二 『灰色の傷』
翌日の四月八日は金曜日で、陽陰学園の入学式が行われる日だった。
魘されるほど辛い目に遭っても決して学校を休まなかった千里はこの日だけ大事をとって休むことを選択し、妖目総合病院から松葉杖をついて出る。あれほどの怪我を負ったのに、痛み止めのおかげか歩いていてもまったく苦痛を感じなかった。
午前を珠李のつき添いに使い、午後を自らのリハビリに使った千里は、今日も黄昏時の空を見上げる。
妖怪が見えるのはやはり昨日だけの話ではなかった。今日も、そして多分明日も、母親が生きた世界を生きていくのだろう。
行かなければならないと強く思った。求められていなくても、そう思っていた。
しばらく敷地内の庭を歩き、付近にある森の中をじっと見つめる。その中に妖怪の姿を確認したわけではなかったが、体が恐怖を覚えていた。
暑いわけではないのにじわりじわりと汗が吹き出す。それでも体は震えておらず、誰も見ていないことを確認して一歩を踏み出す。
敷地内もそうだったが、その場所はあまりにも静かだった。鳥や虫の鳴き声も、葉と葉が擦れる音さえも、聞こえない。
踏んだ土の感触は昨日と少しだけ違っていた。時々木の根を踏んでしまい、よろけそうになってなんとか持ち直す。鼻腔を擽る木々の匂いが好きだ。木漏れ日も、それによって色が変わる自分の髪も、好きだ。
それでも、世界で一番好きだと思ったものには会えない。また危ない目に遭わないと彼は来てくれないのだろうか──
「きゃあっ?!」
──瞬間にまた木の根を踏んだ。バランスを崩して正面に倒れ込む。痛い、掌を擦り剥いてしまった。血が出てしまったらその匂いに誘われて妖怪がここまで来るのだろうか。
視線を地面に伏せたまま、勇気を出して上げることができなかった。土に触れ、握り締め、それを固める。自分はまだ生きている。松葉杖を手探りで見つけて引き寄せる。このままどうやって立ち上がればいいのかは、わからなかった。
「千里?」
目頭がじんわりと熱くなった頃、名前を呼ばれて驚いて。慌てて視線を上げると、橙色の空を背負った白髪の少年と目が合った。
「え……あ……?」
「あっ! やっぱり千里だ! セイリュウー! ゲンブー! 千里だよ千里! 千里来たよー!」
包帯を巻きつけた両腕を元気よく振って、少年は千里が知る母親の仲間の名前を呼ぶ。彼の名前はビャッコだろうか。消去法ではあったが、セイリュウの髪色が鮮やかな海のような青色だったように、彼の髪色は濁りのない白色だ。間違いないと確信する。
見た目の年齢は中学生くらいだが、自分よりも遥かに年上なのだろう。年上には見えないほどに元気に駆けている彼の後ろ姿は子供っぽく、胸元に巻かれていた包帯も袖のない羽織も真っ白で奇跡だと思う。砂塵の中に突っ込んでもまったく汚れていないのは何故なのか──そこまで考えて、彼が行く先に家が建っていることに気がついた。
日本家屋だ。それも大きな。陽陰町ではよくある建物だが、入ることを禁じられている森の中に建っているのは珍しい。
まじまじと、森の中にぽっかりと開いた空間に建っているそれを見つめた。妖目総合病院からそれほど歩いていないはずだが、この家が建っているようには見えなかったのに。一体どこから現れたのだろうか。
「あれー? セイリュウー? ゲンブー? 行っちゃったのー? タイミング悪いなぁ」
「あ、あの……」
「あれ?! 千里?! なんでまだそこにいるの?! 早くおいでよ……あっ足か! 待っててねすぐに担ぐから!」
「え?!」
すぐに戻ってきたビャッコは、千里と松葉杖を抱き上げても嫌な顔一つしなかった。愛らしいまろ眉は彼の幼さを強調しており、紫と金の目力が強いオッドアイに惹きつけられる。
「よし! レッツゴー!」
「えっ、えぇぇえ?!」
抱き上げられたせいで、先ほどよりも顔が近くにあることを認識してしまった。
自分よりも幼く見えるが、セイリュウがそうだったようにビャッコも美形で直視ができない。自分でも驚くくらいに緊張しているのがよくわかった。男性どころか人間にさえ慣れていないのだ、無理はない、無理はない、これは自然なこと。
「はい! 到着!」
大雑把な性格に見えたが、縁側に優しく下ろされた。ビャッコは履いていた草履を脱いで家に上がり、「お茶どこだったかなぁ」と奥の部屋に消えていく。
「…………」
言葉が出てこなかった。ビャッコがあまりにも自然に自分のことを受け入れたから、気持ちがついて行かなかった。
「ごめーん! お茶どこにあるのかわかんないや!」
「えっいや! お構いなく!」
「えぇー、でもせっかく千里が来てくれたんだからさぁー」
「いえいえ本当にいいんです! それよりもここはどこですか?! なんで森の中に家があるんですか?!」
「ここは式神の家って呼ばれてる俺たちの家だよ!」
「し、式神の家……?」
「そう! 式神の家! 式神だけが暮らす家! だから森の中にあって、こんな風に結界に囲まれてるんだよねー」
「結界……」
口を閉ざす。辺りをぐるりと見回すと、確かに結界のような透明の壁があるように見えた。
「ふぃ〜、づがれだ〜」
気怠そうな声。セイリュウのものでも、ビャッコのものでもない声。
振り返ると、真っ黒な青年が先ほどまでいなかった居間に立っていた。
「あっ! ゲンブ! おかえりー、千里来てるよ!」
「お〜、ただい……」
黒い前髪から覗く、鋭くくすんだ灰色の瞳が千里を捉える。一瞬の間。美形の自然な微笑みが凍りつく。
「はあああああああああああぁ?!?!」
耳を劈くような絶叫だった。ゲンブは千里を震える指で差して、「なんでてめぇがここにいんだよ!」と抗議する。
てめぇ──。
人からそう呼ばれたのは初めてだったが、そう呼ばれたということは、千里のことを知っているということだった。
傷ついたが、自分が思っているよりも状況が悪いわけではない。わなわなと震える右手は肘まである黒手袋に覆われており、左手は指先から肩にかけてとぐろを巻いた蛇のような紫色の刺青が目立つ。一つにくくって背後で流している艶やかな黒髪も本人の震えによって小刻みに動いており、どこからどう見ても恐ろしい外見だったが小動物のように見えてしまって仕方がなかった。
「え? ……え、なんでだろ?」
「知らねーのかよ!」
袖がないへそ出しの甚平は瞳と同じ灰色で、下はサルエルパンツのようにゆったりとした老竹色のズボンを履いている。
セイリュウと同じように二十代くらいの年に見えるゲンブは牙のような歯を剥き出しにして千里を睨んだ。
「帰れ!」
そう言われるとは思っていなかった。
「ここはてめぇなんかが来るとこじゃねぇんだよ! さっさと行け! ほら立……なんだよその足!」
ゲンブがいる位置からは千里の体に隠されていて見えなかった足が、ゲンブが移動したことにより見えるようになってしまったらしい。包帯が巻かれたそれを再び震える指で差し、ゲンブは美しい顔を思い切り歪める。
その顔は、どこか苦しそうな──辛くて辛くて仕方がないとでも言うような表情だった。
「あれ? 聞いてなかったの?」
「聞いてねぇって何がだよ!」
「昨日、千里が妖怪に襲われかけたんだよ。そこをセイリュウが助けたらしくて……」
「全然助かってねぇじゃねぇか! クソッ! あの野郎どこにいる!」
「スザクと一緒にどっか行ったよー。なんか不味いことになってるみたい」
「はぁ?! なんでそれも俺に言わねーんだよ! 妖怪大量発生してんのか?! なら俺も行く!」
「んー、違う違う。なんか学校の結界が破られたとかなんとか言ってて、結希が行くことになったんだってさ」
「なんでだよ! 他にもいるだろ!」
ビャッコとゲンブがなんの話をしているのかはわからなかったが、結希という名には聞き覚えがある。だが、同一人物ではないだろう。そんなことよりも気になる名前がもう一つある。
「いないみたいだよ。俺たち全員関係ないから話が来なかったんだけど、町内の陰陽師のほとんどが外に出てるんだって」
「だっっっっからなんで俺にはそういう話を言わねぇんだよ! 言えよ!」
「ゲンブが大事な時にふらふらどっか行ってるのがダメなんじゃーん。俺たちのせいじゃないよー?」
「うるせぇ! ここで暇するか妖怪ぶっ殺すかだったらぶっ殺す選ぶに決まってるだろ!」
苛立ちのままにゲンブがビャッコの頭を殴る。かなり痛そうな音が響いたが、千里の隣に立っていたビャッコはまったく痛がらなかった。
「だっ、大丈夫ですか?!」
立てない千里はビャッコの頭を見ることができない。下から心配することしかできなくて、優しいセイリュウやビャッコとは正反対のゲンブを見上げる。
「え? 大丈夫だよ?」
殴られたビャッコはけろっとしていた。殴ったゲンブもけろっとしていた。
「この程度で痛がってたら式神なんかできねーよ」
またゲンブと目が合う。ゲンブの瞳の奥があまりにも冷たくて、心臓がきゅっと縮む感覚がする。
馬鹿にしているわけではなさそうだった。だが、それは暗に足を怪我した程度で立ち上がれない千里を式神として認めていないと言っているようで、苦しかった。
「…………わ、私」
嫌われている。そんな気がする。
「私は、半分妖怪です」
それでも、仲間だと認めてほしかった。
「お父さんとお母さんの間に生まれてきた子供です」
松葉杖はもういらない。数針縫った足に力を込めて、手を貸そうとするビャッコを拒み立ち上がる。
「……ッ、ッ! ……うっ!」
先ほどのゲンブの指よりも震えていた。だが、倒れない。自分は自分の足で立てている。
視線を上げると、ゲンブが瞳を見開いていた。
「私、痛くないです」
「……は? や、意味わかんねぇんだけど、なんだよてめぇ、なんで立って……おい、座れよ」
動揺しているようだ。それでもゲンブの気持ちはわかる。自分も、立とうと思わなければ一生立たなかっただろうから。
「私、戦えます!」
立てるのならば、戦うこともできるはずだ。誰よりも妖怪と戦っているらしいゲンブから視線を逸らさずに言葉を選ぶ。
「私も戦います! 私、ずっとどうして自分は生まれてきたんだろうって思ってて、だから、戦ってみなさんの役に立つことができたら幸せなんです!」
一歩歩くと、ゲンブが一歩引いた。
「お願いします! 私を式神にしてください!」
全力で告げると、ゲンブが眉間に皺を寄せる。
「……帰れ」
「えっ」
「帰れって言ってんだよ! てめぇなんか必要ねぇ、全部俺がぶっ殺してぶっ壊す! もう二度と来るんじゃねぇ!」
「──ッ!」
言葉の刃が全身に刺さる。またゲンブに傷をつけられた、悲しくて、苦しくて、息が止まる。
溢れ出してきた涙の止め方は知らなかった。どんなに化け物と罵られても人前で涙を流さなかった自分だから──情けないくらいに戸惑ってしまう。
「帰れ」
その言葉だけは母親の仲間から聞きたくなかった。