姫乃の日常①
商店街から西に数キロ行ったところにあるマンション。
最近は廃れて来ていた――現在はブイ字回復したが――とはいえ、楓市は商店街を中心に発展来たという歴史がある。
そのため、大きな駅もその側。大きな駅が近ければ、当然、大型ショッピングモールの『メイプルアーホルン』も、その近くに建っている。
発展した土地から遠ければ、遠いほど当然、物価も下がる。
その上、このマンションは築二十年と、古い。
それらの点を考慮して、3LDKのこの部屋の家賃は、五万と割安。
そこに住んでいるのは、他でもなく白雪家だ。
白雪家は父――光――が、会社の係長。母――秋穂――は、専業主婦をしながら、時折イベント系のバイトをしている。ごく普通の家庭だ。
生活は豊かではないものの、贅沢をしなければ普通に暮らせる。
そんな白雪家だが、王子の稼ぎも入れると、ワンランクもツーランクも良い暮らしが、可能ではある。
なのに、なぜそうしないのか。それは、一重に子供に養われたくないという親の意地。自分の稼いだお金は、好きに使いなさいという親の愛情からくるものである。
その事に、王子は若干の不満を持っているものの、親の意地だと言われては、強く言えない。
姫乃も姫乃で、弟に借りを作りたくないらしく、文句を言うことはない。
現に、姫乃の学費は王子が出しているが、面目上、姫乃が王子に無期限無利子で、借りているということになっている。
そんな、少々面倒な家庭事情な白雪家。
面倒なのはこれだけではない。
コーヒー豆やら、つくる道具やらが、きれいに整頓され、所狭しと並べてある部屋。
コーヒーの芳ばしい香りが染み付いている部屋。
家具はコーヒー用品以外、質素なベッドと、その横にクローゼットが一つあるのみで、あとは全てにコーヒー関連のものが置かれている。
そんな中、部屋の主はというと、勉強机という名の、第一コーヒー製造所に片腕を預けながら、優雅にコーヒーを飲んでいる。
この部屋には、第一から、第三まで、コーヒー製造所がある。
第一は。この勉強机の上。見るからに理科の実験用具みたいなものがおいてある。ソレはサイフォンというコーヒーを淹れるための器具。
サイフォン式は、正直淹れるのが面倒くさい。今まで自分が飲む時以外で淹れたことがない。完全に趣味の、コーヒー製造所である。
第二は、ベッドの横にあるドレッサーのドリップ式が二つ。
ふと、飲みたくなったり、客に振る舞ったり、新しいブレンドの開発する時に主に使うのが、この製造所。
そして、第三。部屋の入り口にあるカウンターラックの上にあるバリスタ四台。
入り口に近いバリスタから、お気に入りブレンド一、二、賞味期限がやばくなったコーヒー豆のコーヒー。そして、三紅用。
今すぐコーヒーが飲みたいとの禁断症状が出たとき、どうしても気分が乗らない時、客に出す、気が短い家族の客に出す、家族の仕事場に持っていかす、学校に持っていき三紅に処理させる。等々様々な使い方があるこの第三製造所。
そんな部屋で姫乃が一人、寛いでいると、扉を軽くノック音が聞こえてきた。
「姉貴、いるか?」
「おう、いるぜ?」
「入っても良いか?」
「あぁ……」
と、紳士的な対応を見せる王子が入ってくる。
王子は爽やかなイケメンという字がよく似合う青年な印象だ。
寝癖をそのままにしたかのような、茶髪のボサボサヘアー。縁なしの錦色フレームのメガネは、誕生日に三紅から贈られたものだ。
汗染みで袖や襟が黒ずんだ白のトレーナーに、ジャージ。それらからは、男の臭いが漂ってきている。
そんな、完全にオフモードの《ファンタジーノーツ》というアイドルグループが一人、スノーこと王子。
王子は部屋に入ると、すぐさま怒声。
「姉貴、また勝手に俺の服を着て!!」
「ぁん? 別にいいじゃねぇか。減るもんじゃあるねぇし」
姫乃ののらりくらりとした、返答に王子はそりゃそうだけどよ……と、どこか煮え切らない態度を取る。
そんな王子を見て、姫乃は不敵な笑みを浮かべからかう。
「それともなにか? お前。オレがお前の服を着る姿を見て、発情してんの?」
「してねぇよ!!」
頬を赤らめ、声を荒げる王子。思春期真っ只中な十四歳の弟の反応が面白く、からかわずにはいられない姫乃である。
悪魔めいた不敵な笑いの姫乃。
「ったく、可愛げのない姉貴だ」
姫乃に聞こえない大きさで悪態を付き、鬱憤を発散させる。
「ん? なんか言ったか?」
「なんでとねぇよ! それより……」
勢いで誤魔化しにかかる王子。しかし、次の瞬間には、そういえばと姫乃に口を挟まれてしまう。その結果、会話の主導権を握られることとなる。
「そういえば、お前の大好きな大好きな三紅。オレと性格も体格も何もかも違うよな?」
「バッ!」
不意討ちで頭が真っ白になる王子。顔が茹でダコのように真っ赤に染まる。
姫乃はさらにわざとらしく、あーそうかと、手を叩き畳み掛ける。
「オレが反面教師で、王子の性癖を決定付けたんだな。うんうん」
「人の好きな人を性格とかいうな!!」
王子の怒声もどこを吹く風。と言わんばかりにあれ? と畳み掛ける姫乃。
「ちっこくて、明るくて、気配りも出来て、可愛いって、その上、幼児体型って、椎菜もじゃね? おー君、椎菜もドストライクゾーンだと思いますが、どんな感じ?」
「おー君って呼ぶな! 鳥肌が立つわ! そして、最近の一言余計だかんな! 三紅姉と椎菜さんに失礼だろが!? それに、お前自分の友人を弟に売るな!?」
王子が一通りツッコミ終えたあと、
「オレの弟がお前じゃなきゃこんなこと言わねえよ、安心しろ」
と、姫乃が邪悪な笑いを混じりに答える。
ジト目で見ながら、王子はすんなりと答えた。王子の心の扉の鍵は、姫乃の猛攻により、完全に壊れてしまっていたのである。
故に、本音で語ったのだ。
「確かに、姉貴の今言ったのは俺の好きな要素だよ」
「お、ついにロリコンって自白したか」
ケケッと笑い締め括る姫乃。
「幼児体型以外な! 確かに、椎菜さんは俺のドストライクゾーンだよ」
「おっと、おー君、二兎追うものは一兎も得ずだぜ」
からかい混じりに、忠告する姫乃に、王子は本日何度目かの怒声を浴びせる。
「話を最後まで聞こうな!! くそ姉貴!」
「おっと、行けね。すまんすまん」
悪びれることのない姫乃の謝罪を、王子はため息と共に流し、言葉を続ける。
「椎菜さんは、確かにな。けど、その……」
言葉を濁す王子。
「けど、なんだ? まさか、椎菜が車イスだからって言い出すんじゃねぇだろな? 姉ちゃん、そんな子に育てたつもりはねぇぞ」
軽口で言う姫乃だが、冷ややかな殺気が込められていた。
「おう、安心しろ。そんなつまらない理由じゃねぇし、姉貴に育てられたつもりもねぇから」
「そうか?」
「あぁ、そうだ」
姫乃がまたしても邪悪に笑う。
「じゃぁ、なんだ?」
充分に間を開け、ゴニョゴニョと呟くように、答える。
「その、羞恥心が足りねぇんだよ。体育祭の時に、汗かいたからって、ロッカールームに来て、その。着替えだしたんだぞ!? 俺がいるのに!! あれで、姉貴と被ったんだよ!」
一瞬の静寂。
あー、とうなり声を出した後に姫乃の口から出た言葉は。
「うん、ドンマイ!」