二十 『ゴールテープ』
セイリュウを手放して駆けた千里は、セイリュウへと向かう妖怪を見つめていた。どの妖怪も禍々しい気配を纏っている。恐ろしい姿を持っていて、鳥肌が立つ。
それでも進むことを止めなかった。セイリュウがいてくれるという安心感だけではない。結希が戦っているという事実、そして自分が半分妖怪であるという自覚が千里を戦場へと向かわせる。妖怪を斬り続けるセイリュウの動きは、きちんと目で追えていた。
「あっ、セイリュウさん!」
声を上げた千里の視界に入ったのは陽陰学園で、セイリュウも気づいていたのか速度を落とす。
何故陽陰学園の中には妖怪がいないのだろう。そう思って、千里は陽陰学園を覆う膜に気がついた。
あれはなんだろう。出た時はまったく気がつかなかったが、妖怪が傍にいる今妙に目に焼きついてしまう。
「結界ですよ」
セイリュウは千里の視線に気づいたらしく、そう告げる。
「結界……」
「陰陽師様が張ったものです。あれがある限りあの中に妖怪が入ることはありません」
陰陽師は、偉大だ。それを眺めながら心から思う。
「……凄いですね」
「空を」
「え?」
「もっと凄いものが見れますよ」
セイリュウに言われて空に視線を移す。そこには──巨大すぎて気がつかなかった結界が陽陰町全体を覆っていた。
「えッ?!」
「妖怪が存在しているのはこの町だけです。あの結界のおかげでね」
千里にとって、生まれ育った陽陰町は自分の世界のすべてだ。この町の外なんて考えたことがない。出ようと思ったこともない。そんな世界をあの結界は守ってくれている。
「あの結界の外に出たら、妖怪はいないんですね」
言い換えたらそういうことだった。
「そうですね」
この町の外で生まれていたら。この町の外に出ていたら──。そう考えたら、数々の偶然が重なって今ここに立っているのだと思えた。この魂がこの体の中に導かれて良かった。そう思った。
妖怪を斬り倒したセイリュウに導かれて陽陰学園の中に入る。結界を越えても千里の体に異変はなく、振り向いて──結界の外側に立つセイリュウと視線を交わらせる。
「セイリュウさん……」
「ここから先は自分の足で行けるでしょう?」
「……行けます」
「行きなさい」
微笑んで千里を見送るその優しさに焦がれていた。
「ありがとうございます!」
微笑みに応え、千里は走る。グラウンドから聞こえてくる音はまだ賑やかで、走る速度を上げていく。
足が縺れて転けそうになっても転けなかった。少し前の千里だったら確実に転けていたはずなのに、転けなかった。
──ビャッコの教えが生きている。
グラウンドに飛び出した千里はなんの競技を行っているのかを確認し、自分のクラスの観戦席へと急ぐ。人にぶつからないように速度を落として、謝りながら人混みを掻き分けて、見えてきた金色の髪に叫ぶ。
「小倉君ッ!」
すぐに届いたらしい自分の声に導かれて風丸が振り返った。
「せっちゃん!」
その驚いた顔と、直後の笑顔が──自分の居場所はここにもあるのだと思わせてくれた。
「おぐ、小倉君……!」
駆け出し、両手を大きく広げる風丸の目の前で足を止める。
「飛びついてこないッ!」
「当たり前じゃん」
「何勘違いしてんの?」
「ばーか」
そんな風に風丸を弄るクラスメイトたちは、千里のことを待っていたわけではないだろう。いてもいなくても同じだと思っていただろう。
それでも、学級委員として──学級委員長として、全うしなければならない責務がある。
まったく乱れなかった呼吸を整えることもなく、千里は不安そうに視線をさ迷わせる風丸に向かってこう告げた。
「百妖君も白院さんも阿狐さんもすぐに来ます」
千里は信じていた。だから、風丸にも信じてほしかった。
「せっちゃん……わかった」
頷いた風丸は不安を拭い、別の学年の競技を観戦しているクラスメイトを眺める。
「この中にさ」
誰に話しかけているのか一瞬だけわからなかったが、風丸の声に耳を傾ける。
「あいつらがいたら良かったなって……思うんだ」
クラスメイトからも、同じ学年の生徒からも、そして他の学年の生徒や教師からも愛されている風丸が望む相手はやはりあの三人らしい。どれほどの愛を注いでも、あの三人──いや、生徒会の五人の方が風丸にとっては大切なのだと知る。
「私も……」
同じだと言うのは烏滸がましかったが、千里もあの三人のことが大切だった。遠足が終わっても当たり前のように話しかけてくれる風丸を含めた彼らのことが大切だった。
「あいつらに誇れるように頑張ろーぜ」
心も風丸と同じだった。
「はい」
頷き、放送席から聞こえてくるアナウンスに耳を傾ける。
「行きましょう」
千里が風丸にそう言う前から、クラスメイトたちは立ち上がって集合場所へと足を向ける。各々好きな速度で歩いているが、風丸と千里は誰よりも先に着くように早足で歩いた。
この瞬間に始まったのは一年生の全員リレーだった。グラウンドに入場した一年生の中の第一走者はスタートラインに立ち、始まりの合図を待っている。
その次に始まる二年生の全員リレーに間に合わなければ、出場しなければならない競技はもうなくなる。三年生の全員リレーが終われば、体育祭も終わってしまう。
本当にあと少しだった。風丸が不安に思うのも無理はないくらい、残された時間は少なかった。
「お前らー! 走る順番に並べー!」
次々と集まってくるクラスメイトたちに指示を出し、風丸は「絶対勝つぞー!」と拳を上げる。指示を出すことは千里にだってできるが、そうやってクラスメイトを鼓舞することはできなかった。
いや、違う。まだ終わっていないのだから、鼓舞することは何度だってできる。
「頑張りましょう! 勝てば優勝もできます! 優勝しましょう!」
「そうだそうだ! 頑張るぞー! 勝つぞー!」
クラスメイトたちは笑っていたが、風丸と同じく拳を上げた。誰も風丸の言葉を本気で受け取っていなかったが、口だけでも一致団結する。瞬間、人混みの中から心踊る気配がした。
「あっ、お前ら! おっせーよ、どこで何してた!」
振り返ると、結希が走っていた。その後ろにはヒナギクと亜紅里がいる。待ち焦がれていた三人がいれば、出席していた全員が揃う。
ほっと息を吐いた。風丸の言葉は怒っているように見えたが、風丸も安心しているのかその雰囲気は柔らかいものだった。
「悪かったな、風丸」
「その程度で済むと思ってんのかよバカ! お前ら、勝っても負けてもクラスメイトにアイス一本くらいは奢れよな!」
「それは……」
「はっはーん。アイス一本とはやっすい男ですなぁ、ぐっちー? ま、あたしは合点承知之助だけどね!」
結希とヒナギクと戦っていた亜紅里はいつも通りの表情で笑っていた。その笑顔はあまりにも綺麗な笑顔だったが、そんな彼女が何故結希と戦っていたのかはわからなかった。
「ほんと、それくらいしてくれないとマジで困るからな!」
風丸は吐くだけ吐き出して列の中に入っていく。
結希に視線を移すと、亜紅里が結希に向かって何かを囁いていた。結希が言葉を返したが、互いに何を言っているのかわからない。そうして亜紅里も列の中に入っていった。
千里も結希とヒナギクに倣って列の中に入っていく。軽めの発泡音がしたかと思えば、同時に響いたのは一年の勝敗結果だった。
勝ったのは青組で──自分たち赤組ではなかった。
唾を飲み込んでグラウンドに入場する。緊張する。だが、千里はもう今までの千里ではない。
再びの発砲音。始まった二年生の全員リレーで第一走者が走り出す。結希と風丸とヒナギクと亜紅里の出番は最後の方だった。
出番が早い千里はラインに立ち、バトンを待つ。赤組は六組の中で三番目で、一番目との距離はそれほど離れていない。
受け取ったバトンを落とさずに持って走った。一番目を抜かすことは簡単にできたが、「えっ?!」「あの人早!」という声が聞こえてきた瞬間に速度が乱れる。
「神城さん頑張れー!」
遠くの方から声が聞こえてきた。結希の声でも風丸の声でも──ヒナギクや亜紅里の声でもない。クラスメイトたちの声だった。
「……ッ!」
人ならざる力を簡単に出してしまったが、それが希望になるのなら千里はこのまま突っ走る。バトンを渡してすぐに離れた千里は、既に走り終わったクラスメイトたちに称えられて頬を染めた。
だが、またすぐに順位が落ちていく。いつの間にか最下位になっていた。だが、次の走者は亜紅里だ。千里と同じ半妖であろう亜紅里はバトンを受け取り、最下位から一気に五人抜いて一位に勝ち上がる。そのままヒナギクにバトンを渡して膝から崩れ落ちた。
「阿狐さん!」
驚くが、競走路の反対側にいる亜紅里には手が届かない。他のクラスメイトたちがすぐに助けてなんとかなったが、亜紅里はまったく起き上がらなかった。
ヒナギクは亜紅里の意志を継いで全力で走っている。亜紅里と変わらないほどの速さで一位を保ち、結希に渡す。だが、結希は今までの疲労が蓄積していたのか──アンカーの風丸に渡す前に抜かれてしまった。
風丸だって遅い方ではない。順位を一位まで上げた風丸は一番にゴールテープを切って、雄叫びを上げ──バトンを空高くまで投げた。




