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第四話~エピローグ

第四節 ショッピング・イン・トレモロ


 あれから、不本意ながら俺の館は賑やかになっていた。

 石巨人のゴメスは、やっぱりというかなんというか、俺の館に居着いてしまっていた。はじめは、

「オレモイッショノフトンデネル」

 とか言って館の中に入ってこようとしたが、さすがにデカすぎて入れないし、無理やり入られて破壊されても困るから、必死で止めた。

「ゴメスくん、お願いだからこのお花畑にいてください!」

「……リリノメイレイトアラバ」

 結局、リリの説得で事なきを得たのだが、その後もとにかく大人しくしていてくれない。

 俺が二階の研究室にいると、

「バラン、アソボウアソボウ」

 と、外から勝手に窓を開けて腕を伸ばし、俺の体を鷲掴みにするのだ。

「おいばか! やめろ!」

 ゴメスは、リリの命令は聞くくせに俺の命令はなぜか聞いてくれない。俺は部屋から引っ張り出されて、リリが止めに入るまでしばらく、文字どおり振り回され続けた。

「まったくあいつ、遺跡にいたときと全然性格が違うじゃないか」

 俺は自室のベッドの上に倒れ込み、一つ悪態をつきながら、リリが淹れたハーブティーを飲んで心を落ち着かせていた。全身が擦り傷やら土汚れでめちゃくちゃだ。

「遺跡にいた頃は命令に従うことしか考えていなかったそうですから……あれが、本当のゴメスの性格なんじゃないでしょうか」

 俺の向かいの机の上に座って、苦笑いしながらリリが言う。ゴメスを止めるのに必死で、リリの服もかなり汚れてしまっていた。

「まったく……四六時中、遊べ遊べ行ってきやがって。あいつのせいで、樹木魔導の研究が全然進まない」

 石巨人は概日リズムを持っていないのだろうか、と思えるほど、その行動には規則性がなかった。珍しく遊べと言わない時には、なにやらずしずし歩き回ったり、変なポーズを取ったり、とにかくじっとしていられないのだ。

「うふふ、私は結構楽しんでますけどね」

 と、リリは事も無げに言う。

「お前のその、状況をとことん楽しむ力、見習いたいくらいだよ」

「それほどでも、てへへ」

 もう面倒くさくなって、別にほめてはないとは言ってやらなかった。 

「まあ、研究する時間があっても、魔導書がなければ意味がないんだけどな」

 俺の館にある蔵書には、樹木魔導に関するものはほとんど記載がない。というのも、これまでは樹木魔導なんぞに興味はなかったから、買い集めてなかったからだ。

「ゴメスが大人しくしていてくれないと、魔導書を買いに街へも行けやしないな……俺がこの屋敷を離れようものなら、そのまま着いてきそうだし……」

 俺が頭を悩ませていると、リリが不思議そうに首を傾げた。 

「魔導書というのは、魔界の街に売っているんです? 魔導は人間のものだと伺っていますが……」

「街というか……まあ、ある意味そうだな」

 俺はリリから目を逸らして、曖昧な返事を返す。

 するとリリは目を輝かせて俺に詰め寄って、

「では、私が協力します! ですから私も街へ連れて行ってください!」

 両目には、「街へ行きたい」という言葉が書いてあった。

 まったく、どいつもこいつも、どうしても俺を独りにはしてくれないつもりらしい。

 

◇ ◇ ◇ 


「わわわ、ここがトレモロの街です!?」

 俺と共に門を潜り抜け、街の入り口に立ったリリは、立ち並ぶパステル調の家々を見て感嘆の声を上げた。

「はあー、すごーい……」

 感情に語彙が追いつかないのか、リリはひたすらうっとりとしただらしのない顔を浮かべる。

 確かに、トレモロの街並みは魔界の中でも有数の美しさだと思う。

 色とりどりに並ぶ、木骨造りの家たち。それらが町全体に張り巡らされた運河に沿って整然と並ぶ様子は、なんともメルヘンチックな雰囲気だ。リリのような少女がこの町を嫌うわけがないだろう。

「でも知りませんでした、あの森の近くに、こんな大きな街があったなんて」

「リリがいた魔王城がある帝都は、森から北の山を超えた先だからな」

 森から南西に、川を下ったところにあるトレモロのことを知らないのも、無理はないだろう。

 それにしても、リリにとってはすべてが珍しく感じているようだ。ちょろちょろと飛び回っては辺りを眺めているので、よほど感動しているらしい。

「妖精の里にいたころは、街へは出なかったのか?」

「それが、一度も出なかったんです、私。だからもう、うれしくてうれしくて!」

 リリはくるくる回って、全身で喜びを表現している。

 初めて訪れた街がこのトレモロなら、感動はひとしおだろう。

「あ、あれ!」

 不意に、リリが俺の後ろの建物を指差した。

「うん? カフェ・アニマロッサ?」

 その瞬間にはリリは俺を追い越し、ガラスのショーウィンドウにへばりついた。

「はあー……!」

 彼女の熱い眼差しは、巨大なパフェへと一心に注がれている。

 この後、リリにせがまれた俺が、とうとう店の中に入ることになったのは、言うまでもないだろう。


「はうー、とっても甘いですー」

 リリは自分の身の丈ほどもあるスプーンを器用に操って、クリームの塊を口へ運ぶと、小さな顔をほころばせる。リリが至福の表情で巨大パフェ「キングベヒーモス」を口に運んでいく様を、俺はコーヒーを片手に見つめていた。

 カフェ・アニマロッサは、多種多様なパフェが有名なカフェらしい。種族や体の大きさによって柔軟にトッピングと分量を変えられることで、魔界の中でもかなり高い人気を誇る店なのだそうだ。

 まさか、人形のような小さな妖精が、最大限サイズを注文して、ぺろりと食べ進めてしまうとは思わなかったのだろう、

「あ……はあ……」

 鳥魔族ハルピュイアの店員も、大きなくちばしをあんぐりと開けている。

「とってもおいしいです! バランさまも一口いかがですか?」

「悪いが遠慮しておく」

 俺はリリの方を見ずにそう言うと、マンドラ豆のブレンドコーヒーを一口運んだ。苦みを多分に含んだ味わいが口いっぱいに広がる。

 パフェの話題性だけの店かと思ったが、存外ほかの商品の味もしっかりしているようだった。

「本当にバランさまは食べないんですか?」

 リリはしつこく、クリームやら果物やらの乗ったスプーンを差し出そうとする。

 俺は、そのスプーンを押し戻すように手のひらをリリに向けた。

「いいから、お前だけで食べてくれ。ただでさえ俺たちは目立つんだから」

 俺は周囲の視線を気にしながら小さな声でリリに訴えかけるが、リリはまるで気にする様子がない。

「えー。もう、バランさまったら自意識過剰なんですからー」

 などとケラケラ笑っている。

(……確かに、俺が気にしすぎなのか?)

 俺は改めて周囲を見渡した。

 人気店というだけあって、テーブル席はすべて客で埋まっている。その種族も、獣人、悪魔、不定形までさまざまだ。それぞれが、それぞれに食事や会話を楽しんでいる。

 基本的に、魔族というのは縄張り意識や種族の意識が強い。一口に魔族と言っても多種多様なものが存在しているし、魔王による統一帝国ができるまではそれぞれの種族が魔界の覇権を狙っていたわけだから、排他的なコミュニティができやすいのだ。

 だが、トレモロの街は別名「自由都市」とも呼ばれる土地だ。帝国に対して一定の自治権を持っているため、市民への規制や義務が比較的少ない。自由を求めていろいろな種族が移り住んできてできた街なため、種族のるつぼとも呼べる環境ができあがっている。

 そんな街だから、仮に人間(俺は厳密には人間と魔族の混血だが)と妖精が堂々とパフェを食べていても、誰も気にしていないのかもしれない。

 これが魔王のお膝元、帝都だったら話は違っていただろう。人間を敵とみなす魔族しかいないのだから、どんな目に会うかわかったものではない。

 ――多様性と言えば、俺はずっと気になっていたことがあった。

「ゴメスのやつは結局どうしたんだ? 今日はずいぶん大人しくしていたようだが」

 そう、今日は朝からゴメスの姿を見ていない。おかげでこそこそする必要なく、ごく自然に家を出ることができた。

「ふっふーん」

 俺の質問に、リリは得意げな顔でこちらを見た。

 ただし、スプーンを運ぶ手は動いたままだ。

「んぐんぐ……なーんてことはありませんよ。ただ、昨晩から子守唄を聞かせていただけです。もぐもぐ」

「子守唄?」

「ええ……がつがつ。私の歌には人をリラックスさせる効果があるって言いましたよね、はぐっ。その歌をずっと聞かせてリラックスさせ続ければ……いつの間にか、みーんな眠くなっちゃうんですよねー」

「それで、ゴメスも寝たのか……?」

「かなり力を込めましたから……ペロペロ。今日一日中は起きないと思いますよ……ぷはあ!」

 にわかには信じがたいが、なるほどそういうことなら毎日それを頼みたいくらいだ。

「ごちそうさまでした!」

「えっ!? もう食べ終わったのか!?」

 気づくと、リリはあっという間にあの巨大なパフェを完食してしまっていたようだ。明らかに彼女の体の三倍の体積はあったように思うが、いくら目をこすってもパフェグラスの中は空っぽだ。

 俺が目を丸くしているのに気づいたのか、リリは恥ずかしそうな顔で、

「す、すみません! いつも食卓ではあまり食べ過ぎないように自制していたのですが……パフェは大好物なので、つい……!」

「いや別に構わないが……あまりに食べるのが早かったから、驚いただけだ」

「はうう、お恥ずかしい」

 リリは真っ赤な顔を両手で隠してうつむいた。

 さて。リリが食事を終えた今、もはやカフェに長居する理由もない。

 俺は手早く支払いを済ませ、リリに店を出るよう促した。

「腹はいっぱいになったか? そしたら、魔導書を買いに……」

 しかし、リリは俺の手を強引に取ると、

「さあ、もっとこの街を散策しましょうバランさま!」

 と言って、店の出口へと進み出してしまった。

「うっ、おい! 待てってば!?」

 荒々しく店のカウベルを鳴らして、俺たちはトレモロの街へと再び繰り出す羽目になった。


 ――だから、気づけなかった。

「見たか今の」

「……ああ。あれが例の、人間と妖精だな」

「行くぞ。あれを献上せよというのが、スピカ様のご命令だ」

 二対の獣の瞳が、俺たちをじっと狙っていたことに。


◇ ◇ ◇


 春風のような勢いで俺を引っ張るリリは、次々とトレモロの街をひっかき回していった。

 ある時は、大剣ひしめく武器屋の中を。

「バランさまバランさま、護身用に一つどうですかこれ!?」

「護身用って…逆に怪我するだろそれ」

 ある時は、いろいろな果物を売る露店を。

「悪魔の果実が売ってますよバランさま!」

 リリは、彼女にとってはずいぶん大きな果実を抱えて、俺に見せる。果実の側面に浮かぶニヒルな笑顔が「オレはウマいぜ?」と訴えかけているようだった。

 こいつ、普通に食用としても売られてるんだったなそういえば。

「一つ買って行きましょ!」

「却下だ。どうせお前、二、三口食べたら食べきれなくて俺に押し付けるつもりだろ」

「うっ! そ、それは……確かに、バランさまからしたら二口分くらいかもしれないですけど」

 涙目を浮かべながらも、リリは果実を離そうとせず、ずっと俺を見つめる。

「……一個だぞ、一個」

 結局、俺は根負けして、気味の悪い果実のために硬貨を取り出すことになった。

「えへへ、買ってもらっちゃったー」

 喜ぶリリの笑顔を見るのは、決して悪い気分ではなかったが。

 パフェの余韻が残っていてはさすがにきつかったのか、悪魔の果実を四口でギブアップしたリリが次に足を止めたのは、小さな仕立屋だった。

「お洋服、かっわいいー! 街並みと同じ、パステルカラーが流行なんですね!」

 ショーウィンドウの中に吊し売りされている、女性もののワンピースやらドレスやらを見て、リリは跳ねるように飛び回る。

「いつも変わらないメイド服ばっかり来ているけど、お前も服とかには興味があるんだな」

 俺が何の気なしにそういうと、リリは眉をとがらせて「まあ、失礼な!」と怒った。

「私だって女の子ですから、かわいい服とか、アクセサリーに興味くらいあります!」

「そ、そうか。すまん。でも、ここはだな……」

「私、ちょっとお店の中を見てきてもいいですか? あ、バランさまはここで待っていてくださって結構ですから!」

 そういうと、リリは俺の返事を待たずに店の中へと滑るように入っていた。

(やれやれ、人の話を聞かないやつだな)

 俺が言われた通りに店の前で待っているとすぐに、

「はうう~……」

 リリが落ち込んだ様子で店の外へと姿を現した。肩をがっくりと落として俺の方へと近づいてくる。

「値札なんて見なきゃよかったです」

 だろうな、と俺は思った。トレモロでも有名なブティックだったから、吊るし売りの服でも普通の感覚では目が飛び出るほどの値段がするのだろう。ましてや、リリのサイズでオーダーメイドするとなれば、だ。

「しもべとして、さすがにここまではわがまま言えません……」

 今までのはしもべとして大丈夫な範疇だったのか、という突っ込みを飲み込んで、俺は、

「いい加減気は済んだろ。そろそろ魔導書を買いに行くぞ」

 と、リリを置いて仕立屋を通り過ぎ、さらに足を進めた。

「あれ? バランさま、本を買うなら広場に行くんじゃないんですか?」

 リリが慌てて俺を追いかけながら言う。

 確かに、リリの疑問はもっともだった。

 トレモロの街には、大きな広場が複数存在している。

 平時には露店のひしめく広場として、催事には集会や領主からの発令が読まれたりする、都市機能的に重要な空間だ。

 さきほど悪魔の果実を買ったのも広場の中の露店である。

 そして、本が売られることが多いのもそうした露天商の店でのことだった。

 でも、今回は少し事情が違っている。

「ふつうの本屋に用はない。魔導は人間が生み出した、魔族には使えないものだからな。本屋で『魔導書ありませんか』なんて聞いたら笑われるぞ」

「はあ、そう言われてみれば。では、どちらへ行くんです?」

「もちはもち屋。人間界のものは、人間の店だ」

 俺は少し得意げに笑って足を進めた。

 向かうは、運河の岸辺だ。

 トレモロの街には、網の目のように運河が張り巡らされている。運河は美しい景観に一役買っている以外にも実用的な側面がある。街内を大きく移動する場合には、ゴンドラに乗って運河を渡る方が早く移動できるのだ。

 ちょうど俺の目的地は、運河を下った街はずれ。

 住宅街の、それも裏路地だった。

「バランさまー、こんなところにほんとにお店があるんですか?」

 ゴンドラを降りると、辺りを見回したリリが不安そうに俺を見る。

 無理もないだろう。この辺りは先ほどのパステル調の街並みなどは一切ない場所だった。塗装の禿げた土気色の家々が並び、どれもボロボロ。

 お世辞にもお行儀が良いとは言えない地区だった。

「いくら異物に寛容なトレモロと言っても、さすがに大っぴらに売れないものはある。そういう店は、こういう路地裏にひっそり構えるんだ」

「そんなことでお客さんが来るんですか?」

「単価が高いからな。固定客さえいれば問題ない」

「なるほど」

 言いながら、リリは俺の顔をしげしげと眺める。きっと、「こういうやつのことか」と思っているのだろう。

 俺はその視線を無視して、とある店の扉を開けた。

「邪魔するぞ」

 朽ちかけた木扉がきしんだ音を立てながら開くと、うす暗い店内に所狭しと並んだ商品たちが俺たちを出迎えた。

 なんでもガラスの窓をつける費用をケチったんだそうで、代わりにろうそくの火が申し訳程度に灯り、店内の品々を妖しく照らしている。

「なんだか変わったお店ですね。誰もいないのかな……ん? ひゃあ!?」

 リリはあるものを見て、素っ頓狂な声を上げながらその場から飛び退いた。

 それは、骸骨――それも、魔族の骨格ではない。

「これ、ひょっとして人間の……?」

 リリは怖いもの見たさからか、改めて天井から吊るされた骸骨を眺める。

 すると突然、骸骨の眼窩の奥が不気味に光った。

「そう、本物の人間の骨じゃよこれは」

「きゃあーー!?」

 先ほどより甲高いリリの悲鳴が、店内に響き渡った。

「ひょほほー。いー反応するのう、妖精のお嬢ちゃん」

 吊るされていたはずの骸骨は、軽やかなステップで床へと着地すると、カラコロと音を鳴らしながら店の奥へと移動する。そして、店の奥のロッキングチェアに掛けていたローブを羽織ると、そこへゆったりと腰掛けた。

「お前、まだその悪趣味な登場を続けていたのか」

 俺が呆れた声でその骸骨男に言っても、

「若い娘が店に来るなんて、何年ぶりだかわからんからな! たっぷり楽しませてもらわんと!」

 骸骨男はまるで悪びれる様子もない。まったく困ったジジイだ。

「バランさま、こ、この人? は?」

「この店の店主、骸骨戦士スパルトーイの……」

「アーヴィンじゃ!」

 叫びながら、アーヴィンはすぽん、と椅子から飛び上がった。着ていたローブが剥げ、文字通り一糸まとわぬ骨だけの身体が露わになる。

「ひっ」

 その様子を見て、リリはまた一つ、小さな悲鳴を上げた。

「うはは、まさかおぬしが若い娘、しかも妖精を連れてくるとはの……あれか? やっぱりまともに女を見てないと、そういう趣味に走るのか?」

 アーヴィンは、眼窩の奥の光を「へ」の字の形にして、嬉しそうに俺に尋ねた。骨だけなのに、なんともいやらしそうな顔をしていることがわかるのが不思議だ。

「『そういう趣味』……って、どういうことです?」

 リリは心底不思議そうな顔をして俺に尋ねる。俺は思わずリリの平坦な体を見てしまい、慌てて目を逸らした。

「ばかばかしい。こいつは親父から押し付けられた、ただの下僕だ。それ以上でも、それ以下でもない」

 俺は話題を断ち切るように強く言い放つ。

 しかし、アーヴィンはまるで聞く耳を持たず、

「お嬢ちゃん、名前はなんていうんじゃ」

「えっと……リリです」

「リリちゃんかー、妖精らしくてかわいらしい、えー名前じゃのう」

「アーヴィン! 俺は今日は魔導書を買いにきたんだ。樹木魔導の記載があるものを探している」

 俺は強引に話題を自分に引き寄せた。こいつに付き合っていたら、どれだけ時間があっても足りない。

「樹木魔導?」

 アーヴィンは口元に手を当てて、(おそらく)いぶかしげな顔をして俺の顔を覗き込む。

「一体どういう風の吹き回しじゃ? ちょっと前まで『直接攻撃ができる魔導を覚えられる本をくれ』って毎度のように言っとったはずじゃが。ついに復讐は諦めたか?」

「……別に何だっていいだろう。早く客の言う品を探してくれないか」

「おっとこりゃすまん。だが、そんなマイナーな本、あったかのー。ちょっと待っとれ」

 とぼけた声を上げながら、アーヴィンは店の奥のバックヤードへと引っ込む。それを見届けてから振り返ると、リリが店内のものを懐かしげに眺めていた。

「魔界にはないものがたくさんありますね。バランさまが仰ってた、『人間の店』というのはこのことだったんですね」

「ああ。ここはトレモロでも唯一の、人間界のものを扱うジャンクショップなんだ」

 俺は改めて店内を見渡した。アーヴィンがふざけているのではない、本物の人間の骨。それから、人間界の一地方で使われている茶器やら、絵やら、果ては何に使うのかわからないような道具まで置いてある。

「人間界にしかない魔導書なんかも豊富に揃えてあるからな。館にある魔導書はほとんどこの店で買ったものだ」

「へえー。でも、人間界のものをどうやって魔界に……?」

「そりゃわしが『元人間』じゃからじゃよ」

「うひゃあ!」

 リリの頭上から、骸骨もちろんアーヴィンが逆さづりで顔を出し、リリはまたしても悲鳴を上げた。

「に、人間さんです?」

「おうよ。わしらのような死霊魔族アンデッドは、未練を残して死んだために魔族になったものが多いんじゃが……わしは人間から、死んで死霊魔族になったクチなのよ」

「はあ……でも、それがこの人間界のものとなんの関係が……?」

「クカカ、それはのう。わしらのような人間上がりの死霊魔族は、そのまま放っとくと人間に退治されちまうからの。見つからんようにこっそり魔界に逃げて来るんじゃが。その時、一緒に私物を持ってきたんじゃよ。わしゃ魔導書やらガラクタやらを集めるのが趣味でな。そいつらはどうしても手放したくなかったんじゃ」

 そう言うと、アーヴィンは天井から床へと飛び降りながら、「ほらこれ」と乱暴に俺に一冊の本を投げよこした。

 俺は危うく落としそうになりながらもその本をなんとかキャッチする。そして、表紙の装丁に書かれた文字を見た。


≪ユグドラシルの雨に泣く≫


「アーヴィン、これは……?」

「お前さんの探してる樹木魔導書じゃ。パッと目に着くところには一冊しかなかったからの、とりあえずそれで我慢しとけ。また今度、別なのを見つけたら教えてやる」

「……恩に着る!」

 俺はさっそく、手にしたばかりの本をめくる。樹木魔導に関する叡智を少しでも早く手にしたいと、弾くようにページを追った。

「……?」

 しかし、すぐにあることに気づいた。

 この本に内容があるのは最初の数ページだけ。あとの数百ページはすべて白紙だったのだ。

「アーヴィン!」

 俺は慌てて顔を上げ、アーヴィンの方を睨みつけた。

「おっと、まーまーそうカッカなさんなって。わしだって騙そうとしたわけじゃない。本当に今はその本はそこまでしかページがないみたいなんじゃよ」

「今は?」

「そうじゃ。その本の前書き部分、よく見てみ」

 促され、俺は初めのページに目を落とす。そこには、こう書かれていた。


≪求めよ。されば与えられん≫


「なんだよこれ」

「なんじゃ、最近の若いのは読み書きもできんのか」

「意味くらいはわかるさ。『何かを得たいと思うなら、与えられるのを待つだけじゃなくって、自分から進んで行動しろ』ってことだろ? それがいったい何の関係があるんだよ」

 「ち、ち、ち」と言いながら、アーヴィンは俺の方に近づき、俺から魔導書を取り上げた。なんだかすごく腹の立つ仕草だ。

「確かにお前さんの言うとおりじゃよ。つまり、その本に書かれているのは、お前さんが行動して得た分だけってことじゃ」

「行動して、得た分だけ……?」

 俺は改めて、すでに記載のあるページを見た。そこには、樹木魔導の基礎的な力の使い方などが記されている。

 「不思議な本ですねー。今書いてあることをマスターしたら、次のレベルのことが出てきたりするんでしょうか?」

 リリが、俺の持つ本を覗き込みながら言うと、すかさずアーヴィンが、

「あるいはそうかもしれん。ま、精進するんじゃな」

 と乗っかった。こいつ、とりあえずリリに同調したかっただけだろう。

「……仕方ない。これをもらっていこう」

 俺は一旦諦めて、この魔導書を懐にしまった。本を読むのはあとでゆっくりできるし、日が暮れないうちに宿を取らなければならないという都合もあって、あまり長居はできなかった。

「なんたって魔導書だからの。ひと癖もふた癖もあるのは珍しい話でもない」 

「確かにそうだな。昔あんたに買わされたヤツでひどい目に遭わされたことは何度もあるからな。四六時中『俺の魔導を覚えろ』って迫ってくるやつとか」

「クカカ。そんなこともあったかの。年寄りは記憶が悪くて困るわい」

 とぼけやがって、喰えないジジイだ。

 これ以上の問答は無用だと考えた俺が、リリを連れて店から出ようとしたところ、アーヴィンは「あー待て待て」と俺たちを引き留めた。

「リリちゃん、ちょいとあんたに聞きたいことがあるんじゃが」

「私に、です? ……なんでしょう」

 アーヴィンは一歩足を進めてリリの近くまで来ると、顎に手を当てて、じっくりとリリを見つめる。

 そして、衝撃的な質問を投げかけた。

「お前さんを食べると、永遠の命が得られるというのは本当の話なのかの?」

「……はあ?」

 俺の口から、思わず理解不能の声が漏れた。

 何を言ってるんだ、このジジイは。

「えっと、あの」

 だが、意外にもリリの表情は強張っていた。

 まるで「知られたくないことを知られてしまった」とでも言うような表情だ。

「その、それは……」

 リリはうわごとのように口から声を漏らしながら、アーヴィンと俺の表情を交互に見る。

 そして、素早く店の扉の方へと踵を返すと、

「ごめんなさいー!」

 なぜか謝りながら店から出て行ってしまった。

「お、おいリリ!?」

「うーむ、ちょっとからかっただけのつもりだったんじゃが。やり過ぎちまったかのう」

 俺はなにがあったのかまったく理解できず、アーヴィンの方を見た。

「どういうことだよ。何だよ永遠の命って」

「なんじゃお前さん、部下の種族については何にも知らんのか。妖精っていう種族が、どういう経緯で魔界に来たのか」

「魔界に来た……?」

「左様。妖精族はもともと人間界の生き物じゃ。人間界を追われた彼らを、当時の魔王が保護して魔界に移住させたんじゃよ」

「…………」

 俺の「今初めて知った」という表情を見て、アーヴィンは一つため息をつく。ゆっくりと店の奥へ移動して、ロッキングチェアに腰かけた。

「ここまでは魔族の中でも常識。古代史で習うレベルの話じゃな。まあ、あそこでずーっと引きこもっとったお前が知るわけはないじゃろうが」

「でもなんでそんな、人間界を追われるようなことに」

「そう、問題はそこからじゃ。ここから先は元人間の魔族か、そいつらから何らかの形で情報を得た魔族……つまり、一部のものしか知らん話じゃ」

 そこでアーヴィンは一度言葉を切る。そしてしばらくの静寂の後、思い出したかのように続けた。

「人間界じゃ『妖精の肉を食べると永遠の命が得られる』って伝説になってたんじゃよ」

 その事実の重さは、俺が言葉を失うのに十分なものだった。

 

 人間界に住む知性を持った存在は、なにも人間ばかりではない。人間が最も繁栄しているために、「人間界」などという言葉が使われているが、そのほかにも種族は存在していると言われている。

 アーヴィン曰く、妖精もその一つだったという。

「ただ人間以外の種族はたいてい森の奥とか海底とかにひっそり暮らしとるからの。人間ですらそいつらの存在を伝説くらいに扱ってるんじゃ。伝説となると必ず尾ひれがつく。妖精の場合はそれが『永遠の命』だったわけじゃの」

「じゃあ、妖精は人間に追われたんじゃなくて……」

「そう、乱獲されちまったんじゃよ。人間たちによっての」

 俺がその事実に言葉を失っている間にも、アーヴィンは言葉を続けた。

「それで不老不死になった人間が本当にいたのかなんて知らんがの……元々妖精は争いに向かない非力な種族。人間に狙われればなすすべはない。そこで、人知れず魔界に亡命してきたってわけじゃ。幸い、当時の魔王は理解があった。今じゃ自分たち以外の種族を恐れて決して隠れ里から出てこないと聞いとったが……まさか、お前さんがしもべとして連れてくるとは思わなんだ」

「リリが慌てて逃げてったのは、俺たちに食べられると思ったってのか?」

「うむ……彼女は実際に人間に追われた経験などないはずじゃが……『人間は恐ろしいもの』と刷り込まれていたのかもしれんの」

 それを聞いて、俺はリリの言葉を思い出していた。


《人間さんは恐ろしいものと聞いていますが……》


 やはりリリの深層心理にも、人間の危険性は刷り込まれているのだろう。

 それでも、俺はそのときのリリの、次の言葉に希望を見いだしたかった。


《アルデバランさまはアルデバランさまではありませんか?》


 次の瞬間、俺は店の外へ駆け出そうとしていた。

「世話になった、アーヴィン! 俺はリリを探しに行く!」

「ほう……珍しいこともあるもんじゃ。あのバランが、たかがしもべを自ら探しに行くとはの」

「……誰のせいでそんなことになってると思ってんだ」

「いやあすまんすまん、どうもああいう伝説の類は気になっちまっての」

 アーヴィンはまったく悪びれもせず、自分の頭を自分でなでる。

 骨と骨がぶつかる、カラコロとした音が狭い店内にしんと響いたあと、俺はまっすぐにアーヴィンを見て答えた。

「しもべの面倒を見るのは主の役目に決まってるだろうが」

 俺がそう言うと、アーヴィンはなぜか嬉しそうに笑う。

「ひょっほほ。そうかいそうかい。いつの間にやら立派な若造に育っちまってるみたいじゃのう。まあそういうことなら、急いだ方がええぞ」

「はっ?」

「ここは自由都市の中でも爪弾きが集まる場所。誘拐や連れ去りは日常茶飯事じゃぞ。人間界のような噂は流れてないとはいえ、妖精はめったにいない種族。狙われてもおかしくない」

「……クソジジイ、そういうことはもっと早く言え!」

 それだけ悪態をつくと、俺はすぐさま店の扉に手をかける。

 そのとき、店の外から轟音が響いた。

「な、なんだ……?」

 俺は恐る恐る扉を開く。

 そこで俺は初めて、自分の背丈よりも数段に大きな魔物が赤い瞳を光らせて、こちらを見ていることに気づかされた。


◇ ◇ ◇


 アーヴィンの店から少し離れた広場で、リリは途方に暮れていた。店に入るまでは晴れ渡っていた空に、今はどんよりとした鈍色の雲が覆うのが見える。

 広場では今日も市場が開かれていたようだが、そろそろ日も落ち掛けてきた時間になっていたので、露店はまばらにしか存在していなかった。それらももう店じまいの支度を始めてしまっている。

 リリは硬貨の類を持っていないので、あまり関係ないのだが。

(どうして逃げ出しちゃったんだろう)

 広場の隅のベンチに腰掛け、一つため息をつく。

 幼いころから、確かによく言われていた。「人間は恐ろしい」「人間は妖精を食べる」「妖精を食べて、永遠の命を得ようとしている」と。

 話を聞いていた当時は、半信半疑だった。でも、バランと出会って本当にただのおとぎ話だと確信した。バランは、人間の血が入っていながらあんなにも優しい。それなら、人間にもいい人と悪い人がいるのだ。妖精や魔族がそうであるように。そう思っていた。

 そう思っていたはずだったのに。

 バランとアーヴィン。二人の「人間」が、自分の命を狙っている。その予感が頭をかすめた瞬間、リリの体は無意識に動いていた。

 逃げなきゃ。

 殺される。

 なぜかリリの頭はそれでいっぱいになっていた。そんなことあるはずがないのに。

 気づいたとき、リリは広場にたどり着いていた。

「バランさま、きっと心配してる。戻らなくっちゃ」 

 辺りはかなり薄暗くなってきていた。もう、広場に露店は一つもない。

 リリは座っていたベンチを離れ、ふよふよとその場に漂う。

「ようお嬢さん、今ヒマ?」

 後方から軽薄な男の声が聞こえたのは、その時だった。

 振り返ったリリの目の前は、一人の獣人がいたた。一対の角の生えた、鹿の顔。鹿魔族ペリュトンだ。

「いや、私はその……」

 獣人系の魔族は、概して人間よりも体が大きい。その鹿魔族の威圧感に、本能的に危険を察知したリリは、踵を返してその場から逃れようとした。

「……どこへ行く?」

「うぷっ!」

 しかし、すぐに何かにぶつかって、リリは進路をふさがれてしまった。慌てて見上げると、そこには馬の頭と、太い蹄の付いた四肢があった。馬魔族ラムポーンだろう。

 前方と後方を、二人の屈強な獣人魔族に挟まれていることを知って、初めてリリは自分の置かれた状況を把握した。

 ひょっとして、これはピンチなのではないだろうか。

「はい、ゲットー!」

「きゃあ!」

 逃げ道はないかと辺りを伺っているうちに、素早くリリの体は鹿魔族の両手に捕まってしまっていた。

「マグラ、お前なにぼーっとしてんだよ。挟み撃ちにしたらさっさと捕まえろっていつも言ってんだろが。今も逃げられそうだったじゃねえか」

「んー! んー!!」

 鹿魔族が手に握ったリリの体をにぎにぎと力を込めながら言うと、マグラと呼ばれた馬魔族は申し訳なさそうに体を縮こまらせた。

「すまん。兄貴。でも、あんなナンパみたいな声のかけ方しなくても……」

「あーん!? 兄に口答えすんのかおめーは」

「……すまん」

「いいからさっさとこいつ連れてずらかるぞ。逃がしたら、スピカ様にぶっ殺されっからな」

 カグラと呼ばれた兄の方は、「ほら、逃がすんじゃねえぞ」と言ってマグラにリリの体を乱暴に預けた。そして、その場から足早に去ろうとする。

「待って、兄貴!」

 カグラよりはリリの体を優しく握ったマグラも、慌ててカグラの後を追おうとした。

 マグラが一歩踏み出すたび、かろうじて半分ほど見えているリリの視界が揺れ動く。

 リリは口元を抑えられ、助けも呼べない状況で、必死で心の中で祈った。

(バランさま、助けて……!)

 そして、その声が聞こえたのは、まるで祈り通じたかのようなタイミングだった。

「待て」

 カグラとマグラが行こうとしていた方向から、リリにとってよく聞きなれた声が聞こえてくる。リリは狭い視界から、その姿をはっきりと捉えた。

「俺のしもべをどこへ連れていくつもりなんだ」

 ただ一人の自分の主、バランに他ならない。

 バランの顔には、リリが今まで見たことのない、真剣な怒りの表情が顔に浮かんでいた。

 だが、リリはその姿を見て喜びや安心を感じるよりも先に、

「来ちゃダメです、バランさま! 早く逃げてください!」

 と、押さえつけられていた口元をなんとかマグラの手から逃れさせ、必死で叫んでいた。

 ずっと妖精の里で暮らしていたリリには、実は魔族に関する知識はほとんどない。でも、見ただけでわかる。獣人魔族は、並みの人間など話にならない身体能力を持っているはずだ。それがしかも、二人もいるのである。

 いくら自分の主だとしても、魔王の息子だとしても、樹木魔導をある程度使えるようになったとしても、バランの身体能力は人間と同様である。

 しもべの身分で差し出がましいとは思いつつも、リリにはバランがこの二人に勝てるとはとても思えなかった。

 とすれば、バランがとる行動は、と考えたとき。

 考えられるのは、「なんとか自分を逃がし、バランが身代わりになる」ということであった。 

 しかし、それは耐え難いものだった。そんなことをされて助かったとしても、何も嬉しさなどない。それよりも、せっかくできた主を、居場所を失うことの方がリリには辛かった。

  心の中では助けてと祈ったり、今度は逃げろと言ったり、自分でもわがままなことはわかっている。それでもリリは、バランには無事でいてほしかった。

「いいから黙って見ていろ」

 バランはリリの言葉に耳を貸さず、ゆっくりと近づいてくる。その姿を見たカグラは、あざけるように笑った。

「おいマグラ、なんだこいつ?」

「わからない……人間か?」

「そうじゃねえっつの。非力な人間のクセに、俺たち魔族に歯向かおうっていうこいつはなんだって言ってんだよ。トレモロは自由の街。人間がいちゃいけねえとは言わねえが」

 カグラは手指の骨を鳴らしながら、自身もバランに近づいていく。初めはゆっくりと、次第に握りこぶしを作りながら、走り出す。

「それでも分ってやつはわきまえろって話だ!」

 対するバランは、懐からこぶし大のものを握り、カグラの前に突き出した。半球状に欠けながら「よう、ピンチみてえだな」と言わんばかりにニヒルな笑顔を見せるそれは、リリが四口食べてバランに渡してしまった悪魔の果実に違いない。

 カグラの拳が彼に襲い掛かる瞬間、バランは叫んだ。

「まっすぐ伸びろ(アンセリディオ)!」

 直後、悪魔の果実から、正面に向かって灰白色の幹が飛び出た。

「ぐあっ!?」

 殴りかかろうとしていたカグラは、さながら自らつっかえ棒にぶち当たったように顔面から激突し、仰向けにひっくり返る。

 いくら屈強な獣人とはいえ、これにはたまらないだろう。

「まだだ!」

 バランが果実を両手で握り一層力を込める。伸長した悪魔の果実の幹がそのまま伸び、マグラの眼前まで迫った。

「ふんっ」

 さすがにカグラがやられた様子を見ていたマグラは、リリの体を握ったまま飛び退き、その一撃をかわした。

「な、なんだこいつ!?」

 だが、すぐにマグラの驚いたような声が聞こえた。本来着地するはずのマグラの体が何者かによって掴まれたことに、リリは自身も掴まれながら気づいた。

 そして、その何者かが誰なのかも、すぐに気が付いた。

「リリヲ……ハナセ……!」

「ゴメス!?」

 体の自由が利かないながらも、リリは必死で首を曲げ、後ろを見る。

 ゴメスは後ろから、リリを拘束しているマグラの両腕を掴み上げ、強引に引っ張っている。マグラも必死に抵抗しているが、やはり石巨人に腕力では敵わず、次第に両手の距離が離れていく。

 そしてついに、リリはマグラの拘束から逃れることができた。

「バランさま!」

 リリは一も二もなく、バランがいる方へ向き直る。そこには、

「うおおお!!!」

 必死の形相でこちらへ走ってくるバランと、

「よくもやってくれやがったなてめえー!」

 怒り心頭でそれを追いかけるカグラの姿があった。

「リリ、ハナレテ」

「え?」

 声を聞いて後ろを振り向くと、ゴメスは振りかぶり、今まさに手に持った馬魔族を遠投せんとしていた。

「くそ、離せこのでくの坊!」

 マグラは手足をばたつかせ、必死の抵抗を試みるが、ゴメスの体はびくともしない。

「え、えーっと……手加減してあげてね」

 その様子を見ながら、リリはゴメスの言うとおり、邪魔にならないよう端へよけた。

「ゴメス、やれええええ!」

「ガッテン……ショウチ!」

 バランが叫んだのを合図に、ゴメスが渾身のストレートを放った。同時にバランが横に倒れ込むように飛びのく。

 見事に決まった鹿と馬のデッドボールは場外ホームランとなって、遠く広場の外へと吹き飛んでいった。


◇ ◇ ◇


 日が落ちた後も、広場は騒ぎを聞きつけた人たちでごった返していた。松明を持ったトレモロの住民たちが、広場に接続された路地の前に集まっている。

「まだ犯人や怪我人がどこかにいるかもしない。手分けして探そう」

 夜警団の長らしき全身甲冑を着込んだ男が言うと、住民たちは一斉に辺りを捜索し始める。

「……それにしても、この路地、いつの間にか封鎖されてたんだったか」

 甲冑の男は不思議そうに、路地を塞ぐように立つ壁を眺めていたが、やがてどこかへと走っていった。

 俺たちは彼らの様子を、その壁に隠れながら聞き耳を立てて伺っていた。

「ふう……ようやく行ったか。ゴメス、もう少しそのままでいてくれよ」

「ワカッタ」

 ゴメスは体勢を低くして、路地の両壁に手についた姿勢で返事をする。夜の闇に紛れれば、ゴメスの石の肌は、壁か何かとしか見えないだろう。

 俺とリリはゴメスの裏に腰を落とし、一つ息をついた。

「さて、と」

 俺は傍らで意気消沈した様子のリリに目をやった。リリは両肩をがっくりと落として「ううう」とうめく。

 かと思うと、そのまま俺の方へと飛びつき、

「バランさまー、怖かったですー!」

 べそをかいて俺の胸に顔をうずめた。

「お、おいリリ! もう少し静かに……!」

 俺はリリの体を掴んでぐいと引き離す。

「あうう……ぐす、ごめんなさい」

 リリはとめどなくあふれる涙を必死に両手でこすっている。その様子を見て、不思議にも初めて俺は、「リリもただの少女なんだな」と思った。

「トレモロにいろんな奴が集まるってことは、ああいう輩もいて、特に夜は治安が悪くなるんだ。もう一人で勝手に出歩いたりしないでくれよ」

「……ごめんなさい」

 リリは先ほどより一層気を落とした様子でうつむく。俺はため息をついて、「それから、さっきはアーヴィンが悪かったな」と付け加えた。

「妖精に昔なにがあったかとかは、俺は全然知らなかったんだが……アーヴィンのやつも興味本位で聞いただけで、悪気はなかったんだそうだ。だから、あまり気にしないでくれ」

「…………」

 リリからは反応がない。うつむいたままだ。

 こういう時に俺はどうしたらいいのかわからない。なんせ十年以上も引きこもっていたんだ。女の子の気持ちなんてわかるはずもない。

「……ごめんなさい、バランさま」

 言葉を絞り出したのは、リリだった。

「……? なんでリリが謝るんだ?」

「だって、私……逃げちゃって。バランさまやアーヴィンさんが私のこと食べるだなんて、そんなはずないのに。私、心のどこかでお二人のこと……人間のこと、まだ疑ってるのかなあって」

「リリ……」

 リリはまだ、拭いきれないほどの涙を流している。

 その様子を見て、俺はようやくわかった。

 リリが泣いているのは、獣人に襲われたことが怖かったからだけじゃない。

 俺やアーヴィンに不快な思いをさせたかもしれない、その後悔で泣いているんだ。

(……なんてお人好しなやつなんだ)

「むー」

 それまでぐずぐず泣いていたはずのリリは、ふと気づくと、ほっぺたを膨らませて俺の胸のあたりをポカポカと叩き出した。

「どうしてあんな無茶をしたんです!? 一歩間違えば、殺されてしまったかもしれないのに!? ……っていうか、なんでゴメスが!?」

 リリはポカポカをしたり、ゴメスの方を不思議そうに眺めたり、忙しい。まだ落ち着かない様子だ。

「アーヴィンの店を出たら、なぜか居てな……」

「オレ、リリノピンチカンジタ。リリノコトナラナンデモワカル」

 そう、アーヴィンの店の前で俺を見ていた魔物は、何を隠そうゴメスだったのだ。人の足では半日ほど掛かる、森とトレモロの間をあのわずかな時間でやってきたというのだから末恐ろしいやつだ。

「でもそれならゴメスに全部やらせればよかったのに! バランさまがその身を危険にさらしてまで……!」

「あのな」

 まったく、お前はこの期に及んで人の心配をしているのか。

 そう言う代わりに一つため息をついて、俺は、

「しもべを守るのは、主の役目だろうが」

 まあ、本当はゴメスが暴れまわってリリにケガさせちゃうかもしれないとか、一人を相手にしてる間にリリを人質に取られたらまずい、とか思ったからなんだが、これは内緒にしておこう。

「……バランさま」

 呆けた顔をしたリリが泣きやんだのを確認して、俺は改めて辺りの様子をうかがった。

 いまだに話し声や、物音が聞こえてくる。あれだけの騒ぎになったんだ、やっぱりすぐには捜索を止めてはくれないだろう。

「本当は宿を取りたかったんだが……仕方ない、今日は帰るか」

 そう言って俺は、ゴメスの方を見る。ゴメスはなんとも嬉しそうな顔で「オレノデバン?」と自分を指さすので、俺は「ああ」とだけ返した。正直ゴメスのランニング・テクニックは上等とは言えないが、ほかに手立てがあるわけでもない。

 俺はゴメスが俺の体を鷲掴みにして持ち上げるのを甘んじて受け入れた。必死に、下を見ないようにしながら。

「さて……帰るか、俺たちの館に」

「あ、あのバランさま!」

 俺がもうゴメスに抱えられてどうにも身動き出来なくなっているのに、リリはまだ遥か下、ゴメスの膝辺りにいた。

「その……いいんでしょうか? 一緒に帰って。私はまた、何か皆さまにご迷惑を」

「もう一度しか言わないぞ」

 俺はリリの目を見て、はっきりと言った。

「帰ろう、俺たちの館へ」

「……はい、バランさま!」

 今度こそ歯切れよい返事をしたリリは、飛び上がってゴメスの肩の辺りにしがみついた。

 なんとか一段落ついたか。

「ゴメス、今度は安全運転で頼むぞ」

 そう声をかけると、ゴメスはなぜか黙って首を振った。

「ヨミチハアブナイ。マモノタクサンデル。イソイデカエラナキャ」

「えっ? ……ふぐっ!?」

 俺が何か言う前に、ゴメスはとんでもないスピードで走り始めた。

「ちょ、ゴメ……はや……」

「は、速すぎですー!?」

 下手にしゃべると舌を噛みそうで、まともに話すこともできないスピードだ。

「まさかお前、寝てる間に出てきたこと根に持って……!?」

「ゴメスシラナイ。ナカマハズレニスルアルジノコトナンカシラナイ」

「やっぱりか!? 俺たちが悪かったぶふぐるれえ!?」

 また一段スピードがアップして、ついにゴメスは街の城壁をひとっ飛びに越えてしまった。

「許してくれー!」

「ゴメス、ごめんなさいー!」

 一瞬にして視界に現れては消える街道沿いの木々を見ながら、やはり俺はこの石巨人だけはしもべとは認めてやるものかと固く誓った。


幕間


 トレモロの街、中心部。

 そのさらに中央に位置する館の中に、二人の獣人の悲鳴が響いた。

「ぐあああ!」

 部屋の壁際へと吹き飛ばされた二人は、カグラとマグラだ。

 膝をつき、息も絶え絶えな様子の二人の体は、なぜかひどく濡れそぼっている。

「まーったく使えない子たち。バランちゃんごときに負けて帰ってくるなんて、それでもあんたたち本当に魔族? それともただの本当に獣さんだったのかしら」

 二人に向かい合い、吐き捨てるのは、美しい女性だった。水色の肌に、水色の髪、水色の衣装。肌の色さえ気にしなければ、人間の絶世の美女と言われてもおかしくない。

「おうおう、ずいぶん荒れてんなあ、スピカ」

 いやらしい笑みを浮かべながらその様子を眺めているのは、バランの兄、プロキオン。レンガ色の毛並みが、荒々しく逆立っている。

「プロキオン兄様……またいらしてたんですのね。ずいぶんお暇で結構ですこと。まるで引きこもりのバランちゃんみたい」

 スピカと呼ばれた女性は、つかつかとプロキオンに近寄り、切れ長の目で睨みつける。

 その様子を、部屋の隅で見つめるカグラとマグラは、

(お、おい……また喧嘩しだしたぞあの二人。おっそろしくて逃げ出しもできねえ)

(ああ、魔王の子ども同士が本気で戦ったら、周りにどんな被害がおよぶかわからない。俺たちは何もないよう祈るばかりだ)

 とひそひそと話しながら、息を殺した。

「ぎゃーはっはっ。うまくいかなかったからって、俺に当たるなよ。だが、これでお前にもわかったろ? バランのところに妖精がいるってことが」

「ええ、確かにそうだけど……それにしても、兄様も不思議なことを言うんですのね。バランちゃんのところの妖精ちゃんをさらえだなんて。兄様は昔からバランちゃんのごと大好きだったみたいだけど、今度はどういうつもりかしら?」

 スピカは部屋の奥に備え付けられていた大きな椅子に腰かけ、足を組む。そのまま足をかつかつと二回鳴らすと、部屋の扉から無表情なメイドが現れ、グラス一杯の水を彼女に手渡した。

「なあに、そんな奴らを大量に連れてるお前よりはまともな趣味さ。あいつは俺のかわいい弟。俺はバランを強くするためなら何だってしてやるぜ」

 尊大な態度でうそぶくプロキオンに対して、スピカは水を口に一口含みながら、冷たい視線を送る。

「ふーん。悪いけど、人の趣味にケチをつけないでほしいですわね。それに、それを言うなら兄様や父様こそ、『人間が妖精を食べると不老不死になる』だなんて話を本気にしてるだなんて……見た目に似合わずロマンチックですこと」

 スピカはくすくすと笑いながら水を飲み干し、そばに立ったままのメイドに手渡した。メイドはそれをうやうやしく受け取ると、黙って踵を返し、部屋を後にする。

「か弱い不老不死の人間を作って、いったいどうするつもりなのかしら」

「だから言ってるだろ? 不老不死になるだけじゃない。妖精と人間の力が合わさり、『最強の力』が生まれる――それが伝説の真相なのさ」

「そういうのを真面目に信じてるんだから、男ってホント、馬鹿よね。……いずれにせよ、私にさらわせる意味がわかりませんわね。さっさとバランちゃんにその妖精ちゃんを食べさせたらどうなんのかしら?」

 スピカの言葉に、プロキオンはふんぞり返って、顔の前で指を振った。暗黒色の爪が光り、その鋭利さをこれでもかと主張している。

それだけじゃねえんだよなあ……やつらの力をもっとも高めるもの。それは『絆』なのさ。強い絆で結ばれた人間と妖精が交わることで、その力は何倍にもなる」

「じゃあ、何も知らないバランちゃんと妖精ちゃんを仲良しさせて作った最強の戦士を、魔王軍に入れようってわけ? なんとまあ気の長いこと……」

「何とでも言え、スピカ。お前は俺の言う通り、バランからその妖精を奪ってやればいい。もしもバランが抵抗すれば、たっぷり痛めつけてやれ」

「……はあ」

 プロキオンの横柄な物言いに、スピカは「あきれた」という代わりに目を逸らして、ため息を深くついた。

「まさか、私をバランちゃんの踏み台にさせようってわけ? バランちゃんが、私から妖精ちゃんを取り戻せるとでも?」

「さーな。ここで終わるようなら、それまでのこと。それに、負けさえしなければ、お前が昔から血眼で探してた『妖精のしもべ』が手に入る……悪い話じゃねえと思うがな」

「……ふん、いいわ。計画倒れにして、兄様も父様も後悔させてあげる。二人とも、行くわよ」

 スピカは立ち上がり、隅に震えていたカグラとマグラを呼んだ。

「へ、へい!」

「御意!」

 二人はややびくつきながらも、部屋を出ようとするスピカを慌てて追いかける。

「ところでスピカ様……行くって、どちらへ?」

 廊下へ出たところでカグラが聞くと、スピカはこともなげに答えた。

「決まってるじゃなぁい。北の森に行くのよ。かわいいかわいい弟に会いに、ね」

 スピカの表情がアルカイックにゆがむ。

「ああ、楽しみだわ。小さな体、つぶらな瞳……妖精のリリちゃんはいったいどんな子なのかしら。早く、早く会いたいわ……!」

 顔を赤らめ、空中の一点を見つめるスピカには、すでに周りは見えていない。

「待っててね、リリちゃん。魔王の第二王女……スピカ様があなたを迎えに行くからね」

 淫靡に濁った瞳が、まだ見ぬ妖精の姿を探して妖しく光っていた。


第五節 最強の姉、襲来


 森には寒さの季節が近づいてきていた。

 日中はそれほどではないのだが、朝晩の冷え込みはなかなかのものだ。

 俺がそう思うのも、ようやく日が昇り始めたこの朝っぱらから庭へ出て、ある実験をしていたからである。

「バラン、マダ、カ?」

 ゴメスは尻餅を着いて体操座りをしたまま、背後に立つ俺に尋ねた。

 自分ひとりだけ置いて行かれたのにさすがに物思うところがあったのか、ゴメスの奇行はかなりなりをひそめていた。もちろん、時折変な歌を歌ったり、変な踊りを踊ったり、逆さになって制止したりはしているが、視界に入れなければ問題ない程度ではある。

「もう少しそのままでいてくれ」

 俺はというと、ゴメスの肩に、慎重に植物の種を配置していっていた。ただ乗せるだけではもちろん落ちてしまうので、濡らした腐葉土をこねて固めたものでゴメスの石の肌とくっつけている。斑点ができたようでちょっと面白い。

「バランさま、朝食の支度ができましたよー? って、なになさってるんです?」

 館の窓からひょっこりリリが顔を出して、不思議そうな顔で俺の方を見る。そのまま俺たちへ近づいてきたリリは、「また何か実験です?」としげしげとゴメスを眺めている。

「まあ見ていろ」

 俺は目を閉じ、ゴメスの両肩に手を添えた。そして、呪文を唱える。

「葉沸き生い茂れ(ソル・ジベレール)!」

 すると、植物の種からたくさんの草が伸長し、ゴメスの肩を幅広の葉が覆った。

「わあ、すごい!」

 葉の成長を見届けたリリは、真っ先にゴメスの肩に飛びつき、その感触を全身で確かめる。

「ふかふかです! クッションみたい!」

「以前森に行ったとき、マシュマロリーフの種をたくさん採取しておいたんだ。ゴメスの肩に乗ってると、体中がいたくなるからな……これで、少しはましになるだろ」

「オレ、フカフカ、ナノカ?」

 「ふかふか」という言葉に慣れないのか、ゴメスは戸惑った様子でリリに尋ねた。

「ええ、とっても!!」

「ソウカ。オレ、フカフカ、フカフカ」

 ゴメスはリリの嬉しそうな顔につられて、石の固い顔をほころばせる。そして、リリを肩に乗せたまま立ち上がり、辺りを嬉しそうに練り歩いた。

「フカフカ、フカフカ」

「ご、ゴメスー! 喜ぶのはわたしを降ろしてからにしてくださいー!」

「先に朝食もらってるぞー」

 俺はそれだけ言うと、「お助けー」というリリの言葉は無視して、館の中に戻る。なんだか満ち足りたような不思議な気分で、俺は相変わらず豪華な朝食に手を着けた。

 トレモロの街では思いがけないアクシデントにも見舞われたが、雨降って地固まるというやつで、俺の館は平和そのものだった。リリも、あんなに泣いていたのがウソのように明るい。

「はあ、はあ……大変な目にあいました」

 窓辺から、ふらふらとリリが戻ってくる。俺は「お疲れさん」とだけ言って、リリ用の小さなグラスに水を入れて渡した。

「ありがとうございます! ぷはー、おいしいー。……って、違いますよ! なんで助けてくれないんですか!? バランさまの薄情ものー!」

 リリは、「ぷう」と頬を膨らませて、そっぽを向く。

「ゴメスがああなったら俺にもどうにもならないからな……悪かったって」

「もう、とっても怖かったんですから。お詫びに、今度またトレモロに連れて行ってくださいね」

「わかったわかった。でも今度は一人で出歩くなよ。もう助けてやれないからな」

「バランさまこそ、もうあんな危ない真似しちゃダメですからね」

 俺たちは二人で笑いあった。何が面白かったのかもわからなかったけど、とにかくおかしかった。

「でも、バランさまはやっぱりすごいです。あんなにもう自由自在に樹木魔導を操っていらっしゃるなんて」

「自由自在って、初歩の初歩だよ」

 俺は食卓に置いていた、魔導書「ユグドラシルの雨に泣く」の表紙を手で撫ぜる。装丁に施された刺繍の手触りが心地よい。

 この魔導書が、一部のページを除いて白紙になっていることは以前述べたとおりだが、そのほかにも特徴的なことがあった。

「ちょっと読んでみるか?」

 俺はリリの座る前に魔導書を開いて置いた。リリは無言で文字を追っていく。そして、一ページめくった後で不思議そうに顔を上げた。

「これ……小説?」

「そう。しかも、恋愛小説ラブロマンスだ」

 「ユグドラシルの雨に泣く」は、そのまま読めば非常に程度の低いメロドラマだった。ある王侯貴族の家柄に生まれた娘が、ひょんなことから町商人の男と恋に落ち、そして身分違いの恋に悩む、というのが大筋のストーリーのようである。「ようである」というのはもちろん、この本にはまだ二人が出会うところまでしか載っていないからだ。

「いわゆる『暗号文書(グリモワ)』ってやつだな」

「ぐりもわ?」

「魔導書は、それとわからなくするために、わざと読めない文字を使ったり、訳の分からない文章にしたりして、暗号化されることがあるんだ。これもその一つ……小説に擬態させているんだろう」

「はえー。でも、そんな暗号を読み解けるなんて、バランさまさすがです!」

 そう言って目をキラキラさせるリリに、俺は「そんなことない」と否定した。

「暗号化のレベル自体はそんなに高くないからな。これが樹木魔導の魔導書だと知っていれば、読み取るのはそんなに難しくない」

 魔導書の冒頭部分に記載されていた、もっとも基本的な技術「生命素の付与」についてはかなり扱えるようになったと思う。さきほどゴメスに試していたものは、植物の種に生命素を付与することで、一瞬にして成長させるものだ。

 対して、以前使用した「絡んで伸びろ(ソル・リアーナ)」や「まっすぐ伸びろ(アンセリディオ)」は、前者はつる植物に限定して、後者は植物の幹の部分に限定して急激な伸長を促すもので、比較的不自然な成長をさせるものだ。

 自然な成長と、不自然な成長。この二つが樹木魔導を扱う上で、重要な要因になるだろうと俺は考えていた。

「ただ、問題は」

 俺はリリの前に置いた魔導書に手を伸ばし、いくつかのページをつまんでまとめてめくった。そこには真っ白なキャンバスが広がっている。

「相変わらず、続きは出てこないってことだな」

 この魔導書は、俺が行動する分だけ情報を与える――これはアーヴィンの弁であるが、何を持って「行動」と呼ぶのかはよくわからず終いだった。樹木魔導についてはまだまだ学ばなければならないことがたくさんあるはずなのに、基礎の基礎を修めただけで打ち止めなはずはないのだが。

「やっぱりもっと呼びかけた方がいいんじゃないです? 魔導書さーん、続きを見せてくださーい」

 リリは口元に両手を当てて拡声器のようにして、魔導書に話しかけている。しばらくそうしていたが、

「……やっぱりダメみたいですね」

 と、すぐに諦めてしまっていた。

「そんなことで解決したら、それはそれで嫌だけどな。さーて、どうするかな」

 俺は本を畳み小脇に抱えながら、席を立った。既に記載がある部分については暗記してしまうほど読んだから、研究室の中でできることはないはずだが、なにもせずに気楽に待つわけにもいかない。「求めよ、さらば与えられん」だからだ。

 そう思って俺は、部屋を出て、研究室に戻ろうとしていた。だが、後ろからリリの大きな声がそれを止めた。

「そうだ! またあの泉へ行きましょう!」

「泉へ?」

「ええ。こう毎日お部屋に籠もってしまっていては、叶うものも叶わなくなってしまいますよ。私、お弁当たくさんこしらえますから。ピクニックしましょ!」

 俺の返事を待たず、リリは台所に戻り、なにか準備をし始めた。

「いつも強引な奴だ」

 こうなってから、リリが俺の言うことを聞いて行動を止めた試しがない。

「ピクニック、ピクニック!」

 いつの間に話を聞いていたのか、窓の外でゴメスが嬉しそうな顔をしている。

 俺は半ば諦めて、

「……準備ができたら呼んでくれよ」

 とだけ言って、研究室に戻ることにした。


◇ ◇ ◇


 朝はかなり空気が冷たかったが、泉に着いた正午に近づくころには、だんだんと過ごしやすい気温になってきていた。特に泉の周辺は日差しを遮る木々が少なく、それでいて風が吹かないので、体感的な温度はかなり違うだろう。

「はあー、やっぱりきれいですねここは。それに日差しも暖かくて、ピクニック日和です!」

 リリは嬉しそうに辺りを飛び回り、日差しを余すところなく浴びようとくるくる回っている。

 その間に俺は、ゴメスが小脇に抱えていたレジャーシートや弁当を受け取り、泉の近くに敷いた。

「ゴメス、荷物持ちありがとうな」

「オヤスイゴヨウ」

 ゴメスは満足げに頷くと、シートの近くに腰掛ける。俺はシートの上に座り、ゴメスの体に背中を預けてから、リリの方を見た。リリはまだ木に止まる小さな鳥と何事か話をしていた。

「リリー。弁当先に食べちゃうぞ」

 俺が声をかけると、

「ま、待ってくださいようー」

 リリは慌てて、俺たちのもとへ飛んできて、俺の向かい側にちょこんと座った。

 俺はランチボックスを開け、サンドイッチの一つをほおばる。

 リリも自分用に小さく作ったそれを一つ口に含んだ。

「やっぱり、ここは私の故郷、妖精の里によく似ています」

 辺りを見渡して、郷愁に駆られたのか、リリが穏やかな表情で言う。

「思い出します。父のこと、母のこと、里のみんなのこと……」

「そういえば、妖精は里にこもりきりで、あまり外へは出ない種族だとアーヴィンに聞いたが。妖精のお前が俺の世話なんかしに来ることになったんだ? ただ世話をするだけなら、別に妖精じゃなくて構わない気がするが……」

「うーん。それは正直よくわからないんです。ある日突然魔王さまの部下が現れて、『人間のしもべになるものを一人出せ』とおっしゃっただけなので」

「突然!? それで、妖精の仲間たちは黙ってお前を突き出したのか?」

 俺の疑問に対して、リリは無言で首を縦に振った。

「私たちはあくまで魔王さまに庇護していただいている立場ですから、逆らうことなどできません」

「……そうか、そうだよな」

 妖精は争いに向かない種族である。これもアーヴィンの弁だ。

 魔王の使いというのがどんなものかはわからないが、おそらく一人で妖精たちを全滅させる程度は簡単にできることだろう。

 そんな存在を前にして、一体どうやって抵抗しろというのだろうか。

 無理に決まっている。

「初めは母や父が行くつもりでしたが、『なるべく若く、長く仕えられるものを出せ』という命令で、里の妖精の中でも若い私が選ばれたのです」

 リリは遠い目で泉の湖面を眺めている。

 その目の奥に、俺はリリの記憶を想像した。

 突然、家族と離ればなれになるということの苦しみは、俺にも容易に想像できることだった。

 しかも、仕える先は、かつて自分たちを乱獲した人間の血を引く者なのだ。

「怖くなかったのか? 家族と突然離れ離れになって、しかも人間と一緒に生活させられるだなんて」

「確かに、はじめは逃げ出したいと思っていました。でも、私が逃げ出したことがどこかから漏れれば、妖精の里に住む家族たちがどうなるか……想像するだけでも恐ろしくて、できませんでした」

 リリは顔をうつむかせて沈んだ声で言う。

 しかしすぐに顔を上げて、

「あ、ですけど……もちろんそれだけじゃないですよ! 初めてこちらに参った日、復讐のために魔導を研究しているというバランさまの話を聞いて、私は思ったのです。辛いのは私だけじゃない。バランさまも苦しんでらっしゃる。ならば、その苦しみを癒すことこそ、魔王さまから課せられた私の使命なのではないか、と」

 リリはそのつぶらな瞳で、俺の目の奥をまっすぐに見据える。

「だから、私はずっとバランさまにお仕えしたいと考えております。それに先日のトレモロの一件でも、粗相をした私をバランさまは暖かく許してくださった。こんな優しい主に仕えられて、私は幸せだと考えています」

「……お前は本当にお人よしだ」

 俺はリリから顔を背けて、シートの上に座りなおした。リリがいつもと変わらぬ、穏やかな表情で俺を見つめているのが目の端でわかる。俺はそれに気づいて、なおさら目を合わせないようにした。気恥ずかしくて、合わせる顔がなかったからだ。

「そうだ!」

 リリは急に、思い出したかのようにリュックの中をガサゴソと漁り、自分の体ほどの大きさの樽をうんしょと取り出した。

「バランさまは、杯事さかずきごとというのをご存知です?」

「さかずきごと?」

「人間界のある地域では、血縁関係のないものが結束を結ぶとき、必ず同じ杯に注いだお酒を飲んだそうです」

 リリはそう言うと、俺の親指ほどの大きさの小さな木の杯に、樽の中の液体を注いだ。赤紫色のそれが、強い香りを漂わせながら杯の中に満たされていく。葡萄酒だ。

「まず上に立つ者が杯の七分目までを飲み、残った三分を下の立場の者が飲む。これを、『七分三分の兄弟杯』というのです」

 葡萄酒の杯が俺の前に置かれた。俺は杯と、その奥に座るリリの姿を交互に眺める。

「私のことをしもべと認めてくださるなら、この杯を交わしてください」

「…………」

 俺は無言で杯を手に取り、口をつけた。

 葡萄酒の強い酸味が舌を、熟成された腐葉土のような香りが鼻をくすぐる。

 俺は酒を飲み慣れていないから、その感覚に戸惑いを感じていた。でもそれ以上に、この味と香りが俺たちの結束をより強固にすると考えると、感慨深いものを感じる。

 リリの説明どおり、全部飲んでしまわないように注意して、俺は杯をリリに渡そうとした。

 俺にとっては親指ほどの小さな杯でも、リリにとっては花瓶のような大きな杯である。俺はリリが落としてしまわないよう注意し、ゆっくりと手渡しをしようとして――

 ――飛んできた何かで弾かれるように、杯は俺の手元で割れた。

「きゃあっ!?」

 虚を突かれたリリが小さく悲鳴を上げる。俺も驚いて何かが飛んできた方を睨み付けた。

 その何かに俺は心当たりがあった。それは手元を見ればわかる。俺の手元は液体でびしょびしょに塗れていた。液体とは、赤紫色の葡萄酒だけではない。むしろ、無色透明のただの水の方が多いくらいだった。

 つまり「何か」とはさながら弾丸のように圧縮された水。

 そんなことをできるのは俺が知るうちには一人しかいない。

 果たして、俺が睨み付けた先には、思った通りの人物がいた。

「いけない子ねえ、バランちゃん。私の知らないところでこーんなかわいい子と仲良ししてただなんて……」

 全身水色の髪と肌、そしてその切れ長の目線からぞっとするような冷たさを感じ、俺は震えながら思わず立ち上がった。

「お姉ちゃんびっくりしちゃったじゃないの」

 俺の姉、スピカがアルカイックな笑みを浮かべながら、悠然とそこに立っていた。

「お、お姉ちゃん……? ではバランさま、この方は」

「ああ。魔王の娘の一人であり、トレモロの領主。スピカ姉さんだ」

 俺は説明しながら、リリをかばうようにして後ずさった。姉さんがここへきた理由に、嫌な心当たりがあったからだ。

「領主!? ではあのきれいな街はこの方が……! あ、申し遅れました、私、バランさまのしもべのリリと申します」

 リリは俺がかばおうとした腕を飛びよけて、恭しく姉さんに挨拶をした。

 その様子を見て、スピカ姉さんは嬉しそうに口元を歪ませる。

「どうもはじめまして。噂どおり、丁寧でかわいらしい子ね」

 姉さんは俺やゴメスには一切目もくれず、舐めるようにリリを眺め回した。

「噂どおり……?」

「ええ。私の手下からね、報告があったのよ。人間の男がかわいい妖精の少女を連れて歩いてたってね。プロキオン兄様からも、バランちゃんのところに妖精が行かされたって話を聞いてね。もらいにきたの」

 スピカ姉さんはまるで子供のように言ってのける。やはりか、と俺の心は当たってほしくなかった予想が的中したことに憤りを隠せない。

「え? もらいに……? なにをですか?」

 リリは戸惑いながら、俺とスピカ姉さんの顔を交互に眺める。

「決まってるじゃなぁい」

 姉さんは本当に当然のことと思っているように、鼻に掛かった声で言い放った。

「リリちゃん。あなたを、よ」

「へ……わ、わたし?」

 リリは事情を飲み込めてない様子で俺の方を見る。俺はいたたまれず、リリの方から顔を背けた。

「そう、これからあなたはトレモロの街で私のしもべとして生きるの。美しい街に、美しいしもべ。そして、美しい領主……最高だと思わない?」

「ふざけないでくれ!」

 俺はスピカ姉さんの身勝手な物言いに、思わず声を荒げていた。

「リリは俺のしもべだ! いくらスピカ姉さんでも、好きにはさせない!」

「あら驚いた。まさかバランちゃんが私のやることに反対するなんて。でもね」

 突如、俺の体に何者かがのしかかった。俺は体を地に伏せられ、首だけを正面へと向かされる。

「よーう。こないだはよくもやってくれたな」

「お返し、する」

 俺の体の自由を奪っていたのは、既視感のある鹿と馬の二頭だった。

「お前ら……!? そうか、お前らスピカ姉さんの……うぐっ!」

 俺が口を開こうとすると、背中に突き立てられたマグラの膝が深く俺の体に沈み込む。

「バランちゃん、あなたの意見は聞いてないの。お願いだから少し静かにしててちょうだいな。……あら?」

「リリニテヲダスナ」

 俺たちとスピカ姉さんの間に立ちはだかっていたのは、それまで平静を保っていたゴメスだった。ゴメスはもはやスピカ姉さんの目の前に立ち、そのまま踏みつぶそうとするかのように見えた。

 スピカ姉さんの体は、獣人との混血のように大きくはない。人間との混血である俺とさほど変わらない。

 そのため、傍目にはゴメスがスピカ姉さんを蹂躙しようとしているように見えてしまうだろう。

「ゴメス! よせ!」

 俺は必死でゴメスに呼び掛けるが、反応はない。

「スピカ様、気を付けてくれ! 俺たちはその石巨人にこっぴどくやられたんだ!」

 俺を拘束している鹿魔族・カグラが呼びかけるが、スピカ姉さんは平静を崩さない。

「そう。あいつらを倒したのはあんたの力だったのね。ま、あのバカどものことはどうでもいいんだけど」

「グオオオオオ!」

 ゴメスが振り上げた拳を、スピカ姉さん目がけてまっすぐに落とした。

「……グッ?」

 奇妙な感触がしたのだろう、地面まで到達したその拳を見て、ゴメスは戸惑うような声を出した。

 拳を落とした場所に、スピカ姉さんの姿はない。その代わりに、湯殿をひっくり返したような量の水が、地面や拳を覆っていた。

 やがてそれらは意志を持ったようにうごめき、集まり、ゴメスの腕の上で形をなす。

 元の、スピカ姉さんの姿へと。

「どうでもいいんだけど。私をあいつらと同じと思ってるから、こうやって殴ってきたわけよね?」

 スピカ姉さんはゆっくりと飛び降り、ゴメスの体に手のひらを当てる。先ほどまでの穏やかな表情が一変し、凍えるような瞳がゴメスを睨み付けた。

「それ、スッゴい嫌なんだけど」

 瞬間。

 轟音と共に、ゴメスの身体が跳ねた。

 木々を越え、遠く森の向こう側までゴメスが吹き飛ばされるのを、俺は黙って見ていることしかできない。

「相変わらずえげつねーなー、スピカ様は」

 カグラが、気の抜けた声でゴメスの飛んでいった先を眺める。

「ゴメス!」

 リリは慌ててゴメスの飛んだ方向に行きかけたが、

「おっと。主がどうなってもいいのか?」

 カグラの言葉に、唇を噛み締めて踏みとどまった。

「…………」

 そしてリリはスピカ姉さんの方に向き直る。

「スピカさま。あなたがどれほど強い方なのかはわかりました。ですが、私はここにいるバランさまを一生の主としてお仕えすると決めているのです。……どうか、お引き取りください」

「あ、そっか」

 リリの言葉を聞いて、スピカ姉さんは意外にも納得したかのような表情をした。

 しかし、それが本当に甘い期待だということはすぐにわかった。

 スピカ姉さんはゆっくりとリリへ歩み寄り、諭すように告げる。

「私ね、別にあなたの意見を聞いてるわけでもないの。……カグラ、マグラ」

「了解」

 スピカ姉さんが促した瞬間、俺の顔面が蹴り飛ばされた。

「がはっ……!」

 鋭い痛みに、肺から声が漏れる。

「バランさま!」

「あら、どこへ行くの?」

 リリは俺に近づこうとするが、スピカ姉さんに睨まれ身動きさせてもらえない。

 その後も、カグラとマグラの二人は容赦なく俺を痛めつけてくる。度重なる肉体への苦痛で、俺はリリに「逃げろ」ということすらできなかった。

 そして、俺の意識がもうろうとし始めていたころ、ついにリリは耐え切れなくなったようだった。

「わかりました、行きます! 私、スピカさまのしもべになります! だから……だから、バランさまを離して!」

「はじめからそう言えばいいのよ。カグラ、マグラ、もうおよし」

「なんだ、もう終わりかよ」

「つまらん」

 それまでさんざん俺をいたぶっていたのがウソのように、二人は瞬時に俺を解放した。

 俺はそのまま地面の上に、うつぶせに倒れる。

「スピカ様ー、こいつどうします? 殺しちゃってもいいですか?」

「ダメよ。一応、プロキオン兄様との約束だからね。この子にもう何ができるとも思えないし……さ、行くわよ」

「へーい」

「御意」

 俺は薄れゆく意識の中で、俺に背を向け去っていく四人の姿を見た。

 一日にしてすべてを失った俺は、いっそこのまま死にたいと、目を閉じ、落ちていく意識のままに身を任せた。


◇ ◇ ◇


 起きた瞬間、目の前にあったのは骸骨だった。

「うわあ!」

 驚いて、俺は顔を覗き込んでいたそれに頭をぶつける。

 痛い。最悪の目覚めだ。

 その骸骨――もとい、アーヴィンは、「急に起きてくんじゃないわい」と悪態をついて、そばの椅子に座りなおし、何かしら本を読み始めた。

「ここは……」

 俺は痛む額を押さえながら辺りを見渡す。簡素な部屋の中には、所狭しと魔導書や実験道具やらの類が並んでいる。こんな部屋は、俺の研究室しかない。

「注文の品を届けに来たら、館の入り口でぼろぼろのお前を抱えたでっけえ石巨人がいてな。ヤツは家のなか入れねえっていうから、代わりにわしが運んでやったんじゃよ。お前さんもすっかりでかくなっちまって、もーまさに骨折り損ってやつじゃな。折れてないけど」

 アーヴィンは手にした書物から目を逸らさないまま、ぶっきらぼうに語った。文机の上には見慣れない袋が置いてある。おそらく樹木魔導の魔導書だろう。

 そうか。俺は気を失った後、二人に助けられてここにようやく戻ってこられたらしい。

「リリは」

 俺は、できれば聞きたくないことを口に出す。

「見てないのう。ついに愛想つかされて出てかれちまったか?」

 アーヴィンは相変わらずの調子でカラカラと笑う。俺はそのデリカシーのない物言いに怒る気力もなく、うつむいたまま何も答えられなかった。

「なんじゃ。ひょっとしてマジなんか」

 俺はアーヴィンに経緯を説明した。突如、姉でありトレモロの領主であるスピカ姉さんがやってきたこと。以前リリを襲ったカグラとマグラの二人は、スピカ姉さんの手下だったこと。散々傷めつけられて、やむなくリリはスピカ姉さんのもとへ行ってしまったこと。

 俺は絞り出すようにしかしゃべれなかったが、アーヴィンは辛抱強く俺の言葉に耳を傾けてくれた。

「うかつだったんだ。スピカ姉さんの趣向は知っていた。自分の気に入ったものなら、たとえ人のものでも容赦なく奪うということも。でもどこか他人事だろうと思っていた。あんな広い街で、見つかるわけないと高をくくっていたんだ」

 後悔の念を吐き出しても、事態は何も変わらない。だが、今の俺にはそのくらいしかできることがなかった。

「まさか、あの女領主の毒牙にかかっちまうとはな」

 アーヴィンも、腕を組んで考え込む。さすがにトレモロに住んで長い男だから、スピカ姉さんの噂は知っているようだった。

「わしの知り合いでも、美しいと自慢の娘を連れていかれたとか、宝石を根こそぎ持っていかれたとか、話はよく聞いとるよ。そして、連れていかれたものが、二度と戻ってこないことも。果たして、生きてるんだかどうだか……」

「アーヴィン!」

 最悪のケースを想像してしまい、俺は思わず声を荒げた。

 しかし、すぐにばつが悪くなって、

「……悪い。もう、どうにもならないんだ。考えても仕方ない」

 とだけ言って、立ち上がって研究室を出た。ここにいると、リリが実験に失敗した俺を必死に看病してくれたことや、夜食を作ってくれたことばかりを思い出してしまう。

 でもそれは無駄なあがきでしかなかった。

 館中のどこにいてもリリとの生活ばかりを思い出してしまうのだ。

 例えば食堂にいれば、二人で共に食事をとった日々や、ウルルの体を治療してやった思い出がよみがえってくる。

 俺は耐え切れず、館を出た。

 しかし、庭に咲く花々を見て、ついに俺は地面に膝と手をついた。

 頭に流れ込むのは、リリの歌を聞いた朝。そして、花畑に喜ぶリリの笑顔。

「う……ぐぅ……うううっ……!」

 俺は嗚咽をもらし、涙を流さずにはいられなかった。

「強がるんじゃないわまったく。そんな悔しそうな顔して、本当に何もしないつもりかの」

「無理に決まってるだろう!」

 俺は振り返り、今度こそアーヴィンに向かって激昂していた。

「お前は魔王の子どもの力を知らないからそんなことが言えるんだ! 数百人の魔族に匹敵するような力を持つ奴らなんだぞ! そんな奴相手に、俺にいったい何ができる!?」

「そういうことを聞いとるんじゃあない」

 いつの間にか、アーヴィンは俺の前に回り込み、俺の顔を見下ろしていた。

「お前さんはどうしたいのかと聞いとるんじゃ。ほら、これ見てみ」

 アーヴィンはそう言って、持っていた本のあるページを開いて見せた。

 俺ははじめ、それが何の本だかわからなかった。やがて装丁などを見て気が付く。これは、「ユグドラシルの雨に泣く」だ。

「言ったじゃろ。この本は求めるものに力を与える、と。……新しいページじゃよ」

 そこには、前ページまでの「生命素の付与」の内容に続いて、新しい内容が記されていた。テーマは「生命素の吸収」だ。

「わかりやすい願いじゃの、『力がほしい』というお前さんの想いは。ほら、言ってみ。お前さんはいったい、何のために力がほしいのかの?」

 アーヴィンは諭すように言いながら、手を差し伸べた。

 その手をとり、立ち上がって、俺は服に付いた土汚れを落とす。そしてまっすぐアーヴィンに向き直った。

「俺は……リリを助けたい。スピカ姉さんの家から連れ出して、もう一度、この館でリリと一緒に暮らしたいんだ」

 そうだ。

 俺の頭には初めからそれしかなかった。

 ただ口に出せなかった。そんなのは無理だと、心のどこかで自分を抑えつけていた。

 でも――


≪大丈夫、必ず成功しますよ。なんたって、私のご主人さまですから≫


「そうだ。挑戦すること、信じ続けることの大切さを教えてくれたのは、リリだった……リリは今でも俺のことをきっと信じている! だから、俺が助けるんだ……!」 

「バラン……オレモイク」

 不意に声がした背後を振り返ると、そこにいたのはゴメスだった。

 ところどころについた土汚れや掛けた角が痛々しく見えるが、その目に灯る明かりはいつもより鋭い。

「そうだよな、お前もリリに救われたんだものな」

 俺はゴメスを促し、その肩に乗った。このまま、スピカ姉さんがいるトレモロまで乗り込んでやろう。

「待て待て待て待て」

 だが、すぐにストップを掛けたのは、俺を焚きつけたはずのアーヴィンだった。

「行くのは構わんがの……行ってどうするんじゃ、お前ら」

「どうするって」

 急なその質問を受けて、俺は答えに窮する。

「……リリを取り返しに」

「だーかーら、どうやって取り返すのかと聞いとるんじゃ」

「それは……とにかくスピカ姉さんの館に乗り込んで、その」

「後は野となれ山となれ。というわけかの?」

 図星だった。俺が口をもごもごさせていると、アーヴィンは呆れた様子で、

「これだから若い奴ってのは困ったもんじゃ。勢いも大事じゃがのもう少し考えて行動してほしいのう。ほら、降りろ」

 と、ゴメスの上に乗る俺に対して、地面を指差した。

「考えるって言っても……どうすればいいんだよ」

「それを考えるゆーとんじゃ。なにも、お前さん一人でなんて言っとらん」

 そう言うと、アーヴィンはニヤリと口元をゆがませた。

「お前さんをけしかけてる責任があるからな。ワシにも一枚かませろよ」

 俺はアーヴィンの眼窩の奥の光を見て、一つ唾を飲み込んだ。

 普段はふざけたこの男がこういう笑みを浮かべるとき、それは必ず何かを企んでいるときだった。

 

◇ ◇ ◇


 スピカが呼び出した飛竜リンドブルームにしがみつくこと、一時間。リリがはるか下を覗くと、見覚えのあるパステルカラーの街並みが広がっていた。

「竜魔族の血を持って相応の実力さえあれば、だれでも飛竜くらいは操れるものだけどね。まあ、ほとんどただの人間のバランちゃんには力不足かしら」

 スピカは余裕たっぷりに言うと、飛竜の鱗を平手で軽く叩く。

 パチ、という小気味のいい音を合図に、飛竜はその高度を一気に落としていった。

「お、落ちちゃいますうううううう」

 リリがあまりの落下速度に悲鳴を上げると、スピカは心底楽しそうに、

「このスリルがたまらないのよねー、しっかりつかまってなさい!」

 と笑った。

 果たして、あわや地面に真っ逆さまのように見えた飛竜は、地面に衝突するすんでのところで体を翻した。そして数度低い高度で回転しながら速度を落とし、やがて石畳の上にその体を横たえた。

「……ゴメスよりもスリル満点でした」

「それは褒め言葉として受け取ろうかしら。さ、着いたわよ」

 スピカはこともなげに言うと、飛竜からひょいと足を浮かせて地面に降りた。リリも慌ててその後を追って飛竜から降りる。

「ところで、あのお二人はよかったのですか? おいてきてしまって……」

 落ち着いたところで、リリはずっと気になっていたことを聞く。

 あの二人というのは、もちろんカグラとマグラのことだ。

 二人は飛竜に乗せてもらえず、徒歩でバランの館からトレモロまで戻るようスピカから指示されていたのだ。

「だってしょうがないじゃない。三人も乗ったら定員オーバーだもの。まあ、あの二人なら夕暮れには帰ってこられるわよ」

 スピカは当然のようにそう言って、歩き出す。リリも、

「はあ」

 とだけ返事をして、眼前の建物を眺めた。

 街の中心部にあるその建物は、周りの家々からは明らかに隔絶されていた。広い石畳の上に作られた建物はほかの家を四、五個つなげた程度には大きい。何よりも白い石造りのその建築は、木造りのほかの家と比べて明らかに異彩を放っていた。

「大きなお建物……美術館か何かですか?」

「ようこそわが家へ。入口はこっちよ」

「えっ!? こ、こんな大きな建物がお家なんですか!?」

「ええ。なんていっても、私はトレモロの領主だから」

 リリの驚きように満足したのか、スピカはニコリと笑って、館の入口へと歩いていく。

 館の扉の前では、すでに誰かが扉を開け、手を前に揃えて立っていた。メイド服を着た人間のような格好だが、兎耳が生えていることだけが違った。彼女も獣人系の魔族なのだろう。

「おかえりなさいませ、スピカ様」

 兎耳メイドが恭しく頭を下げると、スピカは「ただいま」と言ったあと、自慢するかのように、「この子が例の新しいしもべ、リリよ」とリリを彼女に紹介した。

「……はじめまして」

 リリは恐る恐る挨拶をする。兎耳のメイドの表情がまったく変わらず、不気味だったからだ。

「仲良くしてあげてね、ウェンディ」

「はい、よろしくお願いします」

 ウェンディと呼ばれたメイドは、リリに対しても丁寧にお辞儀をする。なぜか、じっと見つめられ続けているのが気になって、リリは会釈を返したあと彼女から目を逸らした。

「それと、いつものように、兵士たちの配備をお願いね」

「承知しました」

「兵士、です?」

「うふふ、こっちの話。リリ、あなたは気にしなくていいのよ。……それより、お腹は空いてないかしら? 歓迎の食事はもうできてるかしら、ウェンディ」

「すべて、スピカ様のお申し付けどおり、準備できております」

 ウェンディは、相変わらず変わらない表情で機械のように受け答える。これなら、ゴメスの方がまだ心がありそうなものだ。

「じゃあ、少し早いけど二人っきりで歓迎会にしましょうか。館の中を案内するのは、いつでもできるからね」

 そういうと、スピカはウェンディを通り過ぎ、館に入る。リリもそれを追って、館の中に足を踏み入れる。

「ひっ……!」

 そして、その異様な様子に小さく悲鳴を上げた。

 広いロビーの中心に、奥の大きな階段まで赤いカーペットが続いている。その両側には数十名のメイドたちが背筋を伸ばして立っていたのだ。メイドたちから発せられた、「おかえりなさいませ、スピカ様」という言葉の合唱が、リリの耳の中でリバーブする。

「こ、この人たち、みんな……」

「ええ。私のしもべたちよ、驚いたかしら?」

 スピカは平然とリリに告げる。

 確かにリリはその人数や、獣人や亜人などの種族の豊富さにも驚いていた。だが、それよりも彼女たちの表情に驚きを通り越して恐怖すら覚えていた。

 彼女たちの表情には、生気というものがまったく感じられない。押し並べて無味乾燥な表情をしていたからだ。

 目を見開き、唇を真一文字に結んだ数十の顔に見られながら歩むことは、背筋が凍るほどの体験だった。

 

 館の二階部分にあるダイニングルームには、部屋の大部分を占める大きなテーブルが置かれていた。真白のテーブルクロスが神経質なまでに美しく乗せられ、その上には燭台が規則正しく並んでいる。

 食卓一つとってみても、幾何学的な美しさが徹底されているようだった。

 リリはテーブルの向こう側に座るスピカに向かい合い(もちろん、リリには合う椅子がないのでテーブルに直接座っているのだが)、運ばれてくる種々の料理に手を着けないまま眺めていた。

「食事が進んでいないようね。私のしもべが作る料理は口に合わないかしら」

 スピカはすでに数品にナイフとフォークを着けたあとで、リリの様子をいぶかし気に見る。

「いえ、その……バランさまのことを思うと、食欲が」

 リリは思わず窓辺に目を向け、外を眺めた。そちらにバランがいるわけもないし、バランの館がその方角かどうかもわからない。それでも、とにかく忘れなければと思えば思うほど、リリの頭に浮かぶのはバランのことばかりだった。

「バランちゃんのこと?」

「はい。お昼に作ったお弁当には、あまり手を着けていらっしゃってませんでしたから。私が晩御飯を作らないと、ちゃんとしたものを食べてらっしゃるのかどうか……」

「あなた、かわいそうに。バランちゃんにこき使われてきたのね」

「えっ?」

「だって、ずっとあの子の食事の世話やら、掃除やらをさせられてきたのでしょう。やりたくもないことをやらされて、かわいそうだと思ったの」

 スピカは、手にしたフォークで、宙に絵を描くようにして遊びながら続ける。

「ここではあなたはなーんにもしなくていいからね」

「え、でも、私はスピカさまのしもべに……」

「私の言うしもべってのはね、身の回りのお世話をする人とか、人形のように戦う人のことじゃないの」

 そういうとスピカは立ち上がり、ゆっくりとリリの方に近づいた。そしてテーブルに座るリリの小さな顎に指を添える。

「あなたは食事の支度も、掃除も、洗濯も、何にもしなくていい。ただ私のそばにいればいいの。それがあなたの仕事。どう? バランちゃんの田舎クサい森なんかより、よっぽど良いと思わなくって?」

 スピカはリリの目をまっすぐに見て問いかける。その目は、決してバランのことを馬鹿にしたり、リリをおちょくったりしているわけではないようだった。本気でそう思っているのだ。

「……私はスピカさまのしもべですから。スピカさまがそうおっしゃるのなら、従います」

「そう。いいお返事ね」

「でも、一つ訂正していただきたいことがあります」

 リリはスピカの目をまっすぐにらみ返した。

「私は、嫌々バランさまのお世話をしていたわけではございません。私はわたしの意志で、お世話して差し上げたいと思ったからそうしていたのです。ですから、私は自分をかわいそうだったと思ったことは一度もございません」

「……へえ」

 堂々と言い放ったリリを見て、スピカは少し驚いたようだった。だが、すぐに元も調子に戻り、

「少し残念ね……本当にあなたは美しいのに……強い心が、その美しさを邪魔している」

 そう言って、舌なめずりをしながら、瞳の奥をどろりと濁らせた。

「え、ええっと……でも、美しさならスピカさまや、この館の侍従の皆さまの方がはるかに上だと思いますが」

 リリはスピカの表情に戸惑い、思わず話題を逸らして、疑問に思っていたことを尋ねた。

 リリとて年頃の少女だ。自分を「美しい」と言われることに、悪い気はしない。

 でも、まるで自分を世界で一番のように言われることには、どうしても違和感があった。それなら、目の前にいるこのスピカの方がよほど良いように思えてしまう。

「それは違うわ」

 スピカは意外なほどはっきりと、リリの言葉を否定した。 

「私の思う美しさとはね、『小ささ』なの」

「小ささ……です?」

「妖精であるあなたから見て、魔族というのはあまりに大きすぎると思わないかしら?」

「それはまあ、私からすればたいていの方は大きいですが……」

「魔族というのはね、基本的にどの種族も大きくなるよう進化した歴史がある。大きいほうが、当然強いはずだから。でも大きくなればなるほど、粗暴さや乱雑さが増していき、どんどん美しくなくなる。無駄も増える。逆に言えば、小さな種族ほど、必要最低限の体で生きることを実現している……その機能美こそ、本当の美しさだと思わない?」

「そ、それで妖精である私を?」

「私ね、ずっとあなたのような妖精をしもべにしたいと思ってたの。あなたの話を聞いて、驚いたわ。まさか妖精がこんな近くにいたなんて。そして、さらにそれはバランちゃんのしもべだっていうじゃない? 確信したわ。これは天が私に与えてくれたチャンスだと」

「でも!」

 スピカの話のボルテージがどんどん上がっていくのを見て、リリはやや強引に割り入った。

「そういう意味では、その、あなたのしもべであるあの獣人のお二方は、あまり美しいとは言い難い気がしますが」

「……そのとおりよ。私の困りの種なの」

 スピカはそれまで呼吸を忘れていたかのように、ふう、と息をついた。

「私兵団として数十人の獣人を雇ってるのだけどね。どれもこれも、大柄で粗暴で美しくない奴らばかり。でも、美しいものを戦わせて、怪我でもしたら、私には耐えられない」

 なるほど、とリリは考えた。いくらスピカが強いと言っても目の届く範囲というものがある。私兵団を作らなければ街の平和はここまで保てないのだろう。

 リリにとっては、カグラとマグラが私兵団の一員だったということに驚いたが。スピカの命令で、警備以外にも人攫いもしていたのかもしれない。

 と、納得しかけたところで、リリにはさらなる疑問が沸いていた。

「あれ? じゃあ、カグラさんやマグラさんら、傷ついたり殺されたりしてもどうでもいいってことですか!?」

「そうよ」

「そうよ、って……」

「だって彼らはそのためにいるんだもの。むしろ私のために傷つくことができるなら、本望じゃないかしら」

「なっ……」

 そのあまりに身勝手な物言いに、リリは怒りを通り越して、呆気にとられていた。

 バランもスピカも同じ魔王の子どもだというのに。生まれ持った環境で、考え方がこうも違うのか。

「いくらなんでもひどいです、そんな言い方! あの人たちだって、あなたのために一生懸命働いていたのに!」

「あら、あいつらのために怒っているの? あなたは本当、心優しい子なのね。あいつらは、一時はあなたを捕らえようとまでしていたのに……」

 リリが露わにした怒りにも、スピカはまったく動じていない。リリには彼女がもはや会話しようと言う気がないように思えた。リリの言葉や訴えも、すべては犬や猫の鳴き声のようにただスピカを喜ばせるだけ。彼女の心にはなに一つ届いていないようだった。

 そのとき、館の外から、騒ぎの音が聞こえてきた。

 男の叫び声と、争うような物音。

「侵入者だ! 捕らえろ!」

「な、なんだこれ……うああ!」

 リリは瞬時に、それが自分を追ってきたバランやゴメスたちが起こした音だと悟った。

「バランさま!?」

「やれやれ、騒がしいわね。しかもずいぶん早いこと……」

 スピカはまったく焦る様子もなく、窓辺から外を見もしなかった。おまけに、

「食欲はあまりなさそうだし、湯浴みでもしましょう」

「え!? だって、外が……」

 リリは、バランたちを心配するのと同じくらい、外から侵入者が来ている状況でもまったく動じないスピカに驚いていた。

「相手はたった二人でしょう? あの石巨人は獣人にとっては手強いかもしれないけど、バランちゃんは話にならないから、合わせて二人分ってところよね。一応私兵たちは二十人くらいは配備させてるから、心配いらないわよ」

 スピカはまるで怖がる少女を諭すように優しく言ってのける。そのゆがんだ笑顔に、リリはもはや恐怖しか感じていなかった。 

「ウェンディ」

 スピカが部屋の扉の向こうに、何気ない声で呼びかけると、

「およびでしょうか」

 と、うさ耳がぴょこりと跳ねて姿を表した。

(まさかこの人、ずっと扉の前にいたの!?)

「湯殿の準備はできているかしら」

「ご命令のとおりに」

 ウェンディは頭を少しだけ下げて答える。先ほどまでと寸分も違わない角度と音量だ。

「いい子ねウェンディ。じゃあ、あなたは行ってきなさい」

「承知しました」

 スピカが促すと、ウェンディはおもむろに部屋の窓を開け放つ。

 そしてサッシに足を掛けたかと思うと、そのまま外へと飛び降りていってしまった。

「えっ!? す、スピカさま、あの人は……!? メイドさんは戦わないんじゃ!?」

「ん? ああ、あの子は特別なの。あの子は、戦っても今まで一度も傷ついたことないくらい強いから。まあ、私よりは弱いと思うけどね。……そんなことより、こっちへいらっしゃい」

 スピカはリリへ手招きする。指の先が怪しく蠢くのを見て、リリ少しだけ後ずさった。

「あの……ひょっとして一緒にお風呂に……?」

 リリがおずおずと尋ねると、「もちろん」とスピカは鼻を鳴らした。

「美しいあなたの一糸まとわぬ体を堪能するには、湯殿を用意するのが一番ですもの。まさか、嫌とはいわないわよね?」

(……嫌に決まってる!)

 そう思ったが、それ以上は抵抗できなかった。リリは仮にもスピカのしもべになってしまっていたのだ。彼女が命令することに逆らえるわけがなかった。


 スピカの館の浴場は、二階部分の半分以上を占める、非常に大きなものだった。湯殿からして、バランの家の数倍はあろうかという大きさだ。しかも、壁に設置されたまがまがしい獅子の大きな口からは、絶えず乳白色の湯が湯殿に流れ込んでいる。

「はあー、おっきい」

 浴場に足を踏み入れたリリは、そのあまりのスケールの違いに思わず感嘆の声を上げた。同時に、生まれたままの姿で放り出された自分にいくばくかの恥ずかしさを覚える。

「どうしたの? そんなところにいないで、一緒に入りましょう」

 湯殿の方からスピカの艶やかな声が聞こえる。リリは誘われるように、ふよふよと湯殿の方へと近づいていった。

 徐々に湯煙が薄くなり、顔しか見えていなかったスピカの肢体が露わになる。

「……え?」

 その姿を見たリリは、驚かずにはいられなかった。

 なぜなら、スピカは先ほどと何ら変わらぬ姿だったのだ。着飾った服も、結んだ髪も、靴まで履いたままの、浴場にまったく似つかわしくない姿でスピカはそこに立っていた。

「驚かなくて大丈夫よ。すぐに『戻す』から」

 スピカはゆっくりと手を広げる。すると、少しずつ、スピカが体にまとっていた服や装飾が溶けるように消えていった。そしていつの間にか、スピカもリリ同様に一糸まとわぬ水色の肌を晒していた。

「……きれい」

 リリは思わずスピカの体に見入っていた。それほどに、スピカのプロポーションは完璧だった。出てほしいところは出て、出てほしくないところは出ない。基本に忠実な彫刻のような肉体だった。

 ――かに、思えた。

「さあ、もっとこっちに……」

 スピカは生まれたままの姿で湯殿にひざ下までつかり、リリをさらに手招きする。

「……!」

 しかしその体は、服を溶かしただけでは飽き足らないかのように、自らをも溶けだし始めていた。

 美しく二つに分かれていた腿が、リリを招いていた腕が、形よく張り出していた胸が溶けだし、やがて一つの流動体へと変化していく。

「早くいらっしゃい」

 もはやそこに、あの美しかったスピカの姿はない。

 リリはそのとき初めて気づいた。

 スピカが「小さく完成された」ものに美しさを覚えていた理由。それは、自らにないものを得ようとする思いからだったのだ。

 そして、スピカが竜魔族の父と、流動体生物ハルトマネラの母をもつ混血であることを、リリはこのとき初めて知った。


第六節 愛にすべてを


 トレモロの街に着いた俺たちは、スピカ姉さんの館のそばの一般家屋の影から、館の様子を伺っていた。ゴメスに抱えられ全速力で走ってもらって来たから、まだ辺りは明るい。

 ただ実は、このときすでに俺たちはボロボロの状態だった。

 ゴメスは、表情が変わらないのでわかりづらいが、やはりスピカ姉さんに吹き飛ばされたダメージがないわけではないだろう。俺とアーヴィンの二人を肩に乗せて数時間、ここまで全速力で走ってきた体力の消費も馬鹿にならない。

 また、アーヴィンはと言えば、

「……うぼえっ」

 終始えづいている。全身骨なのだから何も出るものなどないというのに。ゴメスの安全運転とは言い難い乗り心地に、かなり参ってしまってたようだった。

「アーヴィン。お前『俺に任せとけ』とか言ったの忘れてないだろうな」

「そ、そこまでは言っとらんが……頼む、もう少し休ませて……」

「馬鹿言うな。こうしてる間にも、リリがどんな目にあってるかわからないんだぞ」

 俺はアーヴィンの様子を見るのをやめて、館の方に目をやった。

 目を引くのは、その警備の数だ。

 実に数十人規模の獣人の兵士たちが屋敷を取り囲み、ネズミの一匹も取り逃がさないようにと目を光らせているのだ。

 いくらこちらにはゴメスがいるといっても、そう簡単に突破できるものではないだろう。

「相変わらずものすごい数の兵士たちじゃの。これじゃこの館の中にはやましいものがありますって宣言してるようなもんじゃな」

 いつのまに平静を取り戻したのか、俺の横に立って、アーヴィンがすました声で言う。

「あの領主の姉ちゃんはいつもそうじゃ。どこかから何かを奪ってきた時には、こうして私兵団を招集して警備を固める。トレモロの街に住むわしらに取っちゃ、ちょっとした風物詩みたいなもんよ」

「なんで自慢げなんだよ。そんなことより、早くあれを突破する作戦とやらを教えてくれ」

「うーん、まだ日没までは時間があるんじゃが……事は一刻を争うしの。そろそろ行くか」

 そう言うと、アーヴィンは玉のようなものを取り出す。

「今からちょっとした騒ぎを起こして、あの兵士たちをひきつける。その間に、お前たちは館の中に忍び込め」

「……なんだ、それ?」

 俺はアーヴィンの持つ玉に見覚えがなく、思わず尋ねた。その球の表面からは、一本、ひものようなものが付いている。

 アーヴィンはにやりと笑って、

「お前ら魔族じゃ一生かかっても作れない、人間様の発明品。……火薬ってやつよ」

 それだけ言い残すと、アーヴィンは館へと一目散に走る。そして、火をつけたその球を広場の真ん中に向かって放り投げた。

 直後、地鳴りが起こったかのような音と共に、爆発が起こる。

「何事だ!」

 アーヴィンの言う通り、館の外で警備にあたっていた十数名の獣人たちが一斉に飛び出してきた。そして、その場に一人佇む彼を取り囲んだ。

 注目を集めたはいいが、絶体絶命な格好になるアーヴィン。しかし彼は、まったく焦ることなく、むしろおかしそうに笑っていた。

「クカカ。お集まりご苦労さん、烏合の衆ども」

 アーヴィンは懐からまたしても球体を取り出す。片手にぎりぎり収まる程度の大きさのそれは、先ほどのものとは違い透き通った漆黒の宝玉だった。

「行くぞい。人の理より外れた者だからこそできる闇の魔導の神髄、とくと見よ!」

 アーヴィンは手に持った宝玉を高らかに掲げ、

「底なしのダイラタント!」

 詠唱すると、その周りを取り囲むように、地面に闇が発生する。

「な、なんだ!?」

 獣人の兵士たちはさながら底なしの沼に足を取られるかのように、地面の闇に沈んでいった。もがけばもがくほど深く沈んでいくその沼に抗えるものはいなかった。

  生命素を操る魔導は、人間にしか使えないものである。だから本来は、元人間とはいえ魔族になってしまった彼に扱えるものではない。

 しかしある種類の魔導だけは、彼にも、いや、元人間の死霊魔族だからこそ使えるものがあった。 

 「暗黒魔導」――一度死を経験した死霊魔族で、かつ魔導の心得がある元人間だからこそ扱える唯一の魔導がそれだった。

 アーヴィンはさらに、宝玉を用いることで本来自分が持たない生命素を補完し、強力な魔導を行使することを可能にしているらしい。

 らしい、というのも俺も暗黒魔導をアーヴィンが使うのは初めて見たからだ。数十名の獣人たちの動きを一斉に止めるとは、ふだんから自慢していただけのことはある。

「よし、行くぞゴメス!」

「グオオオ!」

 獣人たちの動きが止まったのを合図に、俺とゴメスは館を目指して走り出した。

 そして、もう少しでたどり着く、というとき。

 先を走るゴメスが何者かからの攻撃を受けた。

「グッ!」

 ゴメスがくぐもった声を出して、その場に膝をつく。

「スピカ様のもとへは行かせません」

 その人物はやはり獣人だった。だが、ほかの兵士のような屈強な男たちとはまったく違う。

 まず彼女は女性だった。獣人と言っても姿は人間の女性に兎の耳が生えたような姿をしている。

 そして何より彼女が着ていたのは鎧などではなく、ただのメイド服だった。

「やるしかない、か……!」

 俺は覚悟を決め、身構えた。

 できれば関係のない者を巻き込みたくなかったのだが、邪魔をするなら乱暴な手段を用いることも仕方がない。

 しかし――と俺は思っていた。

 彼女は、あのゴメスに膝を着かせたのだ。自分より遥かに体格で勝るゴメスを、あの細い脚の一撃だけで。ひょっとしたら、見た目に現れていないだけで、ただの獣人よりも高度な戦闘能力を有した種族なのかもしれない。

 考えるだけで、俺の額からは冷や汗が粒になって流れていた。

 そして何よりも彼女の目を見て、俺の脳裏には嫌な気分が後ろから這い寄っていた。

「…………」

 彼女の目にはまったく生気が感じられないのだ。

 まるで機械か何かのように、ただ与えられた命令を忠実にこなす。そんな様子が見て取れた。

 間違いなく、姉さんの毒牙に掛かったのだろう。

 俺はスピカ姉さんの所業に怒りを覚えながら、それでいて次の一手をどうするか、逡巡していた。

 その時、横に並ぶゴメスが俺の体をむんずと掴んだ。

「バラン。サキニイケ」

 そう言いながら、ゴメスは振りかぶり、遠投の構えをとる。

 どうやら、二階に見える窓に俺を投げ込むつもりらしかった。

「……ってちょっと待て! お前、いくら何でもそんな」

「させません」

 ゴメスの体勢に、俺を投げ込むことを予感したのか、うさ耳のメイドが再び蹴りをお見舞いしようと飛びかかる。

「フンッッッッ!!!!」

 蹴りが到達するよりも一瞬早く、ゴメスは先日トレモロの広場で見せたのと寸分もたがわない剛腕を見せつけた。

 あの時との違いは、無論、球が俺自身であるということである。

「うああああああああああああああ!!」

 生命の危機に瀕すると、時間がゆっくり流れるのは本当のことらしい。

 ゴメスの全力で投げられたはずの俺の視界に流れる地面は、思ったよりもクリアだった。俺は宙を飛んでいる間、ただただ壁に激突しないことと、衝撃のダメージを和らげる方法がないかだけを考えていた。

 

 ◇ ◇ ◇


 浴場の高い天井には、二人の嬌声が響いていた。

「あ、あふ……くすぐったいですスピカさまぁ」

 湯殿の水面に体を横たえたリリは、小さな体をくねらせながら、鼻にかかった声を上げている。

「うふふ。恥ずかしがらなくていいのよ。さあ、すべてをさらけ出して……」

 一方、その周りを囲むのは、もはや水色の流動体となり果てたスピカだった。リリを包み込むように体ほぐしているその姿は、なんとも言えない艶めかしさを呈している。

(――だめ……なんだか、眠く、なって……)

 リリがすべてを投げ出したくなったとき。

「うああああああああ!!」

 という男の叫び声と、ガラスの割れる派手な音が浴場中に響き渡った。

「誰!?」

 スピカは一瞬で反応すると、無遠慮に広がっていた流動体が集まり人の体をなす。

 そして、音のした方を睨みつけた。リリも慌ててスピカから離れ、音のしたほうに目をやる。

「あっててて……ゴメスのやつ、無茶しやがって……」

 二人の視線の先にいるのは、何を隠そうこの俺だ。

 先ほどゴメスに強引に投げ捨てられた俺は、なんとか狙い通り窓ガラスに激突し、中に侵入することができていた。

 とっさに、持っていた盾の実の種子シールドシードに生命素を付与して発芽させなければ、今頃はガラス片で傷だらけになっているはずだろうが。

「この部屋は……?」

 俺は慌てて辺りを見回す。ずいぶんと広い部屋だが、湿気にまみれてむわっとした空気が肺いっぱいに広がるのがあまりいい気分ではない。

 濡れた床、流れる水の音。どうやらここは浴場のようだった。

「バランさま!?」

 名前を呼ばれて、俺は湯殿から飛んでやってくる小さな少女を見る。

「リリ!?」

 だが、俺は一瞬見ただけでリリから目を逸らざるをえなかった。

 リリは何も着ていない裸だったからだ。

「バランさま、よくぞご無事で……ぐすん」

 リリは濡れた体のまま俺の胸に抱き着き、目を潤ませている。

 だが、しばらくすると自分が裸で俺に抱き着いていることに気づいたのか、はっとして、「……バランさまのえっち」とつぶやいて離れた。忙しいやつだ。

 俺もリリの姿には一瞬戸惑ったが、今はそれどころではない。

「とにかく話はあとだ。今すぐここから逃げるぞ!」

「あら、それはどうかしら」

 部屋の奥から響いたその声は、聞きなれたスピカ姉さんの声ではなかった。ぶよぶよとした液体をふるわせて発せられる声は、まるで数十名が同時にしゃべっているように、いびつに部屋中に反響している。

 そうか、もう正体を現していたのか。

「きゃあ!?」

 俺がスピカ姉さんの様子にを伺っている間に、リリの悲鳴が聞こえた。

「は、離してくださ……」 

 気づくとリリは、水色の半透明のゼリーに体を掴まれていた。そしてそのまま、湯船に立つスピカ姉さんの下へ引き寄せられていく。

「腑抜けで引きこもりのクズだったバランちゃんが、まさか私のところまで乗り込んでくるとは、変わったものね……お姉ちゃんちょっと感動しちゃった」

 そういいながらも、スピカ姉さんは険しい表情を一切崩さない。水色の体が小刻みに震えていることからもその怒りの様子が見て取れる。

 俺はリリに会えたことで油断して、唯一の逃走の機会を失ったことを心底後悔していた。

「そういうあんたは変わらないな、スピカ姉さん。今度はそうやってリリを自分のコレクションに加えようとしているのか。ほかのメイドたちにそうしたように!」

 俺は館の外でゴメスと交戦しているであろう、うさ耳のメイドのことを思い出していた。生気のない目。ただ、スピカ姉さんの命令に従うための存在。それを生み出していたのが、ほかならぬ彼女であることを、俺は知っていた。

「もちろん。この子、今までの私のコレクションの中でもずば抜けて美しいけど……意志が強すぎてよくないわ。だからせっかく、今吸収してあげようとしていたのに」

 自分のもとに引き寄せたリリの体をもてあそびながら、スピカ姉さんはこともなげに言ってのける。

「き、吸収……です?」

「そう。あなたの生命素の源……つまり、『心』を吸い取ってあげようと思ってたの。それで初めてあなたは、何も悩まない、何も心動かない。完ぺきな存在になれるのよ」

「やめろ、下賤なアメーバめ!」

「なんですって?」

 俺が、兄弟たちのよく使っていた「蔑称」を口にすると、スピカ姉さんは鋭い目線を俺の方に向けた。

「何度でも言ってやる! あんたの正体はその醜いドロドロの姿だ。水を絶え間なく吸収してデカくなってく、アメーバがあんたの本性なんだ。だから求めてるんだろう? 正反対なものを! 小さく美しいしもべを! でもな、言ってやる! そうやって美しいしもべを集めて、心を抜き取って言うことを聞かせても。……あんた自身はいつまでも醜いままなんだってな!」

「言いたいことはそれだけから」

 姉さんの体から、弾丸のような何かが俺に向けて放たれた。

「うわっ!?」

 俺は思わずその場から飛び退く。ズド、という鈍い音がして、俺がいたはずの床がえぐられていた。

 流動体生物の血を引くスピカ姉さんの特性は、水を自由自在に操ることだ。スピカ姉さんが放つ「水鉄砲」は、彼女の加減一つで文字どおり以上の威力を放つことができる。俺はその効果を間近で見て冷や汗が流れるのを感じた。

「バランちゃん、私の邪魔をするようなら……殺しちゃおうかしら? 兄様に怒られても、もうしーらない」

「くっ!」

 まるで散弾銃のように水鉄砲が降り注ぎ、俺は必死に逃げ回らねばならなかった。これでは、窓の外から一度撤退することもできない。

 俺は一度壁の裏に隠れて、様子を伺った。

(……なんとかスピカ姉さんの注意を俺に向けられたな)

 リリが抜け殻にされるのだけは何としてでも避けたかった俺にできるのは、スピカ姉さんを怒らせることだけだった。

 それが意外とうまくいったのはいいのだが。一体どうやってここからリリを助け出そうか、アイデアはなかった。

「バランさま、ダメです! 私は大丈夫ですから! どうかお逃げください!」

 壁の向こうから、リリの必死な呼びかけが聞こえる。

 それを聞いて、俺の頭には、不思議にも「馬鹿なことを言う」という感想が浮かんだ。

 しもべが体の自由だけでなく、心の自由も奪われてしまうというのに。

 主がなにもせず、のうのうと生きているなんて、そんなことできるわけがないだろうに。

「そうよねー、リリはもう私のしもべなんですから。バランちゃんに助けてもらう必要なんてないわよね?」

 スピカ姉さんはあくまで優勢である立場を誇示するかのように、猫なで声でリリに語る。

 その瞬間だけ、それまで絶え間なく続いていた水鉄砲が止まった。

 それを俺は待っていたのだ。

「うおおおおおお!!」

 俺は意を決して駆け出した。

 そして、スピカ姉さんのいる湯殿に向かって、ある植物の種子をありったけ投げつけた。

「はい、ざーんねーん」

「うぐっ!」

 肩に鋭い痛みを感じて、俺はひっくり返るようにその場に倒れる。

 姉さんの放った水鉄砲だ。

「こっちへいらっしゃい、バランちゃん」

 スピカ姉さんが氷のような冷たい声で呼びかける。痛みで一歩も動けないまま、俺の体は湯殿の方へと吸い寄せられていた。彼女の水を操る能力は、何も圧縮した水を打ち出すだけではない。水流を起こし、水に浸っている俺の体を動かすことなど造作もないことだった。

 俺の体は水に掴まれたまま、高くまで持ち上げられた。それと同時に、湯殿の水を吸って肥大化したスピカ姉さんの体が巨大な人型に形作られる。

 その目線の高さまで俺を掴んで上げたスピカ姉さんは、俺の投げた種をひとつまみ拾った。

「何かしら、この気持ちの悪い種は? こんなものを私に投げつけて悪あがきのつもり?」

「……休眠打破、という言葉を知っているか」

「はあ?」

「俺は樹木魔導を習得する傍ら、魔界の植物についても調べ始めた。すると、魔界には、樹木魔導の力を使わなくても戦いに応用できる植物があることに気づいたんだ」

「黙りなさい。またそうやって私の気を引くつもり?」

「まあ、聞いてくれよスピカ姉さん。植物の種子ってのは、放っておけば勝手に発芽するわけじゃない。発芽するのに適さない間は眠っていて――これを休眠というんだけど――発芽に適した条件がきたときには目を覚ますように発芽する。普通の植物では、日照時間とかがトリガーになるが……その植物、プディング・アップルは、違う。大量の水に浸かったとき発芽して、一気に数十メートルもの大きさにその体を成長させるんだ。周囲の水分を、ありったけ吸収してね!」

 爆発音が響き渡った。

 同時に、巨大な一本の樹木が浴場の床から天井へと突き刺さる。

 轟音は何度も何度も弾けるように浴場の中に響きわたりながら、同時に何本もの樹木を生み出していった。

「そんな……これは……うあああああ!!!」

 俺の目の前にいたはずのスピカ姉さんも、消えるようにその樹木に吸い込まれていく。

 それと共に、俺の体を掴んでいた水がなくなった。

「うぐっ!」

 俺は石の床に背中から落下して、鈍い声を上げた。

「バランさま!」

「リリ! よかった、無事だったか」

 俺は駆け寄ってくるリリの姿を見て、安どする。

 そして目の前の湯殿の様子を見た。

 巨大な樹木の幹が何十本も生えわたり、浴場の中では、止んだ爆発音の代わりに、樹木が大量の水を吸い取る音が響いていた。

「ていっ」

「あいたっ」

 不意にリリが俺の頭をはたいた。

「バランさま、無茶し過ぎです!」

 そしてまたしても涙とお湯に濡れたままの体で、俺に抱き着いてきた。

「お前が無事でよかった」

 俺はごく自然に、そのリリの体を抱きしめていた。

「ば、バランさま!?」

「どうしても諦められなかったんだ。お前のことだけは……例えスピカ姉さんが相手だとしても、お前のいない館なんて考えられなかった」

「…………バラン、さま」

「帰ろう。俺たちの館へ」

「……はい!」

 リリのその二文字以外に、言葉はいらなかった。

 俺たちは湯殿に背を向け、出口に向かって歩き出す。


 ――背後から、再び爆発音が聞こえてきたのは、その時だった。


「! ぐぁっ――」

 同時に俺は、腹部を何か弾丸のようなものに貫かれ、その場に倒れざるを得なかった。

「バランさま!? まさか……きゃあ!?」

 振り向いたリリが、大量の水をかぶって驚きの声を上げる。

 これは、プディング・アップルが吸収していたはずの水分に他ならない。

「あーあー。これだから世間知らずの弟の世話は疲れるわね」

 その声は、先ほどまでと寸分たがわず、余裕を持った態度を崩さない。

「まさかこんなので私を倒したつもりなのかしら……安いメロドラマまでやっちゃって」

「ぐっ……はあ、はあ……!」

 俺は激痛に耐えながら、湯殿の方へ振り向いた。

「私のしもべをどこへ連れてく気かしら? バ・ラ・ン・ちゃ・ん」

 そこには、完全にさきほどまでと同様の大きさにもどったスピカ姉さんが、悠然と俺を見ていた。

 浴場の中には、無残にも千切れたプディング・アップルの破片がいくつも転がっている。

「まさか、プディング・アップルの限界以上に風呂のお湯を吸収して……」

「ご名答―。あの子たち、たくさんお水を吸いたがってるみたいだったから、少し手伝ってあげたんだけど。耐え切れなくって破裂しちゃったみたい。残念だわー」

「……バケモノめ」

 俺はそう悪態をつくことしかできなくなっていた。

 その時、倒れる俺の前に躍り出たのは、

「もう、もうおやめください!」

 涙を目いっぱいに貯めたリリだった。

「私はどこへも行きません! ずっとスピカさまのおそばにいます! ですから、これ以上この方を傷つけるのはおやめください!」

「うるさいわね……あなたも、もういいわ」

 直後、鞭のようにしならせた水流が、リリの体を弾き飛ばした。

「きゃあ!?」

 リリの体はそばの壁に打ち付けられ、ゴムボールのように俺のもとへと跳ね返ってくる。

「リリ!」

 俺は慌ててリリの体を拾い上げた。

 明らかに風呂の湯とは違う粘度の高い液体が俺の手に着いた。

 それは、血だった。

「リリ! おい、リリ!?」 

 俺はリリに必死で呼びかけたが、彼女は目をつぶって、体をだらりとさせたまま動かない。

「馬鹿な子ね。ほかの子たちみたいに、私の言うことを素直に聞いておけばそんな風にならなくて済んだのに」

 その言葉を聞いた瞬間、俺の中で強烈な怒りがはじけた。

「なんて……なんて、身勝手なんだ」

 リリも、メイドたちも、かつては皆自分らしく生きていれたはずなのに。

 生きながらえるために自分を曲げる必要なんてなかったはずなのに。

 スピカ姉さんは、ただ自分の欲望を満足させるためにどれだけの人たちを不幸にしてきたんだろうか。

 そして同時に、俺は自分への憤りも覚えていた。

 俺はきっと、主だ、しもべだという言葉にいい気になっていたのだ。

 何もしなくても、リリもゴメスもずっと俺のしもべでいてくれると思っていたんだ。

 でも、現実は違った。しもべたちは全力で俺に尽くそうとしてくれていた。だから、主である俺も全力でしもべたちを守らねばならないはずなのに。

 俺は結局なにもできなかった。

 何が樹木魔導だ。

 何が魔族への復讐だ。

 何の力もない俺は、結局しもべ一人も守れない、欠陥だらけの主だったのだ。

 そんな自分への怒りを糧にして、俺は立ち上がり、スピカ姉さんに向かい合っていた。

 両手には、力なく眠るリリの体を抱えて。

「何かしら、その顔」

 スピカ姉さんは立ち上がった俺の姿にも無感動につぶやく。

 そして、俺の頭上に巨大な水の塊を作り出すと、

「もう消えていいのよ」

 あっさりと、それを解き放った。

 吊るされていた重しが落ちるかのように、水の塊は俺たちを飲み込まんとする。

 ――しかし、俺たちに触れた瞬間、水の塊は一気に霧散した。

「なっ……!?」

 さすがのスピカ姉さんも驚きを隠せていない。

「なんだ、これ……!?」

 俺もまた、異変に気づいた。

 リリを抱えていた俺の体が淡く光り出したのだ。

 それと同時に、ぐったりとしていたリリの体がひとりでに浮かび上がり、俺に向かい合う。

「リリ? お前、意識が……!?」

 違う。リリはいまだに目をつぶったままだ。無意識のままに光り宙に浮かんでいるらしい。

 突如、リリの背から巨大な羽が生えた。

 今まで生えていた、蝶のような薄い一対の羽とは違う。

 例えるなら――

「――天使?」

 リリの口がゆっくりと開かれた瞬間、俺の耳に、歌が流れ込んできた。


 グロリア・イン・エクセルシス・デオ


 エト・イン・テラ・パックス・オムニブス・ボーネ・ボルンタティス


 それは今まで聞いてきたあの歌と似ているようで、また異なるものだった。

 もっとも異なる点は、俺をリラックスさせるのではなく、俺の体に無限にの力を与えていくれているということだった。

「なによなんなのよこの耳障りな歌……! ムカツクわ、ムカツク!」

 スピカ姉さんの怒り狂う声が浴場中に響くと、新たな水塊がすぐそこまで迫る。

「さっさと溺れ死んじゃいなさいよ!」

 先ほどのものより数倍もの大きさの水塊が、俺たちに再び襲い掛かった。

 しかしそれを恐れる心は俺の中のどこにもなかった。

 俺は迷わず襲い掛かる水に向き合い、考える。「スピカ姉さんがここまで自由自在に水を操るためのエネルギーはいったいどこから来ているのだろうか」と。

 確かに流動体生物の性質の一つとして、周囲の水分と一体化し、意のままに操るという能力を持っているというのはわかる。だが、これだけの水量を一度に操るスピカ姉さんが持つ生命素の量は、いくら彼女が魔王の娘だとしても説明できる量ではない

 おそらく、今まで心を奪ってきた人たちの生命素によって成り立っているのだろう。

 スピカ姉さんの圧倒的な能力が、多量の生命素から生み出されているのであれば、話は簡単だ。

 それを根こそぎ奪い取ってしまえばいい。

「はああああ!」

 圧縮された水塊が、伸ばした俺の両手に接触するタイミングを計って、俺は魔導を行使する。

 その瞬間、またしても、水塊はただの霧に姿を変えた。

「なっ……なによ!? なんで死なないのよ! はっ!? まさか、これが兄様の言っていた『最強の力』……!?」

 スピカ姉さんの方が今までにない表情で取り乱す。

 「――『ユグドラシルの雨に泣く』、『第二章 生命素の吸収』……一応ゴメスの肩の上で予習しておいてよかった」

 不思議な感覚だった。

 今までは、生命素の付与一つとっても反復練習が必要だった。

 でも今は本で読んだだけの技術を完ぺきに扱うことができる。

「リリ、ひょっとしてお前の……」

 俺がつぶやいている間に今度は、拳のように固められた水流が殴りかかってきた。俺はその水の拳を片手で掴み、そこを起点として生命素を吸収していく。

「いい加減にしてくれ、姉さん。返すんだ。皆から奪ったものをすべて、あるべき場所へ」

「ちょっと強くなったくらいで調子に乗らないで! 全部私のものよ! 美しい娘たちも、この生命素も……今更返せるわけないでしょう!?」

 スピカ姉さんも必死で吸収されまいと、生命素を引きとどめようとする。

 その力はさすがにかなり強く、俺も一瞬引き込まれそうになる。油断していると、俺自身の生命素を根こそぎ持っていかれかねない。

 だが、俺は一人じゃない。

 傍で歌ってくれるリリがいる。

 それだけで俺は誰にも負ける気がしなかった。

「うおおおおおお!!!!」

 俺は両手で水の拳を掴み、思い切り力を込めた。

 それまで膠着状態にあった綱引きが、一気に俺の方へなだれ込んでくる。

「待って! 待ってよ! 行かないでよおおおおお!」

 向こう側でスピカ姉さんが顔をゆがませているのが見える。

 だが、姉さんの必死の呼びかけも、無駄だった。

 ダムが決壊するように、大量の生命素がこちら側へとなだれ込んでくる。

 俺には、スピカ姉さんから解き放たれて出て行く生命素たちの姿が見えていた。

 その中には館の外で見たあのうさ耳のメイドの姿もある。

 彼女は俺の方を見ると、ペコリと一つ会釈をして何か口を動かした。

 俺にはそれが「ありがとう」と言っていたように見えた。


◇ ◇ ◇


 トレモロの街の名物に、夕日がある。

 色とりどりに塗られた家々に夕焼けの光が反射して、街は黄昏を迎える。その様子が何とも不思議な異世界のような雰囲気を醸し出しているのだ。

 スピカ姉さんの館の前の広場で沈みゆく太陽に照らされながら、彼らは手を取り合って再会を喜んでいた。私兵団だった獣人たちと、館に囚われ心を失っていたメイドたちのことである。

 その様子を見て呆れた口調で話すのは、アーヴィンだ。

「どうもおかしいと思ったら、私兵団だった奴らはみんな、メイドたちの親とか旦那とかだったんじゃと。きゃつら、お前が館に飛び込んでくの見たら口そろえて『俺たちの家族も救ってくれ』とか言い出しての。大方、『女たちの命が惜しかったら、侵入者を排除しろ』とか言われてたんじゃろな」

 アーヴィンは、暗黒魔導を行使した影響で疲れ果ててしまったのか、石畳の上にしりもちをついて座り込んでしまっている。

「お前さんもよ、よく頑張ったのうゴメス」

「グオオ」

 アーヴィンのそばに座り込んで夕日を眺めているゴメスは、気のない返事をする。よほど夕日に見とれてしまっているらしい。黄土色の肌が、夕焼けのオレンジに染まっていた。

「ゴメスのやつ、結構危なかったみたいでの。あのうさ耳のお姉ちゃん、細っちい体で相当な使い手のようじゃったからな。わしも動けなかったもんだから手助けできんかったし……よく持ちこたえたもんじゃ」

「オレ、バランノコト、シンジテタ。リリノコトタスケテクレルト。ダカラオレ、モチコタエラレタ」

「……だと。ずいぶんと信頼されてたんじゃの、主さん?」

 そう言って誇らしげに笑う二人に、俺はただ、「ありがとう」とだけ言って踵を返した。

 ぼろぼろになってしまったスピカ姉さんの館へと近づくと、そこには人間の姿で地面に座り込んでうなだれるスピカ姉さんと、それを心配そうに見つめるリリがいた。

 リリは、スピカ姉さんに負わされた傷がウソのようになくなり、体は何事もなかったかのように元通りになっている。さすがにいつまでも裸ではかわいそうだったので、元々着ていたメイド服を屋敷から拾い出して着せている。

 他方、スピカ姉さんの様子は、誰が見ても「何事もなかった」とは言い難いものだった。

 ふだん勝気な様子を崩さないスピカ姉さんの、ここまで沈んだ様子を見るのは、俺にとっても初めてのことだった。

「……すべて、終わりね」

 不意に、小さなつぶやきの声が聞こえた。スピカ姉さんの声だ。

「私はすべてを失った。私に忠実なしもべたちも。すべてを意のままに操る力も。すべてを」

 うわごとのようにつぶやくスピカ姉さんは、もはや俺に当たり散らす力も残っていない。

「スピカさま……」

 リリすら、彼女に掛けられる言葉を持っていないようだった。

 だが、俺は意を決して、

「そうだ。これが、すべてを失った者の悲しみなんだ」

「……っ!」

 スピカ姉さんははっとした表情で俺の顔を見上げた。

「あんたはこの悲しみを、今まであれだけの人たちに味わわせてきたんだ」 

 俺は、少し離れたところで再会を喜び合っている銃人たちを指差した。あの喜びの裏には、何年、ひょっとしたら何十年という苦汁の日々があったことだろう。それこそ、昨日今日失った俺やスピカ姉さんなど比べ物にならないほどの苦しみだったはずだ。

 ただ、スピカ姉さんがそのことを理解できるとは、俺は思っていなかった。あれだけの圧倒的な実力を持ち、すべてが思い通りになる環境にあって、他人の気持ちを推し量れるようになれ、というのが無理な話だ。かくいう俺だって、たまたま同じ目にあったから共感できているだけに過ぎない。

 それでも、俺は言わずにはいられなかった。仮に今すぐ理解できないとしても、スピカ姉さんに届かなくても。このことが小さな種となっていずれ休眠を終えるときが来ればいいとだけ思っていた。

 だが、スピカ姉さんは俺の言葉にかぶりを振った。

「知らないわ。……あなたたちのことなんて、知らない。もう、どこへでも好きなところへ行ってしまいなさい!」

 その言葉は、俺やリリが待ち望んだはずのものであるはずだった。

 でもなぜか俺の心にはむなしいものが残る。

「リリ、行こう」

 俺はそう言って、リリを促した。

 これ以上ここにいても、俺たちにできることはもう何もない。

「……かわいそう」

 リリはそうつぶやいて、俺の方へ向き直った。

「スピカさまはずっと独りぼっちだったのだと思います。美しいものを集めることで心を満たしたつもりでも、すべてが自分の思い通りになってしまうことで、余計に孤独を感じていらした。……そう思うのです」

 俺はリリの言葉を聞きながら、スピカ姉さんを見ていた。

 自分の容姿すら、思い通りにできる流動体生物の圧倒的な能力。

 対等に接してくれる者など、誰もいなかっただろう。

「誰かと共にいるから。思い通りにならないことがあるから、一人じゃないと感じられるのに」

「……そうか」

 俺はリリのその言葉に、リリが館に来た頃のことを思い出していた。

 自分と違う価値観を持った者がそばにいることで、嫌なこともたくさんあった。

 自分のペースを乱され、疎ましく思うこともあった。

 だが、それが不思議と心地よくなっていっていた。

 それが「一人じゃない」ということの意味なんだ。

「姉さんも、俺と同じだったのかもしれない」

 俺はずっと、孤独を味わっているのは兄弟の中でも俺だけだと思っていた。

 皆、自分に自信を持ち、たくさんのしもべや従者に恵まれ、何不自由ない生活を送っていると思っていた。

 でもそれは表面的な見方でしかなかったのかもしれない。

「スピカ様!」

 出し抜けに、どこかからスピカ姉さんを呼ぶ聞こえた。

 スピカ姉さんに駆け寄る彼女は、兎の耳の生えた、姉さんお抱えのメイドの一人だった人物だ。

「ウェンディ!? どうして……」

 彼女が自分へ駆け寄ってきたことを、スピカ姉さん自身も意外に感じたのか、不可解そうな表情を見せる。

 ウェンディはそんな姉さんの表情とは対照的に、

「お忘れですか。私はあなたを失ってはほかに行くところがありません。……たとえ心があろうとなかろうと、私はあなたのしもべです」 

 と言って笑った。

「ウェンディ、あなた……」

「スピカ様ー!」

 スピカ姉さんが何か告げようとするのとかぶさるように、また別の声が聞こえてきた。今度は、男二人の野太い声。あの鹿頭と、馬頭のコンビだ。

「スピカ様、ひどいっすよー! 帰りは俺たちに歩いて帰ってこいとか言って、自分たちだけ飛竜に乗って行っちゃって……ってあれ?」

「これはなにかのお祭りか……ウェンディ?」

 カグラとマグラはぜいぜい息を着きながら、状況が呑み込めていない様子で周りを見渡している。

「バランさま、この人たち、本当に森から走ってここまで帰って来たみたいですね……」

「なんて奴らだ……」

 走らせる方も走らせる方なら、走る方も走る方だ。

「あっははは」

 そんな二人のバカの様子を見て、不意に、スピカ姉さんは大きく笑い出した。

 まるで、考えるのがすべて馬鹿らしくなった、とでもいうように。

「カグラ、マグラ。あなたたちも、スピカ様のしもべよね?」

 ウェンディが二人に問いかける。

「はあ? 何言ってんだお前。そんなの当り前じゃねえか、なあマグラ!?」

「スラムでくすぶっていた俺たちを働かせてくれたのは、ほかでもないスピカ様だ……俺も異論はない」

 カグラとマグラの二人は、まったく状況を飲み込めていないようだが、そう威勢良く言い切った。

「あんたたちって……本当、バカね」

 そう言って笑うスピカ姉さんの笑顔は、今まで俺が見ていたアルカイックなものではなく、とても穏やかなものだった。

「帰るぞリリ」

 俺は、自分がもうこの場に不要になったことを悟って、踵を返した。

「……はい、バランさま!」

 リリが気持ちの良い返事をして、俺に追従する。

 皆で自分の館に帰れる。

 ただそれだけのことに、俺の心は喜びでいっぱいに満たされていた。

 

エピローグ


 あれから数日経って、俺たちの館には平穏な日々が戻っていた。

「あの、着てみたのですが……いかがでしょうか?」

 扉の端からおずおずと姿を現すリリを、俺たちはダイニングルームの椅子に座って迎え入れた。

 リリの格好は、ふだんのメイド服とは違うものだ。

 純白のブラウスはいつもとあまり差がないように見えるが、目を引くのは紺色のスカート。ハイウエストで腰の部分がコルセット上になったそれは、リリの体の細さをこれでもかと強調している。足元のニーソックスも同様だ。

「おおお、似合ってるのーリリちゃん!」

 手を叩いて、まるで孫を見るかのようにはしゃいでいるのはアーヴィンだ。

 実は、俺がアーヴィンに頼んでおいたものは、魔導書のほかにももう一つあった。リリのための服である。

 ふだん一辺倒なメイド服しか着ていないし、しかもトレモロの街の仕立屋では満足に買い物もできなかったし……ということで、一緒にアーヴィンに頼んでいたのだ。ちなみに、俺には女性ものの服の流行りが、というかファッション全般がだが、よくわからないと伝えると、「じゃあわしに任せとけ!」と豪語するので任せた次第である。全身ローブをまとっただけの骨にどれだけできるのか不安だったが、蓋を開けてみれば、非常にかわいらしい服ができて、俺はほっとしていた。

「なんだか恥ずかしいです……バランさま、そんなにお見つめにならないでください」

 リリがそう言って、手で顔を覆う。

「いや、そんなつもりじゃ」

 なぜか俺も恥ずかしくなって慌てていると、

「なーに照れとんじゃこのムッツリ! ほら、なんかリリちゃんに言ってやれ!」

 外野からアーヴィンのヤジが飛んできた。

「なんかって言われても……」

「これだから引きこもりの女経験ゼロは。いいか、こういうのはとりあえずなんかほめときゃいいんじゃよ。きれいだね、とか、かわいいよ、とか!」

 とりあえず、というのもどうなのだろうか、などと俺は考えていたが、

「バランさま、そのぅ……いかがでございます?」

 と上目づかいに見つめられては答えずにはいられなかった。

「……ああ、すごく似合っ」

「きゃあ~、かっわいいー! やっぱりリリはこういうゴシックなの似合うわー!」

 俺のなけなしの勇気は、突如現れた黄色い声にかき消された。

「え、なになにファッションショー? 私もお揃いの服になっちゃおうかしら?」

 そういいながら、リリの周りをくるくると回る彼女はまぎれもなく。

「スピカ姉さん!?」

「遊びに来たわよー、バ・ラ・ン・ちゃ・ん!」

 先日、命のやり取りを繰り広げたはずの姉の姿だった。

「なぜここに……!?」

 俺が立ち上がって身構えると、スピカ姉さんは大げさに口をすぼませた。

「もうー、そんなに怖がらないでよ。今日は本当に遊びに来ただけよ。ほらウェンディ、お土産出して」

「はい、スピカ様」

 スピカ姉さんの後ろからひょっこり顔を出したのは、うさ耳のメイド服を着た少女。ウェンディだ。

「こちら、トレモロ名物トリルせんべいです」

 ウェンディは紙袋に入っていた何やらお菓子の箱のようなものを取り出すと、リリに手渡した。

「ああ、これはどうもご丁寧に」

 リリも状況が呑み込めていないながらに、なんとなく受け取ってしまう。

「いや受け取るなってリリ! すぐに姉さんから離れるんだ!」

「やあねえ、バランちゃん。もうリリちゃんを奪う気はないわよ」

 姉さんは勝手に椅子の一つに座って言う。

「人のものを奪ってもむなしいだけだし。私はもう、たくさん持ってることもわかったしね」

「……姉さん」

 俺はその意外な物言いに、驚いていた。

 まさかあのスピカ姉さんがそんなことを言うだなんて。

「でもたまに遊びに来るくらいいいでしょ? 姉が弟の家に遊びに来るのって、そんなにおかしいかしら?」

「そうですよ! バランさま!」

 そこで口をはさんだのは、なぜかリリだった。

「ご姉弟は仲良く、が一番です!」

「さっすがリリちゃん! 話がわかるわ~。ねえリリちゃん、バランちゃんに変なことされそうになったら、いつでもうちへ来ていいからね? リリちゃんが来たいっていうなら、しょうがないものね~」

「はい、スピカさま!」

「……おいおい、リリ」

「じょ、冗談ですってば!」

 俺はいまいち安心できず、チクリとリリにくぎを刺す。

 その間に、庭の方ではまた別の話し声が聞こえてきた。一人はもちろん、家の中に入れないゴメスのものなのだが、もう二人、別な声が聞こえる。

「おい、きれいな花畑じゃねえか! お前、いいとこに住んでんだなけっこう」

「ワガアルジ、バランノツクリダシタモノダ」

「なかなか芸術性が高い……さすがはスピカ様の弟君と言ったところか」

 獣人特有の野太い声、どう聞いてもカグラとマグラだ。

「あの子たちも私のしもべだもの。連れてこないわけには行かないわよ。……それにしてもあの子たち、意外と馬が合うのね」

 スピカ姉さんは、くく、と笑って窓の方へ眼をやる。

 俺はもう窓の方を見る気もしないで頭を抱えた。

「……なんじゃかにぎやかになってきてええのう、若い娘さんもたくさん来てくれたことじゃし、せっかくじゃから噂の妖精の歌声というやつをわしにも聞かせてくれんか」

「あ! リリちゃんの歌、私も聞きたーい!」

「え……あ、あの……」

 リリは困ったような顔で俺を見る。

 やれやれ。今日は本当は、先日中断されてしまった杯事の続きをしたかったのだが。

 こうなっては仕方がないか。

 杯事ならいつでもできる。そう考えると、今はこの騒がしい我が家を楽しみたいと思えてきた。

「……俺も聞きたいな、リリの歌。歌ってくれるか?」

 俺がそういうと、リリは途端に目を輝かせて、

「はい!」

 と返事をする。

 リリはテーブルから立ち上がり、俺たちの目線くらいの高さに浮かび上がった。そして目を閉じ、胸の前に手を合わせ、静かに口を開いた。


 ――俺一人で過ごしていたはずのこの館は、いつの間にかたくさんの同居人と、客人を抱えるようになってしまった。

 でも、不思議と悪い気持ちがしないのは、リリとの出会いが俺を変えてくれたからだろう。

 俺はこの小さなしもべをずっと守っていけるようにならなければならない。

 そう考えると、十年以上頭にこびりついていた魔族への復讐なんてものが、ひどく小さなものに思えてきた。

 今はただ、リリの歌に耳を傾けていたい。

 俺は目を閉じて、頭に流れ込んでくる優しい旋律に身をゆだねた。


 グロリア・イン・エクセルシス・デオ


 天のいと高きところで、神に栄光あれ


 エト・イン・テラ・パックス・オミニブス・ボーネ・ヴォルンタティス


 大地では平和が人々に続きますように


<了>

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