椎菜、進化
二千三十九年六月二十四日の金曜日。
早朝。
姫乃と椎菜はいつも通り、コーヒー豆の選別のトレーニングをしていた。
初めて一週間も経たない内に、姫乃は三回に一粒、絶対に使ってはいけない豆が混じってしまうまでに、上達していた。
一回に選別する豆は、約三百粒~四百粒程度なので、単純計算したら、千粒に一個入っているということになる。
ここまで、姫乃が急成長出来たのは、姫乃の長年培って来た知識、生まれ持ってきた、ポテンシャルの高さ、たゆまぬ努力の成果である。
否。それだけではない。
「お前がいなけりゃ、ここまでマスターするのに、どれだけ掛かったことか。ありがとな」
姫乃が、肩を跳ねさせながら、屈託のない笑みを浮かべ、言う。
それに、純粋無垢な笑みで応じる椎菜。
「どういたしまして! これで、ボクはお役ごめんだね!」
「何言ってるんだ? まだ、一粒残っているじゃねぇか。それをなくすまで、お前の役目は終わらせねぇぞ?」
そうと、昔から決まっているとでも言うように、姫乃は当たり前の如く、言葉を発した。むしろ、椎菜の発言に驚いたと言わんばかりの表情を浮かべている。
「へ? だって、姫乃、もうほぼほぼ完璧じゃん? ブレンドコーヒーも、来週から、試飲用として出すんでしょ? なら、ボク、もういらないよね?」
嫌みでなく、自己評価の低さから来る椎菜の問いに、姫乃は自嘲の笑みを浮かべる。
やや、俯き様に声。
「ほぼ、な……。だが、完璧じゃねぇ、千分の一の確率じゃ、まだまだでかすぎる。せめて、万分の一程度にまで、抑えないと売りもんとして、提供する気にはなんねぇよ。ま、万分の一でも、足りねぇぐらいだがな」
「そっか。そうだよね。どんなに確率が低かろうが、満足してはならない。常に向上心を持たないと、行けない。今の自分に満足していると、その先に待っているのは停滞という名の退化のみ、だもんね……」
椎菜の昔の偉人の言葉を、なぞらえたような発言が終わり数秒後。その言葉をようやく噛み砕き飲み込んだ、姫乃の苦笑。
「……。そうかもな」
「うん!」
「に、しても、さっきの言葉、誰かの受け売りか?」
「そうだよ! トセル・ペンドラゴンさんが言った言葉何だって!」
「いや、誰だよ!?」
「えっとね。詩野姉ぇと、ユゥ姉の知り合い?」
――因みにであるが、椎菜は、基本的に、二番目の姉のことは、『ユゥ姉』と固定であるも、一番上の姉。つまり、この学園の理事長である神坂のことは、『詩野姉ぇ』やら、『姉ちゃん』、『お姉ちゃん』等と定まっていない。
明確な理由は、本人曰く、ないが、生理的なものらしい――
「な、なるほどな……」
「ボクも会ったことないんだよね。アハハ……」
「そっか……」
「そうそう! あとさ、九年ぐらい前までボクに姉がいること知らなかったんだよね!」
「親御さんと、仲悪いのですか? 理事長」
そう聞くのは、今まで黙々と料理の下ごしらえをしていたモカである。
本来は、姫乃もモカも他人の家事業には、突っ込みはしないのだが、今回に至っては仕方ない。
神坂は椎菜の七つ上の姉で、十年前と言えば、椎菜と同じく、高校生ぐらいだ。
それなのに、椎菜は、二人の姉がいることは知らなかった。つまり、一度も会ったことないということになる。
そうすると、自ずと少なくとも、椎菜が産まれてからの七年間は、両親に会っていないということになる。
隠れて会っていたことも考えられるが、そうする理由が思い当たらない。
と、すれば、モカのいう通り、両親と、神坂達は仲が悪いのか。否、そうすると、椎菜を神坂に預けるとはあり得ないのだ。
と、言った具合で、いくら仮説を立てど、辻褄が合わない。
故に、この場合、単なる興味本意で聞いた訳ではなく、純粋な疑問が気付くと言葉が口から出てしまっていた。と言ったほうが良いだろう。
現に、モカはその事に気が付き、慌てて、「別に気まずければ答えなくても良いですから!」と付け加えた。
これに、椎菜はんー、と唸り声を上げた後にいつもと変わらない口調で語り出す。
「仲悪かった訳ではなかったかな? 詩野姉ぇ達が帰ってきた時、ボクもその場にいたんだけど、お母さんも、お父さんも嬉しそうに泣いていたし、それこそ、まるでもう会えないと、思っていたように……」
「理由は、聞いたのです?」
「聞いたよ? でも、本当の理由は教えてくれなかったかな? 笑っちゃうよね。七年間神隠しにあって、別世界で神様達やその世界の人達と共に、悪神を倒しただなんて……。異世界もののラノベかって、話」
椎菜が珍しくフッと、苦笑を漏らす。と、それが伝播したかのように、姫乃の苦笑。
「……。あ、あながち、あの二人だと、否定しきれねぇ……」
「人の姉ちゃん達を何だと思ってるのさ!?」
叫んだ椎菜の頭に手をやり、乱暴に揺すりながら姫乃。
「ま、どんな人にも触れられたくない過去が、あるってことだ。オレは、理事長の人間らしいところが聞けて、安心したぜ。理事長ももう一人の姉も、形しか人間らしいとこなかったからな。お前もそう思うだろ?」
姫乃は同意を求めるように、モカに目線を向ける。しかし、モカの表情はどこか不服そうで……。
「そういう、ファンタジーものの設定は、読者が放れると思います。この話はVRと、学園ものの融合した話し何ですから!」
よし、無視するか。
うわー、モカ、三紅に毒されてるなー。
姫乃と椎菜は、そんなことを思いながら、ほぼ同時に、向き合う。
「よし、何か礼すっか」
「えー、良いよー、そんなの」
「あれ!? 錦織さんに教わったんですが、無視されました!?」
「ま、礼と言ってもあれだ。ちょっと実験をしたくてな……」
「実験?」
「無視しないでくださいよー!」
「あぁそうだ。椎菜。お前、ラテアートって興味ねぇか?」
姫乃が悪い顔をしながら、そのように聞いてきた。
眼を輝かせ、頷く椎菜。
この二人の目論見が、成功をおさめることは、言うまでもない。