34.帰還
魔法陣に踏み込んだ足から微かな違和感――まるで水に足を浸したかのような僅かな抵抗を感じましたが、すぐにその感覚は消えます。通り過ぎる一瞬だけ違和を感じるようでした。向こう側の足が地面を踏んだのを確かめてふたりで金色の輪をくぐり抜けます。
ゆらり、と視界が金色に染まり、一瞬なにも見えなくなります。もう片足を魔法陣の向こう側に持って来たところで、がくん、と体が落ちるような浮遊感に包まれました。
「!?」
――落ちる!?
無意識に繋いでいない左手もバリィに縋りつくと、バリィの右手が体を引き寄せてくれました。
ぎゅっと目を閉じてバリィの力強い手を感じると、唐突に両足の下に地面の感触を得て、落下した夢を見て目覚めた時のように、全身がびくりと震えました。
頭がくらりとして膝が崩れ落ち、座り込みそうになりそうなわたくしの腰をバリィが支えてくれました。
「大丈夫か?」
「え、ええ……」
目を開けると、そこは先ほどまでいた西の砦の厩舎ではなく、出発前にいたメディシュラムの離宮の厩舎でした。
「気持ち悪い……」
馬車でひどい道を延々走った後のように吐き気がして、目眩を起こしたかのように頭がくらくらしました。
――ひどい。戦意喪失ですわ……。
魔法陣を通った後、使い物にならないのでは意味がございません。軍を送るのも考えものですね。
「歩けそうか?」
わたくしを支えたバリィが気遣わしげに尋ねてくれますが、バリィの胸に縋ったまま、わたくしは吐き気を堪えました。
「……無理。少し待って……」
すると、バリィがふわりと横抱きに抱き上げてくれました。
「寄りかかっていいぞ」
目を上げればすぐ側にバリィの顔があって、急に恥ずかしくなります。しかし、バリィの眉間の皺を見て心配になりました。
「バリィは大丈夫……?」
「ん、酔いには強い方だからな。くぐった時には少し目眩と吐き気がしたが、この程度なら問題ない」
お言葉に甘え、バリィの肩辺りに頭を預け休ませてもらいます。
鍛えている騎士との違いを感じて少しだけ悔しくなります。同時に、バリィの胸や香り、力強い腕にどうしようもない安心感を覚えている自分が不思議でした。
バリィがわたくしを抱えたまま、魔法陣から少し外れた位置に移動しました。ほどなく、馬を連れたアートが魔法陣から出て来た後、背後で金色の光が消えました。
今までそこにあった大きな魔法陣は跡形もなくなっていました。ぐったりとバリィに抱えられているわたくしに、アートが驚いたように声をかけてくれます。
「クロエ、平気? 部屋を用意してくれてると思うから今夜は休んでいって」
「ありがとうございます。……あの、ギルは?」
「帰った」
一緒にいらっしゃると思っていたので、挨拶もできませんでした。こちらに暮らしているわけではないようです。曾祖母様のお話ももっとゆっくり聞いてみたかったのですが。
「クロエのこと気に入ったみたいだから、そのうち遊びに来ると思うよ。こちらで会うこともあるんじゃないかな? お礼はその時に言えばいいよ」
アートはそのまま馬を馬房に入れてくると言い、裏口から屋敷に先に行くよう指示しました。
厩舎からは裏口の方が近いのでそちらに回ります。バリィもこの屋敷に来たことがあるのか、歩みに迷いはございませんでした。途中で白と茶色の斑髪の男性が迎えに来てくださいました。見送りをしてくれていた、ヴァシル様の使い魔でございます。
「バルトルト様、クロエ様、いらっしゃいませ」
「ソレル、クロエの休める部屋を」
「ええ、用意しています。どうぞ、こちらへ」
柔らかく微笑んで、ソレルと呼ばれた男性が客間に案内してくださいました。
「応接室でヴァシル様がお待ちですので、後ほどお越しください。クロエ様は体調が戻られてからで良いとの仰せです」
屋敷の主人に挨拶する前に部屋に入ることに落ち着かなさを感じますが、この状態ではまともに挨拶をすることもできなそうです。有り難く休ませてもらうことにしました。
なにか用があれば呼んでください、と言い残してソレルが部屋を出ていきます。
客間には長椅子と低い長机、奥に寝台がございました。使われていない部屋が多いこの屋敷にあっても、埃っぽさはなく、暖かく整えられた客間でした。
「寝台に横になるか?」
わたくしを抱えたバリィがそちらに向かおうとしますが、旅で汚れた服のまま他家の寝台に横になるのは申し訳ない気がして、長椅子に降ろしてもらいます。壊れ物を扱うようにそっと降ろされ、ゆっくり長椅子に横たわりました。わたくしを横たえると、バリィが靴まで脱がしてくれます。
――お互いの気持ちが通じてからのバリィの甘やかしがひどいです。姫君に仕える騎士のように丁寧な仕草に、恥ずかしいやら申し訳ないやらですが、吐き気が勝ってしまい、至れり尽くせりの状態を黙って受け入れます。
目眩はだいぶ治まってきたので、もう少し休んだら動けそうでもありました。
バリィは長椅子の横に膝をつき、わたくしを覗き込むように心配そうな顔をしました。
「――馬車に酔うから馬車の旅を嫌がったのか」
王都に馬で乗り付けたことに思い至ったのか、バリィが小さく納得したように頷きました。
確かに、慣れはしましたが馬車には人より酔う体質でした。その忌避もございますが、どちらかといえば閉じ込められる方が嫌なのです。同情してくれる眼差しに申し訳なくなります。
「王都内やメディシュラムくらいまでなら大丈夫なのですけれど……」
バリィがわたくしの頭を撫でました。
「ゆっくり休ませてもらえ。俺はヴァシル様にご挨拶したら閉門に間に合うように王都に戻る。母上と兄上達に話さないとならないしな。――ヴァシル様のお住まいにそなたをひとりで置いて行くのは不安だが……、どのみちこの状態では動かせないし、アートやミアがいるからひとりでも大丈夫だろう?」
立ち上がりかけたバリィの服を慌てて掴みます。告白を受け入れてもらえたことに浮かれていて、肝心なことを確かめるのを忘れていました。
吐き気をこらえて身を起こしたわたくしを、バリィが支えてくれます。
「どうした?」
優しい声がくすぐったくて、でもこれから確認することを否定されたら結婚は難しくなりますから、バリィの声に喜んでしまう内心を抑えて恐る恐る聞きます。
「バリィ、わたくしと結婚するとエリスタル騎士団はやめることになりますけれど、本当に良いのですか?」
バリィがああ、と声を漏らしてふっと微笑みました。
「――気にしてくれていたのか? 元よりわかっている。俺が婿入りするのだからな。結婚してリゼインに行くのだろう?」
「あの……、伯爵位を継ぐのはエミエールですから、わたくしと結婚してもバリィが伯爵になれるわけではないのですけど、それでも?」
バリィは笑って頷いてくれます。安心させるようにわたくしの頬を温かい手がするりと撫でました。
「わかっている。エミエールが成人するまでは伯爵の補佐をして、エミエールが跡を継いだらその補佐をする、それでいいのだろう?」
なにも説明しなくても、わたくしの家のこともわかってくれている――そのことに安堵します。
「心配しなくても、俺は元々アーヴェルでも兄上達の補佐として育てられたから、伯爵位などは気が重い。代理や補佐ならいくらでもやるし、その方が向いているんだ。官吏か騎士か選べと言われたから、エリスタルに入っただけで、ディリエ兄上ほどの思い入れはないしな。――こんなことはないとは思いたいが、もし万が一エミエールになにかあったとして、伯爵位を継がなくてはならなくなったらそなたが継げ。補佐ならいくらでもしてやるから」
領地も爵位もいらない、面倒はすべて見てくれる、という言葉が本心だということが、幼馴染みのわたくしにはわかりました。
そこでバリィがふと、悪戯っぽい笑みを浮かべてからかうような目でわたくしを見ます。
「――ほら、そなた言っていたではないか? 領地経営は自分がするから楽して美味しいご飯を食べたい騎士や貴族の五男を紹介しろって。……楽して美味い飯を食べさせてくれるんだろう?」
今更ながら、自分の失礼さに恥ずかしくなります。
――わたくしの、ばか。
思わず視線を外してうろたえたわたくしの両頬を両手で捉えるように包んで自分の方に向けさせ、バリィは愉快そうに笑いました。
「美味い飯もいいが、俺はそなたの淹れた茶が好きなんだ。一緒にいる時は淹れてくれ。俺が望むのはそれだけだ」
そのまま額に口づけを落とされます。
柔らかな感触を少しだけ首をすくめて受け取ると、バリィはわたくしの前髪をそっと撫でつけて整えてくれ、ぽんぽんと軽く頭に触れました。
「顔色が少し良くなってきたな。――明日には家に戻るだろう? ファラゼイン卿に明後日にも時間がないか尋ねておいてくれ。深夜になっても構わないから、予定がわかったらすぐに知らせてくれ。……じゃあ、ゆっくり休むんだぞ」
唇に口づけてもらえないことを少しだけ残念に思いながら、離れがたい気持ちでバリィを見送りました。




