鯉が転じて福を呼ぶ!~長刀使いネコネの退治録~
「いやあああ、我を食べないでえ!」
夕暮れ時、閑静な住宅街の路地裏にて、神は情けなく悲鳴を上げた。
彼は一見すると女性かと見間違えるほど、麗しい見た目をしている。
瞳は黒曜石。透き通るような白い肌。銀髪を簪でまとめ、羽織は鮮やかな緋色、黒色基調の着流しの裾に流れるは流水紋。
現代日本にはいささか浮いている格好だが、神様なので浮き世離れしていて仕方ない、むしろ当然なのである。
ところが今、その美しさは台無しだった。泥や埃で全身がすす汚れ、真っ白な身体の所々に、見るに堪えない紫色が広がっている。
彼を囲っている黒い靄は、羽虫のような不快な音を立てて動く。その先端が神に触れると、火傷を負ったように醜い痣が広がっていく。
神を襲っている不浄の存在は、人の負の感情から発生するものだ。人に取り憑いて負の感情が増幅させ、不幸や不健康を連鎖させて更に自分の勢力を拡大する。
彼らは特に、無抵抗で綺麗なものを汚す事が大好きだ。たとえば生まれたばかりの存在。純粋で清らかな気をまとっており、栄養価の高い生命力を蓄えている割に、身を守る術を持たない。
つまり、新米の神なんて、格好の餌食というわけで。
「我、こんなところで闇落ちしたくないーっ! 誰か助けてえ!」
カモ、もとい神は、まとわりついてくる黒を必死に振り払おうとしながら叫ぶが、ただただ綺麗なだけの彼になすすべはない。このまま汚されてやがては自我も失い、彼らの養分となるだろう。
――と、そのとき。
路地裏に、突如かぐわしい香りが立ち上る。
神も、神を襲っている不浄の存在達も、はっと動きを止めて新たな気配の方に注意を向けた。
紅葉の舞い散る中、歩いてくるのは女子高生のようだ。セーラー服に黒タイツ、セミロングのポニーテールを揺らしている。
表情はきりりと凜々しいが、顔立ちはかわいい系。アーモンド型の大きな目が印象的で、全体的な雰囲気は落ち着いているのに、童顔のあどけなさがどうにも不思議と艶めいた印象を残す。
彼女は黒い靄を見ると瞳に冷たい色を宿したが、神の方に目を移すときょとんと目を見張った。
「ナギナ。なんだろう、あれ」
つぶやく少女に、どこからかハスキーな声が返答した。
『無力な新米低級神が、妖に襲われている……ってところな気がするわ』
「ってことは、助けないと、だね」
女子高生は手に提げていた鞄を離す。代わりにセーラー服の胸ポケットから、黒い万年筆をすっと取り出した。
彼女がそれを大きく一度振ると、柄は漆黒、刃はほのかに翡翠がかった銀色の長刀が出現する――見間違いでなければ、万年筆が変化したように見えた。
「行くよ、ナギナ。妖は殲滅する。私の前では一匹たりとも逃がさない」
『あいよ、ネコネ。いつも通りに。力みすぎて怪我しないようにね』
少女が語りかけると、呼応するように長刀が震え、刃がきらりと輝きを放つ。どうやら不思議な事に、喋っているのはこの武器のようだった。
彼女が静かな決意を宿した目で地を蹴ると、戦闘が開始される。
腰を抜かし、口をあんぐり開けたままの神の周りで、天敵の気配を感じた不浄の存在達が羽音を立て、迎撃姿勢に入るようにぐにゃんと姿をゆがませた。
しかし、彼女は強かった。踊るような美しい動線を描いて長刀を振るい、危なげもなく黒の塊達を斬っていく。動く度に落ち葉が散り、はらりひらりと舞ってまた落ちていく。
女子高生が鮮やかに場を制圧するまでのわずかな間、窮地を助けられた神はこんなことを考えていた――。
(パンツ、見えそうで見えないであるな)
幸か、それとも不幸か。神に当てる罰はないのだった。
***
数分後。黒い靄はすっかり跡形もなく霧散していた。
一仕事終えた女子高生は、鞄からペットボトルを取り出し、神の頭から中身の水をぶっかける。
「うわっぷ! ……お、おお? 痣が、穢れが消えていくのだ!」
「御神水――まあ、綺麗な水です。奴らに触られてしまったら、こうやって治すといいですよ」
やり方は大分雑だが、妖から助けてくれた上に治療までしてくれたのだ。助けられた方は、驚きから感動に表情を変える。
「感謝するのだ!」
「はあ、どうも。ご無事なようで、何よりです」
「それと、確認しておきたいのだが……そなた、我が見えているのか?」
「ええ、はい。もう、くっきりと。そういう体質ですので」
神的存在、霊的存在、不浄の存在しかり。人間界のものでない何かを感知できる人間は希少だ。その上祓うことに長けた人物が通りがかったのは、不浄の存在のディナーとなりかけていた神にとって、まさしく僥倖に他ならなかった。
しかし目前の脅威がなくなってしまえば脳天気なもの、お礼を言いがてら、ちゃっかりがっしりいつの間にか彼女の細い手を握りしめている。
「これはもう、運命と呼んでいいに違いない――我と結婚を前提に、お付き合いしてくだされ!」
「お断りします」
「何故だ!?」
「いや、私はまだ修行中の身ですし、お話が急すぎますし、というより脈絡なさすぎてちょっと意味がわからないかなと……」
女子高生は愛らしい見た目の割に、妖も神もばっさり斬る御仁であらせられた。
そこで、彼女が片手に握ったままの長刀が大きくぶるりと震えた。
『ちょっと、うちの子に気安く触らないでくれる、チカン!』
「ナギナ。大丈夫だよ、生まれたばかりの神様なんでしょ?」
『ネコネ、最初が肝心よ。甘くしてつけあがらしちゃ駄目よ、こんな奴』
ネコネと呼ばれた少女がたしなめるような声をかけても、長刀は唸るのをやめない。神の方はぴゃっと声を上げたから、首を捻った。
「むむっ。さっきから、気になっていたのであるが、この声は……?」
「ああそうか。あなたも神様だから、聞こえるんですね」
少女は一歩引き(ついでにさりげなく握られたままだった自分の片手も引っこ抜き)、長刀を持ったままぺこりと頭を下げる。
「改めまして。私は妖退治屋見習いの、錬金寧子と申します。奴ら――先ほどあなたに襲いかかっていたような不浄の存在、妖を退治することを生業としています。……まだ、見習いなんですけどね」
「そうなのであるか! 強かったのだ! 尊敬するのだ!」
邪気なく褒められると、照れ隠しなのかぐいぐい来ようとする神への牽制なのか、少女は武器をずいと前につき出す。
「こちらは相棒で、長刀の付喪神の――」
『ナギナよ。所有者の斬りたいものはなんだって斬れちゃうの。すごいでしょ? 敬いなさい』
「そちらのお方は、我の先輩であらせられるか!? 尊敬するのである!」
長刀はまんざらでもないらしく、フンと鼻を鳴らした。少女が一振りすると、万年筆に戻る。世間知らずな神は、この変化の様にも簡単と賞賛の声を惜しまなかった。
そんな彼のことを――見た目だけは息をのむほど美しい男のことを、じっと上から下まで見つめてから、女子高生は首をかしげる。彼女の視線を受けて、神は胸を張った。
「我の正体であるか? 鯉なのである! 鯉の神なのだ! 名前はまだない!」
困惑するネコネの胸元で、万年筆になった付喪神が小さくため息を吐いている。
『まあ、アタシと似たような、長い年月をかけて大切にされてきたか、強い念を込められた物が、神性を帯びるようになったってところでしょうね。だけどあんた、どうしてこんな所をうろついているの?』
「それは……こう。住んでいた所を、追い出されてしまったゆえ!」
『……ネコネ、もう帰りましょうよ。あいつらの気配も失せたし、コイツ一人でも大丈夫でしょ。こんな見るからにボンクラな奴、どうせろくでもないことをして叩き出されたに決まっているわ』
「違うのであるよ!?」
ナギナの方は明らかに神を歓迎しておらず、今すぐにでも関わり合いをやめたいとでも言いたげな口調だった。一方、少女の方はそんな相棒にゆるゆると首を振る。
「そうは言っても、せっかく結ばれた縁を無情に切るのはよくないよ。この神様、生まれたばかりで身を守る手段を一切持たないみたいだし、また襲われでもしたらどうするの? もうすぐ日も暮れるのに。このまま見捨てるわけにもいかないでしょう」
『それは……でもぉ』
「む、我の話であるか? 行く当てはなし、助けてもらった恩を返していないし、ネコネ殿についていく所存でござる! パンツもまだ見られていないのでな!」
さらっとからっと笑った神の前で、女子高生が平常心を貫く一方、付喪神は勝手に胸ポケットから飛び出すと、武器に変化して主の手に収まった。
『ネコネ、やっぱりコイツ斬ろう。既に不浄の存在だわ、退治すべき相手だわ。ちゃっかりあだ名呼びしてる時点で許せない上に、パンツ――パンツですってえ!? お里が知れるってかそういえば元は魚類なんだったっけ、アタシだって、そういうあれこれは遠慮してるって言うのに!』
「落ち着いて、ナギナ。あなたの刃は、人間にとっての悪を切り裂くためにあるのでしょ」
『コイツ、現時点で十分害悪じゃないのよ!?』
「我、悪い神様じゃないであるよ!」
「ポンコツなだけだから、多目に見よう、ナギナ。それに私、見えても問題ないよ。いつでも戦闘できるように見せパンだもの」
「ぐぬぬ……いやでも、それはそれでありな気がしてきた――」
『アンタ達、いい加減にしなさーい!』
夕暮れ時の路地裏に、これからの気苦労が確定しつつある付喪神の絶叫が響き渡る。
退治屋見習いと、ポンコツ放浪神、それからお目付役の付喪神の奇妙な共同生活は、こうして始まることになったのだった。
***
「いいですか。これはあくまで仮の措置、あなたが次に落ち着ける場所を探すまでの間ですよ。私もお手伝いしますから、ちゃんと自分で自分の居場所を見つけるんですよ」
女子高生がきりりとした顔で言うと、神も一応は神妙な顔で頷く。
見た目からしていかにもすぐ倒壊しそうな安アパートは、いわゆる1kと呼ばれる典型的一人暮らし用賃貸の間取りだ。ネコネに続いて入ってみれば、彼女の他に人の気配はない。
「ネコネ殿は、まだお若い方とお見受けしたが。ご家族はいらっしゃらないのであるか?」
「……修行中の身ですから、一人暮らしなんです。そっちの方が色々と都合がいいですし」
一瞬ネコネが硬直したことに、きょろきょろ物珍しげに室内を見渡している神は気がつかない。
「と、いうのは――あれ、ネコネ殿? お話ししてくれないのであるか? 我、もっと聞きたいことが――」
『はいはい。ネコネは退治屋見習いだけど、それ以上に【触れる】人だから、あまり他人と交流を持ちたがらないのよ。【見えない】人と一緒にいると、巻き込んじゃうからって』
無知な神が顔に疑問符を浮かべて期待の眼差しを向けると、奥に引っ込んでしまったらしいネコネの代わりに、神の側に置き去りにされた万年筆が解説を始めてくれる。
曰く、神のような異界の存在を認識できる人間の事を【見える】人と呼び、さらにその中でも強い力を持つ人間を【触れる】人と呼ぶ。
ざっくり言うと、見える人は単に見えているだけだが、触れる人は見えている相手に干渉が可能になる。意思疎通や、文字通り触れる事が可能、というわけだ。
しかし、非日常の存在にそこまで干渉できるということは、逆に日常を浸食されやすいと言うことでもある。
『【触れる】力は諸刃の剣よ。たぐいまれな退治屋としての才能も秘めているけれど、妖にとって何より美味しいごちそうにもなるし、【見える】人よりずっと襲われやすくもある。ネコネは退魔の香を身につけているから、それで向こうからは多少見つけ辛くなってはいるけど』
「ははあ、ネコネ殿から立ち上るかぐわしい香りには、そんな効果があったのであるか……ってなんで叩くのであるか、先輩!?」
『邪念成敗よ! なんか言い方がいやらしいっ』
万年筆に飛びかかられて、神はひゃっと頭を押さえる。
「ナギナ、ほどほどにね」
一瞬だけ姿を消していたネコネは、どうやら着替えをしていたらしい。セーラー服からジャージに姿を変え、はたきを持って出てきた。
「ネコネ殿――」
神は彼女の姿を見ると嬉しそうに声をかけようとしたが、彼女が掃除をしている小机の様子に気がつくと言葉を止めた。
そこには仲睦まじく笑う、四人家族の写真が飾られている。
そのうちの一人、女の子は見た目からして、昔のネコネなのだろう。今のクールで無表情が板についた様子とは違い、屈託なく笑みを見せている。
ネコネの隣でどこか気取ったすまし顔をしているのは彼女の兄で、子ども達の後ろで優しそうな顔をしている大人二人は両親と見た。顔立ちや雰囲気が似ていて、いかにも血縁を感じさせる。
ところがその幸せそうな写真の前に、これまたこぢんまりした花瓶に入れられた野草、菓子、コップに入った水が供えられているのだ。ろうそくと線香には今、埃を払い終わったネコネが火をつけた。
「お父さん、お母さん、お兄ちゃん。少しの間住人が増えますが、よろしくお願いします……」
声なく見守っていた神だったが、はっと我に返った。どしどし音を立てながらネコネの隣にやってくると、勢いよくパンと両手を叩く。
「初めまして、なのだ! 娘さんにはとてもお世話になったのだ! 我が責任を持って幸せにするから、安心するが良いのだ!」
ネコネはちょっと驚いたように神の方を振り返ったが、彼が存外一生懸命唸りながら手を合わせているのをみると、ふっと表情をほころばせた。
「そうだ。お茶でも出しますね、神様」
キッチンの方に彼女が姿を消したのをみはからって、万年筆姿の先輩がひそひそ声で後輩に話しかける。
『ふむ。どう見ても世間知らずなボンボンって見た目だけど、仏壇の事ぐらいは知ってたか』
「前の家で見たことがあるのだ」
彼はひそひそ元気よく答えてから、一転してトーンを落とし、どこか寂しげな表情を埃一つない簡素な仏壇に向けた。
「あちらの方がずっと豪華で派手だったが……手を合わせる人が真に思ってくれるかどうかで、ここまで差が出るものなのであるなあ。物だけ立派でも、逆に空しいだけなのである」
『アンタ、それって――』
「あっネコネ殿! 我は熱いの苦手ゆえ、ぬるめがいいのであるー!」
ネコネが戻ってくると、神は瞬く間にお調子者の状態を取り戻し、入れてもらえた茶の温度について注文をつけている。
するとナギナもそれ以上は追求しかねて、はあとため息を漏らすのみであった。
***
「先輩! 我、この数日間ネコネ殿を見守っていて気になったことがあるのである!」
『何よう、居候のくせになんか文句でもあんの』
神がネコネの家に上がり込んでから数日後のこと。
普通の人間には姿が見えないのをいいことにネコネのストーカーに励んでいた神が、帰ってきた彼女が風呂に入っているのをチャンスとばかり、先輩付喪神にこっそり話題を振った。ナギナの冷たい声を受けると一瞬ひるむが、意を決したらしく、ひそひそ声で続きを話した。
「いやその、確かに新参者が言うことでもないのかもしれぬが……ネコネ殿、いくらなんでも少々孤立しすぎなのではないか? 花の女子高生が、花園であろう女学校に通っていて、放課後つるむ相手や手紙友の一人もいないどころか、学校で事務連絡以外口を開く相手がいないとは!」
『手紙友て、アンタ……いや言いたいことはなんとなくわかるけど、今時メル友すら言葉として古い時代の新米神なのに、そのボキャブラリーセンスはどうなの……?』
「つ、通じるならいいではないか! それより、いわゆる学生の本分である勉学については確かに問題なさそうであるが……いくらなんでも友達いなさすぎなのである。ネコネ殿はぼっちなのであるか? それなら我、初めての男になることもやぶさかではないぞっ!」
『内容自体は言われても仕方ないことだと思うけど、なんか無性に腹立たしいわねえ、アンタにそのフレーズを言われると! あと初めての男友達でしょ、省略するなっ!』
先輩付喪神はイラッとした声を出したが、神が話題を引っ込める気がないと悟ると、渋々言葉を続けてくれる。
『もうアンタも薄々察してるでしょうけど。あの子、小さい頃に妖に襲われて、家族を亡くしているの。それから色々あって、退治屋の師匠――あ、アタシの前のご主人でもあるんだけどね、今はどこをさまよっていることやら――に、才能を見込まれて引き取られたわけだけど。厳しい修行にも泣き言一つ言わず、ずっと妖退治に人生を捧げてきたわ。学生はあくまで世間体のための仮の姿ってね』
万年筆は水音のする方に憂いの顔を向けた――ような気がした。どこを向いているのかわからないのだが、こう、雰囲気として。
『そもそも、アタシに心を開いてくれるまでにも時間がかかったのよう。戦いは一人でいい、って突っぱねてね。師匠が荒療治をして、ようやくアタシともまともに話をしてくれるようになった。それからはいい相棒だけど……きっと、もう一度誰かを失うのが怖いんでしょうね。だから学校でもどこでも、あの子は人を遠ざけることはあってもけして近づけたがらな――って、なんでアンタが号泣してんのよ!?』
いつの間にか、ずびーっと思いっきり汚い音を立て、だばだば涙やら鼻水やらを垂らしていた新米神に、付喪神はドン引きする。神は醜い顔のまま、すたっと立ち上がった。
「ネコネ殿ー! 我はやっぱり、ネコネ殿を幸せにしてみせるのであるー! 我が寂しいネコネ殿を満たしてみせるのであるー!」
『どさくさにまぎれて風呂場にしけこもうとするなっ、このエロ神がっ!』
「ぐはっ」
万年筆は弾丸のように不埒な神のこめかみに突撃し、悶絶させる。一瞬新米のことを見直しかけた付喪神だが、やっぱり油断するとろくなことをしない、と駄目っぷりを噛みしめてため息を落としたのだった。
***
神はお気楽でお調子者で、ネコネにまとわりついては騒ぎを起こす。
その過程で妖を引き寄せたり襲われたりもするので、妖絶対殺す少女であるネコネにとっては、都合がいいという解釈もできるが。
「あなたが来てから本当に、毎日退屈しませんよ……」
「そうなのか、よかったである!」
「褒めてません。いつになったら落ち着くところを見つけるんですか。というかそもそも、ちゃんと行き先探すつもりあるんですか。このままずっと家に居座るつもりじゃないでしょうね」
『今更過ぎるわ、ネコネ……』
何度目のことだろうか。今日も今日とてふらついて襲われた神にむらがった妖を追い払った後、もはや恒例行事化しているインスタント浄化タイム中に、珍しくネコネが小言を発する。彼は未だ痣の少し残る顔で、にっぱりと歯を見せた。
「我は、寂しい人を幸せにするために生まれてきた神様なのだ。だからネコネ殿が寂しいうちは、出て行くことができないのだ。ネコネ殿を幸せにして、これまでのご恩返しをしたら、次の寂しい人を探しに行くのだ!」
「余計なお世話です。あなたを助けたのはあくまで仕事の一環。変に重たく感謝されても、迷惑なだけです」
トラブルメーカーの神に、さすがの彼女もちょっと疲れてきたのか、毎度起こされるトラブルにイラッときていたのか、いつになくふてくされ気味だ。
普段がポーカーフェイス気取りのクールな無表情であることが多いため、ふくれ面をしていると年相応に愛らしいのだが。
「それに、ただの鯉のくせに、人を幸せにするだなんて」
「ただの鯉だから、なのである」
ぽそっとつぶやいた言葉に、思いがけず真剣な調子の声が返ってきて、ネコネは思わず彼を見た。着流しから足がはみ出るのも頓着せず、大胆にあぐらをかき、御神水を顔に塗りたくっている様はまさに、水もしたたるいい男。
「無力で、無害で、話ができないから嘘をつきようがない。そんな存在にしか、心を許せぬ人がいた。そんな存在にしか、本当の願いを言えぬ人がいた。他愛もない願掛けであるよ。仕事一徹、冷徹な成り上がりと呼ばれていた男が、こっそり池須の鯉に餌を撒きながら、どうか家族が健やかで幸せでありますように、どうか自分が築いたこの財が末永く子孫まで幸をもたらしますように――と、毎日言っていた、ただそれだけの話だ」
言動はともかく、見た目は本当に綺麗な神なのだ。真顔になると、奇妙な迫力がある。ネコネどころかナギナまで、息を呑むように黙り込んでいる。
「だが、我は、我だけは、あの人の本音を知っていたから……叶えてあげたいと本気で思ったし、叶えられるのは自分しかいないと思った。結局彼の死後、すぐに鯉の住む池は潰されてしまったのであるがな。家庭を顧みなかった父を、息子殿は許せなんだし、その父が可愛がっていた鯉のことも憎悪の対象であった」
彼女を見守る表情は、普段のポンコツぶりからは想像もできないような、威厳と慈愛に満ちている。
「なあ、ネコネ殿。神はな、信じる人しか救えないのだ。守りたい人に出て行けと言われてしまったら、それ以上何もできぬ。ネコネ殿はな。路頭に迷った我を受け入れてくれた人間なのだ。我の存在意義をもう一度くれた人なのだ。我の初めての女子なのだ」
『ちょっと。語弊のある言葉に直すんじゃないわよ』
……珍しく真面目な空気が続いていたはずなのに、雲行きが若干妖しくなってきた。
ん? といぶかしげに首を傾げるネコネと、さりげなく臨戦態勢になるナギナである。
神はすっと、至って自然な動きでネコネに向かって手を伸ばそうとし――。
「だから、我は必ずネコネ殿を幸せにするのである――」
『どさくさに紛れてちょっかいかけようとするんじゃないつってんでしょーが!』
「あいたっ!」
――自分で動いた長刀の柄でごちんと頭を殴られ、うずくまった。
ネコネはかっくりと脱力するが、いつもは強張って動かない自分の頬が緩んでいることに気がつく。
(……守りたい人、か)
神と長刀の喧噪は、不思議と耳に心地いい。
ネコネはしばらく、二人の言い争いをうっすらと――それでもちゃんと微笑んで見守っていた。
***
季節はすっかり秋から冬に変わっていた。
終業式が終わって家に帰ってきていたネコネは、夕方も過ぎて夜になると、急にナギナと物々しい外出準備を始め出す。いつも通り二人の後にくっついていこうとした神は、一人居残りを言い渡されてショックを受けた顔になった。
「ええっ、我は留守番であるか!?」
「冬休み前の最後の一仕事ですよ。年末は少しでも心穏やかに過ごしたいじゃないですか。あといつもはあなたいちいち勝手な事しますから目を離さない方が安全ですけど、今回だけは規模が違うので真面目に安全地点にいてください」
『そうよぉ、年末最後の大掃除! 足手まといはお家に引っ込んでなさい。アンタ、荒事で役に立ったことないどころか、普段だってアタシ達の周りで遊んでるだけ、御利益があった試しがないんだから』
口々に言われ、神はぐぬぬと悔しそうな顔になったが、内容に心当たりしかないから言い返せないのだろう。涙を滝のように流しつつ、玄関で見送ることになる。
「ネコネ殿ぉ、早く帰ってくるのであるぞ! でないと我、新作ゲームを勝手に進めて最後までクリアしてしまうであるからな! 二週目までフルコンプするであるからな!」
『普通に留守番満喫するつもりじゃないの!?』
「ネタバレしないことと、私のデータに上書きしないことが守れるならいいですよ」
「合点承知なのである!」
『ネコネ、だから甘やかさないのっ!』
いつも通りのやりとりをはさみつつ、家の扉を外から閉じた瞬間、ネコネの表情が鋭く引き締められる。
『久しぶりの大捕物よ。慎重に、かつ大胆にね、ネコネ』
「うん」
今日の退治の目的地は、ネコネの通っている女学校だ。
古くは師走と呼ばれたぐらいだ。この時期になると毎年人々の気配が騒々しくなり、それが少々物騒な雰囲気に進化することもままある。
今年は特に雰囲気が悪くなる一方なのをネコネもナギナも心配していたが、先日ついに大物が現れた痕跡を見つけてしまったのだ。
妖という存在は、人の大勢いる時間帯――昼間は身を潜めている事が多い。健やかな人間の生命力は、非日常を遠ざけるためだ。
けれど、あまたの人の中に、病んでいる者や、負の感情をため込んでいる者が混じっていれば――その数が多ければ多いほど――妖は影響力を拡大することができる。そのうち、普段ならとても干渉できないような、普通の人間にも。
『天候不順や事故の多発に加えてインフルエンザもあったせいかしら。急成長してきたわね。この辺りで叩いておかないと、もっとひどくなりそうよ』
「よりによって私の学校で、なんて……絶対に、駆逐する」
ネコネはすっかり人のいなくなった校舎を見上げる。夕闇の中に溶け込んだ姿は、見慣れている建物のはずなのに――妙に、まがまがしい。
『気をつけて、ネコネ。建物全体から気配がするわ』
「大元は?」
『屋上』
「ここから一気に飛ぶのは、さすがに難しいかな。それに、どうせ校舎にたむろしてる奴ら、皆倒さなきゃいけないんだし」
『無理する必要ないのよ』
「でも、私がやらなきゃまた誰かが犠牲になる。……もう、誰も泣かせないって決めたの」
甘やかで、それでいてさわやかさをも感じさせる独特の香りが辺りにくゆる。ざわめきはけして風のせいだけではないだろう。いつも強気なネコネの表情が珍しく曇った。
「……できる、かな」
『できるわよう、自信持って』
相棒の激励を受けると、彼女は胸ポケットから万年筆を引き抜いて、一振りで長刀に変化させる。
「――正面突破、する」
『大丈夫よ相棒。アタシはアンタを一人にしないから!』
柄の先端で校門を突くと、糸がほどけるようにたやすく道が開かれる。
侵入者に気がつき、一斉に四方八方から向けられた敵意の中を、ネコネは軽やかに駆けだした。
***
『ネコネ、上っ!』
長刀を旋回させると、確かな手応えと共に、異形の霧が悲鳴を上げて霧散する。
ナギナの鋭い切れ味が、妖を斬っただけでなく、壁にひっかき傷を作るのを見て、ネコネは顔をしかめた。
「建物内は、どうしても長物は不利だね……すごい強度と切れ味なのはいいけど、バレたらまた師匠にどやされるっ――」
『お褒めにあずかりましてどうも。命に比べりゃ安いもんよ、全部終わったら直しましょ。さあ、まだまだ来るわよ!』
前方に広がった黒い塊を斜めに切り下ろし、開いた前方を駆け抜ける。ようやくたどり着いたらせん形の階段を駆け上がっている最中にも、雑魚は襲ってくるのをやめない。
「一つ一つは大したことはないけど、ここまで連続なのは久しぶりっ……」
『頑張って、もうすぐ屋上よ!』
額に軽くにじんだ汗をぬぐう暇もない。ネコネは一瞬浮かんだ弱気を振り払うように首を振り、勢いよく扉を開けた。
冷え切った外気が吹き付ける。屋上は暗闇に包まれていた。じんわりとした嫌な気配が立ちこめている割に、すぐに飛びかかってくるものがない。
先ほどまでの、長刀を少しでも振るう手を止めれば危うくなりそうだった喧噪とは打って変わって静かだが、それが逆に不気味で仕方ない。
ネコネはぐっと長刀を握りしめたまま、星の見えない屋上に、一歩、二歩と足を踏み入れた。
背後で風も吹いていないのに、勢いよく扉が閉まる。
待ち構えていたネコネは素早く振り返って長刀を構えたが、思わずそこでぽかんと口を開けてしまう。
何せ、そこに立っていたのは、ポニーテールにセーラー服、黒タイツで長刀を持つ女子高生――。
ネコネに瓜二つの少女は、呆然としている敵と目が合うと、愛らしく微笑んだ。その口元がぐにゃんと弧を描き、一気にまがまがしい物に変わる。
『ネコネ!』
相方の呼びかけではっと自分を取り戻したネコネは、飛びかかってきた敵の一撃をナギナで受ける。鍛練を重ねてきた身体は、思考が鈍っても素早く動いて迎撃を開始した。
人型を取るほど力の強い妖は、これまでも相手にしてこなかったわけではない。だが、今回のものは、何かが違う。この不気味な得体の知れなさはなんだろう?
嫌な予感に冷や汗がにじみ、ネコネはぎゅっと信頼できる相棒を握って構え直した。
「ナギナ、早めに勝負をつける!」
『オーライ!』
しかし、二人で気合いを入れたにもかかわらず、戦いは長期化した。
虚を突かれた初撃以降、ネコネが技量で後れを取ることもなかったが、逆に突破口も開けないのだ。
そっくりな動きをする相手は、まるで鏡写しのようにネコネと同じ技を繰り出し、打ち消してしまう。
奥の手に放った大技すら真似されて、ネコネは自失しかけた。
『止まったら駄目、動き続けて!』
相棒の声でなんとか慌てて長刀を振るが、動きが精彩を欠き始める。
持久戦に持ち込まれると、人の身であり先ほどまで連戦を繰り広げていたネコネの方が、明らかに不利だ。
『焦らないで、ネコネ――』
ネコネがいらだちに眉を寄せ、彼女の不調に気がついたナギナが呼びかけた瞬間、ぎらりと妖しく偽物の目が光った。
一気に間合いを詰めた相手は、自分の長刀を捨てて退治屋見習いの少女に飛びかかる。
長刀同士、それも自分と同じ動きで戦う事に無意識に慣らされていたネコネは、予想外の攻撃手段に反応が遅れる。
柄で防御しようとしたが間に合わず、すくい上げるように繰り出された妖の掌底が顎を捕らえ、刈った。
「うぐっ――!」
『ネコネ!』
咄嗟に舌を噛まなかったのだけは救いだろうか。
殴り上げられて、ネコネの身体が浮き、意識が飛びかける。
地面に落ちたときかろうじて受け身は取れたが、堅いコンクリートにぶつけられた身体は衝撃を逃がしても痛みを訴えている。
『しっかり!』
相棒の呼びかけに、必死に立ち上がろうとするが、脳が揺れてうまく頭が働かない。
うめきながら起こそうとした身体が、背中から突き飛ばされた。
続けて強く背面を踏みつけられる感触がして、ネコネはうめく。
「あなた、おいしい、におい」
大きな三日月型ににんまりと口をゆがめた偽ネコネが、舌なめずりをしながら獲物を見下ろす。
『アタシのご主人様に何すんのさ――ぎゃっ』
少しだけ離れた場所で、主を守ろうとした長刀がバキリと音を立てて悲鳴を上げるのが聞こえた。
ネコネの手に収まっている間と手から離れてしまっている時とでは、ナギナの発揮できる力は大きく異なってくる。
ネコネが手探りで柄を、刃を探しても見当たらない。顔を上げようにも、踏みつけられていて動けない。
「おいしそうな、ひと」
「けんこうそうで」
「しあわせそうで」
「わたしたち、こんなにもふこうなのに」
「びょうきなのに」
ネコネの姿を借りた妖は、口々に違う声で謳うように囀っている。
ようやく、得体の知れない敵の正体の片鱗がつかめたかもしれない。
この妖は、力を得ている割に知的でなく、しかしどう見てもただの黒い靄とは明らかに違う戦闘力を誇っていた。
――話にだけ聞いたことのあった、妖の集合体。
たとえば、小鳥が集団で空を飛ぶように、魚が集団で海を泳ぐように、草食獣が群れをなすように。
妖とは、飢えれば何の躊躇もなく互いに食い合う程仲間意識のない存在だが、時に奇妙に群れ――そしてそのまま進化することがある。
(こいつは、群れという個体だ。一体の強力な相手を前にしているのとは違う。何体も相手にしながら、一体としても扱わなければならない――そういう、奴だったんだ)
『ネコネ――!』
朦朧とする中で、懸命に呼びかけてくる相棒の声が聞こえる。
なんとかしなければ、立ち上がらなければ。こういう悪意の塊を、不幸を引き寄せ、招く存在をこそ、祓っていくと決めてここまで来たのではないか。
かすむ視界の端で、がばりと妖が口を開けたのが見えた。
人の顔以上に膨らんだ醜悪なそれは、ネコネに向かってまっすぐ降りてくる。飲み込まれたら、ひとたまりもない。
(ここまでか……こんなところで、終わっちゃうのか、私。結構頑張ってきたつもりだったのになあ)
ぎゅっと目を閉じると、走馬燈だろうか、今までのことが頭の中をよぎる。
記憶の彼方の家族。
師匠の修行の日々。
ずっと一緒にいてくれたナギナ。
――帰りを待っている、神様。
「ネコネ殿っ!」
幻覚だろうか。しかし耳裏に響いたそれは、彼女に思わぬ力を宿した。
(まだだ――まだ、終われない!)
ネコネが闘志を再び燃え上がらせたのと、妖が奇妙な声を上げてよろめいたのは同時だった。
「――お?」
「なんだ、なんだ」
「かゆいぞ」
『ネコネ、今よ!』
妖が混乱している隙に、緩んだ力の下から抜け出した彼女は、素早く周囲の地面を見回し、声を頼りに相棒の元まで転げるようにたどり着く。再び握りしめた長刀の刃が放つ光が心強い。
膝を立て、顔を上げたネコネは、驚きに目を見開いて固まった。
「ネコネ殿から離れるのだっ、触っていいのは我と先輩だけである!」
叫んでいる男の簪でまとめていた銀髪はほどけて乱れ、緋色の着物もぐしゃぐしゃになって、初めて会ったときよりも更に酷い格好だ。
それでも紛れなく、あの見た目だけ美しくて特に何の力もなく役に立たない神様が、今ネコネの形の妖を羽交い締めにして、必死に彼女から引きはがそうとしている。
「神様っ――何してるんですか!?」
『馬鹿、アンタ、もういいわよ! 離れなさい!』
ネコネも叫んだが、ナギナも状況を把握するときんきん声を上げた。
神様は、早くも痣に浸食されつつある美しい顔をネコネに向けて、邪気のない笑顔を浮かべる。
「ね、ネコネ殿――我が、こうやって押さえているのである。このまま、斬るのである!」
「な、何を馬鹿なことを言って――」
「じゃま」
あ、と声を上げたのは、神の方か、ネコネとナギナの方か。
緋色の着物に、妖の背から伸びたトゲのような塊が突き刺さっていた。神様の腹を、背中にかけてすっかり貫通している。
「神様!」
彼はにわかに顔色を悪くし、聞き苦しい音で咳き込んだが、それでも妖を離さなかった。
今やネコネから神の形に変わりつつある人型をしっかり背後から掴んで、ネコネに向かって叫ぶ。
「早く、ネコネ殿」
「なんで――」
「我は、幸福を呼ぶ、守り神だからであるっ――」
再び、妖の変形した身体が神の身体を貫いた。神は妖を離さない。ぐっと泡のにじんだ口角をゆがめ、踏ん張っている。
「何の力もない我でも、ようやく少しは使い物になる機会が巡ってきたのである。逃すわけにはいくまい。さあ、ネコネ殿! やれ! 鯉はまな板の上であるぞ! 料理をするのだっ!」
妖がいらだたしげに変形を繰り返し、神を引きはがそうとしている割にネコネの方に攻撃が来ないのは、神がなけなしの力を振り絞っているからなのか。
いずれにせよ、ネコネは決断を迫られていた。
今までに相手にしたことをない敵を前に、弱りかけている仲間を前に、弱った身体と、弱った武器で。
だが、彼女に今までの弱気はなかった。血のにじんだ唇を舐める。瞳には強い光が宿り、握りしめた手にはこれまでにない力がこもっている。
「ナギナ。ヒビが入っちゃって早く休みたいだろうってところに悪いんだけど。もう一発だけ、耐えてくれる?」
『全然余裕っ――』
相棒はギシリと不穏な音を立てたが、返事は変わりなく心強かった。刃が強い輝きを放つ。
退治屋の雰囲気の変化を感じ取ったのだろうか、先ほどまでの余裕はどこへやら、今や必死に逃げ出そうともがいている妖の向こうで、目が合った神様が笑った。
痣だらけで酷い有様になっても、彼の笑顔は変わらない。屈託亡く、一点の曇りもない――彼女を信頼しきった瞳。
退治屋見習いはすうっと息を吸い、暴れ回っている標的を見る。凪いだ気持ちだった。
「もう、見失ったりしない、忘れたりしない。二度と失わないために刃を振るうと誓った――ナギナ、お願い! 私に大切な人を守る、守り抜く力を貸して!」
『もちろんよ――相棒!』
息を吸う。演舞を行う時のように、静かに、優雅に、刃を構え、二つの力を一つに合わせる。
「信じる力を、刃に変えて――奥義【明鏡止水・斬】!」
くるりと刃が回転し、遠心力を持ったまま斜めに振り下ろされた。
そこにさらに、ネコネ自身の異界の者に触れる力と、ナギナの「斬りたいものを斬る」力を乗せる。
二度目の奥義は重かった。二人分――いや、三人分の、もっとそれ以上の、想いを背負っていたから。
ぱっくりと、袈裟斬りに振るわれた刃の動線通り、妖の身体が真っ二つに割れた。
耳障りな異音を上げ、断面から飛び出た蝿の群れのような黒い塊達が逃げ場を探すように空に向かう。
けれどそれも、一瞬のこと。
突風が吹いて、止む頃には黒い塊は跡形もなく消え去っていた。
後には、尻餅をついて惚けた顔で瞬きをする神と、ぼろぼろの制服の女子高生、それにヒビの入りかけた長刀が残される。
「――えっ、あれ? わ、我、一緒に斬られたはず、では」
「最初に説明しませんでしたか? ナギナは所有者の斬りたいものだけ斬るんですよ。持ち主との高い信頼と共鳴が、必要ではありますが」
ネコネは微笑み、足を引きずりながら歩み寄って、手を伸ばした。
「さあ、たくさん汚れてしまいました。早く帰って、癒やしちゃいましょう」
『ほんとよう、今日は散々だったわ。ぼさっとしてないで行くわよ、ポンコツ神』
口々に言われると、神はあっけにとられた顔をしてから――涙を浮かべた、初めての笑顔を二人に見せる。
空はようやく、長い夜を越えて明るくなってきていた。
***
『で、結局そのまま居座ることになったのよねえ……』
数日後。
すっかり元気になった神が、ネコネの自宅でテレビに熱中している様子を前に、万年筆姿のナギナがいかにも不満たっぷりな声を上げた。
「そんな声出さないの。ナギナだって一度はいいって言ったじゃない」
『そうだけどぉ。あのときは身体張ったから、ちょーっとだけ見直しそうになってたのよう。結局何が変わるわけでもなし、相変わらずただ見た目が綺麗なだけのポンコツなんだもの……』
調子を取り戻した神は、ナギナの呆れを気にかけもせず、ネコネにべったりつきまとい、幸せにするだの役に立つだの豪語しては足手まといになり続けている。
『ネコネ。アンタが将来駄目男に引っかかりそうで、アタシはとっても心配だわ。というかもう、手遅れな気がするわ……』
「なんだ、我の話か? ネコネ殿はたった一人の信者だからな! 我は力一杯、報いていくつもりだぞ!」
ナギナとネコネが後ろで話しているのが気になったのか、神はくるりと振り返ると機嫌良く喋っている。
「別に信者になったつもりはありませんけど、あなたが妖に襲われたら守るのは私の役割ですから。視界の範囲内にいてくださいね、リューリ様」
ため息を吐きかけていたナギナも、再びテレビのバラエティ番組視聴に戻りかけていた神も、ネコネの言葉にびたっと止まった。
「……リューリ様?」
「いつまでもただの神様じゃ味気ないでしょう。龍と鯉で龍鯉様。どうです?」
『龍はどっから来たのよ』
「そのうちいつか、滝登りしてくれないかなって期待を込めて」
『馬鹿ねえ、鯉は死ぬまで鯉よ……』
肝心の神様本人は黙りこくってぶるぶる震えていた。のんきに会話していた二人だが、もしや気に入らなかったのか、と心配そうに顔を見合わせる。
しかし、顔を上げた神の顔が歓喜で涙と鼻水まみれなのを見るやいなや、杞憂だと悟った。
「ネコネ殿ーっ、愛しているのだー!」
『だあああ、離れなさい、このポンコツ!』
「幸せにするのだー!」
抱きつこうとした神を、瞬時に長刀化したナギナが阻み、二人は押し合いへし合いをしている。
それを見て、ネコネは彼女にしてはとても珍しく、声を上げて笑った。
ひょんな縁から突然上がり込んできたダメダメの神様が、この先本当に福を呼んでくる守り神になるのかは、ともかく。
ネコネの年末と新年は、いつになく明るい空気の中で迎えられそうだった。