一 『母の遺言』
ロビーにいた妖目総合病院の関係者に運ばれて足の治療を受けた千里は、車椅子を使って院内を移動する。高いところにあるものがほとんど見えなくなってしまったが、話を聞いた看護師たちが配慮してくれたのだろう。
車椅子に座っていても視界に入ったのは、入院している者の名前が書かれたカードだった。
セロテープで貼られたカードに書かれた名前を確認する。神城珠李。間違いない。この世でただ一人しかいない自分の父親の名だ。
時間をかけて扉を開けた。近道をしようとしたせいで余計な時間がかかってしまったが、やっと、会いたくて仕方がなかった父親に会える。
突き進んでカーテンを引っ張り、ベッドに横たわる父親を視認した。目が合った。自分のラベンダー色の瞳と大きく異なる刈安色の鮮やかな瞳が見開かれる。
「お父さんっ!」
治療を受けている最中に聞かされた珠李の様子は、千里の予想を裏切るものだった。
「せっ、千里?!」
包帯を巻かれただけの珠李は慌てて起き上がろうとして顔を顰める。足だけを考慮したら千里の方が重傷かもしれない。車に轢かれた珠李は何故か、全身を打撲しただけで済んでいた。
「もう! そんなに重傷じゃないならあんな電話しないでよ!」
「いや、事故に遭ったんだから電話くらいしてもいいだろ!」
「違う! してもいいの! してもいいけど今にも死にそうな感じで電話するのはやめてほしいの! 出るじゃない元気な声!」
「違う! あの時はもう死ぬかと思ってたんだって!」
「じゃあなんでその程度の怪我で済んでるのよ! 自分の怪我くらいちゃんとわかっててよばか〜!」
「ごめんごめんっ、痛いから殴るなって!」
「もうっ! 私はまだ怒ってるからね!」
「痛った……全治三ヶ月に伸びたな絶対……」
全身を擦る珠李を見ても、申し訳ないとは思わなかった。学校が終わって教室を出た瞬間の千里に直接電話をかけ、今にも死にそうな声で遺言を遺そうとした珠李の方が悪いのだ。
「で? 千里は? 大丈夫だったのかその怪我……痛かっただろ……」
だが、心から千里の身を心配しているその姿を見ていると──これ以上叱ることはできなかった。
「……痛かったし、怖かったよ」
答えると、珠李の表情が険しいものに変わる。
「何があったんだ」
娘の仇を討とうとしているのだろうか。そんな珠李を見ていると、セイリュウが言っていたことは間違いではないのだと改めて思うことができる。
『それでも、貴方の両親にとって貴方は奇跡。世界中が貴方の敵でも、貴方は両親に愛されて生まれてきた──幸福の子です』
十六年生きてきた人生の中で珠李から愛されていないと思ったことは一度もないが、それは珠李が千里ただ一人を愛していたからで。母親や弟か妹がいたら何かが変わっていたのだろうか、そう思いながら言葉を選んだ。
「私のこの、髪の色」
窓の外に視線を移す。真っ赤な夕日が陽陰町のすべてを照らしており、空にも、大地にも、数々の妖怪がいることが確認できる。
今までまったく見えなかったのに、見えるようになってしまった。まるで、封印が解かれたような──そんな気分を味わって、すべてがパステルピンク色になった自分の髪を確かめるように撫でる。
「それで……いじめられたのか」
確信を持っているような言い方だったが、千里がいじめられる理由はいつだってそれだった。髪や瞳の色が他の人と違うだけでは何も言われない。色が変わるからおかしいと言われ続けていたこの髪を誇ったことは一度もなかったが、今ならばわかる。
「ううん。違うの。これってさ、もしかしてお母さんの色だったのかなって」
瞳を閉じてすぐに浮かび上がったのは、露草色の美しい長髪だった。菜の花色の、吸い込まれそうな美しい瞳だった。
「…………」
珠李はいつまで経っても無言を貫く。何故、そう思って珠李の表情を確認すると、珠李はぽかんと口を開けて呆けていた。
「お父さん」
娘からそれを聞かれる日が来るとは思っていなかったのだろう。刈安色の瞳は潤み、唇は引き結ばれる。
「お父さん」
「そうだよ」
無言は肯定だった。千里はほっと息を吐き、髪を束ねていたゴムを引っ張る。
はらりと視界に入った横髪は、甘すぎる恋のようなパステルピンク色だった。
「目の色も?」
「そうだよ。千里のすべてはお母さんに似てる」
「そうなんだ」
「そう……千里のお母さんはとても綺麗な人だったんだよ」
なんとなくわかる気がする。千里の瞼の裏に焼きついたのはあの青年だ。一目見たら恋焦がれてしまいそうなあの人の仲間なら、想像を絶するほどの美女だったのだろう。
「ねぇ、お父さん」
瞬間に珠李の体が強ばった。十六年の人生で一度も母親のことについて聞いたことのない千里が話を終わらせようとしないのだ。その先の言葉を想像したのだろう。
珠李は、千里が聞かないならと今まで一度も母親の話をしなかった。だから、母親が生きているのかも死んでいるのかもわからない人生を生きていた。
生きていたらいつか会える、そう思っていたのは子供の頃の話で。千里はもう、母親に関することは何も求めていない。求めていないから、珠李が安心するように笑みを浮かべる。
「私ね、セイリュウさんに会ったよ」
珠李はまばたき一つしなかった。セイリュウと何度も口の中で呟いて、噛み砕いて、飲み込んで。
「すごく綺麗な人だった」
そしてずっと、千里の恋のようなパステルピンク色の髪を見つめていた。
「ほ、本当に?」
「うん。セイリュウさんが助けてくれたからこの程度の怪我で済んだんだよ」
「なっ?! 千里まさかっ、森の中に入ったのか?!」
「入ったよ。早く行かないとお父さんの死に目に会えないと思ったから」
「えっあっ……ごめん」
「うん。そこは私も反省してる」
「何か言ってたか? セイリュウ……」
「うん。私のことと、お母さんと、お父さんのこと」
かつてセイリュウと何かがあったのだろうか。どこか気まずそうな珠李は俯き、「なんて?」と問う。
「セイリュウさんが私を取り出してくれて、お母さんが私に名前をつけてくれて、私が、半分妖怪で……お母さんが亡くなってること、とか」
珠李はすべてを知っていた。その、今にも泣き出してしまいそうな表情がすべてを物語っていた。
「本当にセイリュウがそんなことを言ったのか?」
「私が言わせたというか……怒ったというか……」
上手く言葉にすることができない。あの時の自分は正常でなかったと自覚しているから恥ずかしくなって、セイリュウには申し訳ないことをしたと思う。
いつか謝りに行かなければ。そして、礼を言わなければ。その二つの理由があったら、セイリュウは会いに行くことを許してくれるだろうか。
「そっか。意外と千里に甘いんだな、あの人」
笑みを零した珠李は懐かしそうで、二人が旧知の仲であることを知る。
「ねぇ、私のお母さんってどんな人だったの? セイリュウさんのことも教えてよ」
身を乗り出したかったが、車椅子に座っているからやめる。
「え……」
「教えてよ。式神のこととか」
「……そんなところまで話したんだな、セイリュウ」
「それくらい私が怖い顔してたんだよ、多分」
あまり認めたくなかったが、珠李がそこまで驚くならば明らかに自分の方がおかしかったのだろう。恥ずかしい、どうして自分はもっと大人しくすることができなかったのか。
「どうかな。お母さんの怖い顔はそんなに怖くなかったから、千里の顔もそんなに怖くなかったはずだよ」
「えっ」
「なんて言ったらいいのかな。お母さんはちょっといたずらっぽくって、人を驚かせることが好きだったんだけど、お母さんのそういうのってバレバレなんだよ。だから誰も引っかからなくて、よくむくれてさ。その顔がとても可愛くて、好きだったな」
「ほ、他には?」
「他? 優しい人だったよ。一匹狼のゲンブをみんなのところまで引きずったり、お転婆なところもあったからビャッコと一緒に木登りしたり。なのに年長者らしくてさ、セイリュウとは仲が良かったんじゃないかな」
「ゲンブとビャッコって誰? 他にも式神の仲間がいるの?」
「あぁ、そうだよ。何人いるのかは知らないけど、俺が知ってるのはこの四人だけ。まぁ、全員四神の名前だから四人しかいないのかもしれないけど」
「待ってお父さん、私、お母さんの名前聞いてない」
そうやって、大事なところは何度も何度もはぐらかされるのだ。小さい頃からそうだったから、母親のことを聞くのは諦めていたのだ。
「あっ、ごめん。スザクだよ」
「スザ、ク……?」
繰り返した。耳馴染みはないのにその名を呼んだことがあるような気がする。
「そう。スザク」
「スザク……私のお母さんの名前……で、セイリュウさんと、ゲンブさんと、ビャッコさん……」
「覚えた? じゃあ、この話はもう終わり」
「えっ、どうして?!」
「俺が千里を人として育てる、それがお母さんの遺言なんだ。だから、もう終わり」
「なんでよ! 別にいいじゃないお母さんのことを知ることくらい! 今までなんにも教えてくれなかったんだから!」
「それはごめん。お母さんのことをどう説明したらいいのかわからなくて」
「もう知ってるから、もっと話してよ……私、ゲンブさんやビャッコさんのことも知りたい、会いたいから……教えてよ」
窓の外に視線を移した。世界の半分が夜に染まっていたが、妖怪はまだ、そこにいる。
見えてしまっているのに人の子として育つことはできない。自分の半分は妖怪なのだ。
「会ってるよ。多分だけど」
「え?」
「覚えてない? 昔、迷子になった時、ビャッコが一緒にいてくれたんだって千里が言ったんだよ?」
「お、覚えてないよそんなこと」
そんな日があっただろうか。迷子になった事実が恥ずかしくて視線を伏せる。
「セイリュウもすぐに助けに来てくれたんだろ? ……ゲンブがどうだったのかは知らないけど、生まれた時からずっと見守っててくれたのかもしれないな」
だが、すぐに上げて珠李の瞳を確認した。珠李は本気でそう言っている。何も疑っていない。
思えば、確かにセイリュウは襲われる前に助けに来てくれた。自分とセイリュウは心が繋がっているわけではないから、その場にいないときっと異変には気づけなかっただろう。
……本当に? 本当に見守っていてくれてたの?
とくんとくんと胸が高鳴る。同時にまた恥ずかしくなるが、今日という日ほど悲しくて嬉しいと思った日はなかった。今日という日ほど心が揺さぶられた日はなかった。
「そうだったら、嬉しいな」
こんな自分を心配してくれる人が父親以外に存在していたという事実だけで、どうしようもないくらいに舞い上がってしまった。
窓の外の妖怪は夜が訪れても消えることがない。もう昨日までの日常には戻れないと確信する。だから強く強く求める。
母親が──スザクが生きていた日常を。半分だけでもいいから欲しかった。