力はないけど守りたいのです 後編
岩場はうめき声にあふれていた。
ミイラ工房へ続く道を悪意ある何者かが通った痕跡。
まるで道しるべのように、見張りの兵士が血を流してそこここに倒れている。
カルブとツタンカーメンが工房にたどり着くと、今まさに目の前で、見知らぬ男の手によって、馴染みのアスワドとアブヤドが切り伏せられるところだった。
襲撃者は、カルブ達と変わらぬ年に見えた。
特徴のない腰布に、鍛え上げられた体。
顔を覆う布も砂除けと思えば然して珍しくはない。
しかし手に持つ大振りのナイフは、肉屋だって道の真ん中で抜き身にはしない。
男はカルブに気づけど無視して工房の戸口へ足を進める。
カルブはツタンカーメンと顔を見合わせ、王の真剣な瞳を見て、怯えを捨て、走ってきたそのままの勢いで襲撃者に駆け寄って壷を投げつけた。
粘り気の強いハチミツが飛び散り、襲撃者の全身に降りかかる。
「!?」
顔にかかったハチミツを拭おうとして余計に広がる。
流れ落ちたハチミツが足と床をくっつける。
その隙にカルブは素早く戸口の日除け布を引きはがし、襲撃者の全身にかぶせ、グルグルと巻きつけ、ハチミツで貼りつけて包み込んだ。
「ッ!! ッ!!」
襲撃者がもがくが、両腕を押さえる布は破れもはがれもせず、一緒に包まれているナイフもハチミツでベタついて布を切るなどとてもできない。
ほっと息をついて、カルブは作業所に入った。
乾燥のための真っ白なナトロンの粉に埋もれたツタンカーメンの遺体の前で、アンケセナーメンが震えていた。
王の遺体の前で王妃を殺す。
それはあまりにできすぎた話で、カルブの脳裏に一瞬だけ、王妃が自らそれを望んだのではないかという考えがよぎった。
王が襲撃者に向き直った。
「誰の手の者だ?」
「誰の手の者だっ!?」
幽霊の言葉を、襲撃者にも聞こえるようにカルブがくり返す。
返事はない。
「答えろ! 誰が仕向けた?」
「答えろッ!! 誰が仕向けたッ!?」
ファラオの声には威厳があるが、それを伝えるカルブの声はどうしても上ずったものになってしまう。
返事の代わりに、布が内側から切り裂かれた。
先ほどのよりも小振りだが鋭く輝く二本目のナイフが、アンケセナーメン目がけて振り上げられる。
振り下ろすには距離があるが……
(投げつける気だ!)
カルブは襲撃者の腕にしがみついた。
襲撃者の手を離れた刃は、王妃に届くことなく床に落ちた。
そしてカルブは襲撃者の腕だけを抱えてたたらを踏んだ。
腕だけだった。
胴体はついてきていない。
襲撃者の腕は、つけ根から切り落とされていた。
次いで襲撃者の首が飛んだ。
襲撃者の胴が倒れ、その後ろに立つ、角ばった顔の大柄な男を月光が照らす。
カルブは目を見張り、慌てて膝をついて頭を下げた。
中年とは思えぬほどに引き締まった体を包む、金の装飾の鎧を見れば、首都テーベに住む者ならば名乗られずともその名はわかる。
ツタンカーメン王の側近、ホレムヘブ将軍であった。
「おれにはそこまでしないくせに」
幽霊がカルブを見下ろしてつぶやいた。
いつの間にやら工房の前に立派な馬車が二台並んで停まっている。
その一台から、枯れ枝のような老人が、こちらの様子を伺いながら慎重に降りてきた。
ツタンカーメンのもう一人の側近の、大神官アイだ。
「おお、アンケセナーメン様。ご無事で何よりですじゃ。急に居なくなったので心配いたしましたぞ。こちらにお出でとは、わしの勘が当たりましたのう」
アイの言葉にホレムヘブが舌打ちをした。
小さな音だがカルブには聞こえた。
「カルブ様が助けてくださいましたの! カルブ様は命の恩人ですわ!」
アンケセナーメンがカルブの背中に隠れながら、もともと小さな声をアイにも届くよう張り上げる。
ホレムヘブの方を見ようとしないのは、そちらを向くと襲撃者の死体が目に入ってしまうからだろうか。
月ぐらいしか明かりがないのが幸いだった。
「ほほう、何と何と。さすがはわしが選んだミイラ職人じゃ。まさか兵士よりも頼りになるとはのう」
言い方が妙に嫌味っぽいのは、その兵士達を鍛える立場であるホレムヘブへのあてつけなのだろう。
「それにしても惜しかったのう、ホレムヘブよ。もう少しでアンケセナーメン様の命の恩人になれるところじゃったのにのう。職人よ、礼を言うぞ。おぬしのおかげでホレムヘブの英雄譚の証人にさせられずにすんだわい」
アイは辺りをきょろきょろしながらゆっくりとカルブに歩み寄った。
神官ならば葬儀に携わることも多いだろうからミイラ工房が珍しいとは思えないのだが、ここのように小さいところは初めてなのかもしれない。
そしてカルブのすぐそばまで来てささやく。
「王妃の恩人だからって、職人風情が王妃の婿になれるなどとは思うでないぞ」
突然の予想外の言い様に、カルブは目を丸くするしかなかった。
どうしたものかとカルブがツタンカーメンに目をやると、王の視線は工房の外に向いていた。
戸口から宿舎へ続く道では、ホレムヘブが連れてきた兵士が、見張りの兵士の手当てをしていた。
アスワドは軽傷。
アブヤドは重傷だが、他の人も含めて命に別状はないらしい。
カルブはツタンカーメンの横顔を見て息を呑んだ。
傷ついた兵士を痛ましげに見守る王の眼差しは、自分の死骸から内臓が引きずり出される様を見てケラケラ笑っていた少年とは別人に見えた。
工房の警備はホレムヘブが連れてきた兵士が引き継ぎ、襲撃者の遺体も彼らが処理する。
兵士は将軍の担当ということで、アイは負傷兵をホレムヘブの馬車に乗せるように指示し、アンケセナーメンをアイの馬車に招き入れた。
ホレムヘブがアンケセナーメンに微笑みかけると、アンケセナーメンは目を伏せた。
星空の下をカルブとツタンカーメンの二人きりで船着場へと歩く。
先ほどまでがウソのように静かで、風の音しか聞こえない。
「なあ、ホレムヘブのこと、どう思う?」
「オレが女なら抱かれてもいいって思うぐらいのナイスミドルっスね」
カルブの答えにツタンカーメンがムッとする。
「アンケセナーメンもそう言うと思うか?」
「そうですねぇ」
カルブは口もとに手を当てて王妃の態度を思い出した。
「タイプじゃないみたいに見えましたけど、でも、そーゆーのってわかりませんからね。むしろ、ってこともありえますし」
アンケセナーメンの目のそらし方には明らかに特別な意味があったが、それを好意と断定するにはカルブ自身の恋愛経験が足りなすぎた。
「今ンとこ、あいつとアイの二人が次のファラオの候補だ」
「ということはつまり……」
ツタンカーメンがうつむく。
次のファラオになるというのは、アンケセナーメンの再婚相手になるということだ。
「なら次のファラオは……」
カルブはホレムヘブの名前を言おうとした。
「アイだな。あいつもう勃たなくなってるから」
「たっ……!?」
直接的な言葉に思わずたじろぐ。
「おまえさ、何でアヌビス神が、おれがおまえと話すのは許してもアンケセナーメンと話すのはダメってしてるのか不思議に思わないのか?」
「オレが無力で現世に何の影響もおよぼさないからでしょう?」
「は? 違げーよ。何だよそれ? そんなんじゃなくてさ……」
ファラオは深々とため息をついた。
「おれがあいつに『こっちに来い』って言っちゃいそうだからだってさ」
ファラオのため息を吸い込むように、カルブがハッと息をのみ込んだ。
「言うつもりはないよ。言うつもりはないけど、いざとなったら言わない自信がない」
カルブはツタンカーメンの横顔を見つめ続けた。
「誰にも渡したくないんだよ……いけないってわかってるけど……誰にも渡したくない……」
そしてそれから川を越えて自宅に着くまで、風の音だけが二人の耳を満たしていた。