謎の筋肉痛
二千三十九年五月十八日の水曜日。
早朝。姫乃はいつものように、スーパーで買い出しをした荷物を置きに、部室へと向かった。
「ったく、昨日の特訓のせいでへんな所が筋肉痛だぜ……。一応モカからのギブアップ宣言がなかったから食材買っては来たが、今日店やれんのか? 今日はあいつが来るっていうのに――」
例のごとく、両手が塞がっているので肩と脚で扉を開ける姫乃。
「――おーす。モカー。守晴ー。それからついでに椎菜ー。食材仕入れ……。って、どうした?」
部室に入ると、そこにはいつも通りに厨房で下ごしらえをしているモカとコーヒー豆の選別をしている椎菜。
と、ここまではいつも通りの日常が写し出されているが、守晴だけが、床を這うように移動していた。
「あー、なんか全身筋肉痛なんだって……」
椎菜が苦笑まじりに答えた。
「ま、まじか……。そんな状態で店のホール出来るか?」
「面目ない。修行が足りなかった」
「いや、良いって。オレも筋肉痛だしな。それはともかくなんでモカは大丈夫なんだよ?」
ジト目を流し言う姫乃。
「私は慣れているからなんでしょう」
「そういうもんなのか……?」
訝しむ姫乃に椎菜は苦笑しながら、あたかも医学的な根拠があるかのようにな言い方で説明を開始。本当はそんな根拠などどこにもない。
「あー、それはね。ほらどんなものでもそうだけど、初めてやるものって、やり方が分からずに力が無駄に入っちゃうじゃんか。筋肉が付いている人のほうがそれだけ筋肉に負荷がかかりやすいんだ。で、車椅子と普通に生活してるのとでは、使う筋肉がまるで違うんだよね。だから、守晴は筋肉痛度合いが人一倍酷いんじゃないのかな?」
「ふーん、なるほどな……。でも、なんで全身なんだ?」
「昨日のこと忘れたの? あの硬い足置きを踏み割った人が二人いたってこと」
いたずら混じりな笑みを浮かべ、告げた椎菜の言葉により、昨日の事を思い返すこと数秒の間。
そして、姫乃とモカは同時に微笑。
「あぁ、そういやいたな。前で地べたに座り込んでいる闘いバカともう一人」
「そうですね。いましたね」
椎菜はいたずら混じりな笑声と共に説明を開始。
「うん。そう。車椅子を使う人にも、全身を使って漕ぐ人もいるんだよね。そういう人は足に筋力が異様につきやすいんだ」
「あぁ、なるほどな。それで守晴は全身が筋肉痛な訳か……」
「ですね。白雪姫さんも筋肉痛なのも頷けます。さすがは守晴さんのライバルですね」
「おい。マジでやめろ。それ……」
姫乃がややげんなりとしたように言うと、守晴が食いぎみで弱々しい言葉。
「さすがは、我が友……」
「だから、お前はへんなルビをいれるのやめろ!! 今やっつけんぞ!」
「それはちょっと困るな」
「まぁ、それはおいといてだな。今日のホールは三紅に頑張って貰うか……」
姫乃がため息混じりに締め括ると、モカは頬に人差し指を当て首を傾げる。
「でも、錦織さんも筋肉痛なのでは?」
ないないと手を顔の前で仰ぐ姫乃。
「あいつ、体も子供だけど、体力の回復も子供だからな。筋肉痛になったことみたことねぇんだ」
そこで扉が勢いよく空いた。
「誰が子供だって!」
そこには、いつも通りの三紅の姿があった。それを振り替えることなく姫乃が苦笑。
「な?」
* * *
その日の放課後。
例のごとく、大食漢こと西園寺しおり襲来。
「さぁ、勝負ですわよ! しい……」
西園寺はあっさりと、椎菜に敗れることとなる。
「負けましたわ~! こうなったらやけ食いですわよ~!!」
「先輩、先輩、一応言っておきますが、今日うち人少ないんっすよ。だから、お手柔らかに頼んます」
「あら、そうでしたの? わかりましたわ!」
後輩のためなら、と言わんばかりに力強く胸を叩き、快く承諾。
これに、姫乃は「あざっす」と、軽い口調で感謝を口にするも、内心では無駄だということが分かっていた。
西園寺の食欲と、闘争心は一度火が点くと、誰にも止められないのだから。
「ナポリタン二つと、フォンダンショコラ三つ、カルボナーラ三つ、フルーツケーキ五つ追加ですわ!!」
忙しなくちょこまか動く三紅はヘルプを求める。
「姫乃! 手伝ってよ!?」
「悪。オレも筋肉痛なんだわ。ま。頑張れ」
申し訳なさの微塵も感じない謝罪と励ましの言葉に、突っ込みを入れる。
「いやいや、軽い筋肉痛だよね!? じゃ、椎菜」
「あー、手伝いたいのは山々だけど、ボクが手伝ったら……」
椎菜が困り顔で言葉を濁す。
そう、椎菜が手伝ったら、天使のようにいじらしい笑顔を運んでくる椎菜に持ってきて貰いたくて荒れる。
現に、今も椎菜のホールスタッフになる。という言葉で反応したものが数人。
スマホを片手に耳を研ぎ澄ましている。
彼女らは、椎菜ファンクラブの信者達で、いつ椎菜がホールに入っても良いように、待機しているのだ。
そして、三紅が一度、椎菜に手伝ってと言えば、信者達が他のファンクラブ会員達に連絡して、連絡を受けた会員達は部活をほっぽりだし、こちらへ向かってくる。
そうなれば、椎菜を入れた意味がなくなるほど忙しくなる。
そのことを一瞬で脳内に巡らした三紅は、一度ぶるりと身体を震わせ、元気のない笑みで、撤回する。
「ううん。やっぱり良いよ……」
それを聞いた椎菜信者達は、即座にスマホをしまい、もとの空気に戻って行く。
モカの声。
「錦織さん。すみません。手伝いたいのですが料理に手一杯なものでして……」
「ううん。良いよ。守晴が入る前はこれが当たり前だったし……」
後ろめたさを感じるモカに三紅は、頭を軽く横に振りながら答えた。
ここで、ゲーミングチェアに座っていた守晴が動いた。
「やっぱり手伝うか……?」
立ち上がろうとするも脚に力が入らなく、その場でしゃがみこむ。
「しや、いいよ!? 守晴は休んでいて!?」
しゃがみこんだまま、動けないでいる守晴を見兼ねた姫乃は、呆れ声混じりに近付く。
「あーあ、何やってんだよ、ほら肩貸せ」
「かたじけない」
守晴を座り直せる。
その最中、三紅は例のごとく泣きの一声。
「甘那せんぱーい!! 早く戻ってきてくださーい!!」
* * *
一方、その頃。
雪那は帰宅路をいつも通り、歩いていた。
だが、どこかその足はぎこちない。
すると、後ろから走って来る幼い兄弟。
「あんちゃん。待ってよー!!」
「へへっ! やなこった!」
兄は後ろを着いてくる弟の方に夢中で前を歩いている雪那に気が付いていない。
「あんちゃん。まえ! まえ!!」
と、慌てる弟の声に兄はようやく前を向くも、時既に遅かった。
「へ……? ワワッ!」
ブレーキを掛けようとするも、半秒遅く雪那にぶつかってしまった兄。
そんなことでは普段ならびくともしない体幹の持ち主の雪那だが、今日ばかりは違った。
「ひゃ!?」
そんな普段のクールな態度と見た目からは想像できないほどの可愛い声を上げ、その場にへたりこむ雪那。
これが不味かった。
守晴と同様、全身過度な筋肉痛になっていた雪那はこの後、イタズラ心が爆発した兄弟に全身をくまなくツンツンされ、虫の息となったことは言うまでもない。
「もういい加減にしてぇーー!!」