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36.黒猫と眠る

 身体を拭くための湯をありがたく使わせてもらい、アートが貸してくれた夜着に着替え就寝の仕度をしていると、片付けを終えて戻ってきたアートが部屋に入るなり黒猫の姿になりました。


「この姿でもいい? 私もなんだか疲れちゃったよ……」


 とん、と軽い動きで長椅子に飛び乗り、あくびをひとつして、ぐっと体を伸ばします。その場で少し長椅子をフミフミしてから丸くなります。寝心地を確かめるように二、三度パタパタと尻尾をゆらしてからその尻尾もくるりと体に沿わせました。

 続き部屋に控えるようヴァシル様には命じられていましたが、同じ部屋で眠ることにしたようです。わたくしとしてはアートが同じ部屋にいることに旅の間に慣れましたし、なにかあった時にすぐ声をかけられるのは安心できます。


 旅の間はずっと人の姿で寝ていましたが、やはりどこか緊張していたのかもしれません。猫の姿だとずいぶん寛いでいるように見えます。もし普段眠る時は猫の姿なのだとしたら、それは疲れたことでしょう。人の姿を保つのに魔力が必要だということですから、猫の方が楽なのかもしれません。


「なにかあったら気にしないで起こしてね。……おやすみにゃにゃー……」


 眠そうにむにゃむにゃ言って、最後の辺りは猫の鳴き声にしか聞こえず、わたくしは思わず小さく吹き出しました。


 か、かわいい……!


「おやすみ、アート……」

 そっと囁いてわたくしも寝台に横になり、休ませてもらいました。





 翌朝早く、頬のあたりにさわさわと触れる柔らかな感触にくすぐったくて目が覚めました。

 リゼインの城でも王都の屋敷でもない見覚えのない天蓋を見上げて、「どこかしら、ここ……」とぼんやりと思います。


 ――ああ……、メディシュラムの離宮に泊まったのでした。


 そこでまたさわさわとした感触がして、今度は視界に黒い物が入りました。なんだろうと左の肩口を見ると、黒い塊があって一瞬ぎょっとします。

 黒い毛布のような、艶やかな天鵞絨のような毛の塊は微かに上下しています。丸い塊からは細長い尻尾が伸びていて、時折ぱたぱたと揺れるそれが頬をくすぐるのでした。

 ――アートですか……、びっくりしました……。


 長椅子で寝ていたはずのアートが、いつの間にか寝台に入り込んで一緒に寝ていたようです。

 わたくしはそっと手を伸ばして、眠るアートの体を撫でてみました。


 ――柔らかい……!


 温かく、手触りはまさに高級な絹の天鵞絨のようです。


 ――気持ちいい……。


 なでなでしながら規則正しい寝息で穏やかに眠るアートを見ていると、こちらまでうとうとしてきてしまい、普段はめったにしない、二度寝をしてしまいました。





 次に目覚めた時は、アートは侍女姿で着替えや朝の洗顔の用意をしてくれていました。忙しく立ち回りながらほとんど音を立てない歩き方は、やはりどこか猫のようです。

 起き上がって無駄のない動きを思わず目で追っていると、こちらの気配に気づいてアートが振り返り笑顔を見せました。


「おはよう、クロエ。体調はどう?」

「おはようございます、アート。体調は問題ございません」

「よく眠れたかな? もう起きられる?」

「ええ」


 夜中に目覚めることなく、ぐっすりと眠れました。他人の家で熟睡できてしまう自分もどうかと思いますが、野営訓練でも結構眠れましたし、基本的にはどこでも眠れることは長所だと思っています。

 わたくしが洗顔をすませるのを待って、アートが尋ねてきました。


「着替え、手伝う?」


 正式なドレスは手伝ってもらわないと着れないものもございますが、兵士の服ならひとりで着替えられます。


「いいえ、大丈夫ですわ、ありがとう」


 煩わせるのも悪いのでお断りすると、アートは洗面器や布を持って部屋を出ていきました。

 寝台脇には小物用の脇机がございますが、その上に綺麗に洗濯されて畳まれた兵士の服が置かれていました。小型の鏡や櫛など髪を整える準備もされていて、女性がいらっしゃらない屋敷なのに心配りに感心いたします。

 いつの間に準備してくれたのでしょう。すべてアートが用意したのであれば、ファラゼインで雇いたいくらいの優秀な仕事振りでございます。


 身支度を整え食堂へ向かえば、ヴァシル様は既にお食事をすませたようで、いらっしゃいませんでした。美味しい朝食を堪能した後、アートを話し相手に昼頃までゆったり過ごします。ローラと一緒にアーヴェルの馬車でここまで来たので、ローラがセイネから戻るまで待たねばなりません。まさか大公の紋章入りの馬車で家に乗り付けるわけにもいかず、昨夜も泊まることになったのです。

 使いをやってくれたそうですが、到着するまで早くとも夕方頃まではかかるだろうと予測していたのに、昼過ぎにはローラがやってきました。


「ローラ、早かったわね。暗いうちに出たの?」

「ええ、夕べ知らせがあったから急いで来たのよ。ずいぶん早かったわね? 一週間もかかっていないなんて。途中で諦めて引き返してきたわけではないでしょう? どんな魔法を使ったの?」


 お茶をしていた机にそのままアートとミアが昼食代わりの軽食を用意してくれました。ちょっと豪華なお茶会のようになった席にローラも座り、お茶を飲んで一息入れます。


「魔法というならすごい魔法なの。今度ゆっくりお話するわね」


 朝食も食べずに馬車を走らせたローラはお腹が空いていたのか、卵や野菜、また果実を甘く砂糖で煮たものなどをそれぞれ挟んだ何種類かのパンを、伯爵令嬢らしい優雅な手つきでぱくぱくと口にしていきます。

 お菓子しか口にしないようなお嬢様に見える外見に相違して、ローラは華奢な割に健啖家でございます。武勇に優れるアーヴェル家の方は身体も丈夫で胃腸が強いのか、意外としっかり食事を取ります。


「とりあえず、上手くいったのよ。あとはお父様に許可をいただくだけ」


 それが一番の難題だとも言えますが――まあ、なんとかなるでしょう。バリィも一緒に帰ってきたのだと言えば、目を丸くして驚かれました。


「忙しないわねぇ」


 そう言うローラこそ上品な仕草は損なわないまま忙しなく食事を続け、甘いお菓子などまで片付けて食後のお茶を一杯飲むと、さっと立ち上がりました。


「御馳走様、アート、ミア。――では王都へ帰りましょう。戻ったら我が家は家族会議よ」

「いろいろありがとう、ローラ」

「いいえ。あなた達にかけられる苦労は子どもの時から慣れているもの。……上手くいって良かったわ」


 ローラはバリィの気持ちを知っていて、ずっとやきもき見ていたようで、やっと肩の荷が下りたかのように朗らかに笑いました。

(どうでもいいつぶやき)


クロエ→「猫飼いたい……。飼おうかしら……。撫で撫でしたい……撫で撫でしたいわ……モフモフした子と一緒に寝たい……!」


◇◇◇


ファラゼイン邸では残念ながら、猫は飼っていません。馬はいっぱいいます。

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