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第一話~第三話



第一節 引きこもり魔王子と妖精のリリ


 風の吹く明け方だった。

 もうすぐ秋だというのにひどく生ぬるい風だったことが印象的で、よく覚えている。

 その時、俺はいつものように夜通し研究をして、少しばかり仮眠を取ろうかと考えていた頃だった。

「ごめんくださいましー」

 少女の声が聞こえたとき、俺はそれが幻聴か、それでなければ何者かの罠ではないかと思った。というのも、ここは魔界の中でも辺境と呼ばれる地。さらにその中でも人の立ち入らない森の最奥にひっそりと佇む館だったからだ。

「ごめんくださいましー、アルデバランさまはいらっしゃいますかー」

 館の扉を力なく叩く音と共に、二度目の声が聞こえる。

 それを聞いて、俺は少なくともこの声が幻聴でないことを悟った。

 アルデバラン、というのは俺の名前だ。久しく呼ばれることのないものだったし、俺を知る人物は、略して「バラン」と呼ぶことが多い。

 俺のことを知らない人物が、俺の幻聴に出てくるわけがないだろう。

 ならば罠だろうか?

 いやいや、それもない。俺の命を狙うような輩はまずいないし、いたとしても、罠なんて回りくどいことをしないで、正面から俺を殺せばいいだけの話だ。

 ということは、どうやら本当に客人らしい。

 俺は眠い目をこすりながら、なるべくゆっくりと俺は館の玄関に近づいた。できれば客人などに会いたくなかったからだ。

 俺はもう十年以上もこの館に一人で暮らしている。食料は父親から定期的に送られてくるので問題ないし、広すぎる館を持て余してしまっていること以外は、不自由がない。

 だから、ここのところロクに他人に会っていなくて、きちんと応対できるか不安だったのだ。

 館のロビーまで来たとき、俺はふと気が付いた。

 そういえば、先ほどからその客人の気配がしていないのだ。

(なんだ、もう諦めてしまったのか)

 がっかりしたような、安どしたような複雑な気持ちで、俺は念のため扉に手を掛けた。

 外の様子を見ておこうと、扉を開いたその時。

「えーーーーーい!!!!」

 砲丸のような何かが、俺の体に飛び込んできた。

「ぐふぁ!?」

 俺はその勢いに、数歩手前まで吹き飛ばされ、背中から倒れる。

「あいたた、急に開くなんて……体当たりしてこじ開けようと思っていたのに」

 突如飛び込んできた人形のような大きさのそれは、俺の体の上で起き上がると、物騒なことを言ってのける。そして不意に飛び上がると、背中に生えた一対の羽でふよふよと浮かびながらロビーを見渡し「まあ、汚い館。これはお掃除が大変そう」とつぶやいた。余計なお世話だ。

「おい」

 俺は威厳が出るよう、精いっぱい厳かな声で彼女の背中に話しかけた。

「お前が探しているアルデバランというのは、俺のことだ。……いったい何の用だ?」

 俺の言葉に、彼女は慌ててこちらに駆け寄った。金色のストレートヘアーが揺れて、キラキラとした軌跡を描く。着ているのはシンプルなメイド服だが、その中に収まっているのはどう見ても、まだ幼い少女だ。

 ――まるで人形のような大きさで、空を飛んでいることを除けば。

「私、妖精のリリと申します!」

 そう名乗った少女は、俺の目線の高さに浮かんだまま、はつらつとした表情で頭を下げる。続けて、

「魔王さまの命で、アルデバランさまのしもべとなるため参りました!」

 その小さな体のどこから出たのだろう、と不思議に思うくらい飛び切り大きな声で宣言した。

「…………」

 俺はしばらく声が出せなかった。

 魔王様(父さん)の命?

 俺のしもべになる?

 この小さな少女が?

 受け入れがたいことが多すぎて、俺が次に取れた行動は、「帰ってくれ」と言って踵を返すことだけだった。

 もう長いこと一人でいたのだから、今更しもべだのメイドなどというものは必要ない。

 だが、彼女は俺の前まで回り込み、 

「戦いは不得手ですが、家事全般は得意です!」

 と天真爛漫な笑顔で有無を言わさなかった。どこからかモップやら雑巾やらを取り出し、さっそくと言わんばかりに玄関を掃除し始めたのだ。

 取りつく島もなくせっせと働き始めるその様子を見て、俺は考える。本当に魔王の命で来たというなら、無下に追い返すこともできないのも確かだった。

「俺の部屋にだけは入るなよ」

 仕方なく、俺はそれだけ言って自分の部屋へと引っ込んだ。

 彼女を追い返すことなら、別に後でいくらでもできる。

 今はとにかく、夜を徹した研究――まったくもって成果のなかった――の疲れを癒やすことだけを考えたかった。


◇ ◇ ◇


 この世には、二つの世界がある。

 一つは、人間たちの暮らす人間界。

 もう一つは、魔族と魔物が暮らす魔界だ。

 魔界を統べる存在は、魔王と呼ばれている。彼らは過去数代にわたって人間界への進攻を企ててきた。それは、人間界に存在する、魔界とはまったく異なる資源を狙ったものと言われている。

 しかし、人間も一筋縄ではいかなかった。個の力では魔族に敵わない彼らだが、魔族を大きく凌駕する繁殖力で数を増やし、魔族の進攻を幾度となく水際で食い止めていた。

 そこで、当代の魔王はなによりも軍事力の向上に努めた。彼が採った方法は、強大な力を持つ子どもを生み出すことだった。竜魔族ドラゴニスの長でもあった彼は、さまざまな種の魔族と交わり、次々と子をなしていった。巨人族ギガンツ獣魔族ルー・ガルー樹果族マンドーラ――

 彼の手法は成功した。巨大な力を持つ種族同士の混血には、両親を超えるであろう潜在能力を持つ者が多く存在したのだ。

 こうして魔王は着々と兵力を整え、いつ人間界への進攻を再開してもおかしくないとまで言われている。

 ――それが俺と何の関係があるかと言うと、実は関係大アリだ。

 何を隠そう、俺も魔王の息子の一人だった。ただし、俺の母親は魔族ではない。

 魔王と人間の混血。それが俺、第十三王子アルデバランだった。


 突然のしもべ志望の来襲からどのくらい時間が経ったのだろうか。

 俺は、奇妙な声が室内からするのを聞いて、目を覚ました。

 南に向いた窓から明るい日差しが差し込み、室内に所狭しと置かれた書物の数々を照らしている。時間は昼過ぎのようだ。

「うーん、特にこのお部屋は汚い……」

 その声は、部屋の主の存在を知ってか知らずかぼやいている。

「本当はアルデバランさまに手伝ってもらって、蔵書の整理からしたいけど。今日のところはこのまま頑張るしかないかしら」

 言いながら、声の主のリリは、部屋中を飛び回って、ほこりというほこりをはたき落とし始めた。

「おい」

「うひゃあっ!?」

 俺が再び低い声で呼びかけると、蔵書棚の一番上の方にいたリリは、飛び上がって驚いた。こちらを見ると、

「あ、アルデバランさま……このお部屋にいらっしゃったんですか」

 と目を丸くしている。

「いらっしゃったんですか、じゃないだろ。言ったはずだ。俺の部屋には入るなと」

 俺はこのとき、「しめた」と思った。彼女を追い出す理由が見つかったと思ったのだ。無能を理由にすれば、解雇など簡単だろう。

 だが、俺の言葉を聞いたリリの反応は意外なものだった。

「あ、そうか!」

 一言大きな声を出すと、彼女はすぐに俺の眼前に飛んで来る。

「やっぱり自分のお部屋ですもんね、自分でお掃除したいですよね。さあさ、こちらの雑巾をお取りになって、机の上を拭いてくださいまし」

 そう言って、リリは嬉しそうに俺に向けて雑巾を差し出した。

「……お前は変わったやつだな」

「へ?」

「俺の姿を見て、不思議に思わないのか? 怖いとは思わないのか?」

 まったく俺のことを異質なものと扱わないリリの様子を見て、俺は思わず尋ねた。

 俺の姿は、普通の人間そのものだった。父である魔王から受け継いだのは、炎色の髪の毛くらいのものだ。そして、ここ魔界では俺のような人間の方が異質な存在のはずだった。

 だが、リリはこともなげに答える。

「ええ。別に怖くないです」

「なっ……」

「確かに、アルデバランさまは人間さんのお姿ですし、人間さんは恐ろしいものと聞いていますが」

 リリは少し考えるように上の方を見ていたが、やがて俺の方を見て、にこりと笑った。

「アルデバランさまは、アルデバランさまじゃありませんか?」

「……それなら、これでどうだ?」

 俺は衝動的に、彼女の小さな体を片手でむんずと掴んで、眼前へと引き寄せた。

「むぎゅう」

「苦しいか? 言ったはずだよな、俺の部屋に入るなと。言いつけを守れないしもべには、罰を与えなければな?」

 俺はリリを掴む手にギリギリと力を入れていく。二度と、「怖くない」などという言葉を吐けないようにしてやるつもりだった。

「んー、んー!!」

 肺が圧迫されてうまくしゃべれないのか、彼女は苦しそうに体をばたつかせる。

 その様子を見て、俺は思わず手を離してしまっていた。

「はあ……苦しかった……」

 彼女はそばに積んであった本の塔に寄りかかると、荒く息をつく。

「いいか、これに懲りたらもうこの部屋には」

 俺はそう言いかけて、異変に気がついた。

 リリが寄りかかっていた本の塔がゆっくりと揺れ動いていたのだ。

「危ない!」

「えっ……? あわわわ!?」

 本の塔はグラリとバランスを崩し、リリを巻き込みながら雪崩のように俺の方に倒れ込んでくる。

「くっ!」

 俺はとっさにリリと書物の間に割って入っていた。

 急なことで、飛び退くこともできない彼女の体を抱え、自分の体を半回転させると、降り注ぐ本を背中で受ける。

 床に物が落ちる鈍い音が止んだのを確認して、俺はほっと一息ついた。

 本はばらけてしまったが、それ以外に特に被害はないようだ。一冊だけ背表紙の角の部分が当たってとても痛かったが。

「アルデバランさま……あの……申し訳ございません」

 懐から、しおらしい声が聞こえてくる。そこには申し訳なく思うような、恥ずかしがるような、なんとも不思議な表情のリリが俺に抱かれていた。

 決まりだな、と俺は思った。主の言いつけは守れない。しかも、それが原因で迷惑を掛けてしまう。リリを解雇するには十分すぎる理由だ。

 しかし、彼女が次に言った言葉は、俺にはとても受け入れがたいものだった。

「でも、助けていただいてありがとうございます。やっぱりアルデバランさまは優しいです!」

「なっ――!」

 俺は慌ててその表情から目を逸らした。

 確かに、自分の行動が不可解だった。

 リリのことを守ってやる必要などどこにもなかった。ただ、崩れる本たちを見ていれば良いだけの話だったのに。

 考えるよりもまず体が動いていた。

 だが、断じてそれはリリを助けるためなんかではない。

 そう、これは。

「ち、ちがう!」

 次の瞬間、俺は精いっぱいの声で否定していた。

「この大切な書物を汚されたくなかっただけだ! だから危ないと言ったのに……いいから、早く出て行ってくれ!」

 目を逸らしたまま俺はまくし立てた。

 言い終わった後、なかなか反応が帰ってこないことを不思議に思い、恐る恐る俺は彼女の方へと目をやる。

「……申し訳ございません。失礼します」

 そう言うと彼女は顔をうつむかせ、ひらりと部屋を出て行ってしまった。

(……ふ、ふんっ。いい気味だ)

 心の中で強がって、俺は再び机に向かい書物を読み漁り始めた。

 今度こそ「奴ら」を打ち負かす大魔導を得ようとして。


◇ ◇ ◇


 その晩、リリに呼び出された俺は、館のダイニングルームでテーブルの前に座っていた。

「さあどうぞ、たーんとお召し上がりください!」

 俺は正直この少女のことを甘く見ていたと、食卓に並ぶ種々の料理を見て反省する。

 俺の館のダイニングルームには、俺一人が寝そべっても十分なほどの大きさのテーブルが備え付けられている。そして今、そのテーブルには、リリの作った料理が所狭しと並んでいた。

 テーブルクロスはろくに洗濯していなかったから黒ずんでいたはずなのに、すっかり純白を呈している。

 それだけではない。埃だらけだったはずの館中が掃除され、光り出していることに俺は気づいていた。

「こちらがスコールバッファローのステーキに、それとメタルカジキのお刺身。スパゲッティにはリバイアサンの魚卵を使ってたらこ仕立てです。それから魔界野菜のシーザーサラダと、デザートには悪魔の果実エビルフルーツもご用意してますから!」

 椅子に腰掛けた俺に料理の説明をしながら、リリはニコニコと屈託のない笑顔を俺に向ける。そして止めと言わんばかりに、自分の身の丈よりはるかに高いボトルを取り出して「食前酒です!」とグラスに注いだ。

 この一連の様子を見た俺は、呆れてものが言えなかった。

 まさか、ここまでするとは思っていなかったのである。

 昼間のやり取りで、横暴な主を演じたつもりだった。実際、かんしゃくを起こしてリリを部屋から追い出したりした。

 こんな少女ならその程度で諦めてくれると思っていた。少なくとも、俺の世話をする事に何らかの抵抗を覚えると思っていた。

 しかし、実際はどうだ。

 まさかのノーダメージだ。

 しかもこんなにたくさんの料理まで作って、その押しの一手はさらに強引さを増しているようにも見える。

 俺がなかなか料理に手を着けないことに初めは不安げにしていたリリだが、しばらくすると「あ、いっけない、私としたことが」と、食べやすい大きさに切ったステーキを差したフォークを抱え、

「はい、あーん」

 俺に差し出した。

「…………」

 いや。

 いやいや。

 いやいやいやいや!

「い、いきなりなにするんだお前は!?」

 俺は思わず立ち上がって、リリから顔を背けた。

「え、だってしもべは主に食べ物を運ぶものだって、魔王さまが」

 いったい子どもに何を教えたんだあのクソ親父は。

「それに私も、家族やお友達……大切な人とは、よくこうしてご飯を食べさせあっていましたよ?」

「それは大切な人とだろうが。俺は、その。別になんでもないだろう」

「なにをおっしゃいますか!」

 リリは心底驚いたように、目玉を大きく開いて言った。

「アルデバランさまは私の主です。何でもないわけないじゃありませんか」

「……っ!」

 俺はその言葉に、ついに耐えきれなくなった。

「いい加減にしてくれ!」

 衝動的に、グラスを叩いて床に落とす。

 グラスの割れる鋭い音が部屋中に響きわたったのが引き金のように、俺はリリに怒鳴りつけていた。

「俺はただの人間なんだ! 何の力もない、なんの価値もない、ただの! そんな俺が、誰の上に立てる!? 誰を従えられる!?」

 怒鳴り終えた後で、俺ははっとして傍らのリリを見た。

「……そんな、私はただ」

 リリはおびえた表情で俺の方を見ている。

 その顔に、先ほどまでののはつらつさはない。

 終わりだな、と思った。

「部屋に戻る。後片付けはしておけ。それから」

 俺は廊下に出る扉に手を掛け、振り向かずに言う。

「もう俺に構わないでくれ」

「…………」

 リリは返事をしなかった。

 いずれにせよ、これで彼女にもよくわかったろう。俺が彼女を必要としていないことが。

◇ ◇ ◇


 俺はなぜか一抹の寂しさを覚えながら、自室に戻った。

「すっかり邪魔が入ってしまった」 

 自室に戻ると、俺は机の上に置いていた白墨を手に取り、縋りつくように、床に書きかけだった魔法陣に手を加え始めた。

 最後の一筆を描くと、魔法陣が肩幅程度の環状をなす。俺はその上に目を閉じて立ち、静かに詠唱を唱えた。

「終焉なる氷結の王よ、その力を我に示せ――弾けて凍えろ(ハーフロスト)」

 俺が唱えると、足元の魔法陣から一気に冷たい空気が噴き出す。

 それに伴って部屋の中の空気がどんどん冷えていくのがわかった。

(今度こそ、実験成功か……!?)

 そう思った瞬間、俺は、冷えた空気の重みがつま先に襲い掛かるのを感じた。

 眼下に目をやると、足元からゆっくりと氷に覆われ始めているのがわかった。

 慌ててその場から飛びのこうとしても、冷えは想像以上に体の自由を奪い、心とは裏腹に微動だにできない。

(まずい!)

 俺は文字通り血の気が引いていくのを感じていた。実験は失敗し、魔導が暴走を始めたのだ。

 すでに顔まで凍りはじめ、声を出すことすら叶わない。

 これが「終焉なる氷結」か――

 ――そう思いながら、俺の意識は次第に薄れていった。


 夢を見ているときほど、嫌な記憶は鮮明に思い出されるものだと思う。

 俺の場合、それは、次のような言葉である。

『役立たずは魔王軍には要らない』

 これは、俺が父に掛けられた最後の言葉だ。

 人間との混血である俺に対して、家族は冷たかった。

 魔族にとって力こそが正義である。相手を打ち負かす圧倒的な力を持つ者が尊ばれる世界だ。逆に言えば、非力なものはたとえ肉親としても虐げられる。だから、父である魔王はほかの種族との交雑を通して、強い子どもを作ろうと躍起になった。

 そして、「人間との混血が『意外に』強大な力を生むかもしれない」と考えた父は、どこからか人間の女を調達し、面白半分に子どもを作った。

 もちろん、残念ながらこの試みは失敗だった。

 証拠はこの俺自身である。

 魔族と人間との子供のはずである俺は、何もかもが人間だった。

 父から受け継いだものは何一つないと言ってもよかった。

 そして父は不要なものを物置にしまうがごとく、俺をこの館に閉じ込めた。

 俺に力がないとわかった瞬間に俺を殺さなかったのは、せめてもの家族の情けからなのか、待っていればそのうち俺の力が増すと考えたからなのかはわからない。案外、満腹で機嫌がよかっただけかもしれない。

 こうして父から存在を疎まれ、兄弟たちからは物笑いの種にされ、俺は物心ついたころには館に一人閉じ込もる羽目になった。

 そのきっかけの言葉は、いつまでも俺の心に大きな爪痕を残している。

『役立たずは魔王軍には要らない』

 決まって夢の中では、俺の口は金縛りにあったかのように動かず、何も言い返すことができない。

『役立たずは魔王軍には要らない』

 ただ耐えるためだけの永遠とも思える時間が過ぎるだけだ。

『役立たずは魔王軍に』

「やめろおおおおおお!」

「きゃあ!?」

 ようやく声を出すことができたとき、俺は自分が、自室に置かれた粗末なベッドの上にいることに気が付いた。

「……アルデバランさまぁ」

 隣には、今にも泣き出しそうな顔で佇むリリの姿。

「無事だったのですね! よかった……もう、ずっと目を覚まされないから心配したんですよ!」

 リリは俺の胸をぽかぽかと叩く。小さな彼女の拳だから、痛みはまったくない。

 ここへきて、俺はようやく状況を把握できていた。そうだ、魔導の契約をしようとして、失敗して、俺の体は氷に包まれて。

「リリ、お前どうしてここに……?」

「どうしてじゃありません! お夜食をご用意しようと思って、アルデバランさまのお部屋に伺おうとしたら! キンキンに凍ってらっしゃるじゃないですか!」

 泣きじゃくりながらも話す彼女が言うには、俺をなんとか魔法陣から遠ざけて、お湯を張ってきて懸命に氷を溶かしてくれたらしい。

「アルデバランさま、なぜこのようなことを? なぜ魔王さまのご子息であるあなたが、人間の魔導を習得しようとなさっているのですか?」 

「……復讐だ」

「ふくしゅう」

 リリはまったく事の重大さがわかっていないかのような表情で、俺の目を見つめる。

「俺が何の力もないクズなために、この館に一人閉じこもっているということは、父や兄弟たちから聞いているだろう?」

「それは、その……」

「構わない。もう慣れていることだからな」

 俺はベッドから立ち上がり、床の魔法陣を見た。先ほどの実験のせいか、魔法陣はかすれて原型をとどめていない。

「でも、俺はどうにかして奴らを見返してやろうと思っていた。そのために研究を始めたのが『魔導』だ」

「知っています。人間さんたちが体系化した、生命素を操作する技術ですよね。あっでも」

 リリは何かに気づいたようだった。部屋の様子をキョロキョロと見回してから、言いにくそうに、

「魔導は、程度の差はあれど人間さんなら誰しも使える技術……とも聞いています」

「そうだ。肝心なところで魔族の血が邪魔をしているらしい。魔導の研究と実験を始めたのが十年前――それから習得できた魔導は、一つもない」

 俺は床に描いた魔法陣を足で蹴飛ばそうとしたが、何にも当たらず虚しさだけが残った。抱えきれない虚無感に潰されそうになりながら、机に戻り、だらしなく椅子に腰かける。

 俺には魔族の良いところも、人間の良いところも何もない、この館と同じく抜け殻のような存在なのだ――

 そう自嘲しかけたとき、リリが口をはさんだ。

「アルデバランさまは、素晴らしい努力家なのですね!」

「は?」

 俺はリリの笑顔に虚を突かれた。

 こいつ、俺の話を聞いていたのか?

 そんな風にいぶかしむ俺の表情はまったく見ずに、リリは続ける。

「確かに、魔王さまや侍従の皆さまからは、アルデバランさまについては悪い噂しか聞いていませんでした。せっかく魔王の息子という立場に生まれながら、何の力もなく生まれた、役立たずだと」

「うぐっ」

 予想していたこととはいえ、はっきり言われると、さすがの俺も心に来るものがあった。

「私も正直こちらへ参るのは怖くて……とにかく頑張って仕事をして、認めてもらおうとばかり考えておりました」

「……それで、あんなに張り切っていたのか」

 俺は合点がいった。彼女のあの押しの一手は、恐れの裏返しだったのだと。

「アルデバランさまのもとに参る前、少しの間私は魔王さまの城で働かせていただいていたのですが……今にして思えば、魔族の方たちがそのように努力するお姿を拝見したことは一度もありません。確かに皆さま強大なお力を生まれ持っていらっしゃったようでしたが、体を鍛えることも、新たな技を研究することもなく、与えられた才能にただ腰掛けていらっしゃるだけに見えました」

 それまで下を向いて語っていたリリは、不意に俺の方をまっすぐ見上げ、続ける。

「アルデバランさまは確かに生まれ持ったものはないのかもしれませんが、それを補おうと努力なさっています。これは一つの才能ではないでしょうか?」

「才能……?」

「そうです! 努力の才能です!」

 思いがけない言葉に、俺はなんと言ったらよいのかわからなかった。才能という言葉は、俺がもっとも忌避してきた言葉だった。特別な存在だけが持ち、そして俺は持たないもの。

 それを俺も持っていると言われることは、初めてのことだった。

 そして、彼女が続けた言葉は、さらに信じられないものだった。

「私、今回のことで確信しました。アルデバランさまこそ、魔王にふさわしいお方です!」

「……はあ!?」

「そうです! これからの魔界には、アルデバランさまのような、努力できるお方が必要なのです!」

 そう言って鼻息荒く詰め寄るリリに、俺は何も言えなかった。

 リリの目は、本気の目だった。

 本当に、俺が魔王になるべきだと思っているようだった。

「惜しむらくは、その動機が復讐ということですが……」

 考え込むようにそこまで言って、リリはいったん言葉を切った。そして、次の瞬間にはぱっと明るい顔に戻って、

「まあそれはそれとして、お腹空きません?」

 リリは素早く机に飛ぶと、小さな体でお盆を抱えて、俺の下へ持ってきた。お盆の上には、きれいに形作られたサンドイッチが二切れと、湯気の立つコーヒーが乗っている。

「これは……」

「遅くまで頑張ってらっしゃるアルデバランさまにと思って。さ、召し上がってください」

 ニコニコと期待に満ちた表情で俺を見つめるリリと、いかにもうまそうな香りに釣られて、俺は思わずサンドイッチに手を伸ばしてしまった。三角形の一つを口にほおばると、柔らかなパンと玉子の質感が口いっぱいに広がった。

「うまい」

 思わず、この言葉が口に出た。慌てて口をつぐむが、リリはその言葉を聞き逃していなかったようだ。

「よかったあ」

 リリはほっとするように、心底嬉しそうな顔で微笑んだ。

「……!」

 その様子を見て、自分の胸が高鳴ったことに、俺は戸惑った。

 この館に来てからずっと一人だった。だから、誰かと一緒に物を食べることも、誰かの笑顔を見ることもなかった。

 誰かの言葉が自分を喜ばせることも、自分の言葉が誰かを喜ばせることも。

「さあさ、コーヒーも冷めないうちに飲んでください! アルデバランさま!」

 リリは俺の手を強引にコーヒーカップへ寄せようとする。

 俺はそれを受け取りながら、小さい声で告げた。

「……バランでいい」

「え?」

「俺の名前は長いだろう。『バラン』と、そう呼んでくれれば構わない」

 俺は急に恥ずかしくなって、それだけ言うと目を閉じて黒い液体を口へ運んだ。

「……はい、バランさま!」

 カップの中ばかり見ていたからわからないが、リリはきっと天真爛漫な笑顔をしているのだろうと予想がつく。

 まったく面倒な奴がきたもんだ、と俺は心の中でひとりごちた。そう思いながら、俺の体の中に暖かなものが満ち始めていた。

 この館に来てから、復讐のためだけに生きようと思っていたのに。

 鉛の碇が海の底に座すように、浮きも沈みもしない心で生きて行こうと決めたはずなのに。

 リリという少女の存在一つで、俺の生活は少しずつ変わり始めていた。


第二節 押してダメなら押し続けろ


 リリがこの館に来て、早くも一週間が経とうとしていた。

「おはようございます、バランさま! 朝食のご用意ができておりますよー」

 朝、眠い目をこすりながらダイニングルームに入ると、リリの快活な声が耳を、紅茶の香りが鼻を、そして所狭しと並んだパンやらマフィンやらハムやらの豪華な食卓が目をくすぐる。今日はまた、ずいぶんとこしらえたものだ。

「なんだか日に日に品目が増えてきてないか?」

「最初はなかなかこの家の勝手がわからなかったもので……慣れてくれば、こんなもんですよ!」

 リリは小さな体をテーブルに乗せ、スコーンにかぶりついた。

 その様子と、食卓に並べられた朝食を見比べながら、俺は素直に驚いていた。よくあの、人形ようなの小さな体で、ここまで作ったものだ。

 食事だけではない。相変わらず部屋中の隅から隅までがきれいに掃除された状態に保たれている。

 客観的に見ればリリは優秀なメイドそのものであった。もちろん、個人的に見ればうっとおしいことには変わりないが。

「バランさま、あまり食が進んでらっしゃらないようですが……お体がすぐれないのですか?」

 一点を見つめて考えていた俺を心配したのか、リリはいつの間にか近くに来て、俺の顔を覗き込んでいた。

「ずっと気になっていたのだが、お前はなぜ俺のところに来させられたんだ?」

「なぜ、とおっしゃいますと?」

「この十年、ずっと俺は一人で生きてきた。父さんから何か接触があったことなんて、一度もない。それが、ここにきて急にしもべを宛がおうとするとは……」

 俺が言うと、リリも考えるときのように腕を組んで、鼻息を一つ出した。

「それはやっぱり、心配だったんじゃないでしょうか?」

「心配?」

「魔王さま、いつも私におっしゃってました。『あのバカ息子には、妖精のお前の力が必要だ』って。若くしてお一人で住まわれてらっしゃるバランさまのこと、やっぱり心配してらっしゃるのでは、と……」

「バカバカしい」

 俺はリリの考えを一蹴した。

「父は魔族の長だぞ。なんの力もない息子のことを心配するような情などあるわけがない。損得でしか動かない男なんだ、あの人は。だから、絶対に何か目論見があって」

 そこまで言い掛けたところで、俺は、リリがクスクスと笑っていることに気づいた。

「私、魔王さまがどのような目的があるかはわかりません。でも、私の目的は一つ、バランさまのお世話をすることです。だから、ご安心なさってください」

「……っ! 別に、不安なわけじゃないさ。もう、下げていいぞ」

 俺は顔を逸らして席から立ちあがる。そのまま振り向かず、館のロビーへと向かった。

 それを見たリリは慌てて俺を追いかけ、

「今日はどこかへお出かけになるんですか!?」

 と嬉しそうに尋ねる。

 リリが驚くのも無理はないかもしれなかった。俺はこの一週間、一度も館から出ずに部屋にこもりきりだった。外へ出る姿をリリに見せていなかったのだ。

「俺だって出かけることぐらいある。何かいけないか」

「あ、いや、そういうつもりでは……あの、どちらへ?」

「ちょっと、魔導実験の素材を採集しにな」

 ぶっきらぼうに告げて、俺は一人で館を出ようとした。だが、リリはさも当然のように俺の前に立ちはだかる。

「では、お供いたします! バランさまのしもべですから!」

 鼻息を荒くして迫るその様子を見て、俺はため息をついた。

 わずか一週間だが、リリについて分かったことが一つある。

 こうなると、リリは強情なのだ。


◇ ◇ ◇ 


 館を出て、森の中を西に少し進むと、聖霊が宿ると言われる小さな泉がある。俺は以前から、時折そこへ出かけて水や植物を採集していた。

 結局俺は根負けして、リリを伴って泉へ来ていた。

「わあ、きれい……」

 泉の様子を一目見ると、リリはため息混じりに感嘆の声を漏らした。

 聖霊が宿ると言われるだけあって、泉には不思議な雰囲気が漂っていた。エメラルドブルーの淡水がきらめくこの辺りだけが、他の場所とは隔絶された異世界のように感じられる。

「あは、水がとっても冷たいですよ! バランさま!」

 ぱしゃぱしゃと水面に手を打ち付け、リリは嬉しそうに俺を呼びかける。一緒に遊ぼうとでも言いたいのだろうか。

「しばらくそうしていてくれ」

 俺は一言だけ告げて、分厚い魔導書を眺めながら、泉の周囲に生える草花を摘み始めた。

「バランさまー、何をなさってるんですか?」

 もう一人遊びに飽きたのか、リリが俺の方へ飛びよって来る。

「さっき言ったろ。素材集めだよ」

 俺がリリの方を見ずに言うと、リリは続けて、「あ、あの……素材とは、なんのことでしょう? 先日の実験では、魔法陣以外には特に何も使ってらっしゃらなかったようでしたが」と尋ねた。

 俺はリリの顔を見て、そうか、と思う。一般的な魔族にとって、魔導についての理解は乏しい。自分には使えないもので、遠い別世界で使われているものなのだから、当然は当然なのだが。

「一口に魔導の習得と言ってもいろんな種類があるからな。このあいだ俺が試して失敗したものは、魔法陣を媒体として自分の生命素を氷に変質させるというやつだ」

 説明をしながら俺は下草を摘み終わり、曲げていた体をまっすぐにして、樹木になっている果実を探す。

「でも、そのほかにも、植物や道具を調合した霊薬を口にすることで力を得る魔導もあるんだ。果てには悪魔と契約を交わすことや習得するものも読んだことがある。まあ、もちろん、人間を罠にはめるための魔族の流言なんだろうとは思うが……」

 そこまで語ったところで、傍らでそれを聞いていたリリが、目を輝かせて俺を見つめていることに気が付いた。

「……な、なんだ?」

「バランさまは博識でございますね! もっといろいろ教えてください!」

「教えて、って……お前が魔導のことを勉強してもしょうがないだろう」

「そんなことはございません! 主のやってらっしゃることは、しもべとしては理解しておかなくては!」

 そう言ってリリは小さな拳を握って、気合いを入れている。そして「ということは」と続けた。

「今回はなにか霊薬を調合しての魔導に挑戦されるのですね!?」

「ああ。すでに生命素を持つ植物を操る――『樹木魔導クロンキスト』と呼ばれる魔導だ」

「植物、ですか」

 リリは周囲にある草花や木々を眺める。

「先日の冷気を使ったものや、よくイメージする火を使ったものなどとはずいぶん趣向が違いますね。あまり戦いには向かなそうな気がしますが……」

「確かに今まではそういう戦いに直結するような魔導ばかりを契約しようとしていたがな。全部失敗したところを見るに、俺には才能がないんだろう」

「そんなことは……!」

「いいんだ。ある魔導書にも、一人の人間が操れる魔導はせいぜい一、二種類だと記されていたからな。ほかの魔導はダメでも樹木魔導なら望みがあるかもしれないと思ったんだ」

 そう思えたのは、リリの言う「努力の才能」とやらに賭けてみたかったから、というのは口が裂けても言えないところだが。

 だが、そんな俺の気持ちを見透かしたかのように、リリは嬉しそうな顔をした。

「では私もお手伝いします! 手分けして素材を集めれば、きっと早く済みますよ!」

 リリはそう言って、俺の手元の魔導書を覗き込む。

「悪魔の果実エビルフルーツを探せばいいんですね! えーっと……」

 言うが早いが木々に向かって飛び出したリリを、俺は慌てて止めようとした。

「待て待て。誰も頼むなんて言ってない。いいからお前はその辺で遊んでてくれれば……」

「バランさまぁー、ありましたよー」

「はあっ!?」

 俺が目をやると、高い木の葉の裏から、リリは嬉しそうな顔で手を振っている。

「この森、私の故郷によく似てるんです。だから、こういう果実がなっている木とか場所とか、なんとなくわかるんですよね」

 そう言ってリリは、自分の体ほどもあるその果実を俺の手元へと運んだ。赤色の実は形や色こそ人間界で穫れるというリンゴのそれに似ていたが、ニヒルな悪魔の顔面が浮かんでいることが最大の特徴だった。

「さあバランさま、次はなにを探しますか!?」

 リリは誇らしげに腕まくりをして、再び魔導書を覗きこむ。それを止めることは、俺にはもうできなかった。

 その後もリリは、俺が持ってきた魔導書と森を見比べて、手際よく素材を集めてきた。いつしか俺の役目は、リリが運んだ植物の種や果実を麻の袋に詰めていくことだけになっていた。

 わずか一時間程度で十分な量の素材を採取し終えたリリは、満足気な表情で胸を張った。

「バランさま、私、お役に立てましたか!?」

 目を輝かせてそう尋ねるリリに、俺は思わず、

「あ、ああ……ご苦労だったな」

 と返していた。

「えへへ、バランさまに褒められちゃった」

 リリは嬉しそうにくるくる空中を回りながら泉の方へと近づいていき、俺を手招きした。

「素材の採集も終わったことですし、少しのんびりしましょ!」

 言うが早いが、リリは泉の近くの岩肌にちょこりと腰かける。

「………はあ」

 あれだけ役に立ってくれた手前、むげに断ることに、さすがの俺も抵抗を覚えてしまった。俺もゆっくりと近づき、リリのそばに座った。

「…………」

 リリを見ると、穏やかなような寂しげなような複雑な表情をして、泉から来るそよ風に身を任せている。

「ここは故郷に似ていると言っていたな」

 沈黙に耐え切れず、俺は尋ねる。

 リリはすぐには答えなかった。

 やがて、言葉を選ぶようにゆっくりと、

「はい、雰囲気がよく似ていて驚きました。……ここにいると、なんだか懐かしい思いになってきます」

 泉の上のどこともない一点を眺めながら、リリは答えた。その横顔は、望郷の念を感じさせる切なげなものだ。

 当たり前のことだろう、と俺は思う。

 リリが故郷にいた頃から、どのような経緯で俺の館へ来ることになったのかはわからない。大方、出稼ぎとかその程度のことだろうとは思うが、どんな経緯だろうと、年端も行かない少女が故郷を離れて寂しさを感じないはずがない。

 ふだん太陽のように明るく振る舞っているリリといえど、それはなんらおかしくないことだと俺は考えていた。

 俺は、あくまでリリに付きまとわれるとうっとおしいから、というつもりで、

「故郷が懐かしいのなら、なにも無理にここで働き続けることはないんだぞ」

「えっ?」

「どうせこんなところには誰も来やしない。お前が実はここにいなくとも、誰にもわかりはしないだろう」

「……ふふっ」

 俺が言い終わると、リリの口元から小さな笑いがこぼれた。

「バランさまはお優しいのですね。私のことを気遣ってくださって」

「……なっ!?」

 その言葉を聞いて、自分の真意が勘違いされてしまっていることに俺はようやく気が付いた。

 俺の焦りを知ってか知らずか、リリは先ほどまでの笑顔を取り戻して、

「ご心配なさらずとも、私は嫌々ここで働いてるわけではありませんよ。私が働きたくて、こちらに身を置かせてもらっているのです」

「働きたいと思うだって?」

 俺は思わずそう聞き返してしまった。

 何の力もない、人間と変わらない男が主で。

 復讐にしか興味のない、冷たい男が主で。

 そして、この辺境の森に主と二人きりで。

 なぜ彼女がなぜこんな場所で働きたいと思うのか、俺にはまったく理解できなかった。

「よーうバラン」

 そのとき、後方から野太い声が聞こえた。

「館にいねえと思ったら、こんなとこにいやがったのか。仲良くやってるようでなによりだぜ」

 聞き覚えのあるその声に、俺は慌てて立ちあがり、振り向く。

 俺の倍はある身の丈。全身がレンガ色の体毛に覆われ、犬の顔に鋭い牙を持つそれは、狼魔族コボルトの特徴に他ならない。

 だが、腕には竜魔族の特徴でもある緑色の鮮やかな鱗がびっしりと張り付き、その守りの堅固さを主張しているかのようでもあった。

 竜魔族と、狼魔族の混血。それは、魔王の息子であり、俺の兄の一人である魔王子プロキオンに他ならなかった。

「兄さん……なぜここにいるんだ!?」

「おいおい、そんな言い方するなよ。お前にようやくしもべができたっていうから、どうしてっか気になってこうやって顔を見に来てやったんじゃねえか」

 プロキオン兄さんはニヤリと笑うと、リリの方を一瞥し、俺たちにゆっくりと一歩だけ近づく。

 それだけで、俺は全身から嫌な汗が噴き出すのを感じていた。

「あ、あの……こちらの方は、どなたです?」

 リリは俺に向かっておずおずと尋ねる。

 だが、俺が震えて答えられない間に、プロキオン兄さん自らが答えた。

「俺はバランの兄貴様よ。特にそいつとは仲が良くてな、昔はこうして森の中でも、山ん中でも、闘技場でも。一緒に遊んだよな?」

 プロキオン兄さんは、いやらしい笑顔で俺を見つめる。

「……よく言う。何もできない俺をいたぶるだけのサディストが」

「仕方ねえじゃねえか、俺も親父に言われたもんだからよ」

「あの、どういう……?」

「俺たち兄弟は皆、親父のお眼鏡に適う実力があるのか、検査されるのよ。もちろん実戦形式でな! コイツの場合は、俺が相手役だったわけ。まー、ちっとかわいがり過ぎたせいで、今は立派な引きこもりになっちまったがな!」

 プロキオン兄さんは、まるで偶然の巡り合わせかのように言ってのけた。

 冗談じゃない。

 奴は、弱い人間である俺をいたぶるために、自ら志願してその役を買って出たのだ。

 基本的に兄弟は俺には無関心のはずだった。父と同じく、戦力にならない兄弟などいてもいなくても同じ、相手にするだけ無駄、という考え方だったのだろう。いないように扱われるのは苦しかったが、双方にとって益にも害にもならない関係は気楽ではあった。

 だが、プロキオン兄さんはひたすらに弱い俺を「かわいがった」。ぼろ雑巾のようになるまで俺をなぶった結果、俺を「使えないただの人間」と断定したのは彼に他ならなかった。

 俺がこの館にこもりだしてからも、時折現れてはちょっかいを出してくる、最悪な存在だ。

 兄弟たちの中でも、プロキオン兄さんはもっとも苦手な人物だった。

「……うぐっ!」

 急激に吐き気がするのを、俺は必死で押さえつけた。

 それ以外にも、膝が、腕が、全身が震えるのを止められない。噴き出した汗を拭うことすらできない。

「バランさま、大丈夫ですか? お体の具合でも……?」

 傍らにいたリリが、心配そうに俺の顔を覗き込む。彼女の目に映る俺の顔は、おそらく真っ青になっていることだろう。

「ずいぶん手懐けたみてえだなあ、一丁前に主の心配なんかしやがって。主が無能な割には、しもべは優秀じゃねえか」

「黙れ!」

 高笑いする兄さんの声をかき消そうと、俺は懸命に声を絞り出した。そのまま、兄さんの顔を睨みつける。

 しかし、兄さんは自分の優位を確信した様子をほとんど変えず、少し不機嫌そうになっただけの顔で俺を睨みつけ返した。

「なんだその顔は。悔しいんだったらやってみろよ」

「え……?」

「自分が無能じゃねえって言うなら、やってみろよ。知ってるぜ? お前が人間の魔導とかってのを研究してんのは。そいつで一発でも俺に攻撃してみろよ」

 そう言い放つと、兄さんはだらりと腕を伸ばし、的になるかのように体を広げた。

「まあ、たかが人間の技で俺の体に傷つけられるとは思えねーし。万が一傷つけたら、正当防衛させてもらうがな!」

「ぐっ……!」

 俺は唇を噛みしめ、再び兄さんの顔を睨みつけた。

 しかし、それ以上のことは何もできなかった。

 それはもちろん、俺が魔導の契約に何一つとして成功していないからだ。

 そして、何かをしたら今度は兄さんの拳が飛んでくることだろうということが予想できてしまい、俺は余計にすくんでしまっていた。あの痛みを、苦しみを、もう一度味わうのか?

 ――いやだ! いやだ! いやだ!

 俺はもう立っていられなくなって、膝をついてうつむいた。胃の中から何かがせり上がってくる。苦い唾が口の中にしみ出してくる。もう、ダメだ――

 ――その時、俺と兄さんの間に小さな何かが割って入った。

「おやめください!」

 大きく、はっきりと叫ぶその声に驚き、俺は思わず顔を上げた。

 十字架のように手を広げ、俺をかばうように立ちはだかっているのは、まぎれもなくリリだった。

「……お前、なんのつもりだ?」

 あの兄さんですら、リリの介入に困惑している。

「リリ……逃げろ……」

 俺は息を切らしながら、リリに必死で語り掛ける。だがリリはそれにはまったく聞き耳を持たず、

「バランさまは私の主であり、いずれは魔王になるお方! これ以上の狼藉は、たとえ兄上であるプロキオンさまでも許せません! バランさまの一のしもべ、私が相手です!」

 見事なまでの啖呵を切った。

 静かだった泉に、より一層の静寂が訪れる。

「……ぐ、ぎゃはははは!」

 静寂を破ったのは、やはり、兄さんの馬鹿笑いだった。森全体に響き渡るような声で、腹を抱えて笑い続ける。

「あー、腹いてえ」

 涙まで流してようやく笑い止んだ兄さんは、俺たちを心底見下したような顔をした。

「仮にも魔王の息子が、そんな奴に守られてるようじゃ泣けてくるぜ。そいつはそいつで、バランが魔王とか本気で言ってんのかよ。やめやめ、付き合ってらんねえわ」

 吐き捨てるように言うと、兄さんは踵を返し、肩をいからせて森の外へと歩き始めた。

「一生ここに引きこもって仲良くやってろよ」

 兄さんが去った後の森には、木々のざわめきだけが残されていた。


◇ ◇ ◇ 


 プロキオン兄さんの突然の訪問から、しばらく経ったあと。

 素材の詰まった麻の袋を抱えて、俺たちはやっとのことで館へと引き返していた。

 ダイニングルームの隅に素材たちをドサリと置いて、俺は椅子に、リリは食卓の上に、それぞれへたり込むように座った。

「はぁー、怖かったあ」

 あのときの威勢はどこへやら、リリは心底疲れたような声を吐き出す。

「どういうつもりだ!?」

 俺は先ほどの彼女の無謀に、思わず声を荒げていた。

「お前が出てきたからって、何ができたわけじゃないだろう。兄さんの気が変わらなければ、殺されていたかもしれないんだぞ!」

「……私にもよくわかりません」 

 リリは立ち上がって、スカートについていた土ぼこりを払った。そのまま、俺の顔をまっすぐ見上げる。

「バランさまのピンチと考えたら、自然と体が動いてしまったのです」

「……なんだよ、それ。ついこないだ主になったばかりのやつだぞ? なんでそんな風に考えられるんだ。しかも、自分の命も危険に晒して」

「…………」

 リリは答えない。

 俺もそれ以上は言わず、無造作に床に置いていた袋を集めて抱えた。幸い、兄さんが暴れ出さなかったおかげで、素材たちは無事なまま残されている。樹木魔導の霊薬を作るには十分だ。

 だが俺は、一度は抱えた袋を静かに床に置いた。

「バランさま、やはりお身体の調子が……?」

 その様子を見ていたリリが、心配そうに尋ねる。

「いや。身体はもう問題ない。プロキオン兄さんには昔ひどい目にあわされたからな。恥ずかしい話だが、兄さんに会うとその頃のことを思い出して、一時的にああなるんだ。もう大丈夫だ」

 そのとおり、体の震えやだるさは、館に帰った頃にはすっかりなくなってしまっていた。

「でも――」

 と、俺はうつむいて素材の入った袋たちを見つめたまま、考えていた。

 やはり俺のような出来損ないが、魔族を倒そうなどというのは土台無理な話だったのではないか?

 今日、プロキオン兄さんと相対して、よくわかった。十年も費やしていまだに一つの魔導も使えず、それ以前に恐怖で体がすくんでしまうような奴に、復讐などという言葉を使う資格すらない。

 図らずも、しもべができて、「努力の才能がある」などとお世辞を言われて、うぬぼれていた自分がいた。

 プロキオン兄さんはそんな自分を、夢から覚ましてくれたのだ。

「もうこんなものは必要ない!」

 気づくと俺は袋の一つを力任せに蹴飛ばしていた。袋の中にしまわれていた悪魔の果実が、ごろごろと床に転がる。苦痛にゆがめたその表情の一つ一つは、まるで自分の心を鏡で映し見ているようだった。

「お前もわかったろう。俺はしもべなんか取るような器の男じゃないんだ。……もう俺のことは放っておいてくれ」

 俺はそれだけ言って、ダイニングルームを出ようとした。開けっ放しの扉を抜けようとしたとき、後ろから、リリの小さな声が聞こえた。

「バランさまはずっとお一人で耐えてらしたのですね」

「…………っ!」

 振り向かえらないまま、俺の足が止まる。

「でも、これからはリリがお側におります」

 視界の端に、リリが、俺の足元に転がっていた悪魔の果実を拾うのが見える。リリは自分とほぼ同じ大きさのそれを抱え込んで俺の背中へと近づいた。

「バランさまが抱えきれない物は、私がお持ちします。バランさまがイヤだとおっしゃっても。それが、しもべです」

 リリの声は、今までで一番柔らかいものだった。きっと暖かい笑顔で笑っているんだろうと、見なくてもわかる気がした。

「というわけでバランさま!」

 リリの声色が変わった。先ほどまでの柔らかなものとは違う、はつらつとした声で、リリは、

「さっそく霊薬の調合を始めましょ!」

 と言って、悪魔の果実を抱えたまま素早く俺の脇をすり抜け、研究室への階段を上っていった。

 虚を突かれた俺は、慌ててその姿を追いかける。

「いやお前、話聞いてたか!? もう復讐とか、そういうのはいいんだって!」

「もちろんわかっていますよ! でも、魔導を研究する目的は、なにも復讐のためだけじゃないと思いません?」

 俺はその言葉の意味が一瞬わからなかった。復讐以外のために魔導をするなんてことを考えたこともなかったからだ。

 それに、十年以上失敗し続けた俺のことだ。今度こそ成功するだなんて甘い期待は、簡単には持てない。

「あー。バランさま、どうせまたダメだとか思ってるんです?」 

 だがリリはそんな俺を見透かしたように、俺が心の中で打ち消した言葉をいとも簡単に口に出して見せた。

「大丈夫。今度こそ成功しますよ」

 リリはまるで自分のことのように胸を張る。

「なんたって、私のご主人さまですから」

 そういってのけた笑顔は、俺が今まで見たこともないような優しいものだった。

 俺は引き込まれるようにリリの待つ方へ、ゆっくりと階段を上りだしていた。

 これで最後だ。

 そう自分に言い聞かせながら。


◇ ◇ ◇


 霊薬の調合は、意外と時間が掛かる。

 なぜならば、集めてきた材料をただ混ぜ合わせればいいというわけではないからだ。素材が果実や種子の場合は細かくすりつぶさなければ混合できない。今回は使用していないが、動物の死骸などは丸ごと鍋に放り込んで煮ることもある。これもまた、強火で数時間などと平気で魔導書に書かれている。

 さらに、混ぜ合わせたあと、乾燥させるとか、発酵させるとか、そういった手間をかけるとなおさら時間が掛かるというわけだ。

 今回の樹木魔導の霊薬の場合は、種子や果実をすり潰すのに時間を取られ、完成したのは夜半過ぎになってしまった。

 試験管の中に調合した霊薬の色が、魔導書どおりの透き通った緑色になったのを確認して、俺は思わず声を上げていた。

「やった! できたぞリリ! ……おい、リリ?」

「すぅ」

 俺が目をやると、リリは机の上に身を投げ出し、気持ちよさそうに寝息を立てている。

 夜通し俺の手伝いやら応援をしていたのだ。昼間はあんなこともあったから、疲れていて当然だろう。

 俺は毛布替わりにハンカチを掛けて、いざ、霊薬と対峙する。

 果たして本当に、これで樹木魔導を習得できるんだろうか。

 不安は拭えなかった。

 何しろこの十年間、何一つうまくいっていないのである。

 分野を変えたからと言って、そう簡単にいくとはとても思えないのは当たり前だ。

 だがそれでも、俺は一つの可能性に賭けてみたかった。

 俺のしもべがひたむきに信じるものを、俺も信じてみたくなった。

「……いくぞ!」

 俺は目をつぶって、親指ほどの量の液体を、喉へ流し込んだ。

「ううえ」

 まずい。

 すぐに吐き出したいくらいにまずい。

 酸っぱい味が体中に広がり、苦いつばが口元にあふれ出てくる。

 えずきそうになるのを我慢して、俺はつばごと押し込むように飲み込んだ。

「……体に変化は、特にない、か」

 俺は確かめるように、手で自分の体をぺたぺたと触る。なにか変わったような様子は特にない。

 でも、俺には魔導を使えるようになった経験がないから、これが効果がないからなのか、そういうものなのかどうかがわからない。先日の魔法陣を使った実験のように、わかりやすく暴走などでもしてくれれば諦めやすいのだが。

 そこで俺は庭へ出た。もちろん、リリを起こさないようにそーっとだ。

 この館の庭部分は、館と同じくらいの面積がある。もちろん俺はロクに手入れなんかしないから、コケやら雑草やらで庭は荒れ放題だ。

 俺は足元に、ある植物の種を撒いて、地面に両手を当てた。

 魔導書のとおりならば、地面に向かって生命素を「垂らす」ようないイメージで生命素を付与することで、植物の成長を促進することができるはずだった。

 俺は目を閉じ、息を大きく吸う。

 そしてそのまま祈るように両手に力を込めた。

 俺の思いはただ一つ、彼女の期待を裏切りたくない、それだけだった。

 

 気づけば、夜が明けていた。

 起き出してきたリリが、寝起きのふにゃふにゃした声で俺を呼ぶ声が聞こえる。

「バランさまー、こんなところにいらっしゃったんですか。……あっ!?」

 やがて庭まで姿を現したリリは、その様子を見て、一気に目が覚めたようだった。

「うわあー、すごいですバランさま!」

 一面、花畑と変わった庭中を、リリは嬉しそうに飛び回る。

 その様子は、まるで物語に登場する妖精のようだった。

「これ、全部バランさまが一晩で!?」

「ああ。まさか、魔導の分野でここまで違うとはな……こうなること、わかっていたのか?」

 俺は思わずリリに尋ねた。

 そうとしか考えられなかった。

 いくらやっても成功しなかった魔導が、リリが勧めた途端に成功したのだ。偶然の産物とは思えない。

 だが俺のそんな疑心暗鬼はどこ吹く風というように、リリは、

「たはは……正直、いきなりこんなうまく行くとは思ってませんでした」

 と言って、頬をぽりぽりと掻いた。

「私はただ、たとえ今回うまく行かなくても、何度でもバランさまのお背中を押すつもりでした。もう十年でも、二十年でも。だって、あんなにバランさまが努力してきたことですから、報われないはずはありません!」

 そう言って笑うリリを見て、俺は思わず、

「……ぷっ、あはははは」

 耐え切れずに笑ってしまっていた。

 そのまま、あおむけに倒れて、花畑に体を預ける。

 リリは、大の字で朝日を体中に浴びる俺の真上に飛んできて、少しだけ頬を膨らませた。

「ひどーい、どうして笑うんですか!?」

「だって……まったく、はた迷惑なしもべだよお前は」

 こっちはとっくに諦めてるというのに。人生を辞めようとすら考えていたのに。

 無遠慮な笑顔を向けるものだから、俺もそれを見ていたいと、生きていたいと思ってしまうじゃないか。

「バランさまのためなら、迷惑でもなんと言われても結構です! それよりお腹空きませんか? 朝食、今日はお庭で食べましょう!」 

 勝手にそう言って、館の中に引っ込む彼女の背中を見て、俺は成功してよかったと心から思った。

 父からの扱いも、兄弟から笑い物にされることも、ほんの些末なことのように思えた。

 今はただ、この花畑でどのように時間を過ごすかだけが俺の関心事になっていた。

「今朝は濃い目のブラックコーヒーで頼む」

「はーい、ただいま!」

 静かな庭の中に、ただリリの声だけが優しく響く。

 俺は、花たちの香りに身をゆだねながら、朝食を待ち続けた。


第三節 やっかいな客人たち


『「樹木魔導」とは、植物の生命素を操作する魔導である。操作というのは、一般的には付与、吸収、そして変質の三種類が知られている。植物自体にさまざまな種類があるため、樹木魔導は魔導の中でも特に応用範囲が広い。

 弱点は、植物の生育できない環境では使用が難しいこと。また、習得が難しく、扱える人間が少ないので、研究があまり進まなかったという点である』


「ふあ……もう夜明けか」

 読んでいた魔導書の開いた面を下にして机に置き、俺は椅子に座ったまま大きく伸びをした。明るく白けた空が窓から顔を覗かせる。

 力を抜いてだらりと腕を放りながら、俺は今まで読んでいた魔導書の内容を反すうしていた。

 樹木魔導はとにかく応用範囲が広い。攻撃に使うなら、固い幹を使った直接的な打撃のみならず、ツタをからませて敵の動きを奪う、毒の花粉を発生させるという方法もある。攻撃以外では、薬草の治癒能力を抽出することで、ケガの治療を行う術もあるという記載があった。

 俺が先日飲んだ霊薬によって得たのは、植物に生命素を付与するという、樹木魔導の中でももっとも単純な操作だけだった。霊薬の調合レシピの書かれた魔導書には、「植物と自分を接続させ、樹木魔導習得の入口に立つことができる」と書いてあったから、効果に不満はない。

 だが、その魔導書にはそれ以上のことは一切書かれていなかった。というのも、俺が保管していた本の中で樹木魔導について記載があったのはその一冊――魔導全般について広く浅く記載した入門書のようなもの――しかなかったのだ。

 火炎魔導ヴァルガリス氷結魔導フロシクルなどの直接攻撃につながるような魔導について書かれた書物ばかり集めていたものだから、ある意味当然といえば当然だった。

 これからさらに樹木魔導を深めるためには、さらに魔導書を調達しなければならないのは自明だった。また、樹木魔導は先人の知恵がそれほど充実していない分野だとも言うのだから、ある程度を超えれば自分の力で研究を進めて行かなければいけないことも覚悟していた。

 それでも、今まで失敗ばかりだった俺にとって、努力が実を結ぶということはたまらない喜びでもあった。樹木魔導は習得が難しいとあったが、自分には合っていたのかもしれない。昨晩も夢中になって、保管している資料に樹木魔導の記載がないかを読み漁った。結局一冊も見つからなかったが、今までのことを思えばこんな徒労も苦ではなかった。

「そろそろひと眠りするか」

 さすがにこう徹夜続きでは疲れてしまう。

 そう思って、立ち上がってベッドに向かおうとした俺の耳に、聞き慣れない歌が流れてきた。


 グロリア・イン・エクセルシス・デオ


「……ん?」

 透き通ったガラス細工のようなメゾソプラノだ。決して大きい声ではないが、自然と沁みわたるような不思議なものを感じる。

 俺はその声に導かれるようによろよろと館の外に出て、気づくと庭に来ていた。

 先日俺の魔導で一面に花が咲くお花畑となった庭であるが、数日たった今でも花たちはそのたおやかな姿を惜しげもなく見せ続けていた。

 そのお花畑に、おそらく森に棲んでいるのであろう種々の魔物モンスターたちが集まっている。旧鼠ブードゥー大耳兎ロップル蛇尾猫ムシューなど、この森に棲む魔物たちが一堂に会し、中心で歌う彼女――リリのことを見つめていた。

 はじめ、俺はリリが魔物に襲われているのかと思った。だが、それはまったくの杞憂だった。魔物たちの表情を見れば明らかだ。彼らのうち、あるものはリリのことを一心に見つめ、またあるものは目を閉じてうっとりとした表情でリラックスしている。

 彼らは皆、リリの歌を聞きに集まっていたようだった。

 俺はその様子を見て、邪魔をしないようにと館に戻ろうと考えた。しかしまずいことに、足元の草を踏んだ拍子にがわずかに音を立ててしまった。

(しまった!)

 そう思った時にはすでに遅し。驚いた魔物たちはいっせいに俺の方を向いておびえに満ちた表情を浮かべたかと思うと、すぐさま立ち上がり、足早に森へと四散してしまった。

 早朝の花畑には、俺とリリと、湿った空気だけが静かに残されていた。

「すみませんバランさま、研究のお邪魔をしてしまいましたか?」

「いや、悪い。邪魔をしたのは俺の方だったな」

「あ……これはその、ただ、たまたまここで歌っていたらみんな集まってしまったのです。故郷にいた頃も、よく歌っていましたから……つい、そのクセで」

 リリは照れくさそうにはにかみながら、頭の後ろをさする。

 そういえば、と俺は思った。妖精、妖精というが、俺はその種族について何も知らなかった。

 故郷というくらいだから、妖精のみが暮らす地があり、そこから外の世界に出ることは稀なのだろう。

 今は魔界でも、ある程度の大きな都市は様々な種族が入り混じって構成されていることが多い。だが、そういう場に出てこない種族については情報が少ないし、そもそもほとんどこの家に引きこもりっぱなしの俺が得られる情報は限られている。

 そこで、少し俺は質問してみることにした。

「やはり妖精にとって歌は日常的なものなのか?」

「そうですね。嬉しいときや哀しいときには、皆で歌を歌って共有します。ほかにも、子供をあやすときや、初めて会った人と仲良くなりたいときとか。とにかく歌いますね!」

「なるほど。妖精にとっての歌は、言語よりも重要なコミュニケーションツールということか」

「……なんかバランさまがそうおっしゃると、すごいことのように思えてきました」

 リリはまじめな顔をして、まるで他人事のように感心している。

「特に、私の歌は聞く人をリラックスさせるそうなのです。妖精の里にいたときも、魔物たちがよく集まってきました。妖精の中でも、戦いの歌が得意な人とか、いろいろなんですけどね」

 それを聞いて俺は、改めて周りを見渡し、先ほどまでの光景を思い出していた。

 種々の魔物たちがおだやかな様子でリリの歌に聞きほれていた、あの光景を。

「でも、ちょっと不思議です」

 俺が庭を見渡しているのを見て、リリも同様にそれをする。

「私の歌を聞いていれば、みんな少しのことじゃ驚いて逃げたりしないんですけどね」

「さしもの妖精の力も、魔王の血には負けるってことだな」

「魔王の血、ですか?」

「強大な力を持つ魔族の血には、知らず知らずのうちに相手を威圧する力が備わっているんだそうだ。野生の感覚が敏感な魔物たちは本能的にそれを感じ取って、逃げ出してしまうんだと」

 そしてそれは、力を持たないただの人間同然の俺でも同じだった。

 居もしない虎の威を借ることで、俺はこの森の中で一度も魔物たちに襲われることなく過ごすことができていた。

「へえー。それじゃ、以前森の泉に行ったときに全然魔物さんたちが出てこなかったのは、バランさまのお陰だったのですね! すごーい!」

 リリはそう言って無邪気に笑う。だが俺はそれを聞いて「すごいもんか」と自嘲するように呟いた。

「中身はただの人間でしかないのに、なぜか魔物は俺を恐れる。虚しさや滑稽さは感じても、何も嬉しくなんかないさ。体を食い尽くされて死のうと、奴らに身を差し出しても、魔物たちは怯えて手を出そうとしない。……俺は死ぬことすらできないんだ」

 俺がうつむきそう言うと、

「バランさま!」

 突如、リリが大きな声とともに、俺の頭にしがみつきだした。

「な、なにするんだ!?」

 俺は意図がわからず、慌てて頭を振って、リリをふりほどこうとする。

 しかし、リリの口から漏れたその言葉を聞いて、俺は思わず頭の動きを止めた。

「よしよし」

 何が起きているのかわからず、俺は硬直した。

 頭にしがみつく小さな少女は、広げたその手を俺の頭の曲面に這わすように、ゆっくりと動かしていた。

「…………」

 俺は、自分が頭を撫でられているということにようやく気がついた。

 しばらくその状態が続いた後、リリは手を動かしたまま、ゆっくりと口を開く。

「リリは逃げません。ここにおりますから、安心してください」

「……!」

 俺は思わず目を見開いた。

 思えば、誰かから頭を触られるなんて、今までにあっただろうか。プロキオン兄さんに乱暴にわしづかみにされる以外で、だ。

 俺は初めて味わうその感触の暖かさに驚いた。そして、次の瞬間に我に返って、

「い、いつまで触っているんだ!」

 頭に吸い付いたままのリリの体を掴んで強引に引き離した。

「ああん」

 体を掴まれたときに肺から息が漏れたのか、リリが小さくあえぐ。

「申し訳ありません、つい……妖精は、こうして頭に触れるのもコミュニケーションの一つでしたから」

「妖精の常識が、どこでも通用するわけじゃないだろう」

 俺がぴしゃりというと、リリの小さな体が、申し訳なさそうにより一層小さくなる。

 その姿に良心の呵責を覚えたのと、十年もこの森に引きこもっている自分が常識を語ることに滑稽さを感じて、俺は思わず、

「せっかくだ。歌の続きを聞かせてくれないか」

「……はい、喜んで!」

 うつむいていたリリの顔が、花開くように明るくなる。

 すぐさまリリは俺から少し離れ、目を閉じて手を胸の前に組んだ。

 そして、先ほどと同じ、透き通る歌声を奏で始めた。


 グロリア・イン・エクセルシス・デオ


 エト・イン・テラ・パックス・オミニブス・ボーネ・ヴォルンタティス


(聞いたことのない歌詞とメロディだけど、やはり落ち着くな)

 気づくと俺も目を閉じて、リリの歌に耳を傾けていた。

 聞くというよりも、自然と体に染み込んでくるそれを、ただ受け取っているだけという感覚だった。

 そうして歌を聴いているうちに俺がふと思ったのは、妖精の歌には聞くものの生命素に影響を与える力があるのではないかということだ。

 生命素を操るというのは、何も人間の専売特許ではない。魔族にも似たような力を持つ者はいる。ただ、人間に特化されて体系づけられた技術が魔導だというだけの話だ。

 そんなことを考えていると、不意にリリの声が止まったことに気が付いた。

 異変に気付いて俺が目を開けると、目の前にいたはずのリリがそこにいない。

「あらあら、あなたどうしたんですか?」

 リリの声がしたのは、俺の後方からだった。

 振り向くと、リリが一匹の魔物に話しかけている。

「うにゃふー」

 体長は俺の膝下ほど。リリよりは大きいが、魔物としては小さい方だろう。白とレモン色の体毛に全身を覆わせたそれの姿は、二足で立つ猫、と言えばわかりやすいだろう。

金花猫ケット・シーか」

 俺はその姿を観察しようと、リリと金花猫の下に向かっていく。

 金花猫は俺を一目見てビクリと体を固くしたかと思うと、リリの後ろに隠れるように身を伏せてしまった。

 実際にはまったく隠れられていないのだが。

 しかし、妙なことに、金花猫は俺から逃げようとしていなかった。

 魔物であれば先述のように俺の魔王の血を感じて一目散に散るはずだし、これだけ恐れおののいていればなおさらだと思うのだが――

 ――と、不思議に思ったとき。

「バランさま、見てください。この子……」

 リリが、伏せた金花猫の背中を指差す。そこには、まだ新しい生傷が無数に刻まれていた。


◇ ◇ ◇


 結局、見かねたリリがこの金花猫を館の中に入れ、治療を施してやることになった。

 もちろん俺がやるのは嫌だったので、リリに責任を持つよう言ったのだが、館の中にある軟膏やら湿布薬やらの類はリリには少々大きすぎた。余計にけがを増やしてしまう前に、嫌々ながら俺が治療してやる羽目になってしまった。

「うにゃ、にゃにゃあ!」

 傷口に軟膏を塗ろうとすると、しみるのか、鳴き声を上げて金花猫は暴れ出す。

「『痛いですって大将、もっとやさしゅうたのんますわー』って言ってます」

「お前、魔物の言葉わかるのか。……ていうか、その翻訳、本当に合ってるのか……?」

「まあ、なんとなくですけどね。だいたいどんな子でもわかりますよ」

「ふーん……妖精なら誰でもそうなのか?」

「ええ。私だけではないですね……あ、それ痛いみたいです」

「うにゃあっ」

「お前も男ならもう少し我慢とけ」

 俺はリリの話を聞きながら考えていた。ひょっとしたら、妖精はもともと魔族よりも魔物に近い存在なのかもしれない。

 少し話は逸れるのだが、俺も日常的に使い分けている「魔族」と「魔物」というこの二つの言葉は、明確な定義があるわけではない。

 漠然と、言語を使って社会を形成し文化的な生活をしているのが魔族で、そうでないものが魔物――というのが俺を含めた多数派の意見ではないかと思う。では魔物は文化的な社会を形成していないかと言われると、そうは言いきれない部分もある。

 特に、リリがこうして魔物と意思疎通している姿を見ると、そんな固定観念は間違っていたという気がしてきてしまう。

 閑話休題、俺は暴れる金花猫を押さえつけ、やっとの思いで治療を終えた。

「にゃあーにゃにゃんにゃん!」

「『いやあーおおきになあんちゃん! おかげで痛みも吹っ飛んだわ!』だそうです」

「……俺はお前に引っ掻かれたり噛まれたりしたのの治療をしてほしいくらいだよ。リリ、気が済んだら早く森に帰るように言ってくれ」

 俺はぶっきらぼうに言ってから、腕についた薄い引っ掻き跡に自分で軟膏を塗ろうとした。

「それが、その、この子……おうちに帰れないんだそうです」

「帰れない?」

「にゃにゃんにゃうなーにゃん! にゃにゃにゃう……」

「まてまてまてまて。おいリリ、通訳頼む」

 身振りを交えて説明しようとする金花猫を制止して、俺はリリに助けを求める。

「え、えーとですね。『おいらの名前はウルル! おかーちゃんと二人で森に住んでんだ!』」

 だから、なんでそんな口調なんだ。

 という突っ込みは心の中にしまうとして、以下、リリによる翻訳をまとめる。


 平和に暮らしていたウルルと母猫のもとに、ある日突然巨大で暴れん坊な魔物が現れた。そいつは有無を言わさずウルルと母猫に襲い掛かってきたらしい。

 母猫は一瞬の隙をついてウルルを逃がしてくれた。そしてひたすら走りつづけた結果、ウルルは気づけばこの館の庭まで迷い込んでいたんだそうだ。


「……なるほどな」

 ここまで聞いて、俺はようやく合点がいった。俺の魔王の血を感じても逃げ出さないということは、逃げ出す先――森の中には、もっと直接的に恐ろしいものがあるということだ。それが「巨大で暴れん坊な魔物」とやらに違いない。

「それで、その魔物ってのはいったいどんな奴なんだ?」

 俺の認識では、この森を住処にしている魔物は、どれも位の高くないものが多かったはずだ。暴れまわって他の魔物に迷惑をかけるような奴がいるという話は聞いたことがない。

「うにゃー……にゃにゃ、にゃふー」

「え? どういうこと?」

 困った表情でにゃんにゃん言うウルルに、リリが驚いた表情を見せる。おいおい、お前らだけで会話しないでくれ。

「なんて言ってるんだ?」

「それが、どんな奴なのかわからないんだそうです」

「わからない?」

 俺は要領を得ず、浮かない顔をするウルルの方を見た。自分と母親が襲われたというのに、その相手が巨大な何かということしかわからないというのは、一体どういうことなのだろうか。

「なーごぐるる、うなーにゃ」

「『ほかの魔物の気配なんてなかったのに、急に襲われたんや』」

「ふしゅう……ごろぐるう」

「『そのあと無我夢中で逃げたさかい、どんなやつだったかわからんのよ』」

「うにゃにゃんにゃわう」

「『堪忍してやー』」

「もういいリリ、よくわかった……」

 頭が痛くなってきた。やっていられない。

 俺はもう自室に戻ろうと、席を立ちあがった。

「あ、待ってくださいバランさま。この子どうするんですか」

「どうするもなにも、もう治療は終わったんだ。さっさと元いたところに帰ればいいだろう。そもそも野生の魔物を治療してやるっていうのが、自然な生態系に反して――」

「そうじゃなくて! 森には怖い魔物がいるんですよ? また襲われちゃったらかわいそうじゃないですか」

 そう言って、リリは俺にしがみつく。どうも表情を見る限り本気で言っているようだった。

「あのな」

 俺は両手でリリの両脇を掴み、机の上に座らせた。

「ほかの魔物に襲われて死んだとしたら、死んだそいつが悪いんだ。魔物の世界ってのはそういうもんだ」

 極力優しく、諭すように、俺はリリに言って聞かせようとした。

 だがリリはほっぺたを膨らませて険しい表情をする。

「バランさまが、いずれ魔王になるお方が、そんなに薄情なお方だとは思いませんでした」

 リリはぷいと顔を背ける。いや、俺は魔王になるなんて一言も言ってないぞ。

「薄情って……だから、それが自然の成り行きってやつで」

「どこが自然な成り行きですか! 私ほかの魔物さんに聞いたんですよ、『最近、森の奥まで行くと、何かに襲われてケガする奴が増えてる』って。きっと皆を襲ってる犯人がいるのです!」

 ぎくっ、と俺は痛いところを突かれた。

 実は俺も薄々感づいてはいたのだ。今まで森にはそんな暴れん坊な魔物がいるという話は聞いたことがない。ということは、何らかの理由で外からその魔物はやってきたのかもしれない。とすると、それはいわゆる侵略的外来種というやつで、森の自然な生態系を荒らすことになる。

 それを知っていて黙っていたのは、もちろん面倒だったからなのだが。

「仮にそうだとして、俺にどうしろっていうんだ。まさか俺にそいつを退治しろってのか?」

「それは……でもせめて、この子をお母さんのところまで送り返してあげましょうよ。バランさまなら、森の中でも安全に移動できるでしょう。傷ついたこの子だけじゃ、ほかの魔物に襲われちゃうかも」

 なるほど、確かに魔王の血が流れている俺なら、それができるかもしれないが。

「なんで俺がそんなことを……俺は忙しいんだ。そんなに送り届けがしたいなら、リリ、お前一人で行ってくれ」

 俺は研究で疲れた体を休めたいんだ。そう言う代わりに踵を返すと、後ろからリリの冷たい声が聞こえた。

「わかりました。もうバランさまには頼みません」

 やっとわかってくれたか。

 安心した俺が次に聞いたのは、まるで背後から後頭部を殴りつけるような、強烈な一言だった。

「でも、私も危険な森を送り届けることはできませんから……この子は、ここで飼うしかないですね」

 この一言で俺がウルルの送り届けをしなければならなくなったことは、お察しのとおりである。


◇ ◇ ◇


 ウルルに導かれるままに、俺たちは森の奥を進んでいった。

 彼らが住処にしている場所は、森の中心部にあるという。俺の館が居を構えているのは森の中でも北東部の端っこだから、ただでさえ広い森の中をかなり歩くことになる。

「なあ……まだ着かないのか?」

 ウルルに治療を施して、朝食をとってからすぐ館を出発したのに、頭上の木々の隙間から覗く太陽の光はもう南中しかけていた。

 この森は平地にあるから、山地のように歩くこと自体がそれほど難しいわけでもないし、広葉樹が頭上を覆っているから、空気も涼しくおだやかだ。

 それでも、昨晩一睡もしていない俺が長いこと歩き通しというのは、想像以上に厳しいものがあった。

「にゃ、にゃうな、ふるるぐご」

 俺の前を、リリと右手(正確には前足)をつないで二本の足で器用に歩くウルルが鳴き声をあげる。意味はわからないが、なんとなく馬鹿にされているようなことはわかった。

「リリ、なんて言ってるんだ?」

 念のため尋ねてみると、

「『もうちょっとだから、文句言わんとキリキリあるきーや。これだから箱入りのモヤシはあかんわ』って」

「……それ、本当に正しく訳してるんだろうな?」

「わ、私は聞いたとおりに言ってるだけですよー」

 まったく、さっきは俺の顔を見ただけでぶるぶる震えてたっていうのに。

 そう考えると、今まで魔王の血を感じて逃げ出す魔物はいたが、その後どうなるかということを考えたことはなかった。案外、しばらくすれば慣れる程度のものなのかもしれない。

 ともあれ、俺がウルルの住処にいつ着くのかを気にしているのは、体力的な問題だけではない。

 巨大で暴れん坊で得体のしれない魔物がいつどこで現れるかわからないのだ。そいつに魔王の血による威圧が聞くという保証はない。なにしろ俺はこの森にいる位の低めな魔物にしか試したことがないのだ。位の高い魔物に対してはどうか、正直なところ自信がなかった。

 できるだけゆっくり慎重に進みたい俺の気持ちなどお構いなしに、リリとウルルはずんずん先へ進んでいく。

「バランさま、急がないと日が暮れないうちに帰れませんよー」

「うなーなごー!」

「あーもうわかったよ! くそ、なんだってこんな目に……」

 誰に向かってすればいいのかわからないが、何事も起きないことを祈りながら、俺は二人の後ろ姿を追った。

 こういうときにこそ、よくない勘というのは当たるものなのだが。

「ふにゃにゃぐる!!」

 それまで一応、道らしきものの中を通っていたウルルは、不意に道を逸れはじめた。

「ね、ねえウルル! 本当にこっちで合ってるんですか!?」

 ウルルはリリの手を取ったまま、背の低い雑木林の中に向かって駆け出していく。

 雑木林は二人の背丈なら楽にくぐれるが、俺はもろに顔面に当たってしまうくらいの高さだ。

 俺は身をかがめ、二人を見失わないよう、必死に二人の後を追いかけた。

「い、いててて!」

 正直めちゃくちゃ厳しい。鋭い葉や折れた枝が体をかすめていくのがわかる。

 息が切れかけたころ、ウルルの行く先から淡黄色の光がしみ出ているのが見えた。そして、二人が光の中へ飛び込む。

 こうなったら、俺も行くしかない。

 少し遅れて、俺は意を決してそのまぶしさの中に飛び込んだ。

「……! ここ……は……?」

 目が慣れるのに、かなり時間がかかった。これまでの鬱蒼と木々が茂っていた森とは打って変わって開けた場所だったからだ。

 樹木はほとんどなく、天からの光が直接地面に届いている。

 地面も、ところどころ崩落してはいるが、石造りのブロックで舗装されたようになっている。

 だがそれ以上にこの場所にあった特異性、それは崩壊した石造りの建造物が、無数に存在していることだった。

「バランさま、これは何でしょう……壊れた、おうち?」

「……ああ、そうか。ここにあったのか」

 俺は目の前にあった、門のようなものに手を触れる。安山岩アンデサイト粘板岩スレートを加工したシンプルな造りだ。暗褐色に煤けた石肌と、ところどころの崩落が、ここがすでに忘れ去られた場所であることを物語っている。

 その様子を見ていたリリが、不思議そうに尋ねた。

「バランさま、この場所のことをご存知なんです?」

「おそらく古代魔族の住居跡だろう」

「古代魔族……ですか?」

「俺も聞いた話だけで、よくは知らないんだけどな。魔界に住むあらゆる魔族の始祖……古代魔族が、この森に集落を作って暮らしていたっていう話は聞いていたんだ。実際に来たのは初めてだが」

「へえ……どおりで、もう誰もいなくなってから、ずいぶん経ってるみたいですね」

 俺たちは遺跡の中へと足を進めた。苔むした石と植物のツタが絡み合い、そこに差し込む光の柔らかさもあって、遺跡は独特の雰囲気を保っている。

「ウルルとお母さんはここに住んでるの?」

「にゃおう。ぷるるすが」

「そう。たまたま見つけて、雨風をしのぐのにちょうどよかったのね」

 毎回思うが、あのウルルの短い音の中に、そんなに情報を詰め込めるのだろうか?

 いや、そんな疑問はこの際どうでもいい。

 それよりも俺が関心があるのはこの遺跡についてだった。

 古代魔族というのは、先述のとおり、数ある魔族の進化の根元にあったであろう存在を指す言葉だ。逆に言えば「そういうやつらがいただろう」という想定の話であって、実際にどんな姿をしていたかとか、どんな生活をしていたかとかはよくわかっていない。

 この遺跡にしたって、「古代魔族が住んでいただろう」と言われているだけだ。ロクに調査も行われていない。

 なぜ行われていないかというと、それはやはり時の為政者である魔王が侵略を重視して過去を顧みないからなのだが――

 ――などと、俺が一人で分析していたとき。

「ば、ばばば、バランさま」

 後ろから、奇妙なリリの声が聞こえてきた。

「なんだよリリ。変な声出し」

 て、という一文字が、振り返った俺には言えなかった。

 そこには、ここらの遺跡群に匹敵するほどの大きな影があった。背丈だけなら、狼魔族のプロキオン兄さんにも匹敵する。

 白と黄色の体毛に覆われた全身と、荒く吐き出される息、そして何より縦に伸びた鋭い瞳孔が、そのどう猛さをこれでもかと象徴していた。

 「金獅子ミュルメクス」――俺もかろうじて図鑑で見たことのある程度の、大型の魔獣が、今まさに目の前にいた。

「あ――」

 これはダメだ、と思った。

 なまじ、プロキオン兄さんのように意地の悪くとも理性があった方が、まだ生きる望みはあったかもしれない(もちろんその場合は死んだ方がましなほどの苦しみが待っているのだが)。

 今俺が対峙しているこの目に、理性などという言葉の影は何一つなかった。純粋に、目の前にいる存在を排除する、ただそれだけしかないという目だ。

「ぐるううるるうおおおお!!!!!!」

 金獅子の地鳴りのような雄たけびが響いた。

 まずい。やられる。

 それがわかっていても、俺の足はすくんで動かない。

 次に生まれ変わるときは、優しい家庭で平凡に育ちたい。

 思えば、俺の人生良いことなんてほとんどなかった――

 ――と、俺の頭に走馬燈が流れ始めたとき、

「バランさま、この人!」

 隣にいたリリの声が、その思い出をせき止めた。

「お前……この人って、魔物だぞこいつ」

 かろうじて出た俺の言葉は、なぜか不要な突っ込みだった。ああ、人生最後の言葉がこれか。

「この人、『わたしの子どもを返せ』って言ってます!」

 ――わたしの、子ども?

 まさか、と思ったとき、俺の視界の端から金獅子に向かって飛び込む影があった。

「にゃふるぐぐるるるー!!」

 ウルルだ。

 ウルルが飛びかかった勢いに不意を突かれて、さすがの金獅子も横に倒される。

「ウルル!」

 俺は一瞬、ウルルが俺たちをかばったのかと思った。

 でもその姿を見て、俺は間違いだということに気づいた。

 金獅子とウルルはとても幸せそうな笑顔でじゃれついていたのだ。

 それはまさに、再会を喜ぶ親子の姿そのものだった。


◇ ◇ ◇


 俺としたことが、ウルルの体長だけをみて、安易に金花猫と判断したのは間違いだった。まさかあいつが、金獅子の子どもだったなんて。

 確かに話をよくよく聞いていれば、ウルルがまだ小さな子どもであることはわかる。それがわかっていれば、ひざ下の体長が子猫ならその母猫はどのくらいの大きさで、さらに子どもを失った母猫が子どもの匂いの染み付いた者を見てどのように思うかも想像がついたはずなのだが。 

 リリの勢いに押されて安易にウルルの送り届けを承諾したことを、俺は心底後悔していた。

「『本当、ありがとうございました、うちの子をここまで連れてきてくれて!』だそうです」

 眼前で平身低頭に意を表す母猫――金獅子を見ても、その後悔は変わらない。

「礼には及ばないと言っておいてくれ」

 どうでもいいからもう早く帰りたかった。もうあんな死を覚悟するような思いはしたくない。

「ぐるぅっ……」

 不意に、母猫が苦しそうな表情を見せた。普段から怖い顔をしているから見分けがつきづらいが、なにか痛みに耐えるような表情だ。

「あっ! バランさま、見てください! お母さんの足!」

 リリに促されて母猫の後ろ足を見る。

 左足の不自然さに気がついた。足首の少し上のあたりから、本来まっすぐなはずのそれがだらしなくぶら下がるような歪な形をしている。

「これ、折れてるな……」

 その見た目の痛々しさに俺は一瞬躊躇したが、意を決して母猫に近づいた。

「ぐるるるるる!!」

 傷のある箇所を狙われるとでも思ったのか、母猫が威嚇する。正直怖い。

 だが俺は必死に平静を装って、鞄から救急道具を取り出した。その中の包帯で、周囲の太い枝を添え木にし、母猫の足を固定する。正直、骨折の治療は自然治癒力頼みだから、この程度しかできないのは辛いところだが、多少痛みは少なくなるだろう。

 しかし、野生の魔物にとって足の骨が折れるということはかなり命取りだ。自由に動けないために敵に襲われやすくなり、また餌となるほかの魔物を狩ることも難しくなる。食べることができなければ、死ぬ。当たり前の話だ。

 それを危惧した俺は、施術が終わったあと、俺はリリとウルルの方に向き直った。

「リリ、ウルルに伝えてほしいことがある」

「はい?」

「お前の母さんは足のケガのせいで今までのようにしばらく動けない。だから、これからはお前が母さんの分まで狩りをする必要がある。今まで自分で狩りをしていたかどうかは知らないが……やるしかないんだ。できるか?」

 俺の言葉を受け取ったリリは、何やらウルルににゃふにゃふと言葉を伝えている。

 やがてウルルの方もうなずきながら、俺の方に向き直って、

「にゃにゃんにゃん! にゃふー!」

 と返した。

「……『よーわかった! 任せてーなにーちゃん!』と言ってます」

顔を綻ばせて報告するリリに、俺も思わず笑う。

「そうか」

 野生というのは強い。きっと生きていけるだろう。

「うっふっふっふっん……バランさま!!」

 気づくと、リリはにやにやと嬉しそうな表情で俺のことを見つめていた。

「な、なんだよ」

 俺は恥ずかしくなって、思わず目を逸らす。

「ご立派です! それでこそ、未来の魔王さまです!」

「なんの話だ」

「お家ではあんなにウルルのお世話を嫌がってたのに! 率先して治療に当たるばかりか、アドバイスまで。私、感動しちゃいました!」

 両手でガッツポーズを作り、リリはキラキラした目で俺を見つめている。

「……敬意を表したんだよ。親子ってやつに」

「敬意、ですか?」

「あの母猫、足が折れているのに子どもを取り戻すために俺に向かってきたんだ。魔王の血が流れる俺に対して、魔物は本能的に恐れるはずなのに、だ。母猫の子どもを思う気持ちが本能に打ち勝ったんだろう」

 言いながら、俺は母猫とウルルの方を遠くから眺めた。

 足に負担を掛けないようにうつぶせに寝そべる母猫に、ウルルは嬉しそうにすりついている。これこそが自然な親子のあるべき姿なのだろう。

 そして、そんな姿を見ていると、自分のこれまでを顧みてしまうのも仕方のないかもしれない。

 母親とは幼い頃に生き別れ、その後引き合わされた父親と兄弟たちは家族の情などない、力こそ正義を標榜するやつらだった。

 そう考えれば、文化的な考え方をしているのは果たしてどちらなのか?

 自分におかれた環境との違いについて、俺は答えの出ない疑問を投げかけていた。

「バランさま、また何か考え事です?」

 俺がじっとウルルたちを見ているのに気になったのか、リリが俺の顔を覗き込む。

 そこで俺は、代わりとでも言うかのように、今度はリリの顔をじっと見つめた。

「ど、どうされました? そんなに見られると恥ずかしいです……」

 両の手を頬に当て顔を真っ赤に染めるリリ。

 その姿を見ていて、俺はあの時のことを思い出していた。


≪バランさまの一のしもべ、私が相手です!≫


 無謀な戦いを挑んで、「よくわからいけどつい体が動いてしまった」と言ってのけた彼女のことを思い出して、俺は思わず笑ってしまった。

 確かに家族にはいなかったかもしれない。

 でも、代わりに、まったく勝ち目のない状況でも俺を守ろうとしてくれたしもべがここにいたんだったな。

「そろそろ帰るか」

「はい! バランさま!」

 いまだ再会の喜びを分かち合い続けている親子を後目に、俺たちはもと来た道を戻ろうと遺跡の入口へと向かった。

 そして、奇妙なことに気が付いた。

「あれ? こんなの最初からありましたっけ?」

 初めに違和感を口にしたのはリリだった。

 そこには、建物の残骸のような石の小山がうず高く存在していたのだ。まるで森への出口を塞ぐように。

「まあいっか。さー、帰りましょー」

 そう言って、リリがそのそばを横切ろうとしたとき。

「待て、リリ!」

 俺は違和感の正体に気づいてリリの体を後ろから掴んだ。

「ぷぎゅ」

 リリの体から息の漏れる音がすると同時に、石たちは小さく震えだす。

 はじめは遠慮がちだったその震えは、次第に意志を持ったかのように動き出した。

「わ、わわわわ! なんですかこれー!」

 動き出した石たちは、やがてある形を成していく。計4本の放射状に延びた四肢を持ち、最上部の石には二つの赤い宝石が正面を向いて付けられたそれが、無機質な仏頂面を俺たちに向けた。

「ハイジョスル」

「……は?」

 次の瞬間、俺の目の前を石の拳がかすめた。

 轟音と共に地響きが鳴り、衝撃で霧散した土煙がもうもうと舞う。

 ――これ、まずくないか?

「リリ、逃げるぞ!」

 俺はリリの体を掴んだまま、脱兎のごとく駆け出した。

「なんなんですかこれ~!?」

「『石巨人ゴイ・エレメス』だ!」

「ご……ごい……!?」

「そのまんま、石でできた巨人の魔物だ!」

「な、なんでそんなのがこんなとこにいるんです!?」

「知らん! とにかく逃げるぞ!」

「グオオオオオオオ!!」

 低い唸り声が聞こえて俺は後ろを振り返った。

 そこには、ズシンズシンと鈍い足音を響かせながら俺たちを追ってくるデカブツがいた。

「まさかこんなところで出会うとは……!」

 俺は一つ舌打ちをして再び走り出した。

 実は石巨人は魔物の中でも伝説的な存在の一つだった。古代、ある魔族が財宝を守るために生み出したとか、生命を生み出す実験の過程で生み出されたとか、そんな逸話ばかりが残されてはいるが、現実に石巨人という魔物が生息しているとされる地域は存在しない。

 ならば、ここにいる石巨人はいったい誰が生み出したのか?

 でも逆に俺は、ウルルが以前言っていた言葉にようやく合点がいった。『ほかの魔物なんて気配がなかったのに、不意に襲われた』とは、遺跡に自分の体をまぎれさせていたために、気づけなかったということなのだろう。ちょうど、先ほど俺たちを突然襲ったときのように。

「ミギホウコウニネツゲンハンノウケンチ。ハイジョスル」

 それまで俺たちを追ってゆっくりと歩いていた石巨人が不意に機械的につぶやいた。そして方向を九十度変更する。

 その目線の先にいるのは、確か――

「くそっ! リリ、お前はここにいろ!」

「あ、バランさま!?」

 俺はリリをつかんでいた手を離して、駆け出した。

 石巨人の目線の先、そこには果たして、ウルルと母猫がさきほどと変わらず、遺跡の建造物でできた陰の中にいた。

「ぐるるるる……ぐがうがー!」

 ゆっくりと近づく石巨人にこれでもかと威嚇をしながらも、彼らは決してその場を動かない。

 いや、動けないのだ。母猫は足のケガで、ウルルはその母猫をかばうために。

「ソノバショニフレルモノハミナハイジョスル」

 石巨人は不気味にそうつぶやくと、石でできた拳を振り上げる。

 そしてその勢いのまま、思い切りウルルたちに向かってたたきつけようとした。

「絡んで伸びろ(ソル・リアーナ)!」

 だが、その腕は急激に伸び出したつる植物によって止められる。

「せ、成功したか……」

 俺はその結果が信じられず、思わずひとりごちた。

 ようは、生命素で植物を操作する、樹木魔導の応用だ。

 植物のつるは、多少離れたところにあっても一つの個体から出たものであることが多い。俺は手近にあった植物のつるに手を触れ、そこからウルルたちのいる場所のつるに向かって生命素を付与したのだ。急速に伸長が促されたつるたちは、自然と近くにある長いものに巻かれようとする。

 例えば、石巨人の腕のように。

「バランさま、すごいです! もうそんなに樹木魔導を使いこなして……」

 いつの間にか近づいていたリリが、俺のことを褒めようとした瞬間。

 石巨人の腕にからみついたつるが引っ張られ、軋む音が聞こえた。

「エラーハッセイ エラーハッセイ」

 石巨人は強引につるを引きちぎろうともがく。

「……! 急ぐぞリリ!」

 俺はリリとともにウルルたちのもとに急いだ。いくら複数のつるを束ねて強度を増していると言っても、さすがにあの馬鹿力では長くは持たないはずだ。石巨人が身動きをとれないうちに、ウルルたちを逃がさねば。

「早くこっちへ!」

 俺はうつ伏せの母猫とウルルを促し、ゆっくりとその場から逃れさせた。足が折れている母猫には少しずつその場を移動するしかない。

 そして、ようやく彼らがその場から逃れた瞬間、地を震わすようなうなり声が聞こえた。

「グオオオオオオ!」

 紛れもなく、石巨人から発せられたものだ。

 ブチブチと嫌な音とともに、うなり声が鳴り止むと、石巨人の巨大な拳が、それまで母猫がいたところに打ちつけられた。その衝撃で地面が半球状にえぐれる。

 俺はその威力に息を飲んだ。

「ひっ……」

 リリも小さく悲鳴を上げる。

 冗談じゃない。あんな攻撃が当たったら、いかに金獅子と言えど無事では済まないだろう。俺やリリも同じだ。

 しかも母猫は今大ケガをしている。俺を威嚇するために決死の力を出せたとしても、石巨人を打倒するほどの力はもうないだろう。

 絶体絶命。

 その四文字が頭をかすめる。

「……ん?」

 石巨人の次の行動を伺っていた俺は、奇妙なことに気が付いた。

 奴は視界から消えた俺たちを探そうともしていなかったのだ。

 よろよろと目の前の壊れた建物に近づくと、それに抱きつき、実に愛おしそうにほおずりし始めたのだ。

 俺はその姿に見覚えがあった。

 それはまさしく、先ほどまでの母猫とウルルの構図だったのだ。久しぶりに会えた母親に甘える子ども。

 無機質な石巨人という存在が、温かみを探す様子を見て、俺は不思議と共感を覚えていた。

「――コウドウヲサイカイスル」

 しばらくののちに、気が済んだかのように石巨人は体勢を立て直し、俺たちの方に向き直った。どうやら、忘れてくれていたわけではなかったようだ。

「ゼンポウジッポマエニネツゲンハンノウケンチ」

 一歩一歩確実に踏みしめるように、石巨人は俺たちの方へと歩を進める。

(しまった、周りにはつるどころか、植物もない……今度こそ、やられる!)

 そう思ったとき、不意に声が聞こえた。

「おやめなさい!」

 声は石巨人の背中の方から聞こえていた。小さな体から出ているとは思えない、この響きは。

「私の主と友人に手を出すとは許せません! バランさま一のしもべ、私が相手です!」

 えへんと胸を張った、自称俺のしもべがそこにいた。

「……グググ」

 石巨人はゆっくりと振り返ると、まっすぐリリの方に向き直った。

 改めてうしろからその背中を見ると、その威圧的なこと。前から睨まれるよりも、後ろ姿に俺は言葉を失った。「やめろ、リリ」その言葉が喉から上まで上がってきてくれない。

「ハイジョスル」

 そうひとつつぶやく間に、石巨人はぐんぐんとリリとの距離を詰めていった。先ほどまでの鈍重な動きと打って変わって、今度は荒々しくも素早い動きだ。

 リリはといえば、目を閉じ、祈るように両手を胸に組んでいる。

 石巨人がその隆々とした拳を振り上げた瞬間、俺は思わず目を閉じざるを得なかった。

 もう、ダメだ!

  

(……あれ?)

 地面をえぐる激しい音はなかなか聞こえてこなかった。 

 代わりに俺の耳に飛び込んできたのは、妖精のメロディだった。


 グロリア・イン・エクセルシス・デオ


 エト・イン・テラ・パックス・オミニブス・ボーネ・ヴォルンタティス


 俺が顔を上げた先には、先ほど同様目を閉じて、一心に歌うリリ。

 そして、石巨人。だが、その様子は機械的に目の前のものに襲いかかるそれではない。

「…………」

 ダラリと腕を伸ばした直立不動の姿勢で、石巨人はピクリとも動いていなかった。

「ん……あれ? もしもーし?」

 石巨人の動く音が聞こえなくなったことに気づいたリリは、恐る恐る石巨人に近づく。ぺしぺしと肩の辺りを叩いて、反応がないことを確かめると、

「バランさま……! 私、やりました! 倒しましたよー!」

 と、嬉しそうに俺に向かって報告した。

「た、倒したって」

 笑顔で辺りを飛び回るリリを見ながら、俺も恐る恐る歩を進め、機能停止した石巨人に近づく。

 まったく動く気配はない。

 完全に機能が停止してしまっているようだった。

「まさか、リリの歌がこいつにまで効くとは……」

「えっへへー。言ったでしょう? 私の歌には聞く人をリラックスさせる力があるんです!」

「いやこれもうリラックスというレベルじゃないだろ」

 俺は少し安心して、まったく動かない石巨人の横っ腹に手を当てた。ひんやりとした石の感触が手のひらに伝わる。 

「……ということは、こいつも生命素を持っていた、生き物だったんだな」

「生命素、ですか?」

「ああ。俺は最初、こいつは自動機構のみたいなので動いているんだと思ってたんだよ。つまり、この遺跡に近づくものがいれは攻撃する。遺跡の中にいるとき、熱を感知すれば攻撃する。……そんな単純な条件づけだけで動くんだと思ってたんだが」

「確かに、生命素を持たない機械だったら、私の歌は効果がなかったかもしれません」

「ああ」

 俺は石巨人の顔を見上げる。

「この石の顔を見ると、こいつが生き物だなんてまったく思えないけどな……」

「まあまあ、とにかく助かったからよかったじゃありませんか! さあ、ウルルとお母さんに、もう心配ないよって言ってあげましょ!」

「……そうだな」

 リリに促された俺は、石巨人に触れていた手を離し、踵を返した。

 そのとき。


「……ググ、オオオ」


 後方から鈍い唸り声が再び聞こえて、俺は慌てて振り返った。

「ばばばばバランさま……!」

 震えた声を出しながら、リリが俺の肩に抱き着く。

 だが俺もそれを振り払えず、目の前のものをただ見つめることしかできなかった。

 機能停止していたはずの石巨人が、再び動き出していたのだ。 

「なんでこの子、また動いてるんですかー!?」

「しっ! こいつ、まだ俺たちに気づいてない……」

 俺はリリの口をふさいで、じっと石巨人の動きを観察する。

 石巨人はゆっくりと歩くと、ある建物らしきものの残骸に近づいた。

 膝をつき、その残骸を両手で掴むと、嗚咽のような声と共に、一つの言葉を絞り出す。

「アルジヨ……ドコニイカレタノデスカ」

 消え入るような声でつぶやく石巨人の背中を、俺とリリは何も言えず見つめていた。

「ワタシハコレイジョウ、ナニヲマモレバヨイノデスカ」

「バランさま。彼は……」

「うん……おそらくここに住んでいた古代魔族が作り出した門番ガーディアンだったんだろう。古代魔族がいつしかいなくなっても、命令のままに集落を守ってきたんだ。それこそ、何百年、いや、何千年も……」

 遺跡の一端にすがりつく石巨人を見ながら、ウルルや母猫を襲った犯人としての敵意は俺の中にはもうなくなってしまっている。

 代わりに、機械ではなく生き物でありながら、誰もいない遺跡を守り続けていた彼の心を推し量って、俺の中には切ない気持ちで満たされていた。

「リリ。もう、帰ろう。ウルルたちには悪いが……この遺跡にはもう立ち入らないように伝えてくれ」

「……いえ。そういうわけにはいきません」

 そう言うと、リリは素早く飛び上がる。

「お、おいリリ!?」

 俺の制止を無視して、リリは石巨人の前の建物上へと移動した。

 そして、目の前の石巨人にゆっくりと語りかけた。

「石巨人よ……もう、あなたは命令に従う必要はありません」

「グ……オオオオオッ?」

 それまでうなだれていた石巨人の顔が、ゆっくりと上を向き、リリの方を見つめる。

 その目線の先のリリは、柔らかい日の光を背に受けて、まるでリリではない違った存在かのように見えた。

「あなたはもう十分に働きました。さあ、今はゆっくりと休みなさい」

「アルジヨ……アリガタキ、オコト……バ……」

 見上げていた石巨人の顔が再びゆっくりと下を向く。

 そのまま深い眠りに落ちるように、石巨人は今度こそ活動を停止したようだった。

「ゆっくり、おやすみなさい」

 リリが石巨人の頭を優しくなでた。

「…………」

 石巨人は今度こそ完全に動かない。

 ずっと探し求めていた暖かさを手に入れた彼の顔は、安らかなものだった。


◇ ◇ ◇


 色々あったが、ウルルを無事母猫のもとへ送り届けることができたし、森の暴れん坊こと石巨人も活動することはなくなった。

 俺とリリはウルルたちに別れを告げて、館へと戻ることにした。 

「必ずまた遊びに来ますからね!」

「うななうなーにゃ!」

 リリとウルルはなにか固い約束を交わしていたようだが、次があるならその時はぜひリリだけで行ってほしい。ゆっくりと。

「ところで、だ」

 背の低い雑木林を抜け、ようやく見覚えのある道に入ったとき、俺は意を決してリリに尋ねた。

「なんでこいつまで着いてきてるんだ!?」

「……ドウシタ、バラン?」

 背後にのっそりと佇む石巨人を指差して、俺は力いっぱいに叫ぶ。

「はは……なんか、私たちのこと、ずいぶん気に入っちゃったみたいで、この子」

「いや、さっきもう『わたしの役目は終わりました』みたいな感じで機能停止してたろうが! おやすみって言われてたろ! なんで普通に動いてんだよお前!」

「ゴイ・エレメスニキュウソクハフヨウ。サッキハチョットカンガエゴトシテタ」

「考えごと?」

「オレノアルジ、モウイナイ。ソノカワリ、バラントリリニツイテイク」

 鈍重な声で楽しそうに言うと、石巨人は俺とリリの体をひょいとつかんだ。

「わわ、離せバカ!」

 俺の必死の抵抗に、石の剛腕はびくともしない。畜生。俺は高いところが苦手なんだぞ。

「サア、ワレラノオウチニカエロウ」

 石巨人はそのまま、意気揚々と歩き出してしまう。

「うふふ、安全運転でお願いしますね、ゴメスくん」

「ゴメスくん? なんだそれ?」

「この子のお名前です。『ゴイ・エレメス』なので」

「オレノナマエ……ゴメス、ゴメス」

 おいおい、喜んでるじゃないかこいつ。っていうか、ちょっと待て。俺たちに着いていく? 我らのおうちに帰ろう?

「お前、まさか、俺の家に居座る気か!? ……リリ、まさかお前もそのつもりで!」

 俺はとっさに、隣でゴメスの顔にしがみつくリリを見る。リリは「てへ」という代わりに、舌を突き出してはにかんだ。

「まあまあ。どうせこの子もこのまま森にはいられないでしょうし。心強いしもべが増えてよかったじゃないですか!」

「ふざけぶべっ」

 ふざけんな、と言おうとした瞬間、俺は舌を噛んだ。なぜかゴメスのやつがスピードを上げ始めたのだ。激しい揺れに、俺の内臓はすでに何回転したのかわからない。

「ヒガクレルマエニ、オウチニカエラナキャ」

「頼むから降ろしてくれー!」

「あ、安全運転でお願いしますー」

 天地がひっくり返ったような揺れと、固い石の体に何度も頭を打ち付けたせいで、俺の意識はすでにもうろうとし始めていた。

 なんでこいつらは皆、俺のことを放っておいてくれないんだ。

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