アクアツアーの池に死体を沈めた結果
バールで後頭部を一撃すると、人は木偶人形のようになる。
地に倒れ伏した彼女の背に、俺は無我夢中で跨って首にロープを巻き付けた。
目を瞑り大きく深呼吸。
そして、全力で絞め上げる。
びくんと身体が跳ね、たちまち激しく暴れ回る。まるでロデオだ。振り落とされないよう必死でマウントを維持し、祈るような気持ちで更に腕に力を込めてゆく。
早く逝け。くたばりやがれ。
汗と熱気とアンモニア臭が立ち込める、永遠かに思えるわずかな時を経て、不意に抵抗が止んだ。
恐る恐る目を開ければ、そこには泡を吹いて昏倒する死体があった。
「お前が悪いんだからな」
口をついて出た言葉は、他人に言わせれば詭弁なのだろう。
けれど、俺は心底そう思っていた。
何もかもこいつが悪い。この性悪女の行動が、俺に殺人を決意させたのだ。
――女との関わりは、職場の先輩後輩として始まった。
入ってきた時から失敗ばかりしている奴で、正直言ってまるで使えなかったから、放っておけばさっさと辞めていたのだろう。
けれど、気弱そうな女が落ち込んでいる姿に妙な仏心を起こしたのが運の尽き。
何度となくフォローしてやっていたらすっかり懐かれてしまい、やがて男女の関係になったのだ。
それが間違いの元だった。
付き合い始めて間もなく、女はやたらと俺を束縛するようになった。
仕事の無い日は常に一緒に居ることを強いられ、どうしても会えない日は定期的にメールを入れることを強要、うっかり忘れでもすれば抗議の電話が何度でも何時でもかかってくる。
嫉妬深さも相当のもので、女友達との交流はもちろん同僚の女性と話していてもしつこく詰問される。いや、自分がされるだけならいいが、その相手へと抗議に行くからたまったものではない。当然、俺は火消しに回ったが、それがまたあの女の癇に障るらしく酷い喧嘩になった。
そんなことが続き、もうやっていけないと別れ話を切り出したら、あいつは見事にストーカーと化した。
大量のメールや着信攻勢から始まり、自宅や外出先で待ち構えているなどの付き纏い、ゴミを漁られたりもあった。頭にきて文句を言うと、誹謗中傷をネットやビラでばら撒くといった陰湿な嫌がらせをするようになった。
警察はろくに動いてくれなかった。直接危害を加えてくることはなかったし、こっちが男で相手が女だってのも大きかったんだろう。
参ったよ。
本当に一杯一杯で参っていた。
それで、女から逃げるには手段を選んでいられない、なんて思いを抱くようになってしまったんだろう……。
俺は女とヨリを戻すと、夏休みに旅行へと連れ出した。
途中、肝試しと称して有名な心霊スポットの裏野ドリームランド跡に立ち寄り、人気のない廃墟で殺してしまうつもりだった。
そして、大きな池の前で俺はとうとうことに及んだのだ――
大きく溜息をつくと、俺は死体の後始末を開始する。
リュックサックから取り出した寝袋へ死体と凶器を入れ、更に拾ってきた小石や瓦礫を詰めて重しとしてから、池の中へと投棄したのだ。
この池はかつてアクアツアーなる娯楽施設に使われていたようだが、今や水草が生い茂り水も酷く澱んでいるため、捨てた死体が見つかることは当分ないだろう。
ぼこぼこと泡を立てて沈みゆく死体を見詰めながら、これでようやく全てが終わったのだと俺は思った。心のどこか冷静な部分は、違う意味で終わったのではないか、などと言っていたが努めて無視した。
その時だ、水面がざわりと揺らいだのは。
初めは鯉でもいるのかと思ったが、それにしては少々揺らぎの程度が異常な気がした。そういえば、このアクアツアーには謎の生き物の影が見えるなんて話があったはずだが、本当に何かがいるのだろうか。
食い入るように池の中を覗き込むと、水面にぷかりと仮面が浮かんでいるのに気付く。おそらく能面だろうそれは、アルカイックスマイルを湛えた不気味な男性の顔をしていた。
『――大儀であった』
突然、荘厳な声が響き、俺はとっさに辺りを見回すが、もちろん誰かがいたりはしなかった。
不思議と理解していたのだ。声は頭の中に響いたもので、語りかけてきたのは仮面であるということを。
『贄の奉納、まっこと大儀であったぞ』
声の主はどうやら俺を称賛しているらしく、訳が分からない状況下でも不思議と恐怖は感じなかった。
だから、素直に思った事を口にできたのだろう。
「あなたは何者ですか?」
『これは異なことを。其の方は我を祀ったわけではないのか?』
「違います。残念ながら」
『ふむ、そうか。生贄を寄越すとは感心な者だと思ったのだが……』
「生贄って……。あいつ、まだ生きていたんですか?」
『かろうじて、だがな。しかしそうか、あれは生贄の奉納というわけではないのか』
「あなたは神様や妖怪の類いなんですか?」
『さにあらず、我は神でも妖怪でもない――ということで、口調も平易なものに改めるとしよう。私は遥か昔から、この地で人々の調査をしている存在だ。特に人の生体情報を必要としているのだが、わけあってこの場所を離れることができなくてな。そのため、水神として里人に取り入り、様々な恩恵を与える見返りとして、生贄を手に入れるなどしてきたのだ』
「ひょっとして、あなたは異星人ですか?」
『そうではない。説明しても理解はできないだろうが、次元の異なる世界から来たとだけ言っておこう』
「そんなことを聞かされて、俺はどうなるんですか?」
『私の協力者となるか、お前も生贄になるかだ。どちらを選ぶかね?』
「さすがに死にたくはありません」
『では協力者となるのだ。私は今後も人々の調査を継続しなければならないが、今やこの地を訪れる人は滅多にいないようだからな。今回のように、私のもとに生体を運んでほしい。そうすれば、褒美にお前の望みを叶えてやろう』
「望みを叶える?」
すると、仮面がニヤリと嗤った――ような気がした。
『そうとも、叶えてやろうではないか。まずはお前が心の底から求めてやまない願いをな』
「俺が何を願うか分かっているんですか?」
『ああ、お前の犯した殺人の罪をなかったことにしてやろう』
俺はごくりと唾を飲み込んだ。
『私は貰い受けた生体を吸収分解し、その情報の全てを手に入れている。そしてその情報に基づき、オリジナルとほぼ同一の身体と記憶を持った分身を作り出せるのだ。したがって、お前が殺した女と瓜二つの存在を世に送り返すことで、問題を解決できるということだ。分身は一年もすれば自然死を迎えるが、それまでは生前と全く変わらない振舞いをするし、死体を調べられたところで現在の技術ではオリジナルとの差異など見抜けまい』
「それが本当なら助かります。けど、あいつが単純に生き返ったら困ることになるんですが」
『殺害された記憶程度なら問題なく消去可能だが?』
「それもありますけど、あいつには人格的な問題があって散々迷惑をかけられたので」
『記憶を読む限り……確かに厄介な存在のようだな。ならば、セーフティーを付けておこう。分身がお前絡みのことで危害を加えようとすれば、激しい苦痛に見舞われるようにな』
「ならいいですけど」
『ただし、見返りにお前は私のために定期的に新たな生体を届けるのだ。そうだな、分身の生存限界となる一年置きとしよう。心配せずとも問題にならぬよう生贄の分身もその都度作ってやる。ただし、私を裏切ればお前は破滅だぞ』
「どうなるってんです?」
『それは、その時に分かるだろうさ。くれぐれも、裏切るなよ』
その言葉を最後に、俺の意識は急速に遠のいていった――
――夕方、目が覚めた時に見たのは、俺を心配そうに覗き込む性悪女の顔だった。
実に最悪の体験だが、なんでもアクアツアーの池の前に来たところで、二人して意識を失い倒れてしまったらしく、先に起きた女は俺を膝枕してくれたのだそうだ。
きっとそのせいで、あんな悪夢を見たのだろう。
そう、つまりは夢オチだ。
冷静に考えれば人を殺すなんてとんでもないことだ。確かにそんな考えで頭が一杯になったこともあったが、本当に実行してしまったら絶対に後悔したことだろう。色々と準備をしたような気もしたが、全ては妄想だったのだ。
そんなわけで、俺達は普通に旅行を終えて帰途についた。
だが奇妙なことに、あの女はそれから間もなく退職、恋人関係も自然消滅してしまった。どんな悩みも、片付くときはあっさりと片付いてしまうものだと思いつつ、時の経過とともに俺は女のことも、廃墟での悪夢のことも忘れていった。
それを思い出す羽目になったのは、あの女が死んだとの噂を聞いたからだ。
死因は心臓麻痺で、特に不審な点は無かったそうだ。
だが、俺にとっては時期が問題だった。
それはあの旅行からほぼ一年後に起きており、悪夢の中で仮面の言っていた分身の生存限界と一致していたのだ。
もし仮に、悪夢が現実の出来事であったとしたら、俺は誰かを新たな生贄として送り届けなければならない。そうしなければ、破滅が訪れるという約束になっている。
もちろん、たまたま悪夢をなぞるような出来事があったからといって、真に受けるつもりはない。ヤク中じゃあるまいし、妄想に取り付かれて本当に無差別殺人をしでかすわけがない。
そう思ってはいるが――最近、少し気になる話を耳にした。
同僚が見かけたと言っていたのだ。
死んだはずのあの女が、街を徘徊しているのを。
もちろん、他人のそら似に決まってるんだが、見かけたという奴が一人や二人じゃなかったので、さすがに気になってしまったわけだ。
いや、実のところ……最近、身近でもおかしなことはあった。ゴミが漁られていたり、携帯の着信履歴に公衆電話からのものが大量にあったりだとか。こんなことを言うのは不本意だが、覚えのある誰かの視線を感じる気がしてならない。
なんて……馬鹿馬鹿しいな。
現実にそんなことがあるとしたら、事情を知る連中が寄ってたかって俺を脅かそうとしてるんだろう。
なんでそんなことをするのかね? こっちが聞きたいよ。
そうだ。そうに決まってるんだ。
だってあいつは、死んだんだからな。
死んでまでストーカーなんて、できるわけないんだから。
本来、夏のホラー2017はオムニバス作品を予定しており、これはその2話目になる予定だったネタを元にした作品となっております。
同様に1話目となる予定だった作品は、〝『廻るメリーゴーラウンド』についての調査報告〟というタイトルであげてあります。
本作の主人公が語っている相手は、その登場人物なのかもしれません。
金の斧みたいな展開(綺麗なジャイアン的な)も考えたのですが、どんどんギャグに寄っていってしまうのでやめました。