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婚約式 ―皆に、幸あれ― 前編

37話の後しばらくした頃、クロエの婚約式の話です。

 ヨゼフィーネはドレスに身を包み、化粧を施して装飾品を身につける。

 婚約者から贈られた、薄い赤と黄色の石が散りばめられた首飾りをつけて、鏡の前で入念に確認する。


「やはり、お美しいですわね、その首飾り」

 身支度を手伝っていてくれた侍女が微笑んだ。

「今日のお召し物によくお似合いですわ」

「――ありがとう」


 ヨゼフィーネもふわりと微笑んだ。


 今日は、婚約者であるリュカス・ファン・アーヴェルの弟の婚約式に招かれている。兄弟の多いアーヴェル家の五男、バルトルトが東の辺境伯の令嬢、クロエ・サルマ・ファラゼインと婚約するのだ。バルトルトは婿に行くので、婚約式は相手方のファラゼイン邸で行われる。

 リュカスの婚約者として、ヨゼフィーネも招かれていた。これから屋敷にリュカスが迎えに来るのだ。久しぶりにリュカスと会えることに、ヨゼフィーネは胸が高鳴る。


 王城官吏のリュカスは休みもまともに取れないほど、忙しい人だった。

 早く結婚したい、とヨゼフィーネは思う。

 リュカスは四男で、一人娘のヨゼフィーネの家に婿に来てくれる予定なのだ。父はまだ健在だから急ぐことはないのだが、婚約してからもう何年経ったのだろう。リュカスの兄が優秀な補佐である弟をなかなか離そうとしないので、結婚は延び延びになっていた。

 官吏に比べて領主の仕事は責任も重いし、忙しくない、とは言えない。

 しかし、領地は田舎で特筆するところもない場所ながら、緑だけは多くてのんびりしている。領地の城ならヨゼフィーネも近くで支えることができるから、本当なら早く結婚したかった。リュカスの兄のラルスは仕事に熱中すると寝食を忘れてしまう人だ。その人につきあうのだから、自然とリュカスも無理をすることになる。体調だけが、心配だった。官吏でもないヨゼフィーネが、王城に行ってリュカスの世話を焼くのは無理だし、かといって今更官吏になることもできない。

 ヨゼフィーネにはただ待っていることしかできないのだ。

 

 ――永遠に結婚できないのではないかしら……。

 最近はもう、そんな風にヨゼフィーネは思い始めていた。

 

「リュカス様がお越しになりました」


 侍女が呼びに来るのも待てず、玄関近くの部屋で待っていたヨゼフィーネはその知らせに笑顔になって、婚約者の元へ向かう。

 玄関から入ってすぐの広間で、リュカスが待っていた。


「リュカス様!」

「やあ、フィーネ。今日は弟のために、わざわざすまないね」


 抱きつきたい衝動を必死に抑え、なるべく優雅に見えるよう、軽く膝を折って挨拶する。リュカスはヨゼフィーネの手を取ると、手の甲に軽く口づけて挨拶した。

 目を上げたリュカスが眩しそうにヨゼフィーネを見つめ、その目を細めた。


「フィーネ、今日はまた一段と綺麗だね」


 ヨゼフィーネはもうそれだけで、嬉しくなる。

 リュカスの今日の服装は貴族らしい盛装だった。きっちりと襟の詰まった臙脂色の官吏服姿もヨゼフィーネは好きだったが、今日の服装はより貴公子然として眩しく、どこを見ていいかわからなくなるほど素敵だ、と頭が軽くくらくらする気さえする。

 こんな素敵な人の婚約者が、こんなに地味なわたくしだ、なんて……、とヨゼフィーネは時々信じられなくなる。


 ヨゼフィーネはごく平凡な容姿だった。伯爵令嬢だから、侍女達が肌や髪の手入れをしてくれるし、さり気ないお洒落な衣装や化粧で飾り立ててくれるから、見れなくはない。ただ、お金をかけても平凡な容姿は平凡なのだった。そこまでしてやっと人並みで、どうやったって目立たないのだ。


「本日はおめでとう存じます。『わざわざ』などとおっしゃらないで。わたくしまで招いていただいて嬉しく存じますわ。……リュカス様も、素敵なご衣装ですね」


 最後の言葉は少し気恥ずかしく、ほんのり頬が染まってしまう。

 リュカスも嬉しそうに笑った。


「そうかい? ありがとう」


 そのままリュカスに手を引かれ、アーヴェル家の馬車に乗り込んだ。

 アーヴェルの従者がいるし、今日はヨゼフィーネの侍女もついて来ない。従者は御者の隣に座ったので、馬車の中はふたりだけだった。

 ヨゼフィーネが奥に、リュカスが隣に乗り込む。馬車は緩やかに動き出した。

 リュカスは座席に座り、改めてヨゼフィーネの手を握る。手を取られるだけで、未だにヨゼフィーネは少女のようにどきどきした。

 ――手など、何度も繋いでいるのに。


「最近会えてなかったけど、元気にしていた?」


 柔らかく訊いてくるリュカスの声が耳朶を打つ。声も好き、とヨゼフィーネは思う。ずっと聞いていたかった。

 そっと、頷く。


「変わりございませんわ。リュカス様も……、お仕事お忙しいのですか。お体は大切になさってくださいませ」


 恥ずかしくて、リュカスを直視できない。視線をずらして窓の外を見た。 


「ありがとう。――さて、僕の姫君は会えないことにご機嫌斜めなのかな? ちっとも僕を見てくれないね」

「そんなことは……!」


 慌ててリュカスを振り返り、じっとこちらを見つめる薄い青の瞳に、首を振った。あなたが眩しくて直視できないのです、とは流石に恥ずかしくて口にできなかった。

 リュカスがふっと、苦笑した。


「――君を待たせてしまっているね。すまない。……怒っているのかい?」

「怒ってなどいません……」


 ヨゼフィーネはリュカスを困らせたくなかった。だから、我が儘は言わない。

 つい俯いて、言葉を濁した。

 ――弟さんに先を越されるのではないですか、などとは言えなかった。


「フィーネ」


 繋いでいない、リュカスの左手がヨゼフィーネの頬に触れる。優しくリュカスの方に顔を向けさせられて、ヨゼフィーネは落ち着きなく瞬きする。

 そのまま、リュカスの顔が近づいて、頬に口づけられた。

 繋いだリュカスの親指が、ヨゼフィーネの指の背をするりと撫でる。


「……兄上のことはなんとかするよ。君をもう、待たせはしないから」

「お気になさらないでください。どうぞ、ご無理はなさらないで。……いつまでも、待っていますから」


 微笑んだヨゼフィーネの唇にリュカスの人差し指がそっと触れた。

 それを自分の唇に軽く当てる。


「ありがとう、フィーネ。……口づけしたいところだけど、せっかくの綺麗な化粧がもったいないからね。今日はこれで我慢しよう」

 

 ……はぅっ。

 

 真っ赤になって、思わずヨゼフィーネは漏れそうになる吐息を咄嗟に飲み込んだ。

 ――この人は、ずるいんだから。

 こんな仕草をてらいもなくしてしまうのだから。

 だから、ヨゼフィーネはなにも言えなくなる。

 ――そして、こんな仕草もヨゼフィーネにしか見せないことを、ヨゼフィーネは知っていた。誰彼にでもするのではなく、ヨゼフィーネにだけはこんな甘い仕草を見せる。僕、という言い方もヨゼフィーネの前だけでしかしない。それは出会った頃の彼のままだ。大人になって処世術を身につけたリュカスが、他人には見せない素の姿だった。ヨゼフィーネだけには本当のリュカスを見せてくれているようで、それが密かなヨゼフィーネの悦びだった。

 リュカスはどんな煌びやかな王族や貴公子よりも、ヨゼフィーネにとっての王子様だった。

 頬の火照りは消えないまま、ファラゼイン邸に着いてしまった。


「行こうか」

 リュカスの手にすがり、馬車を降りた。





 質実剛健、という言葉がまさにぴったりのファラゼイン邸の、重厚な扉の前にふたりで立つと、待つ間もなく、執事が扉を開けて招き入れた。


「ようこそお越しくださいました」


 開かれた扉からは幸せな空気が流れてきた。賑やかで明るく、浮き立つような音楽と、人々の笑い声。既にたくさんの祝い客が訪れている。温かい空気だった。

 その空気にほっとする。

 上流階級の人々が集まる会はピリピリする雰囲気のことも多い。王都の屋敷や王城で開かれる夜会などは、人々の思惑が入り乱れて、緊張を強いられることが常だった。それが、今回は感じられない。

 ファラゼイン家の人々はあまり頻繁には社交界に顔を出さないし、主催する夜会なども少ない。このような機会は少なかったが、数少ない会の中でもとりわけ和やかな感じがした。

 それを、ヨゼフィーネはファラゼイン家の家風のようにも感じていた。

 辺境とヨゼフィーネの実家の長閑な空気は、どこか似ているのかもしれない、と思う。

 大広間に案内されて、くるくると挨拶に回る主役を捜して捕まえた。


「バルトルト、クロエ! 今日はおめでとう!」

 笑顔でリュカスがふたりに祝福の言葉をかける。

「リュカスお兄様、ヨゼフィーネ様! お忙しいところ、お越しくださいまして、ありがとう存じます。今日は楽しんでいってくださいませ」


 バルトルトと腕を組んだクロエは弾けるような笑顔だった。

 クロエは元々目を引く美しさがあったが、婚約者を得てさらに美しさを増したようだった。バルトルトも騎士だけあって、普段は近寄り難いような鋭い目つきをしていることが多いが、クロエの隣で見たことがないような柔らかい表情をしている。幸せそうなふたりに、ヨゼフィーネも心から祝いの言葉をかけた。


「本日は、おめでとう存じます」

義姉(あね)上。ありがとうございます。楽しんでいってください」

「ええ、もちろんですわ」


 まだ結婚してもいないのに、バルトルトはずいぶん前からヨゼフィーネのことを姉と呼んでくれていた。それを嬉しく思うし、ヨゼフィーネも本当の弟のように感じている。クロエを好きなのだろう、と思っていたが、本当に思いが通じて良かったと、感慨深かった。


「ヨゼフィーネ、僕は少しバルトルトと挨拶に行ってくるよ。君は自由にしていて」

「ええ、行ってらっしゃいませ」


 兄弟が挨拶に行ってしまうと、クロエがさっと飲み物を取って渡してくれた。ヨゼフィーネの好きな甘い酒だった。果実を漬けた薄い桃色の、酒気がごく弱いものだ。


「こちら、お好きでしたわよね?」


 クロエがそう言いながら、にこりと微笑む。

 以前、ヨゼフィーネがなにかの折りに言ったことを覚えていてくれたようだ。


「わたくし、ヨゼフィーネ様がお姉様になってくださるのが、本当に嬉しいのです」


 クロエがこういう好意を貴族令嬢に見せるのは珍しい。嘘がつけない質だから、本当のことなのだろう。

 社交界では、辺境伯の令嬢を嫌厭する者も多かった。

 ヨゼフィーネにも、クロエとあまり仲良くするものではない、と忠告する者もいた。なぜ、そこまで嫌われるのかヨゼフィーネにはよくわからなかった。派閥が違うならまだしも、ヨゼフィーネの家もファラゼイン家も中立の立場だった。家同士で言えば、なんの問題もない。さらにクロエ自身もヨゼフィーネにとっては嫌なところはなかったから、仲良くするな、という忠告は適当とは思えなかった。


 クロエはさばさばとして、直截な物言いをするが、真っ直ぐで気持ちの良い子だ。容姿も美しいし、なにをしたって目立ってしまう。だからこそ周囲を苛立たせるのかもしれなかった。目立たないヨゼフィーネは、特別持て囃されない代わりに、嫌われもしない。たぶん、目立つから叩かれるのだろうと思われた。なにをしても無関心な反応をされるヨゼフィーネとどちらがいいのだろう、と思うこともあった。


 王都の令嬢方も、きちんとおつきあいしてみればよろしいのに、とヨゼフィーネなどは思う。とても気持ちの良い方なのに、と不思議でしかなかった。

 アーヴェル家に当たり前のように混ざり込んでいることが多いクロエのことを、元々ヨゼフィーネも妹のように感じていた。それが本当に妹になるのだ。


「わたくしも。……急に決まったご婚約でしたから、少し心配していたのですけれど、おふたりとも幸せそうで安心いたしました」


 婚約式は普通三月くらい前から出席の打診があるものだ。それが、今回はひと月なかった。リュカスに訊けば、やはり急に決まったことだという。そのようにばたばたと決まる時というのは、どちらかの家に問題を抱えている場合も多い。結婚とは家同士のことだから、子どもだけの気持ちではどうにもならないこともあるが、お互いの気持ちが伴っていないままの婚約というのは、やはりやり切れないものだ。だが、ふたりを見ている限り、幸せそうだったので、問題はないようだ。


「……実は、結婚はだいぶ先になりそうなのです。いろいろ片づけなくてはならないこともございまして」

「あら、そうなのですか? わたくし、結婚式も楽しみにしていましてよ」

「遠方ですが、よろしければぜひ。……きっと、ヨゼフィーネ様の方が先でしてよ。わたくしこそ、ぜひ呼んでくださいませね」

「……そうですわね、ぜひいらして」


 微笑んだヨゼフィーネの顔を見て、クロエが少しだけ気遣わしげな表情になる。

 うまく隠したつもりだったが、寂しげなのが見えてしまったようだ。

 クロエが、ヨゼフィーネの飲み物を持っていない方の手を両手できゅっと握った。


「……リュカスお兄様にも困ったこと。いえ、そもそもラルス様ですわ、諸悪の根源は。わたくし、ヨゼフィーネ様のためにもきちんと申し上げて差し上げますわ!」

「あっ、いえ、クロエ様、大丈夫ですから……!」


 余計なことは言わないで……! というヨゼフィーネの心の叫びは聞こえなかったようだ。


「いいえ、よくございませんわ。わたくし、言うべきことはきちんと言うようにしていますの。待っていらして、お姉様!」


 言うが早いか、ぱっと身を翻していってしまう。

 こういうはっきりとして、即行動してしまうところが、貴族令嬢に嫌われるところかもしれない、とヨゼフィーネはうっすら思ったが、さり気なく「お姉様」などと呼ばれたことが衝撃的すぎて、じんわりと嬉しく胸に響いた。


「お姉様……」


 おそらくクロエは自分でも気づかず口にしてしまったのだろう。以前から心の中でそう呼んでいてくれたのかもしれない。そちらの方が嬉しくて、他のことはどうでもよくなってしまった。まあ、いいか、とヨゼフィーネはクロエがくれた酒をこくり、と呷った。結婚のことを考えると少し悲観的になってしまうが、ヨゼフィーネは生来楽観的だった。だからこそ、リュカスを急かさず待ってもいられるのだ。

 まあ、人生、なるようにしかならないのだろう。

 思い悩んだところで、事態が好転するとは限らない。

 こんなところも、クロエと気が合うところかもしれなかった。


 ヨゼフィーネは甘い口当たりに頬が綻ぶのを隠しきれず、にこにこしながら、楽しそうな会場を眺める。和やかな会場だった。

 ファラゼイン伯爵家とアーヴェル伯爵家の婚約式だから、どちらかというと中立派と大公派の家の者が多い。あとはやはり東部の領地の者が多いようだった。中央の人はそれほどいない。どうも国王派の人々が多いと一見和やかに見えても、笑顔の下で囁き声があちこちで響き、緊張を強いられることが多いような気がしていた。――今日は、そういう雰囲気はない。


 会場の端に目をやると、クロエがリュカスとラルスを捕まえたところだった。

 そのまま会場の外へとずるずる連れていくのが見えた。流石に招待客の前で、主催の兄達に小言を言うのは遠慮したらしい。その場に残されたバルトルトがこめかみ辺りを痛そうに揉んで大きく溜め息を吐いていた。


「ヨゼフィーネ義姉様(ねえさま)


 会場の端を眺めていたヨゼフィーネの視線とは逆の方向から声をかけられ、ヨゼフィーネは振り返る。そこには笑顔のマリヌ・ローラ・ファン・アーヴェルがいた。こちらの未来の妹も、ヨゼフィーネのことを姉と呼んでくれる。


「ローラ様。本日は、おめでとう存じます」

「ありがとう存じます。――わたくしは、やっと、という思いですわ。兄のじれったさを何年見てきたことか……。丸く収まって良かったと思いますわ」


 大げさに溜め息を吐いて見せるローラに、ヨゼフィーネは微笑む。親友と兄が上手くいって、一番喜んでいるのはローラなのだ。


「……ローラ様、クロエ様を止めてくださらない? 主催が会場を出てはいけませんわ」


 困ったように先のことを説明すると、ローラは苦笑した。


「兄様達も少し怒られた方がよろしいわ。放っておいて大丈夫ですわよ。クロエもきっとすぐに戻ります。もうすぐ式が始まりますから。……ああ、ほらバル兄様が迎えに行きましたよ」


 バルトルトが外に出ていくのが見えた。

 あまり大事にしないでくれるといいのだけれど、とヨゼフィーネは思った。

次話が番外編ラストです。

もしよろしければ、もう一話お付き合いください。

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