第40話 ありがとう
「ぁ……クロ……」
しばらく、思考が停止する。
目の前にクロがいる。その情報だけで頭の中がいっぱいになった。
やがて、私は我に返り、慌てて立ちあがる。
「あ、いや、これは……!」
「……全部、聞きました……」
クロの言葉に、私は口を噤む。
聞かれていた……?
なんで……いや、そもそも、クロはもう帰ったハズでは……。
私の表情から、何を考えているのか察したのか、クロは目を細め、ポケットから何かを取り出した。
それは……私が貸していたハンカチだった。
「あっ……」
「……返すの、忘れていましたから。洗濯して返そうかと思いましたが、せめて、一言言っておこうかと……」
「いや、洗濯なんて……!」
咄嗟に否定しようとした時、涙を拭われた。
涙で潤んだ視線の先で、クロが優しく、微笑んでいた。
「美雪さんに、涙は似合いませんから」
「……ん……」
クロの優しさが嬉しくて、私はその行為を甘んじて受け入れた。
しばらくクロは私の涙を私のハンカチで拭った後で、フッと目を伏せた。
クシャッと私のハンカチが握り締められる。
「……本当なんですか? 白田さんが、犬って……」
「……正確には、犬、だった……」
「へ……?」
不思議そうな顔をするクロ。
彼女には……真実を伝えるべきかもしれない。
いや、伝えなければいけない。
そう判断した私は顔を上げ、クロの顔を見た。
そして……全てを話した。
シロの正体。シロが今ここにいる理由。全てを。
正直、こんな話信じられないだろうって思った。
しかし、クロはただ黙って聴き入っていた。
私の話を、一度も否定せずに。
「―――……これで、全部」
私の言葉に、クロは顔を上げた。
その目は真剣だった。
黒い澄んだ目が、グチャグチャになった私の心を見透かしているような気がした。
でも、目は逸らさなかった。
「……美雪さん……貴方は、まだ気付いていないのですか?」
「気付いていない……?」
「……貴方は、シロさんのことが好きなんですよね?」
その言葉に、私はビクッと肩を震わせた。
私が……シロのことを、好き……?
「そんな……私が好きなのは……!」
「じゃあなぜ……シロさんが死ぬことを悲しんでいるのですか?」
クロの言葉に、私は口を噤む。
すると、クロは泣きそうな顔で、一歩ずつ私に近づいて来る。
なぜ、シロの死を悲しむかって……。
「それは、大事な飼い犬だったから……」
「ではなぜ、大事だったのですか?」
「そ、れは……」
「なぜ……」
そこまで言うと、クロは息が掛かるくらいの距離で立ち止まる。
ガラス玉のような綺麗な目で、真っ直ぐ私を見つめる。
そして……―――
「……シロさんの言ったことを、真っ向から、全て、信じたのですか?」
―――……そう言った。
彼女の言葉に、私は鈍器で殴られたような衝撃を受けた。
言われてみれば、そうだ。
なぜ私は、シロが、自分が飼い犬であったと言った時、すぐに信じた?
『だからぁ、昔美雪に飼われていた、白犬シロだよ!』
シロの自己紹介が脳裏に過る。
考えれば分かることだろ?
もしかしたら私が忘れているだけで、昔どこかで会っていたのかもしれない。
もしくは、クラス名簿か何かで名前だけ知っていたのかもしれない。
飼い犬の話だって、私がシロと散歩しているのを見ていたのかもしれない。
シロって名前も、私がシロを呼んでいるのを聞いて知ったのかもしれない。
もちろん、そんな話がありえるわけもない。
しかし、白田仔犬という少女が、シロが転生した姿であるというおとぎ話に比べれば、まだ現実的な話だ。
それなのに私は、深く考えずに、彼女がシロであることをアッサリ信じた。
なぜ? そんなもの……シロが、好きだったからだ。
「ぅぁッ……」
なんで、今になって気付いたのだろう。
ずっと、ずっと好きだったんだ。
でも、じゃあ、クロへの想いは?
「クロッ……」
「……何をしているのですか?」
クロが放った一言に、私は戸惑う。
すると、クロは優しく微笑み、私の肩に手を置いた。
「シロさんを追いかけるのが、今、美雪さんがするべきことではないのですか?」
「でも……!」
「早く。……行ってあげてください」
そう言って、クロは微笑んだ。
彼女の言葉に、私は込み上げてくる何かを必死に抑えた。
そして、肩に置かれた手を握り、「ありがとう」と返した。
一体、何へのありがとうだったのだろう。
シロへの本当の気持ちに気付かせてもらったこと?
後押ししてくれたこと?
それとも……クロのことを好きだと言ったのに、他の子が好きな私を、許してくれたこと?
しかし、走り出した私が、その答えを知ることは無かった。




