椎菜の日常①
モカの決心を聞いたその日の夜。
時刻は七時を少し回った頃。
いつものように、生徒達に退校を告げるアナウンスが流れ終え、数分後。
がらんとしたカフェオンライン部の部室の中に一人。椎菜がいた。
室内は、必要最低限、椎菜のいる空間にのみ付いている照明。それのせいもあり、寂しさが増幅されている。
姫乃達は、バスの時間もあるので、十五分前に帰った。
では、なぜ椎菜は帰らないかというと、言わずもがな、
「椎菜~! お待たせ~! さぁ、帰りましょ~!」
甘い声で叫びながら入ってきたのは、椎菜の姉であり、この学園の理事長である。
肩で息をしているのは、いつもの事なので椎菜は気にしない。神坂は、毎日。退校のアナウンスが流れると、理事長室から、部室まで全力ダッシュで椎菜を迎えに来る。
一刻も早く、椎菜成分を補充したくて、だ。それが会議中であっても……。
おそらく、今日も会議中を抜け出してきたのであろう、純黒のワイヤレスイヤホンと、付属のマイクを付けている。
今も現在進行中で、イヤホンの向こうで会議が進行中なのだろう。
その事を黙視すると、椎菜が純粋無垢な笑みで頷く。
「うん!」
あまりにもの眼福で、にやけ顔が収まらない神坂である。
神坂が、椎菜の車イスを押しながら、真っ赤に熟したさくらんぼめいた紅色のワンボックスカーへと向かっている。
その間も、神坂は時折真剣な声色で、会議に参加している。顔が気持ち悪いほどとろけているのが残念ではあるが……。
神坂は、ただわがままで帰って、あとの事は、知らぬ存ぜぬではない。帰ったあとも、しっかりと仕事をしているのだ。
その事もあり、神坂のこのわがままを職員たちは何ら文句は言わない。
しかも、だ。
神坂は、どこで仕入れたのか、各職員の家族事業も把握している。
結婚記念日を忘れている職員あれば、早く帰りなさいと言い、子供の誕生日があるのに、仕事に追われている職員あれば、やっとくから帰りなさいと言う。
そんな神坂だからこそ、この程度のわがままは許容範囲内である。
車に揺られること三十分。学園がある山の麓に存在するやや立派な一軒家についた。
そこが神坂の持ち家である。
神坂は、大手ベンチャー企業の『SMILEY』の役員から、理事長に付いている。
なので、それなりに蓄えはあるようで、まだ、三十前にも関わらず持ち家のローンは全て完済済み――というより、一括払いしたの――である。
そんな和風モダンな外観の二階建ての家は、職場が近いという理由で購入したため、ほんの数ヵ月前まで、段差ありありのバリアフリーのバの字もなかった。
それを椎菜と一緒に住むということで、急いで改修工事をした。
といっても、椎菜も車イスを降りてもある程度は四つん這いで移動できるので、廊下とキッチン、お風呂、リビングをバリアフリーにしただけで、私室等はそのままにした。
そんな家に帰ってくるや否や、神坂は手早く夕食作りに取りかかる。
「椎菜、悪いけどお米炊いてくれる?」
「はーい」
椎菜は料理がからっきしではある。あるが、お米は炊ける。あと、コーヒーも今練習中だが、淹れられる。
つまり、才能はあるが、今までやる機会がなかっただけなのだ。
丁寧にお米を洗い、釜を膝に起き、炊飯器の前へと移動。その後、スイッチを入れる。
「じゃー、お風呂入ってくるねー」
この流れがルーティーンである。
* * *
「フンフンフーン♪」
椎菜が鼻歌を奏でながら、体を洗っている。
さすがに風呂椅子に座ると、バランスが取れないので、床に座る椎菜。
タイルにそのままは冷たいので、マットを強いてその上に椎菜は座っている。
そんな、椎菜が洗っていると、風呂場の扉が空いた。
同時に声。
「さ、背中ながすわ! 椎菜!」
「ええ、良いよ~」
「まぁまぁ、遠慮しないで」
ルンルン気分の神坂に対し、椎菜はどこかふてくされているような表情を浮かべている。
「だってー、姉ちゃん。手で洗うんだもん。くすぐったいよ」
口を尖らせながら、椎菜が不満を漏らす。
神坂は、手にボディーソープを直に出し、泡立てながら、最もらしい理由を付け加える。
「あら、知らない? 肌に一番良いのは素手で洗うことなのよ」
「うん、知ってるよ……。でも……くすぐったいものはくす、ニャ!?」
言葉の途中で、神坂がヌメヌメの手を背中に、当ててきたので、こそばゆくて、可愛らしい驚声に変わった。
「ね、姉ちゃん、っ! やめんっ、てってばぁっ!」
椎菜の口から、こそばゆさのあまり時折、橋声に近い声が漏れる。
本当は大笑いをして、こそばゆさのままに、暴れたい。
けれども、純粋な椎菜は、疲れている姉が、良かれと思って、背中を洗ってくれている。それなのに、暴れまわるのは、その好意を無下にすることだ。
故に、抵抗せずに全身をひくつかせながら、神坂の手荒いに耐えているのだ。
そんな、椎菜の純心さを利用して、邪な神坂は、自分の心を満たしている。
鼻の下を伸ばしながら、椎菜の背中を洗い続けている神坂は、そのことを椎菜に悟らせないように、神坂は真剣な声色で会話を挟む。
「ふふ。やっぱり、ユゥもそうだけど、武の才能を持っているひとは、全身が敏感ね。風の震動を肌で感じるからかしらね?」
「んっ、しらぁ、なっいぃッ! あんっ、そこはぁ、びん、かぁ! んだからぁ!!! んっ!」
「だぁめ。車イスは肩甲骨回りに汗が溜まりやすんだからね。ちゃんと、洗わないと痒くなるんだからね」
これは事実であり、真剣な表情を浮かべ、答える。先程までは、スケベなシスコンモードだったが、この時だけは、しっかりとした姉を思わせる表情となる。
「ちゃんとぉ、洗ってるからぁぁっ!!」
「洗ってないじゃない。ほら、垢がこんなに溜まってる!」
「ごめんってばぁぁん。次からちゃんと洗うからぁぁぁ!」
「ダメよ観念しなさい!」
なされるがままの椎菜。
終わる頃には、椎菜は虫の息となり、座っていることがままならない状態になっていた。
「はい! 終了!」
と、お湯を掛けて、椎菜の全身の泡を流す神坂。
ヒューヒューと、息を荒くするのみで、もう体を動かす元気も残っていない。
そんな椎菜に、神坂はあることを問う。
「ねぇ? 椎菜。桐谷さんと東京へ遊びに行くのは楽しかった?」
「うん!」
嘘偽りのない屈託のない笑みで答える椎菜の様子を見て、神坂はなにか迷いが吹っ切れたかのような笑みを浮かべた。