十六 『すべての条件』
陽陰学園が許可している最終下校時刻は、十九時だった。
文化祭の準備が本格化してくると、残ってやらなければならない仕事も増えていく。学級委員長の千里と生徒会副会長の結希は十九時まで残ることが増えていき、妖怪退治からは自然と遠ざかっていった。
そのことが事前にわかっていた千里はセイリュウとビャッコに謝ったが、学業や人としての生活も大切にしてほしいと願う二人は嫌な顔をしなかった。かといって、過剰に喜ぶこともなかった。
『来れなくなるのはちょっとだけ寂しいけど、永遠の別れじゃないもん! 大丈夫だよ!』
『楽しんでください、千里。高校二年生の文化祭は一生に一度しかないんですから』
そんな優しい言葉をかけてくれた二人のことが好きだった。
「ふぅ……」
教室に残っていた千里は息を吐き、他のクラスメイトたちの様子を確認する。多くのクラスメイトたちの協力のおかげでほとんどの出し物は完成間近となっており、人生で初めて文化祭当日が楽しみだと心から思った。
「白院さんって生徒会室かなー?」
「そうじゃねー? 他もいないし」
「んー、一回見てもらおうかと思ったけど生徒会室なら遠いしいいや。明日見てもらおー」
「おけー。帰ろー」
クラスメイトたちは帰る準備を始めていく。一人で残るつもりはなかった千里も帰る準備を始めるが、一度辺りを見回して結希がいないことを確認し、生徒会室に結希の気配があることを確認し、時刻が十九時であることも確認し、すべての条件が揃ったことに気づいて顔には出さずに喜んだ。
上手くいけば、下駄箱か校門で偶然を装って会うことができるはずだ。その時結希が一人だったらありがたいが、結希は多分、一人ではない。
今まで他人の目があるところで結希に声をかけることを躊躇っていた千里は、生徒会役員たちの顔を思い浮かべて体が緊張し始めたことを感じる。だが、ヒナギクも亜紅里も風丸も、友人のように千里に接してくれている千里の大切なクラスメイトだ。その中にいる結希に声をかけることは、大勢のクラスメイトたちの前で声をかけることよりも難しいことではない。
「よし」
意を決して廊下に出た。生徒たちが夜まで残っているとはいえ、つけられている電気は少ない。薄暗い中を夜目が利く千里はたった一人で歩いていく。
「あっ、千里!」
「ぎゃっ?!」
「えっ、神城さん、急に何……どうしたの……」
「あっ、いえすみません! なんでもないんですちょっと幽霊が見えた気がして!」
突然声をかけられたことに対して驚いて叫んでしまったが、当然のように、千里の近くにいたクラスメイトたちは驚いた様子で千里を見ていた。
「いやなんでもなくないじゃん! こわー……気をつけて帰ろーねー」
「そ、そうですね! さようなら!」
「んー、また明日ねー」
「ばいばーい」
手を振って下駄箱へと向かうクラスメイトたちを見送り、千里は恐る恐る空き教室から出てきたビャッコへと視線を移す。ビャッコは、ぽかんとした表情で千里を見下ろしていた。
「わ、わざとですか……?」
周りに怪しまれないように小声で尋ねる。
「えっ、違うよ!?」
だが、ビャッコはいつも通りの声量で答えた。
「千里に会いたかったんだよー、許してー!」
「それは……えっと、許しますけど」
抱きついてイヤイヤと首を横に振ったビャッコは、その言葉だけで「ほんとっ?」と嬉しそうな笑顔を見せてくる。ビャッコのそんな表情を見ていると、本当に許してしまいそうになるのは何故だろう。
それがビャッコの魅力の一つだった。
「本当に私に会いに来ただけですか?」
「そうだよ? ついでに結希や紅葉や火影の様子を見よーって思って」
結希──そしてビャッコの主である紅葉や紅葉の従者らしい火影という少女を〝ついで〟にしてしまうくらいに、千里はビャッコにとっての特別になれているのだろうか。ビャッコがそこまで千里に懐いてくれている理由はわからなかったが、ビャッコがここにいるならば話は早い。
「じゃあ行きましょう! 今すぐに!」
「ぐえっ?! 千里首が絞まるぅ〜!」
ビャッコの首根っこを掴んで千里は駆ける。そうでもしなければ、既に校門に向かっている結希には間に合わない。
「千里千里! ちょっと待って! 瞬間移動しようよ俺たち式神なんだし!」
「あっ、確かにそうですね!」
ちょうど靴を履き替えていた千里はビャッコと手を繋ぎ、結希と生徒会役員たちの死角を着地ポイントに決める。
「よし! 行こー!」
「えっ?!」
だが、ビャッコが着地ポイントに決めたのは結希たちが横切っている最中の木の上だった。
「どうしてぇえ〜!」
木の上に着地するが、慣れているビャッコは千里よりも先に地面に下りようとする。手を繋いでいた千里はそのまま地面に落下して、「ぎゃー?!」という風丸の悲鳴で慌てて起き上がった。
「誰誰何?! え?! せっちゃん?! 生きてる?! てかなんで上から?!」
ビャッコが見えていない風丸からは、千里が木の上から落ちてきたように見えるのだろう。
ビャッコが見えているのは目を丸くさせて驚く陰陽師の結希と、眉間に皺を寄せているヒナギク、そして風丸の反応を笑う亜紅里だけだった。
「大丈夫? 怪我は?」
真っ先にそう声をかけてくれたのは、結希の幼馴染みらしい妖目明日菜だった。ヒナギク、亜紅里、風丸、そしてもう一人の生徒会役員と同じ《十八名家》である彼女は、医者を輩出している妖目家の嫡女で。医者のたまごとしてそれが真っ先に気になったのだろう、千里は慌てて「大丈夫です!」と返し、「良かった」と安堵する芽童神八千代には申し訳なく思う。
「みんな、先に帰っててくれ」
結希は、ビャッコと並んで正座している千里を見てすぐにそう言った。
「あ、おう、わかったけど……」
「…………」
何故、と思っているのは風丸と明日菜のみのようだった。結希の幼馴染みであり親友でありビャッコが見えていない二人にとって、千里を見ただけでそう言った結希の行動が異様に映ったのだろう。
「あ、ありがとうございます……」
「何かあったのか?」
結希は、少しだけ不安そうな表情をしていた。家が全焼したせいで義姉妹たちと離れて暮らしている今、結希を支えているものは何もないのだろうか──そう思うほどだった。
「紅葉と火影が仲直りしたかなーって」
「してない。ていうか俺は千里に聞いてるんだよ」
結希の心に何かしらの変化があったのだろうか。少し前から千里のことを名前で呼ぶようになった結希と千里の心の距離は、少しずつ近くなっていると思っている。
だが、ビャッコの用件をくだらない用だと思って切り捨てたかのような態度を取る結希を前にすると、どうしても言いづらくなってしまった。本当はこんな大袈裟な登場をするつもりがなかった分、余計に。
「えっと……その、何かあったわけじゃないんです。今度……というかいつか、百妖君と一緒に妖怪退治がしたいな、って思って」
結希の隣に立てているとは思えない。実力も、結希の実力の足元にも及ばないだろう。
それでも共に戦いたい。足手纏いにならない程度にセイリュウとビャッコに鍛えてもらったという自負はあるから。
「ごめん、無理」
即答した結希の瞳は、残酷なほどに千里のことを捉えている。表情は不安そうなそれから固まっていたが、結希の決意は簡単には揺らがないことが見て取れた。
四月の頃と比べたらよく話すようになったこと。名前で呼ばれるようになったこと。しばらく互いに妖怪退治をしていなかったこと。〝すべての条件〟が揃っていたから、勇気を出して提案したのに──。
「ごめん」
結希はもう一度だけ謝って去っていく。嫌われたのかと思うほどに、なんの温もりもなく暗闇の中へと姿を消す。
視線が下がった。よく話すようになったことも。名前で呼ばれるようになったことも。しばらく互いに妖怪退治をしていなかったことも真実だ。だが、それで仲良くなれたと思っていたのは千里だけだったようで──結希は千里と仲良くなれたなんて、これっぽっちも思っていなかったらしい。
「…………」
心臓がうるさいくらいに自分の存在を主張していた。恥ずかしい、どうしよう、失敗してしまった、何故こんなことになるのだろう。
千里と結希は普通の高校生として話をすることができるのに、妖怪という歯車が一つ追加されると途端に狂ってしまうのは──何故。何故、ヒナギクと亜紅里は歯車が狂うことなく結希の傍にいることが許されているのだろう。
ヒナギクと亜紅里から直接聞いたわけではないが、二人は半妖だ。
『昨日、何があったんですか? 半妖と陰陽師から襲撃されたって? 私以外にも半妖がいるんですか?』
『そりゃいるよ。紅葉の従者とか、結希の新しい家族とかが半妖だから……十人以上はいるのかな?』
四ヶ月前の五月に千里がそう尋ねた時、ビャッコはあまりにも普通そうな表情でこう答えた。ヒナギクと亜紅里は紅葉の従者でも結希の新しい家族でも──いや、亜紅里は一ヶ月前に戸籍が変わっている。〝百妖亜紅里〟と名乗り始め、ビャッコが見えているとわかった時点で亜紅里が半妖ではないと言うのは苦しいのだ。
ヒナギクにはビャッコが見えているという情報しかないが、体育祭があった日に抜け出したのはヒナギクと結希と亜紅里だ。
あの日、校舎の壁を駆け上がっていたのはヒナギクか亜紅里のどちらかだろう。ヒナギクと亜紅里、そして千里の間にある違いは血の中に紛れている妖怪だろうか。
式神の半妖である千里は、正式に主と契約しなければその真の力を発揮することができない。それを発揮させることができるのは間宮家の陰陽師である結希だけ。
既に真の力を発揮することができていて、結希に力を借りる必要がまったくないヒナギクと亜紅里のことが羨ましくて、もう一度だけ、結希に断られた現実に打ち拉がれる。
目の前に広がっているのは高い壁だ。千里一人の力で這い上がるのは難しい壁だった。それを乗り越えた先に見える景色はなんなのだろう。それを知らない千里に一緒に戦いたいと言う資格はなかったのかもしれない。
落ち込む千里の傍にいたのは、ビャッコだった。




