閑話 お互いの印象
番外編的な閑話です。主にヴァシル視点でクロエとヴァシルの過去について。
――クロエ六歳、ヴァシル十一歳――
クロエがいつものようにアーヴェル家へ遊びに来てローラとその母のテューラとお茶をしていると、茶会室の扉がコンコン、と叩かれた。
テューラが応えると、扉が開き、執事が男性を連れて入ってきた。
クロエは部屋の中が急に明るくなったように感じ、扉を振り返る。
入ってきた男性を見るとたちまち胸が高鳴った。
「母上、ローラ、ただいま」
「ディリエ兄様! おかえりなさい」
ローラが立ち上がって笑顔で兄を迎える。
ローラと一緒にいる少女を見て、ディリエはふと微笑んだ。
するとクロエは実の妹よりも早く、突進するようにディリエに抱きついた。
どしん、とぶつかってくる少女をびくともせず軽く受け止める。
「いらっしゃい、クロエ。元気にしていたかい?」
ギュッと腰にくっついたクロエを軽々と抱き上げる。明るい栗色の髪がふわりとディリエにかかり、それがくすぐったかったのか、少女の必死さが面白かったのか、くるりと見開かれたクロエの榛色の瞳と視線を合わせて、優しく笑んだ。
「おかえりなさいませ、ディリエおにいさま」
クロエがそっと囁くと、ディリエのすぐ後ろから不審そうな声が響く。
「……それはなんだ? アーヴェルにはまだ娘がいたのか?」
首筋に抱きついて離れないクロエを抱えたまま、ディリエは声の主を振り返った。
「東の辺境伯、ファラゼイン家のご令嬢だよ、ヴァシル」
扉口に居て入口を塞ぐようになっていた背の高いディリエの背後から、目の覚めるような濃い金髪の少年が現れる。
ローラや一緒にお茶をしていたアーヴェル伯爵夫人テューラもわざわざ席を立ち、少年に最上級の礼をする。
「ようこそお越しくださいました、殿下」
テューラが微笑んで、少年に挨拶する。
「……でんか?」
未だディリエの首に抱きついたままのクロエはそっと少年を見た。
少年はなぜか、こちらを仏頂面で睨んできている。
――殿下、と呼ばれテューラが最上級の礼をする者と言えば、限られている。
クロエはディリエの顔を覗き込んだ。
「ディリエおにいさま。この方はどなた?」
「第二王子殿下のご令息で、ヴァシル・ロウ王子殿下だよ。私の従兄弟にあたる方だよ。私と父とで王宮で剣術の指南をしているんだ」
◇◇◇
「王子さまなのに、おしろにいらっしゃらないのはどうして?」
「遊びに来られたんだよ。仲良くしてあげて、クロエ」
ヴァシルがあからさまにむっとした。
ディリエにくっついているこのちんけな娘はなんなのだろう、とまで思う。
こんな娘に、わざわざディリエがヴァシルと仲良くしてあげて、などとお願いするのは癪に障った。
辺境伯の娘だというなら、アーヴェルとはなんの関係もない娘だ。弟妹がディリエに甘えるのは致し方ないとヴァシルも思うが、なんの関係もないのに、この娘はさっきからディリエにくっついたきり、独り占めしている。それが少し腹立たしかった。しかも、なぜだか睨まれている。
ヴァシルはクロエのことを小猿のようだと思った。
貴族令嬢の中では整った顔立ちだが、宮廷の美しいものを見慣れたヴァシルには取り立てて美人とも思われず、またずいぶんと険のある表情をしてこちらを睨んでくるので、なおさら可愛らしいなどとも思えない。
しかもまた、ディリエがまるで大木のように背が高いため、それにくっついている小さな姿は本当に小猿にしか見えないのだった。
お互いの第一印象はとりあえず良くはなかった。
どちらもディリエを独り占めしようとする存在に、悪感情しかない。
ヴァシルは、自分の兄にあまり甘えられない分、ディリエを実の兄のように慕っていた。剣術指南の時はそれは厳しいが、それ以外の時はまるで実の弟のように扱ってくれた。弟妹が多いため年下の扱いにも長けており、穏やかで笑い上戸の気質はヴァシルにとって好ましく、安心して甘えられる唯一の存在だった。
アーヴェルの弟妹達というのは度を越して兄にべったり甘える、ということがない。皆、幼い時から独立心が強く、同じ年頃の子どもよりも大人びていて、適度な距離があった。一番小さいのがローラだが、彼女からしてそうだった。まだたった六歳なのに冷静で落ち着いており、浮ついたところもない。
女と言えば、ヴァシルにしなだれかかったり、取り入ろうとおべっかを使ったり、逆に排斥しようと命に関わる嫌がらせをしてきたりするもので、うんざりすることしかない。その点ローラにはそんなところが一切なく、ヴァシルが安心して接せられる数少ない女だった。
さて、クロエがどうかと言えば、ヴァシルの周りのどの女とも違う。
ヴァシル自身に興味は一切なく、常にあるのは敵意だけだ。かといって、その嫌がらせは実害の少ない困惑するものしかなかった。
ヴァシルの通り道に落とし穴を掘って落とそうとしたり、木登りをして真下を通りかかったヴァシルに大量の毛虫を落としてきたことある。――落とし穴は察して飛び越えたのでどうというものではなかったし、毛虫に関して言えばヴァシルの方こそ王城の庭で集めたりして周りの者に嫌がられたこともある。鬱陶しいだけで、別に怖くも気持ち悪くもなかった。
――なんだろう、貴族令嬢がする嫌がらせとは思えない。
ヴァシルとしては首を捻るしかないのだが、実害がないとはいえ敵意を持って接してくる相手に、こちらも丁寧に接する必要を感じなかった。虫けら、とまでは思わないが、やはり最初の印象の「小猿」というのは一切変化ないのだ。
王城に戻り同母の兄に多少の腹立ち紛れにクロエの話をすれば、兄は明るく笑った。
「……ディリエが大好きなんだねぇ、ふたりとも。そんなに取り合ったりして。面白い子だね、私も会ってみたいな」
「兄上がお会いになるような令嬢ではありません」
「そうかな?」
兄王子は体が弱い。第二王子のさらに第三子ということで、たまにではあるが、アーヴェル家へも気軽に遊びに行けるヴァシルと違って、体の弱い兄は王城を一歩も出ることは叶わない。クロエが城に来られるような年頃になるまで、兄がクロエに会うことはないだろう。
「だいたいあんな小猿、面白くもなんともありませんよ?」
むすっとして言えば、兄はまた楽しそうに笑い声を上げた。
ヴァシルとしてはただの腹立ち紛れに話したに過ぎないが、思いがけず兄を喜ばせることができたようだった。それを良かった、とヴァシルは思う。
少しでも兄の心を和らげることができるのが、ヴァシルのなによりの喜びだった。
「いつか、城に連れて来てくれるといいのにな……」
「辺境伯令嬢なら、そのうち嫌でも目にするようになりますよ」
「……楽しみにしてる」
兄はそっと言い、微笑んだ。
――クロエ十一歳、ヴァシル十六歳――
辺境伯にもこってり絞られたようで、流石にクロエも十歳を過ぎれば、木登りしたり他人の家の地面を掘り返したりするような、馬鹿な嫌がらせはしなくなった。
ただ、武勇に優れた父の辺境伯やディリエが面白がって剣術の手ほどきをしているためか、同年代の少年達に太刀打ちできるものはいないという。馬を乗り回し、剣を振り回すと聞けばヴァシルも呆れ、どう考えても普通の貴族令嬢とは思われない。
「……しかし、いつ来てもいるな、そなたは」
魔法騎士団の紺色のローブ姿でアーヴェル邸を訪れたヴァシルは、ローラとお茶をしていたクロエに呆れる。
「……たまたまでございますわよ、殿下。こちらでお会いしたのだって、幾度もないではございませんか」
「……もう『殿下』ではない」
「あら、そうでしたわね。失礼いたしました、ヴァシル様」
国王の退位に伴い、第一王子が新王として即位した。第二王子であったヴァシルの父は、兄の即位に伴い臣下に下り大公となり、王族ではなくなっていた。ヴァシルも爵位を与えられて一貴族となっている。
公爵になったヴァシルを、周囲は腫れ物を触るかのように扱う者も多い。しかし、どうもこの娘にはそういうところがなかった。
王族の姫君の指導もするシュテンベルヘン伯爵夫人に礼儀作法を習っているだけあって、近頃は言葉遣いや所作に令嬢らしい優雅さはある。同じ年頃の令嬢達に比べても遜色ないものであるが、どうにも口から零れるその内容が雑ではあった。
特にヴァシルに対する物言いは遠慮がない。出会った時から一貫してそうだから、多少優雅さが加わったところでやはり小猿、とヴァシルは思ってしまう。
ディリエは数年前に結婚したが、未だにディリエのことが好きなようで、ヴァシルに対する態度も軟化しない。多少所作に優雅さが増したところで、すべて顔に出てしまっているから台無しだった。そうであるから、ヴァシルの方も今更態度を変えようもない。
ただ、よく言えば裏表のないその態度が不思議でしかなかった。王族から蹴落とされ、立場の変わったヴァシルに対して、馬鹿にするでもなく、かと言って過剰な同情を寄せるでもない。クロエにとってヴァシルは一貫して『敵』なのだった。
既に結婚してヴァシルよりクロエより優先する大切な家族がいる者に対して、恋慕の情を抱き続ける娘が、よく理解できなかった。
――なんなのだろうな、この娘は。
会う度にそう、ヴァシルは思うのだった。
――クロエ十三歳、ヴァシル十八歳――
ディリエに会えると聞いて勇んでアーヴェル邸に赴けば、ローラやテューラに今日はヴァシルも同席すると聞かされて、クロエはがっかりした。
せっかくディリエに会えるというのに、あの不機嫌な男性と同席するのかと思うと落胆する。
ヴァシルはもう王族ではなく、ディリエもヴァシル専属の剣術指南ではない。ディリエが剣術指南を務めていた時は王都にも頻繁に滞在していたが、今は西の砦に詰めていることの方が多い。それでもエリスタル騎士団の他の騎士に比べれば、副団長であるディリエは王都に来る用事も多い。年に数度は会えるはずなのだが、たとえアーヴェル邸に帰ってきていても三回のうち二回くらいはヴァシルとの用事を優先されてしまう。クロエにとってはつまらないことだった。
王族ではなくなったのだから、ディリエお兄様を解放してくれればいいのに、とさえ思ってしまうのだった。
◇◇◇
その日もヴァシルがアーヴェル邸に行けば、クロエがいた。
たまには、とディリエに誘われ、ローラやテューラの同席する茶会の席に同席させられたのだ。親族でもないクロエが当然のように同席しているのが、ヴァシルには解せなかった。
優雅な仕草で茶を飲むクロエの所作は更に洗練されたようだった。
「クロエ様はしばらく、領地に戻るそうですわよ」
「そうか」
テューラがそう告げても、ヴァシルにはそうか、という短い感想しかない。それ以上なにも言わないでいると、クロエが微笑んだまま敵意ある眼差しを向けた。
「少しの間だけです。またこちらに戻ってまいります、必ず。――ヴァシル様は相変わらず王都においでですか」
貴族令嬢らしく微笑みながら、敵意を向けるという器用な方法を覚えたようである。
「魔法騎士団の本部は王都だからな」
「でも、騎士団のご用事で西の砦にも行かれるのでしょう?」
「まあ、行くこともなくはない。……なにが言いたいのだ?」
「……いいえ、特には」
表情を取り繕うことを覚えたようだが、まったく役に立っていない。ヴァシルばかりがディリエに会えてずるい、とでも言いたいようだ。考えがまるわかりだから、ヴァシルとしては困惑しかない。
――このように単純で、この娘は大丈夫なのだろうか?
貴族社会というのは権謀術数渦巻く薄汚いもの、隙あらば周りを追い落とそうとする足の引っ張り合いが日常だ。
それが、これほど単純ではころりと騙されたり利用されたりするのではないだろうか。
――まあ、ヴァシルが心配するようなことでもない、と思い直した。
王都を離れるという。クロエは近頃は宮廷の舞踏会にも少しは顔を出しているようだが、兄は結局クロエに会えないまま王城を出た。このまま会わずにすんでしまうのかもしれなかった。
――多少大きくなってもやはり、小猿は小猿だ。兄が気にするような娘でもない。
それ以降そのまま、ヴァシル自身もクロエとは会わずに過ごすこととなった。
――ヴァシル、現在――
「……と、いうようなことが昔あった」
ヴァシルはクロエがどんな令嬢かと問われて、そう答えた。
目の前の少女は話を聞いてくすり、と笑った。真っ直ぐの艶やかな黒髪が揺れ、小柄でどことなく猫のような印象の少女が面白そうに大きな黒い瞳を見開く。
「……面白いお嬢様だねぇ」
「そうか? 私にとっては面白くもなんともないがな」
「……だって、ヴァシル様に毛虫とか落とし穴とか……! もう、結婚すればいいのに!」
「あれが私の嫁になったら苦労するぞ」
各方面が、とヴァシルは苦笑した。それに、と内心思う。
――それに、クロエは頑固で思い込みが激しくて一本気に過ぎる。……それを許されてきたのだから、幸せに生きてきたのだろう。だからこそ自分には合わないだろうし、クロエも自分の側にいては恐らく苦しむことになるだろう、そう思った。
「ちょっと会ってみたくなってきた」
少女がかつての兄と同じようなことを言うものだから、ヴァシルは少し笑った。
「……そのうち、嫌でも会うことになるだろうよ。いろいろやらなくてはいけないことができたから」
「私、お友達になれるかも?」
「……かもしれんな。非常識なところが少しお前と似ている。意外と気が合うかもしれんな」
「そうなの? ……楽しみだな」
少女は鈴を鳴らしたような声で楽しそうに呟いた。
(不毛な水掛け論)
クロエ→「最初に睨んで来たのはそちらでしょう!? カンジ悪い男ですわね!」
ヴァシル→「いや、最初に睨んできたのはそちらだからな。この小猿め」
◇◇◇
物事は別視点で見ると違う側面が出てくるのかもしれません。
『辺境伯令嬢は理想の伴侶を探す』は飽くまでもクロエ視点で進むクロエの物語。
別の人の視点で見たらまた別の物語があるかもしれませんね。
次話から本編に戻ります。