序幕 『報われない人生』
──どうして生まれてきたのだろう。
実父である神城珠李が交通事故に遭ったという報せを聞いたのは、新学期が始まった日の帰宅途中だった。
神城家の長女として生まれたその日から高校二年生になった今日まで珠李と二人で生きてきた千里は、死にそうな思いで陽陰学園の敷地から飛び出し、町で唯一の病院がある方向へと向かう。
早く、早く、早く、早く。気持ちを抑えることができなかった。感情を出すことは苦手だと思っていたのに、その報せを聞いた瞬間から心臓が暴れていてうるさい。
握り潰したら死んでしまうのはわかっていたけれど、生きている理由がわからない自分が死んで涙を流すのは珠李だけで。そんな珠李が危篤ならば、こんな命失っても構わないと──心の底から思ってしまった。
「──ッ!」
いや、自分は早く珠李に会いたい。たった一人しかいない家族だから。生きていてくれたら、これからもずっと生きていてほしいから。そんな未来以外はいらないから、視界に入った森を見て思考を止めた。
森の中に入ってはいけない。
それは、千里が生まれる前から決められている陽陰町の掟だ。陽陰町の重要機関を牛耳っている《十八名家》が決めたことに町民は大人しく従っていたし、千里もそれに逆らったことはない。逆らいたいと思ったことも、ない。それでも町の地図を思い浮かべる。
「行かなきゃ……!」
深く考えることなく走り出した。森の中に足を突っ込んで、次の足を出して、生まれて初めて森を知る。
踏んだ土の感触を。鼻腔を擽る木々の匂いを。木漏れ日を。涼しい、気持ちがいい、けれど怖い、知らない世界に行ってしまいそうで膝が震える。
だが、ここを真っ直ぐに進んでいくと、妖目総合病院だ。この道は近道になる、なるべく早く辿り着いて、間に合えばいい──。
「きゃあ?!」
足を滑らせて尻餅をついた。踏んだのは木の根っこのはずなのにどうしてこうも簡単に転ぶのか。
「いったぁ……」
尻を撫でて立ち上がる。確かに森の中は危険だ、何が起きるかわからない。
《十八名家》の人たちは正しいことを言っていた。間違っていたのは自分の方で、けれど間違わなければいけなくて。もう後戻りはできなくて、橙色に染まっていく森の中をじっと見つめる。
黄昏時だ。日が落ちる前に辿り着かなければ、道に迷ってしまう。それだけは避けなければならない。
だが、千里は一歩も動けなかった。口元を手で抑え、吐き気を堪える。頭が痛い、目眩もする。先ほどまで健康そのものだったのに。
珠李のことが原因になっているのだろうか。進んで手術室の前で倒れるか、引き返して救急車で運ばれるか。決断をしなければならないのに、千里は決断を下すことができなかった。
思えば、昔からそうだった。どちらも美味しそうで選べなくて、どちらも可愛くて選べなくて、どうしてどっちもじゃだめなのと聞いたことがある。
珠李はごめんと謝った。そのたった一言が幼い千里にとっては衝撃的で、今でも脳裏にこべりついていて離れなかった。
どちらも選ぶということは悪いこと。どちらかを選ばなければならないこと。
それを難しく考えすぎて、学級委員長の立場なのに優柔不断だと笑われて。悔しくて、けれど、こんな時でも自分は選ぶことができないのだと絶望した。
あぁ、駄目だ。また自分のことを嫌いになる。こんな自分が生きている理由がわからなくて、どうして珠李の方が事故に遭わなければならないのだろうと思う。
震える足で一歩進んだ。視界がどんどんと暗くなっていく。見えているのは橙色の世界だ、暗いのは、何も見えなくなってきた自分自身。自分の心。
深呼吸をすると両足に痛みが走った。どくどくと何かが流れていく感覚。これは見えなくてもわかる、血だ。感覚でわかるほどに自分から血が溢れている。
一度だけ強く瞳を閉じた。すべて夢であればいいと思った。世界はそんなに甘くなくて、少しだけ見えるような視界に入ったのは──おどろおどろしいとしか言いようのない、大きな獣だった。
「ひっ」
喉から空気のような音が漏れる。千里を見つめている瞳は目玉と表現した方が正しいほどに気味が悪い。嗅いだことのない悪臭はさらに気持ち悪さを増長させ、千里は慌てて鼻も覆う。
「おえぇっ」
吐きはしなかったが思い切り嘔吐いた。喉の辺りを掻き毟り、足に力が入らなくなってへたり込む。
「あづっ!」
足が悲鳴をあげた。大怪我を負っているのだからその上に自分の体を乗せたら痛むに決まっている。膝を伸ばして痛みを遠ざけることはできるのに、一歩ずつこちらに近づいて自分を喰らおうとする獣から逃げることはできなかった。
「……いやっ」
言葉が漏れる。拒絶の言葉、あぁ、自分はまだ死にたくないんだ。あれだけ生きる意味も価値もないと思っていたのは、自分は死なないとわかっていたから出てきた言葉なのだ。
「来ないでッ!」
生まれて初めて何かに抗う。このまま受け入れるのは嫌だ、こんな死に方はしたくない、選ぶことはできなくても嫌なことはちゃんとあるのかと思って、生まれて初めて自分のことをちょっとだけ好きになる。
今好きになっても遅いのに。どうして自分の人生はこんなにも間違いだらけなんだろう。
溢れ出てきた涙を拭おうとは思わなかった。拭う気力さえわかなかった、自分はまだ生きているのに。もう死んでいるのと同じだった。
「────」
恐怖が限界にまで達した瞬間、目の前にふわりと降り立ったのは〝青〟だった。青ばかりの誰かの後ろ姿。獣に立ち向かっていき、腰に下げていた刀を抜いて首を落とす。
あまりにも一瞬。優雅な動き。今度は目を奪われてしまい、一歩も動くことができなかった。
「ここで何をしているんですか」
さらさらな露草色の長髪から見て女性だと思っていたが、その声は男性のものだった。
穢らわしい空気を祓うかのような清らかな声。濁っているように見えた周囲の空気が一瞬にして澄んだものになり、頭の痛みも消えていく。
「わ、私……」
礼を言わなければならないと思ったが、獣を簡単に殺めた青年が味方だとも思えなくて戸惑う。なんと答えればいいのだろう、間違えたら自分もその刀で切り殺されてしまいそうだった。
「お転婆なのもいい加減にしてください。……聞いていますか? 千里」
ちらりと千里を一瞥した瞳の色は、輝くような菜の花色で。その瞳に見覚えはないのに、既視感を感じておかしくなる。
「どうして……貴方は、私の名前……」
青年は目を逸らしたくなるほどの美形で、刀だけでなく服装までもが普通の人間のようには見えなかった。
紫色の着物の下に真っ白な袴を履いて、水色の羽織を羽織っている。首に巻かれた白いマフラーのような布と鉢巻のように頭に巻かれた白い紐はお揃いのようで、やはり露草色の長髪が一番に目につく綺麗な人だった。
「そんなことはどうでもいいでしょう。さぁ、早く戻りなさい。一度も規則を破ったことがないのによりにもよって森の中に入るなんて……小一時間説教したいくらいですけどね」
「どっ、どうでも良くないです! だって貴方、私のことどうしてそんなに知ってるんですか?! あの獣はなんなんですか?! 貴方は一体誰なんですか?!」
発狂してしまいそうになる。いや、実際は発狂同然だっただろう。泣いて喚いてこれが自分なのかと知って、どうすればいいのかもわからなくなる。
「落ち着いてください、千里」
「無理です!」
「落ち着きなさい」
「っ」
穏やかで、冷静な声。どこか珠李に似た声色の青年はため息をつき、千里のことをじっと見下ろす。
「私の名前はセイリュウです」
その名前も、普通の人間のようには聞こえなかった。
「陰陽師様に仕える式神で、今殺したのは妖怪の鎌鼬です」
腰に下げていた鞘に納刀し、セイリュウはゆったりとした足取りで千里の元へと歩いてくる。その姿でさえ優雅で美しい、何もかもに見惚れてしまう。
「陰陽師と式神は、妖怪を殺して日々を生きています。千里、人間が森の中に入ってはいけない理由──もうわかりますね?」
「妖怪が、出てくるから……」
「正解です。毎年何人かが森の中に入って命を落としているのをご存知ですか? 貴方、私が助けに入らないと死んでいたんですよ?」
「……すみません、ありがとうございます」
ようやく礼を言うことができたが、その言葉を聞いてもセイリュウは怒っているようだった。責められていると感じていた。どうして見ず知らずの式神がたった一人の人間の命を案じるのだろう。優しい人だ、セイリュウは他人の為に怒ることができる人なのだろう。……式神は人間ではないかもしれないが。
「もう二度としないと誓ってください」
「それは……無理です」
「千里」
「じゃあ質問に答えてくださいよ! どうして貴方私のことを知っているんですか?! その目は一体なんなんですか?!」
千里は母親のことを知らない。生まれた瞬間から珠李と二人暮らしをしているのは、家に残されているアルバムが物語っていることだ。
なのに、セイリュウが千里を見つめる瞳は母親のようなそれだった。千里の身を案じる目、千里の愚かな行為を咎める目、貴方は私のお母さんなのと問い詰めたくなるような──そんな目に見つめられている。
「妖怪なんて今まで見えてなかったのに、どうして急に見えるように……どうして?! どうすればっ、私は何もわからないっ!」
こんなに取り乱したのも、生まれて初めてだった。
「今から十七年前の九月二十九日に貴方を取り出したのは、私です」
「……え?」
「生まれたばかりの貴方を見て微笑み、亡くなったのは私の仲間です。彼女は貴方のお母様で、神城珠李の最愛の人で、貴方の名前をつけた人でもあります」
「…………っ」
まさか。いや、そのまさかなのだろうか。セイリュウははっきりとしたことを言わない。どうして意地悪をするのだろう。
「貴方は、人間と妖怪の間に生まれた半分妖怪──式神の半妖の神城千里、世界の忌み子です」
いや、彼は包み隠さず告げてくる。あまりにも遠慮のないその言葉の刃が千里の心を深く抉る。
そんな千里をセイリュウが軽々と抱き上げた。十七年前もこんな風に抱き上げられたのかと思って、セイリュウの瞳の中に映った自分の姿を視認する。
自分の髪の色は、父親に似たアーモンド色。だが、木漏れ日が当たっている部分はパステルピンク色に輝いており、昔からそれでいじめられていた。
どうして光の加減で髪の色が違うのかと。保護者からもそう言われた記憶が今も心に刺さっていて抜けない。珠李が必死に地毛だと訴えても、千里は化け物と呼ばれて忌み嫌われていた。
「それでも、貴方の両親にとって貴方は奇跡。世界中が貴方の敵でも、貴方は両親に愛されて生まれてきた──幸福の子です」
涙が溢れる。そんな風に言ってくれた人は、この報われない人生の中で一人もいなかった。
「貴方は好奇心で森の中に入るような人ではない。……何かあったのか話せますか?」
「お父さんがっ!」
母親のことを何も教えてくれなかった父親の命が、消えようとしている。どうして世界は、こんなにも残酷になれるのだろう。
血は未だに溢れている。足だけでなく心も痛い。セイリュウは千里を抱き上げたまま、ぽたぽたと落ちてきた涙を避けることなく受け止めていた。
「千里、貴方は本当に……お母さんに似てますね」
周りの景色がぐにゃりと歪む。気づいた瞬間に倒れていたのは、妖目総合病院のロビーの前だった。