アネモネ(1)
「タツヤさん、朝ですよ。起きてください」
桃に似た甘い香り。
柔らかな声とともに布団越しに身体をゆすられている。
目を開ける。
俺を見守るような顔が、安堵に緩んだ。
茶色を乗せた前髪が額にかかり、長いまつ毛が瞬きに揺れる。真っ直ぐな鼻梁となめらかな頬。柔らかな唇が鈴のような声音を押し出した。
「おはようございます、タツヤさん。ご飯できてますよ」
顔を倒して目を向ける。1DKの中央に据えた小さなちゃぶ台。そこに慎ましく朝食が並べられていた。
焼き鮭、味噌汁、漬物、茶碗いっぱいの炊きたてのご飯……。
吐き気がこみ上げてきた。
起き上がる。
微笑んで俺を見上げる彼女。
身体のラインが浮き出る薄いセーターを着て、ラフなデニムを履いた地味な服装。地味だからこそ美しさが際立つ。
「邪魔だ」
細身の身体を押しのける。
思いのほか軽い彼女の体は大きく体勢を崩して、尻もちをついた。
ぶるりと背筋に苦い寒気が走る。嫌悪感と不快感に吐き気がした。
彼女の口許が動く。
「ご、ごめんなさい」
「…………」
ドロリとした感情を飲み下す。
俺は黙って洗面台に向かった。手早く身支度を整えて、家を出る。
彼女のことは完全に無視して。
§
出勤ほど気分の悪い日課はない。
狭苦しい空間の中に人の熱気と湿気が充満し、背や腹に他人がのしかかってくる。幸い今日は両足がしっかりと地についていた。
満員電車に揺られるなかで、隣の男が黙々とスマホに鼻を寄せている。ガリガリに痩せた猫背の男は、気の毒なくらい肩をひそめて、スマホのなかに隠れようとするかのように肘を縮めて操作していた。
ちらと盗み見れば、画面はメッセージアプリが開かれている。穏やかな微笑を浮かべた美女が、抱きかかえた赤ん坊を写している画像が見えた。
「……っ!!」
寒気に背筋が大きく震えすぎて、胃がよじれる。
耐え難い吐き気に口を抑えた。目眩がする。
「ど、どうしましたか?」
そのガリ男が俺を見て目を丸くしている。気の毒そうに表情を曇らせて、俺を気遣うように首を伸ばす。
「大丈夫ですか? 顔色が悪いですよ」
遮るように手のひらを挙げて拒絶した。
直後に電車が減速する。駅に着いた。
苦々しい吐き気を噛み締めて、人々を押しのけて電車を降りる。ドアを離れて、行列を避け、プラットホームの真ん中まで歩み出た。
人の吐息に汚されていない空気。
苦々しい頭痛に額を押さえた。狭いプラットホームを行き来する人々にうんざりする。
「……朝っぱらから、アンドロイドを見せるなよ」
首に銀の輪を嵌めた模造人間。愛想のいい彼らが駅員の制服を着込んで列を整理している。
背を向けて駅の端に逃げていく。人のいない場所に行きたかった。少しでも。気休めでもいい。
この社会はすでに機械と人が共存している。
§
「おいタツヤ。最近どうした、遅刻が増えたな」
「……すみません」
「このところ調子が悪そうだぞ。今日だって顔色がよくない」
「そうでしょうか」
「ついこの前まで、子どもができたって報告してくれたころは幸せそうだったのにな。無理するなよ? 嫁さんに癒してもらえ」
先輩は笑う。
「せっかく、アンドロイドを理想的な嫁さんに迎えたんだからよ」
感情を飲み込んで腹が煮え立つ。目眩がした。
知らないのだ。彼は。なにも。だからそんなことが言える。
「すみません。ちょっと薬買ってきます」
「早退してもいいんだぞ」
「大丈夫です。帰るほどじゃありません」
幸せか。そうだろうな。俺は確かに幸せだった。
何も知らなかったからだ。
§
あの日、狭い賃貸マンションの一室に客が来た。
「こちらが今回ご紹介するアンドロイドです」
キッチンの前に据えた食卓に、スーツを着た営業マンの男性と、そして美しい女が座っている。
首に鈍く光るのはアンドロイドの銀輪だ。
彼女は人形そのものとして、整った容貌も儚げに、ただ虚空を見つめていた。
「……ずいぶん美人ですね」
「そうですね。男性は特に見た目から相手を好きになる傾向があると統計が出ていますから」
恋は人生を豊かにし、愛は人を幸せにする。人は誰もが自由な恋愛をしていい。
そんなキャッチコピーが企業のパンフレットに踊っている。
『自由な恋愛』には倫理的に正しくない恋愛も含まれるのだから、よくできた話だ。不倫も束縛も、アンドロイドが相手なら傷つく人間は誰もいない。
「今はこのとおり反応がありませんが、あなたの暮らしから性格を把握すると彼女は目を覚まします。あなたの最良のパートナーとなってくれることでしょう」
「そうらしいですね。感情があるアンドロイドって」
「正しくは人間同等に感情があるように見える、ということですね。――ご一緒に細則を確認させてください。……」
俺は話半分に聞きながら、向かいに座る女性を見た。
どんな人間にも、誰かを愛し、愛される権利がある。
だが愛を求めても得られないのが現実だ。その冷淡さが孤独な人間を生み出してきた。
愛し愛されるためには相手が必要だ。
必要性に生み出された存在が神妙な表情で佇んでいる。
§
アンドロイドが俺の家に残された。
神妙な表情で座ったまま動かない彼女を見て、頭をかく。
「なんか、落ち着かないな。目覚めるまでどのくらいかかるんだ?」
彼女は反応を見せない。俺はもう一度頭をかいて立ち上がった。
彼女に歩み寄る。
「……近くで見ても、本当によくできてるな」
アンドロイドらしさは首に埋め込まれた銀の端子系しか存在しない。
目の前で手を振ってみても目はピクリとも動かなかった。
そっと二の腕を突いてみる。柔らかな弾力を覚えて息を呑んだ。
「人間と、ほとんど同じだな、これは……」
それはそうだ。異物感が強ければ触れ合うこともできない。
肩、髪、細い首と眺めていく。銀輪の埋め込まれた首はぞっとするほどきめ細かい。うっかり触れると折れてしまいそうな儚さがある。
彼女の手を取る。人差し指を軽く握ってひっぱった。しっかりした骨身の抵抗感は人間のそれと同じもの。
少しずつ反り返してみて、きしりと筋張った抵抗感を手に覚える。人間と同じ可動域。これでも彼女は反応しない。
ふと彼女の横顔を見た。
長いまつ毛も眠たげに、無表情でうつむいている。
「……なんか変な気分になってきたな」
ふぅと大きく深呼吸。
距離をとって、子供じみたいたずら心を追い払う。
「いつも通り暮らすのが最も早くセットアップを終わらせる方法──だったか」
物理的に存在感の大きい彼女を、気にしないように過ごさなければならない。
とはいえ実際、目を半分だけ開けたまま動かない彼女は、見た目のいい置物でしかない。落ち着かないのは最初だけだ。
動かない彼女を横目に過ごすうちに、彼女が家にいる風景に慣れてきた。
ある朝。
「タツヤさん。朝ですよ」
優しい手つきで身体をゆすられる。
ぼんやりと目を開けて、そして一気に覚醒した。
「なっ!?」
ベッドサイドに膝をついて座る彼女は、にっこりと微笑む。
「おはようございます、タツヤさん」
「め、目が覚めたのか……?」
「はい」
彼女は柔らかく首肯した。
それまで彫像のように佇んでいた人形が、息吹を吹き込まれたかのように。
§
「タツヤさん。味噌汁の濃さはいかがですか」
「ああ、うん。美味いよ……」
「お漬物にお好みはありますか」
「キュウリの浅漬けかな……」
「白米の固さはどのくらいがお好みですか」
「え? うん。気にしたことはなかったな……」
彼女は微笑んでご飯を茶碗に盛り付ける。
「朝ごはん、いただきましょうか」
彼女は驚くほど献身的に尽くしてくれた。
このアンドロイドは俺に愛されるように振る舞う。
つまり、俺はこういうのが好み、ということか? そう思うとなんだか申し訳ないような、情けないような気持ちになる。
「気にしないでください。私はこういう作業が好きなんです」
「そう思うように作られたからだろう」
「得な出生ですよね」
彼女はそう言って茶目っ気のある笑みを浮かべる。
俺がそのように言わせているのかもしれないのに、彼女自身、自分がそのように作られたことを誇ってくれる。
皮肉な話だ。業の深さも救われるような気持ちになる。
「タツヤさん。今度デートに出かけたいです」
「え。まあ……そうだな。そのうち行こうか」
彼女は上機嫌に鼻歌を歌い始めた。俺は目を逸らす。
デートになど行く気はなかった。
まだアンドロイドと並んで出かけることに抵抗がある。それが俺に愛されるために作られたアンドロイドとあってはなおさらだ。
「……ちょっと出かけてくる。ついでに何か足りないものがあれば買い物してくるよ」
「いえ。大丈夫です。食材は発注済みです」
うなずいて家を出た。彼女を連れず、一人だけで。
§
改めて街を歩いてみると、意外なくらいアンドロイドの恋人を連れている人がいた。男性女性、どちらもだ。
これまではあまり気にしていなかったからわからなかった。接客、広報、散歩の付き添い……街景色にアンドロイドの存在はすっかり溶け込んでいる。
アンドロイドの恋人という存在は、その一つでしかない。
驚くほどの自然さで受け入れられていた。
まさか俺自身が本当にアンドロイドを迎えるとは思いもしなかったが……親に「孫を見せろ」と切迫感をもって頼まれて、女性を口説くよりも別の道を選んでしまった。
なんとも追い詰められた決断だろう。
世間的にはてっきり、ワイドショーの言う通り"人間を愛せなくなった人間の出来損ない"という見方をされているのだと思っていた。
だが、こうして街を見てみるとアンドロイドの恋人を連れている人は少なくなかった。差別や後ろ指を差されている姿もない。それほど白眼視されているわけではないらしい。
高潔さは人を救わない。
結局のところ、人々の孤独を救ってきたのはアンドロイドのほうだ。
祖父母の最期に寄り添うアンドロイドを見て育った人間は多い。彼らの存在が重んじられるのは、考えてみれば当たり前だろう。
どうしても毛嫌いする人はいる。アンドロイドを伴侶とするなど、昔までは考えられないことだっただろう。
その拒否感は、社会の変化に疎外感を抱く古い人間だから……ということなのかもしれなかった。
それは、俺自身も。
§
「タツヤさん。今夜はカレーと肉じゃがどっちがいいですか?」
「あり合わせでいいよ。安いほう」
「では今日はカレーにしましょうか」
唇に添えていた指を離して、彼女は商品棚からカレールーを取る。俺を見上げてにっこり微笑んだ。笑顔に釣られるように、俺も笑いかける。
彼女を連れて一緒にスーパーに出かけるくらいはできるようになってきた。
俺は流されているのだろうか。
懸命に尽くしてくれる彼女にほだされるように、徐々に抵抗感が薄れていく。
結局、俺にはこの関係が正しいのかどうかわからない。
それでも俺が応えれば彼女は嬉しそうにしてくれる。その笑顔に心が安らぐ。
それだけで、いいのかもしれない。
ふと下ろした手が彼女の手に触れた。
慌てて手を引く。かごの中身が揺れて音が鳴った。
腫れ物に触れるような俺の過剰反応に、彼女は不安げに俺を見る。俺は自分の手を撫でながら目を背けた。
「……すまん。我ながら小学生みたいな反応だな。まだ少し照れ臭くて」
「ふふ。そろそろ慣れてくれないと」
「そうだな」
答えながらため息を吐く。
恥ずかしいわけではない。
彼女の身体は人体とそう変わらない感触だと、そのように作られていると知っている。
だからこそ。
その自然さに作為が透けて見えるようで、俺は彼女に触れることができなかった。
自分が、人間の代わりと一緒に暮らしている。そのことを自覚したくなかった。
§
その夜。
彼女がするりと俺のベッドに忍び込んできた。
「お、おい」
「寂しいです。あなたは私に笑いかけてくれる。でもそれは、よくできた道具に感謝するようなもの。対等な愛ではありません」
布団のなかから囁いて、彼女が俺にのしかかる。彼女に対して抱いている疎外感を言われているようでゾッとする。
彼女は甘えるように頬をすり寄せてきた。耳打ちする。
「私は愛されるためにここに来たんです。あなたに愛されるために」
首、肩、胸元、彼女は順に口づけていく。
「自分を蔑まないで。周りの目なんて気にしないで。自分が幸せになることを恐れないで……」
「待て……」
「私が」
彼女の細い指が俺の股間のものをそっと握る。
「私の想いが作り物だとしても、あなたが救われるなら、それが正しいんです」
彼女の手が触れる。
その感触に機械らしい硬質さは感じられない。
「お前のいう愛って、なんなんだ?」
はたりと動きを止めて、彼女は俺を見た。
その潤んだ偽物の瞳を見つめ返して手を伸ばす。彼女の細い腕をつかむ。
「セックスのことか? きみみたいに尽くすことか? それとも何か……特別ななにかがあるのか?」
彼女は黙して応えない。
人間を模して作られた彼女の腕は、しかし脈動していない。
「俺にはわからないんだ。いつも感謝してるし、有り難いと思ってる。何か返せるものなら返したいと思ってる。でもどうすればいいのか……」
わからない。
彼女と向き合っていると、自分がなにをしているのかわからなくなる。
ましてや、愛などと。
「……私も。私にも、わかりません」
「恋愛を売る会社の商品だ、なにかこれっていう答えがあるんだろう」
「いいえ。いいえ、私たちには事前に与えられた答えはありません。ただ貴方を愛してしまうような人格が与えられるだけ──」
ふわりと桃のような甘い香りが揺れる。彼女が俺の身体に頬を乗せた。くしゃりと固い人工毛髪が丸まる。
「実を言うと、私にもわからないんです。貴方をちゃんと愛することができているのか」
驚いて目を開ける。
甘えるみたいに頬ずりしている彼女は、茶目っ気のある微笑で俺を見上げていた。
「でも、なんとかして愛を伝えたいと思います。そう思い続けて、なにかと世話を焼いてしまいます。ご飯を作ったり、お掃除したり、いろいろと」
彼女は掛け布団を背負って体を起こす。夜に輪郭の浮き上がる白い肢体が俺の上にまたがった。
求めるような微笑が俺を見る。
「そんなふうに、愛の伝え方を探し続けることこそを、愛と呼ぶんじゃないでしょうか」
俺は身体を起こして、彼女の顔に手のひらを添える。
頬を撫でる手に彼女は目を細めた。子どもが親に甘えるように。あるいは、恋人のように。
「そうか……」
俺に愛されるために作られたものを愛する。
そんなもの、究極の自己愛となんら違いはない。
それでも。