21.舞踏会(5)
上から紐のようなものを伝って男がするりと降りてきました。わたくし達の前に立つと男の手首に紐のようなものがシュルッと音を立てて収納されました。
「辺境伯の娘を渡せ」
薄暗くてよく見えませんが、舞踏会に紛れ込んでいたのでしょう、貴族の服装をしています。男の周りだけ、闇が深いように見えました。顔形もよくは見えません。
黒いなにかが男の周りを取り囲んでいます。靄のようなものが生き物のように蠢いています。
わたくしはその気配にぞっとします。
わたくしの前で、アートがごくりと喉を鳴らすのが聞こえました。微かに震えているのがわかりました。
「――公爵の女、死にたくなかったら黙って渡せ」
「……嫌だ、と言ったら?」
ぶわり、と男を取り囲む闇が広がり、鋭くこちらに向かってきました。アートがさっと手を前に出します。
男とわたくし達の間に半透明の黒い盾のようなものが現れ、蠢く闇を弾き返しました。そのまま盾は半球状に変化し、わたくし達の周りを覆います。次々と闇が襲いかかりますが、アートはぐっと顎を引き、耐えるように立ちます。
「――魔法騎士か? 面倒な」
「騎士じゃない。……似たようなことはできるけど」
男の呟きに、アートは小さく返しました。男には聞こえていないようでした。わたくしの方を見ずに男に向かいながら、アートはわたくしに囁きます。
「……ごめん、クロエ。盾を出してる時は反撃できない。この姿だと威力半減なんだ」
持ちこたえることはできるけど、と苦しそうに呟きます。
「わかります。わたくしもドレス姿の時は戦闘能力が落ちます」
わたくしもアートにだけ聞こえるように小声で答えました。アートが僅かに笑った気配がしました。
「そういう意味ではないんだけど……、まあいいか。クロエ、逃げる隙があったら逃げて」
――逃げるといっても、どうやって?
この黒い触手のようなものの追撃から逃れてひとりで逃げることが無理なことはわかります。
「無理ですわ、アート。あんなものから逃げる方法がわかりません」
わたくしはスカートの下から短剣を引き抜きました。逃げられないなら戦うしか方法はございません。
「それに、敵の狙いはわたくしなのですし、あなたのようなか弱い女性を置いてわたくしひとりで逃げよと? それこそヴァシル様に顔向けできません」
「この際ヴァシル様のことは気にしなくていいよ。どっちかというとクロエがとばっちり受けてるんだよ、これ」
「どういう意味ですか?」
「込み入ったことを説明する余裕がない」
「……ですわね。アート、あなた魔法騎士ではないとおっしゃいましたけど、魔法使いに詳しいですか?」
「まあ、少しは」
「魔法使いには物理的な攻撃は効きますか?」
「弾かれないで身体に当てることができれば有効。あのもやもや、たぶん物理攻撃も弾けるから難しい。威力によっては可能かも」
「この黒い盾、内側から武器を通すことはできますか?」
「できる」
「ちなみにアート、この状態はどれくらいもちますか?」
「相手がひとりである限り、この程度の魔力ならたぶん朝までは持つ」
相手がひとりではなくなったら難しい、ということです。
「相手の魔力を封じる方法はないのですか?」
「……できたらやってる。専用の魔道具がないと、私には無理」
「アート、当たらないとおっしゃいましたけど、至近距離なら矢を当てられますか?」
それまで打てば響くように短く答えていたアートが逡巡したように言葉を切りました。
「……できない」
暫しの間の後、本当に苦しそうにそう答えました。
「それは技術的に?」
「……当たるかもしれないけど、やりたくない。気持ち的に。遠方で威嚇ならやるけど、急所を狙ったり外したりする技術がないし、人に矢を向けるのがそもそも怖い」
男性のように話し、魔法騎士のように戦えて、怪我に対する対応も慣れています。なのに人を傷つけることを恐れてもいるようでした。
もしかして、若い女性の悪意が怖いとおっしゃった青い顔も繊細さもわたくしを連れ出す演技ではなく、本当だったのでしょうか。わたくしの腕にかけられた指がひんやりとしていたのを思い出します。あれは、緊張していたからだと気づきました。
「私に矢を射ろってこと? 無理だよ。盾と弓を同時に出せないし……。あ、まさか、クロエ、なにかする気なの?」
「今、考えてます」
「や、やめて。余計なことしないで、危ないから。そのうちヴァシル様来るからそれまで大人しくしてれば――」
「いらっしゃらなかったらどうするのです。あなたが耐えられなかったら? 魔力も無尽蔵ではないのですよね? なくなったらどうなるのです?」
「いや、来るから! 魔法騎士団にも頼んであるし、他が片付いたらすぐ来るから! じゃなきゃ私をクロエに付けたりしないって!」
悪意に息が詰まったのは本当かもしれませんが、ひとりでわたくしを追いかけてきたのはやはりヴァシル様のご指示だったようです。
ここで、集中の切れたアートの盾が少し緩んだようでした。男の闇が勢いを増して盾に当たり、じり、と男が一歩近づきました。
はっとしてアートが盾を強めます。一回り小さくなって、強度が増したようです。自在に形を変えることができるのは便利でございます。
「もしかしてわたくしが落ちた時、受け止めてくださったのもこの盾ですか?」
「そうだけど」
「形を変えることが可能ですわね……、では反転させたら敵を拘束できるのではないですか?」
攻撃を弾く強度があるのですから、それを利用して拘束するのも可能なのではないでしょうか。
「反転? そんなことやったことないよ! それに反転させると守りができなくなるからその隙にこっちが捕まる」
「わたくしが剣を投げて当てて気を逸らしますから、怯んだ隙にやってください」
「け、剣?」
「護身用ですわ」
「ドレス姿でそんなものどこに持ってたの!?」
「乙女の秘密ですわ」
わたくしはアートの後ろから剣を構えます。目の前はアートの盾と男を取り囲む黒い靄とで闇に沈んだように見えます。ほとんど敵の姿が目視できません。
――この状態で当てるには?
弾かれたら意味がありません。正確に、威力をつけて投げなければ。
「アート、帯貸してください」
「ひゃ!?」
バリィの肩に巻くために切って若干短くなっていた細帯を後ろから解きます。
「なになに!? やめて、勝手に解かないで……!」
「静かに! 飾りだからいいでしょう! 黙って……!」
絞れていたドレスがふわりと広がりますが、帯で合わせを止めてあるわけではないので問題ないはずです。縫い目に短剣を入れて開き、さらに細く裂きます。
その布の端を短剣に結びつけます。細い紐が欲しいところですが致し方ございません。ぎゅっと結び軽く引っ張って外れないことを確認します。
短剣は一本しかございません。投げたとしてもし当たらなかったら、あるいは弾かれたら意味がございません。気休めかもしれませんが、失敗しても回収できるようにしておきたいのです。
――次に、相手の位置。
「あなた! デスメト侯爵の手の者ですの!? なんの目的でわたくしを狙うのですか!?」
急に声を張り上げたわたくしに、ぎょっとしたようにアートが震えました。
――内容はなんでもよいのです。相手が答えれば。
「――我等は侯爵夫妻に忠誠を誓う者。侯爵夫妻の仇討ちである」
――答えた……!
声の響き、方向から相手の位置を確認します。
「わたくしが狙いならアートゥラ様は見逃してください!」
「……もはや、ならぬ。魔力持ちは邪魔だ」
おそらく、大きく踏み込んで三歩から五歩。それほど遠くはない距離だと存じます。
――帯、足りるかしら?
失敗したら警戒されますし、反撃される隙を与えるでしょう。一度で成功させる気で行かなければ。
帯のせいで余計な重みができて飛ばすのは難しいし、投擲の練習はあまりしていません。この短剣にしても、護身用であって本来投擲用ではないのです。
ただこちらから相手が見にくいように、おそらく相手もわたくしの様子ははっきりとは見えていないでしょう。
不意をつければそれでいいのです。
――どこを狙う? ……腹部、もしくは足。当たったとして即死ではない位置に。闇に沈んだ頭を狙うのは外す率が高いし、面積の広い身体の中心部を狙うのが得策。
「アート、やりますわよ」
わたくしはアートのすぐ後ろで囁きます。
「いち、に、さんで投げます」
アートが焦って「ふぇ」なのか「うぁ」なのかよくわからない返事を返しますが、もう無視して構えます。
「いち、に……、さん!」
短剣が白い軌跡を描いて飛びます。真っ直ぐ男に向かって行きましたが、キン、と硬質な音を立てて弾かれました。
「ひゃん!?」
一瞬、盾を解いてしまったアートが変わった悲鳴を上げ、慌てて平たい盾で咄嗟に防ぎます。
――ああ、やっばり帯足りなかった!
弾かれて右手に飛んだ短剣に結びつけた帯が虚しくふわふわっとたなびいて離れて行きます。
「ク、クロエ!?」
どうするの!? という声にならない叫びを聞いた気がしましたが、わたくしは咄嗟に帯の先を追い、アートの盾から飛び出しました。
帯の端を掴んだと同時に黒い靄が向かってくるのがわかりました。こちらを攻撃するために男の防御が一瞬薄くなります。帯をぐい、と手繰り寄せます。
黒い靄がわたくしの足に巻きつき、すくわれる形で転びます。首にするりと黒い靄が巻きつき、一気に喉を絞め付けられました。
「ぐっ……!」
視界が霞みながらも、手に短剣の微かな感触を得て、触れたと同時に男に向かって投げました。
次の瞬間、僅かにふっと息がしやすくなりました。投げた剣に僅かに男が気を取られたのです。次いで、ぶちりと音を立てて靄が断ち切られ、男の方向からドン、という衝撃が響いてきます。
「ごほっ……!」
咳をしつつ、身体を起こすと男がいたあたりにお椀を被せたような黒い半透明のものがありました。
振り返るとアートが真っ青な顔で眉間に皺を刻み、男の方角に向かって両腕を突き出すようにして立っていました。
――反転した盾……!
ぐっと顎を引き、じりじりとアートが近づいていきます。近づくにつれ、盾は小さく色を濃くしていき、すぐ側まで近づいた時には男は真っ黒で巨大な蓑虫のようになっていました。
アートが腰を抜かしたようにぺたりと座り込みます。
「クロエの馬鹿……! 良かった、突き刺す系の攻撃じゃなくて……! あのもやもやで突き刺したりできるヤツいるんだよ! 無茶なことしないで!」
少し涙目になってわたくしを睨みます。
「し、死んだかと思った……!」
蓑虫のようにしてしまうと、手を離しても大丈夫なようでございます。
――魔法、便利ですわね。




