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37.口づけ

「お帰りなさいませ、お父様」 


 王都に戻ったその晩、お父様は会食があったのか、夜遅くに帰宅されました。出迎えたわたくしを驚いたようにご覧になりました。


「二週間ほど旅行に行くと言っていなかったか?」

「急用ができたので早めに戻って参りました」

「そうか」


 居間に落ち着かれて軽いお酒を運ばせると、書類を取り出しながら仕事の続きをなさいます。


「お父様、明日の夜、少しお時間をいただけないでしょうか? お話ししたいことがございます」

「明日? 明日の夕食は特に予定もないからいいが……、今できない話か? これは目を通すだけだからすぐ終わるが」


 仕事の邪魔になることを気にしているのか、と手を止めてわたくしの方を改めてご覧になります。


「――いえ、明日で。夕食の前に少しお時間をください」


 この場で話さないことを少し奇妙に思われているようですが、今夜は既に会食でいくらかお酒を召されているのか深く考えるのが億劫そうでした。疑問に思うまではいかれず、軽く頷かれました。


「ああ、わかった。明日は早めに戻るようにする」

「ありがとう存じます。――ではおやすみなさいませ、お父様」





 バリィには深夜でもいいと言われましたが、使いに出す者も就寝する時間なので、朝早く使用人達は既に働いているくらいの時間帯に、アーヴェル家に使いを出しました。

 執事には本日夕食にもしかしたらお客様が増えるかもしれない、ということだけ伝えておきます。普段からひとりくらい増えたとしても問題ない量を用意しているはずですし、ファラゼインの使用人達は優秀ですから慌てることはないでしょうが、伝えておくのとおかないのでは料理人や側仕えの心持ちが違うでしょう。夕食の前に話が終わるかもしれませんが、用意しておくに越したことはございません。


 夕食より少し早い時間にバリィがやってきました。

 鎧やマントはつけていませんが、エリスタル騎士団の正装に身を固めています。まるで戦にでも行くような物々しい雰囲気で緊張した様子なので、とりあえず椅子に座らせます。手ずからお茶を淹れて差し出すとひと口飲んで、やっと少しだけ落ち着いたようでした。


「お嬢様。旦那様がお帰りになりました。こちらへお通ししてもよろしいですか?」

 侍女が伝えてくれて、わたくしは頷きました。

「ええ、お願い」


 執事と共に客間に現れたお父様に対して、バリィは背筋を伸ばしてピシリと立ち、上官に対する騎士の礼をします。お父様に剣の手ほどきも受けているので半分弟子のようにも感じているのか、普段からお父様に挨拶する時はそのようにしています。今日は騎士団の制服や緊張具合から、まるで職務中のように見えます。


「バルトルト、来ていたのか。エリスタルに戻っていたのではないか? 西でなにかあったか?」


 お父様もバリィに礼を返し、驚いたように尋ねました。


「一昨日西の砦から戻りました。西には特になにもありません。私は今休暇中です」

「休暇中? それにしてはずいぶん堅苦しい格好ではないか」

「まあ、ふたりとも、立ち話もなんですからお座りになって」


 わたくしはお父様にお茶を淹れ、バリィの隣に座ります。円卓の下でそっとバリィの手を握りました。いつもは温かいバリィの手が氷のように冷たくひんやりとしています。わたくしの存在を思い出したかのようにこちらを見たバリィが、少しだけ表情を緩めます。


 少しずつバリィの手に体温が戻ってくるのを感じながら、僅かな時間、お父様を観察いたします。

 バリィとお父様は円卓の向かい側におりますから、突然殴りかかられるということもないでしょう。

 わたくしの淹れたお茶を口にし、一息ついたようですが、依然わたくしとバリィを見て訝しげな表情でございました。


「クロエ、話があるということだったが、来客なら後にするか?」

「いえ、今で構いません」


 わたくしはバリィと目を見交わしてから、一度すっと息を吸いました。


「お父様、わたくしバリィと結婚いたします」


 お茶を口にしていたお父様が一瞬固まり、次いで激しく噎せました。がちゃり、と音を立てて茶器が受け皿に置かれ、中身がいくらか零れました。


「ゲホッ、ゴホッ、……ぐ、な、なんだと?」


 バリィがさっと立ち上がり、お父様から全身が見える位置に出て、素早く跪きます。胸に手を当て、まるで王族や高位の貴族の命令を拝命するかのように礼をしました。

 ――ああ、バリィ、そんなに近づいてはお父様を円卓の向かいに座らせた意味がないではないですか。


「お嬢さん――クロエ嬢と結婚させてください!」

「け、けっこん……!?」

「お父様、バリィは五男ですし、エリスタル騎士団を辞めてお婿に来てくださるそうですわよ。エミエールが成人して領主を継ぐまでリゼインで補佐をしてくださいます」

「アーヴェルには許可を得ています。ファラゼイン卿さえよろしければ、すぐにでも婚約したいのです」


 突然過ぎて、思考が追いついていないお父様にわたくしとバリィは交互に話しかけます。


「バリィでしたら婿養子に来ることになんの障害もございませんし、いざという時、伯爵軍も任せられます。ヴァシル様と違って家族ぐるみで仲も良いですし、ファラゼインの事情もわたくしのこともよくわかってくれています。これ以上、よい条件の方はいらっしゃらないと存じますわ」

「クロエ嬢を子どもの頃から慕わしく思っておりました」


 バリィはそこで一度言葉を切ると、わたくしの方を見て少しだけ優しい表情になりました。


「――今は、愛しています」


 お父様に宣言されたのですが、初めてはっきりと「愛している」などと言われ、頬が熱くなります。


「どうか、結婚を許してください」


 真摯に続けるバリィをお父様はただ唖然として凝視していました。

 ――これほど、驚かれるとは思っていませんでした。


「――お父様、反対されても無駄ですわよ」

「なに?」

「既成事実がございます。他の殿方とは結婚できません」

「き……!?」


 お父様は絶句し、バリィはぎょっとしてわたくしを見ました。

 すうっと、お父様の周りの温度が下がっていくかのように感じられました。


「お前……、アーヴェルの別荘に行くと言っていたが、まさかバルトルトと一緒だったのか……!?」


 バリィが慌ててぶんぶんと顔を振ります。


「ち、違います! 私は一昨日西の砦から戻ってきたばかりです……!」


 お父様がゆらりと立ち上がりました。


「貴様……、結婚前の娘をキズものにしてただですむと思っておるのか……!?」


 バリィの胸倉を掴み、引きずり上げるように立ち上がらせます。バリィは涙目になって、必死にお父様を止めようとします。


「ご、誤解です! お嬢さんには手を出していません! 断じて! 騎士の槍にかけて! 剣にかけて!」

「あら、わたくしに口づけしたでしょう? 何度も」

「クロエ……! そなた、なにを言ってるんだ!? 既成事実の意味、わかって言ってるのか!? 口づけだってしてないだろう、唇には!」

「は、破廉恥な奴め! 口以外のどんな場所に……!」

「か、顔ですッ! 顔だけです……! 挨拶程度の軽いものですよ……! ファラゼイン卿、信じてください! 結婚まではと思って、私がどれだけ我慢したことか……!」

「嘘をつくな! 我慢がならなくなって手を出したから、こんなに突然結婚をさせろなどと言うのではないか!? ……は! まさか、に、にに、ににに……!?」

「だから、誤解ですと申し上げているではないですか! 後ろ暗い行為は一切しておりません! 婚約を急ぐのは別に理由があって……!」


「わたくし、バリィ以外の殿方は嫌です。そういう体にされました」

「誤解を招く発言はやめてくれ……!」

「槍試合で優勝もできない奴に娘はやれるか!」

「ぐ……っ! そ、それを言われると反論できませんが……っ! ならば一年後の槍試合で優勝します。そうしたら結婚させてください! もし、優勝できなければ婚約破棄でも構いません、私を試してください!」


 バリィはお父様の目を正面から睨み、宣言しました。


「クロエ嬢を一生守ると誓います! ファラゼイン家も、リゼインの領民も、東を守ってたとえ大国相手でも戦います! お嬢さんを守るためです、婚約式をさせてください!」


 後ろ暗いところはなにもない、と堂々と言葉を重ねるバリィが格好良くて思わず胸が高鳴ります。

 お父様は振り上げた拳を振り下ろすことなく、留めたまま低く問います。


「クロエを守るため? ――なぜ、急ぐ?」

「――国王陛下がクロエ嬢を王族と縁付かせようとなさっているからです。正式に申し入れがある前に婚約だけでも発表しておきたいのです。流石に外聞が悪くて、婚約者がいる者を婚約破棄させてまでは望まないでしょう」


 ――え、初耳です。あれは舞踏会で終わった話ではなかったのでしょうか。


「……誰の情報だ?」

「兄と母、双方からの情報です。アーヴェルの王都での情報の正確さはご存知のはずです」

「ラルスとテューラ殿か……」

「ファラゼイン卿に許可さえいただければ、すぐに父が領地から参ります。詳しい話は父と取り決めていただいて結構です」


 そこでバリィは苦笑したようでした。


「アーヴェル家の家訓は『伴侶は自分で見つけて来い』というものでして、男子たるもの親の助けなど借りず、相手の家の許可を取ってこい、と常々言われております。相手の心、そのご家族の心を捉えられないでなんとする、それまで一切手助けはしない、と言い聞かされて育てられました。その代わり、我が家では子どもが選んだ相手に文句はつけません。むしろクロエ嬢なら幼い頃から知っているので歓迎する、と言われました」


 ――変わった家ですわね。

 貴族の結婚とは、双方の親同士で決められることが多いのでございます。親の思惑で政略的に行われるのが大半でございます。

 恋人同士でも、まずは親から相手の親に話を通してもらい、根回しを充分してから初めて子どもが挨拶に来ることが通例なのです。だから、今回のことはお父様にとっては寝耳に水、根回しもなにもない突然の暴挙に映ったことでしょう。


 でも、お父様だって、大公殿下ではなくヴァシル様に直接交渉なさっていました。成人されて何年も経つ爵位をお持ちの方ですから、大公殿下に交渉されなくとも良いとはいえ、慣例とは違うなさりようでした。わたくしのことをとやかくは言えないはずです。


「突然の話になってしまったことはお許しください。私にはこのような形でしか申し入れができなかったのです。まずはファラゼイン卿に婚約のお許しをいただかなければ、アーヴェルは動かないから。槍試合での優勝が結婚の条件なら、必ず果たします。それ以外にも条件があれば、すべて受けます。……王家はもちろんですが、ソルパテリアが動く前にファラゼインの身内と認められたいのです。そうでなければご助力したくともできない」


 大国の名に、ピクリとお父様の眉が上がりました。それに反して、振り上げた拳がゆっくりと下げられました。バリィの胸倉を掴んでいた手を離し、どさりと音を立てて椅子に腰掛けられました。


「私は、クロエ嬢を……、彼女を育てたリゼインを守りたいのです。その仕事を手伝わせてはいただけませんか?」


 お父様は頭を抱えて、強くこめかみを揉んでいます。


「お父様、わたくしバリィ以外は嫌です。ヴァシル様よりディリエお兄様より、他のどんなに優秀な方より、バリィがいいのです。お願いします、許してください」


 わたくしはバリィの側に立ち、胸の前で祈るように両の指を組んでお父様にお願いしました。お父様はわたくしとバリィを見やり、それから深く溜め息を吐きました。


「……アーヴェル卿に連絡を取る。結婚の条件などはそれからだ」

「――それは、婚約は認めてくださると?」

「仕方あるまい。……こんな跳ねっ返りで非常識な娘、王族などにやれるか。不敬罪でファラゼインが取り潰しになる未来しか見えん。アーヴェルと縁付かせる方が問題が少なくてすむ」

「ありがとうございます!」


 わたくしとバリィは思わず手を取り合って喜びました。手を繋いでいるわたくし達をじろり、と睨み、お父様は頭が痛そうに再び深い溜め息を吐きました。


「バルトルト……、クロエに一般的な『既成事実』の意味を教えておけ。認識が間違っているに違いない。他で喧伝されてもかなわん」

「――そういうことはご家庭の教育の範疇では?」

「儂はこの娘の相手はもう諦めた。婚約者なら上手く手綱を捌け。……ああ、でも結婚までは実践はするなよ」

「……心得ております」

「休暇はいつまでだ? 今夜は王都に泊まるのだろう? 急いで戻らなくてもよければ食事をしていくといい。食事の前に手合わせをしよう。少し発散させてくれ」


 バリィは微笑んで頷きました。


「――喜んで」





 執事も侍女も外していますので、部屋にふたりだけ残されました。着替えに行ったお父様を見送ってから、わたくしはバリィの服の袖をそっと掴みました。


「バリィ、ありがとう」

「ああ、許してもらえて良かった。……しかし、とんでもないことを言ってくれたものだ。なんだ、あれは。ぶち壊しにするところだったぞ」


 呆れた声で呟き、ぽんぽんとわたくしの頭を優しく叩きます。

 ああ言った方が、話が早いかと思ったのです。

 ――はい、ややこしくなりましたね、ごめんなさい。


「そなたは『既成事実を作る』という行為をなんだと思っているんだ?」

「――え? く、口づけのことではなくて? それで充分成立しますでしょう?」


 ちょっと視線を外して言うと、両頬を挟まれ無理やり視線を合わせられます。じっと見つめられて、かあっと頬が熱くなります。


 ――嘘です。流石に、一般的にどういう状況のことを言うのかくらいは、わかっているつもりです。


 バリィがふ、と意地悪そうに笑い、それでこちらの嘘がばれていることに気づきました。


「じ、実践するな、とお父様に言われませんでした?」

「言われたな。――そうか、仕方ない。ここまで我慢したんだから、結婚まではしないことにしよう。クロエの言う『既成事実』とは口づけのことらしいからな」


 手を外され、バリィが体を離します。咄嗟にわたくしはバリィの袖を掴みました。


「うそ、嘘です! 知ってます、諦めないで! 口づけくらいはいいはずです!」


 ――ああ、変な懇願をしてしまったわ……!


 みるみる真っ赤になったわたくしに、バリィは耐えきれないというように吹き出しました。


「俺を試すな。――我慢してるんだから」


 愛おしそうに目を細め、優しい指がするりとわたくしの頬を撫でます。


「いいの、あんな約束をして? 槍試合で優勝するなんて……」

「ああ、やってやる。剣を使えば、そう簡単に負けない」

「え、そうなの?」

「俺は槍より剣の方が得意なんだ。エリスタルでは騎士なら槍で勝てと言われているし、ディリエ兄上が槍で優勝したから槍で戦ってたのだ。ディリエ兄上は槍だと馬鹿みたいに強いんだよ、とても太刀打ちできないんだが……、剣に限って言えば、兄上にもそう簡単には負けないんだ。……なりふり構ってられるか。やるといったらやる。優勝するくらいわけもない」

「そうなの……」

「だから一年待っててくれ。……それまで西と東が動かないことを願っていろ」

「バリィ……」


 バリィの手がそっとわたくしの顎にかけられました。僅かに顔を上向けられます。


「『口づけくらいはいいはずです』?」

「く、繰り返さないで……!」


 甘く笑んだバリィの顔が近づいて、唇に啄むような微かな感触。

 ぐっと体を引き寄せられて強く抱きしめられます。わたくしも、バリィの背に手を回しました。


 そして、目を閉じます。


 ――息もできないような、深い口づけを受けるために。






(おやくそく)


(唇が触れる寸前、バーンッとドアを開ける音)


父→「なにをやっとるかーッ!?」

ふたり→「わあっ!?」「きゃっ!」(パッとはなれるふたり……)


◇◇◇


……なんてことがあったかも。

ふたりがこの後どうなったかは、ご想像にお任せします。


なんとかラブコメ風にしたつもりなのですが、どうでしょうか。

クロエが無事婚約者を得ましたので、クロエが語るクロエの物語はここで終了です。


(あらすじ通りにはなったかな。R15に収まったとは思うのですが……大丈夫ですかね?)


次話、後日談的なエピローグで完結します。

よろしければ、もう一話、お付き合いください。

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