プロローグ
見事な庭園の片隅で少女が泣いている。
まだあどけない、七、八歳くらいに見える小さな体を植え込みに隠れるように縮こまらせて、泣いている。
「……クロエ?」
名を呼ばれて少女の背がビクリ、と震えた。
「バ、バリィ……?」
「そなた、こんなところでなにしてる?」
隠れるように泣いていた少女――クロエに声をかけたのは、同じ年頃の少年だった。
「……ほ、放って、お、おいて、ちょうだい」
しゃくり上げながら気の強い調子で返されて、少年は呆れたように隣に座った。
バルトルトという少年の名を、クロエはバリィという愛称で呼んでいた。バルトルトはクロエには黙っていたが、他の誰も呼ばないその愛称を密かに気に入っていた。
「人の家の庭で放っておいてもなにもないだろう。こっちだって迷惑だ。――なにを泣いている?」
横から、涙で濡れ赤く泣きはらした顔を覗かれ、クロエはぷいっとバルトルトから反対側に顔を背けた。
「……ディ、ディリエお兄様が、ご結婚されると、聞いて」
「ああ。……それでか」
「だって、ディリエお兄様、わたくしと結婚してくださる、っておっしゃったのに……!」
「そうは言ってなかったと思うけど」
クロエがバルトルトの兄に「お嫁さんにしてください!」と言っていたのはつい先日だった。偶然その場に居合わせたのだった。
面白くなさそうに眉を寄せて、バルトルトは正確にその時のやり取りを思い出す。
「ディリエ兄上は『嬉しいな』と言っただけだ。『結婚しよう』とは言っていない」
「う、う、うれしい、って普通承諾だと思うでしょう!?」
二十二歳の青年が、十歳以上年下の少女に結婚してくれ、と言われて本気にするわけがない。兄は、年の離れた幼馴染みが微笑ましくて、ついそんなことを言ったのだとバルトルトにはわかっていた。
「兄上に婚約者がいたことは知っていただろう? なぜ自分と結婚してくれると思えるんだ?」
黙りこんでこちらを見ようともしない幼馴染みにバルトルトは溜め息を吐いた。
「……温室に薔薇が咲いててきれいだぞ。見に行こう」
クロエの手を握り、立ち上がらせようとするとクロエはやっとバルトルトを見て――というより睨んで、手を振り払った。
「そんな気分じゃ、ございません!」
「――なぜだ? 母上も姉上も花をもらえば機嫌が直るぞ。女は花が好きなんだろう?」
クロエのしゃがみ込んでいた庭園のすぐ側には立派な温室があった。庭師が丹精込めて育てた花が季節を問わず咲き乱れている。外ではまだ咲かない手入れの難しい薔薇も、温室には綺麗に花開いている。
常日頃、バルトルトの母達からは女にはまず花を贈れ、と言われていた。
しかしクロエは興味なさそうに、ぷいっと顔を背ける。
「お花よりも馬や剣の方が好きです」
「……そなたはそれで本当に貴族の令嬢なのか?」
「うるさいですわよ。わたくし、失恋に胸を痛めているのですから放っておいてちょうだい」
涙は止まったようだが、そのまま黙りこんでしまう。
バルトルトはクロエをそこから動かすことは諦めて再び溜め息を吐いた。
なんと声をかけるかと思いあぐねて結局それ以上なにも言えず、それでも隣にいると、ずいぶん経ってからクロエがぼそり、と呟く。
「……わたくし、ディリエお兄様が結婚してくださらないなら、一生結婚しないわ」
「伯爵家の令嬢なのだから、一生結婚しないってのは無理じゃないか?」
「だって、わたくしのことなんか誰も好きになってくれないでしょう? 王都の方はみんな意地悪ですし。辺境育ちの娘だって、馬鹿にするの。ローラは別だけど……。殿方で優しいのはディリエお兄様だけ」
ローラはバルトルトの妹で、クロエの親友だ。妹以外の王都の令嬢方と、クロエはなかなか仲良くなれないらしい、とバルトルトは思う。
実は同じ年頃の貴族の令息達は、一緒に遊べば剣を持ち出してこてんぱんに伸してしまう、剣技に優れた辺境伯の娘をどう扱っていいかわからず遠巻きにしているだけだ。主に馬鹿にしているのは、王都育ちの令嬢方なのだが、クロエにとっては王都育ちというだけで一括りにされているらしい。自分も一括りにされているようで、バルトルトは面白くない。
だがそもそも、クロエにとって恋愛対象である男性は兄しか見えていないようだから、正直に言えば相手にしていないのはクロエの方なのだ。
しばらく隣にいて、ずいぶん黙った後、バルトルトは一大決心をして口を開いた。
「――だ、誰ももらってくれないなら、その、俺が、け、結婚してやってもいいぞ」
真っ赤になって、小声でやっとそう告げれば、「自分より弱い人はイヤ!」と迷いなく即答されてバルトルトはがっくりと肩を落とす。
「ひ、人がせっかくなぐさめてやろうとしているのに……! こっちだってそなたなんか願い下げ……、!?」
憤然として言い返そうとした少年の隣で少女は突然立ち上がった。
「なっ……、どうした!?」
「バリィ、つきあって!」
「え!?」
「こういう時は剣の稽古よ!」
「え、つきあうってそっち!? て、いうか急になんだよ!?」
「さあ、尋常に勝負なさいな!」
年下の少女に有無を言わさず剣の稽古に引き出され、徹底的にやりこめられたのは、少年が九歳の早春であった。
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