんだね〜」
「流石に蛸類の触手よりも真っ赤にはならないかな。ところでネーちゃん、パーシさんは居ないんだね」
「あの人は〜また別のお仕事に行っちゃったよ〜。真面目だよね〜」
帰還してすぐさま別の任務とは勤勉な人だなあとイタカも思うが、特別だらしなさそうなネウチと同じ感想を抱いたと思うと、自分も不真面目なミストレスに思えてくるのが複雑なところだった。
何せネウチは今の格好の時点で、かなりだらしない。
食べかけだった茸は膝の上でころころとしている。
着衣はかなり乱れ気味で、袖留めは開いているし胸元はおおきく露わにしている。
ひざ掛け部分にはくしゃくしゃになった薄皮の手ぬぐい。おそらく谷間周りの汗でもふき取った跡なのだろうが、たたみもせずに置きっぱなしだ。
足元には脱いだ靴を置きっぱなしで、片方は引っくり返っている。
蒸れるのが嫌にしろ、もう少し他人の目は気にするべきじゃないかと、人付き合いの経験が乏しいイタカですら思うのだった。
少なくとも、イタカが覚えている限りの話ではあるが、御姉様と慕うパルタマーニャが同じ様な格好で居た記憶はどこにも無かった。
「あとね〜ずっと気になってたんだけどぉ〜、このおっきなお手手重そうだけど〜、まさか引きずって歩いてるのぉ〜?」
当然といえば当然と呼べる疑問をネウチは口にする。
背丈の二倍以上はありそうな腕を持つのにどうやって歩くことが出来るのか、自分の事で無ければ確かに問いかけただろうなと、イタカもその質問に同意した。
「いやいや、狭い洞窟何かをくぐり抜ける時以外は、引きずったりはしないよ。指先で歩くんだ。こんな風にね」
六本の指を忙しなくくねらせて、その場でぐるりと大きく円を描くように歩いてみせた。
ネウチは何とも言えない感嘆の声をあげながら、軽く拍手を打ち鳴らす。
「まるで芋虫の短〜い節足みたいだねぇ〜。ひょっとして〜何か乗っけたまま運んだりとかも〜できるんじゃない〜?」
「多分できるんじゃないかな? 何かで縛ってくくっておかないと落ちそうだけど」
「なるほどぉ〜……あ、イタちゃんちょっとちょっと、近寄って〜」
何事かとネウチの側に寄れば、彼女は椅子の上でおもむろに立ち上がり、イタカの第三の腕の上へと跨るように飛び移る。
手には何時の間にやら膝丈靴も携えていて、完全に乗り物扱いをするつもりだ。
「という訳で〜、イタちゃんの部屋まで案内するから〜このまま乗っけた状態でいこ〜ね〜」
「あー……まあ、別にいいけれど、落ちない様にだけは気を付けて欲しいところだね。あと、自分の部屋には自分の足で歩いて帰ってくれるよね?」
「大丈夫、大丈夫〜。この前私の二つ隣の部屋で〜、女中さんたちがお掃除したり家具運んだりとかしてたから〜、多分そこがイタちゃんの新しいお部屋だと思うんだ〜」
「多分とか思うとか、それはまた曖昧な」
「大丈夫大丈夫〜。それそれ、進め〜イタちゃ〜ん」
イタカはネウチを大腕に乗せたまま、通路をのしのしと進んでいく。
時折ネウチに道順を尋ねたり、通り過ぎざまに他のミストレスに好奇の目で見られたりしながらも、ネウチが教えてくれた空き部屋まで無事に到着することができた。
「あ〜面白かった! 乗っけてくれて〜ありがとうね〜イタちゃん。何か困ったことがあったらね〜話だけは聞いてあげるから〜いつでも遊びに来てね〜」
その様な別れの挨拶だけ済ませると、ネウチは素足のまま自分の部屋へと戻っていった。
靴ぐらい履けばいいのに、やっぱりぐうたらで面倒くさがりな人だなあとイタカはネウチの印象を上書きしながら、自分の部屋の扉を開く。
部屋の内装は簡素なものだった。
出入り口には武器置き棚。靴の手入れ一式が置かれた骨製の籠。
向かって左手には特大の茸布団。壁には服かけ、戸棚には替えの肌着に寝間着と平素服。
一通りの物が揃えられていて、イタカは大変満足してた。
服を脱ぎ、肌着姿で着替えもせずに、そのまま茸布団の上に身を投げる。
ぐにぐにとしたなんとも呼べない感触に包まれながら、首に残るシディアス公に血を吸われた跡を、指先でぼりぼりと引っ掻いた。
「なんだかなぁ……新しい記事生活とか、お務めとか、いまいち実感が湧かないね」
うつ伏せから横向きに位置を変えつつ、イタカは自らの第三の腕を、又の間から通しながら抱え込むように抱きしめる。
「十五を過ぎたらお役目に付け、とはずぅっと幼い頃から言われてたけど、現実感が無いなあ。まあ、全てを放り出して戻ったら、御姉様に殴り殺されそうだから、やるしかないんだろうけどね……」
もう一度だけ首筋に指を這わせ、空いた傷跡をなぞりながら目を瞑る。
次のお役目が与えられるまで、このままずっと眠っていたい。
そんなことを考えながら、イタカは意識をそっと手放した。