第4話 アンドバニア
アントバニア資料館。そこには本や文書など主に文字にて記された資料が大量に所蔵されている。
資料館の一階では有名な文書を展示しているほか、一般の来館者が閲覧可能な書庫が開設されている。二階は物語や図鑑などの書籍が集められ、視覚や好奇心に訴える作品が揃えられている。
資料館への日頃の来館者はさほど多くはない。ハイブリッドの暮らしの中では、小難しい資料や本といった文学的な分野はあまり好まれないようだった。どちらかというと、有名人が使用していた武器や城塞を完成させた時の工事道具といった展示物を目で見て楽しめる博物館の方へ人々は足を運ぶ傾向が強い。
キビットは資料館へ入ると、上り階段の裏側に回った。そこには小さな下り階段が存在したが、一本の鎖が掛けられ
【関係者以外は立ち入り禁止】と表記されたプレートがぶら下がっている。キビットは慣れた足取りで鎖をまたぎ、薄暗い階段を下りていった。
この地下階には資料館の関係者たちの部屋、そしてまだ整理や解読のされていない大量の文書が眠っている書庫が存在する。
キビットは地下の廊下を進み、最奥の部屋へと入った。そこがキビットの祖父の代から一家で占有し続けている研究室なのだ。
身体を酷使した訳でもないのに疲れていた。椅子に腰を下ろしたキビットは、机の引き出しから一冊の古い本を取り出した。表紙には【和栄記】と記されている。
和栄記、それはハイブリッドがまだハイブリッドとは呼ばれていなかった時代にハイブリッドの始祖ともいえる人々が書き残した史書である。
アントバニア地下の書庫の奥で埋もれていたこの和栄記を発見したのは、若かりし頃のキビットの祖父であった。現代のものとは似ても似つかぬ難解な文字で記された和栄記を読むには、まずは古代文字の解析から始めなければならなかった。
祖父はこの書を自室に持ち帰り、以降はその解析をライフワークとした。そのことを知る者は祖父と共に働いていた身近な者に限られ、時を経てその事実すら忘れられていった。そもそも何が書かれているのかも解らないこの書の価値など誰にも判断はできず、たまに仲間から思い出したように書のことを尋ねられても、祖父は決まって「解析は難航している」と答えたという。
そんな和栄記を開くこともなく、キビットはぼんやりと表紙を見つめている。読みたいと思って手に取った訳ではなかった。更に言えば、読む必要もなかった。キビットはこの和栄記に記される内容を一言一句も間違わないほど正確に憶えてしまっているからだった。
そう、キビットは和栄記に記される内容を知っている。それは、他人には「解析は難航している」と言っていた祖父が既に古代文字の解析を完了し、この本に記された内容を息子そして孫へと伝えていたからである。
和栄記は、とある人間の男性と魔人の女性による恋物語から始まる。
種族を越えて恋に落ちた二人は、周囲から数々の反対や迫害を受けて流れてゆき、やがて人里離れた場所に根を下ろして暮らしていた。
世の中は広い。そんな二人以外にも、人間や魔人の中には種を越えて結ばれた同じような境遇の人は存在した。やがて噂を聞きつけて、彼ら彼女らがその地へと集まって来たのだ。
そこが村と呼べる程度にまで人が増えた頃、彼らは一つの理想を掲げた。それは『人間と魔人が手を取り合い、仲良く暮らせる世界』。
そうして月日が流れたある時、彼らはそれまで暮らしてきた地を捨てて移動した。自分たちが掲げた理想を実現するための第一歩として。目指すは、人間が住む地と魔人の住む地の境だった。
その地を『アンドバニア』と名付けた。そこには、全ての種族をつなぐ町という願いが込められていたという。
人間と魔人の間に割って入るように、世界の真ん中に忽然と表れたアンドバニア。人と魔が共同で暮らすこの町に対して、魔人の側からの過剰な排除の動きは無かった。無関心であったというのが正確なところであろう。
魔人は同じ魔人であっても種族の枠を越えて連携することがあまりない。あくまで同族が生活の単位であって、他族は全て他人とみなす者が多いのだ。そんな魔人にとっては人間も多種族の一つにすぎず、魔人や人間という生物としての区別すら意識していなかった。
むしろ排他的なのは人間の方で、彼らは人間以外の種族を全て「魔人」と呼んで差別する。人間は個の能力においては殆どの魔人に劣るのだが、異様なまでのな結束力でその劣勢を補っていた。
新たに世に現れたアンドバニアに向けて真っ先に要求を突き付けてきたのも、やはり人間であった。
人間は戦力分析に長けていて、強大なものには素直に怯え、下手に出てでも生き残る道を探る。逆に、相手が自分たちより弱いと見れば、途端に上から目線で圧力をかけてくる。生まれたばかりのアンドバニアを人間たちは弱いと判断したのだ。
人間は要求した。それは、アンドバニアを人間の傘下の町としてのみ、その存在を認めるというものだった。もしもアンドバニアがこの要求を拒否すれば、大軍をもって攻め滅ぼすとも伝えてきた。
人間は臆病なのだ。アンドバニアというよく分からないものを放置しておくことが不安なのだ。
住民たちの意見は割れ、会議は紛糾したが、最終的にアンドバニアはこの要求を了承した。理想を実現するためには、この町と住民が存続することが最優先であり、この段階で希望の火を消されるわけにはいかない。人間側の立場からでもこの町の位置からであれば、魔人との友好のために働けると考えたのである。
これが和栄記に記された内容である。それから永い永い月日が流れた。無常にも建町の理想は忘れ去られ、その町はアントバニアと呼ばれるようになっていた。そこに住む人々は魔人を圧倒する力を求めてハイブリッドと名乗っている。今や町は、魔人領への前線基地となっていた。