力はないけど守りたいのです 前編
「これからどうするんだ?」
ツタンカーメン王の幽霊は、作業台に頬杖をついて、臓器の摘出が終わってペタンコになった自分の遺体の腹を眺めた。
「体や内臓が乾くのを待ちます。それから内臓は防腐剤と一緒に壷に入れて、体の方は皮膚の下に詰め物をして形を整えます」
用の済んだ器具を丁寧に洗いながらカルブが答える。
「乾くのはいつ頃?」
「四十日ぴったりです。ツタンカーメン様はスリムですから本当はもっと早く乾くんですけど、乾燥に何日かけるかというのは儀式の一環として流派ごとに定められているんです」
「それまでは待つだけなのか?」
「吸水剤のナトロンを時々交換します。数日置きぐらいに」
「それだけ?」
「この工房でやるのはそれだけですね」
ファラオは何か納得していない様子で腕を組んだ。
「包帯は?」
「他の業者に発注しています。布を織って祈りの文字を書き終わったら届けてくれますよ」
「棺桶は?」
「それも他の業者です。大きな工房なら全部自分のところで作ってたりもしますが、うちはオレとじーちゃんだけなんで」
「副葬品は?」
「そちらは王宮の方で用意なさっています」
「じゃ、カルブは工房には数日置きに来るだけなのか?」
「そうなりますね」
その日からツタンカーメンの幽霊はカルブの家に住み着いた。
ナイル川西岸の宿舎ではなく、東岸の町外れの自宅の方である。
工房に足を向けずともカルブは決してヒマではなく、ミイラに供える護符を自宅で作り、祖父の見舞いに病院へ通い、気の張り詰めた日々を過ごした。
祖父は痛めた腰がなかなか治らず、このまま死ぬのではないかなどと口走り、すっかり弱気になってしまっていた。
一方のツタンカーメンは完全にヒマを持て余し、異国の幽霊にならってカルブを脅かそうと知恵をしぼって、いきなり目の前に飛び出したり、後ろから襲いかかったりをくり返した。
カルブは驚いてなんかやるものかと意地になっているうちにすっかり慣れてしまったのだが、今朝、目が覚めた時に、布団の中に入り込まれていたのにはさすがに悲鳴を上げた。
そんなある日。
「はちみつパンケーキを食べたい!」
突然、ファラオが言い出した。
「何ですか、それ?」
「未来の食べ物だ! トート神に見せてもらった!」
ツタンカーメンの説明を聞くと、どうやら今のエジプトで手に入る材料でも作れそうだった。
「作ってくれ!」
「そんなのミイラ職人の仕事じゃないです」
「死者への供物だぞ!」
「オレ、忙しいんですけど」
「作ってくれないとバケて出るぞ!」
「もう出てるでしょうがっ!」
「……ファラオの命令だゾ」
「それが最終手段ですか? 小麦粉と重曹は家にありますけど、卵や牛乳は市場が開かれる日まで待たないとダメですよ」
「いつだ?」
「ええと……あ、今日ですね」
ツタンカーメンがニタ~っと笑った。
カルブは幽霊をいったん外へ追い出して、腰布をほどいて、波模様の刺繍の入った異国風の膝丈のチュニックに着替えた。
今時の若者の流行のファッション。
いつもは作業用の冴えない格好だが、こだわりの職人の家系の子なので、服につぎ込む余裕はじゅうぶんある。
「お待たせしましたー」
家を出るとツタンカーメンもチュニック姿に変身していた。
カルブのよりもずっと上質の布で、はるかに手の込んだ鳥やライオンの刺繍がほどこされていたが、決してケバケバしくはなく、さらりと上品に着こなしていた。
市場を目指して住宅街を連れ立って歩く。
日干しレンガの素朴な壁が、茜の根っこや藍の花びらの染料で縞や格子を描かれた日除け布によって彩られている様子が目にまぶしい。
道行く人々はあいさつ代わりに葬式前のファラオを悼む。
その言葉はそれこそ季節の挨拶のように流れ、時に次の王が決まらぬ不安を口にする者も居れども、遠くから眺めただけのファラオよりもそれぞれの日々の暮らしに追われてすれ違っていく。
ツタンカーメンは落ち着かない様子で自分のチュニックの裾を引っぱった。
「おれ、目立つか?」
「見えていれば目立つでしょうね」
「ふむ」
ふわふわ浮いたままクルリと宙返りして、ぱっと腕を広げると、ファラオは庶民風に変身していた。
ただ、庶民の衣服に見慣れていないので、カルブのと寸分たがわぬオソロイである。
「オレにしか見えないんだから全裸でも問題ないでしょう?」
「おまえがそう言うんなら」
「やっぱりやめてください。服は着ていてください」
ナイル川のそばを通る。
ここよりはるか下流のギザの地にはクフ王、カフラー王、メンカウラー王の巨大ピラミッドが並ぶと聞くが、そのようなものを建てる風習は廃れて久しい。
時も川もそれに世の中も、止まることなく流れ続ける。
(アンケセナーメン様の侍女が、この川で溺死したんだよな)
カルブは少し前に聞いたうわさをツタンカーメンに言おうか迷った。
不幸な事故。そう思いたい。
しかし王妃に近しい立場となれば、何らかの陰謀に巻き込まれて殺されたのだとしても不思議はない。
こんな時期に一人でノコノコと人里離れた工房へ出向く王妃の無防備さは、果たして無邪気さ故なのだろうか。
「カルブー! 早く行こうぜー!」
「ツタンカーメン様! 市場はそっちじゃないです!」
はしゃぐファラオを見失うまいと走り出し、暗い話は後ででいいやと考え直した。
「市場ってパンケーキの材料以外にもいろいろ売ってるんだろ?」
「そもそも未来の食べ物の材料を探しに行くのはオレ達だけです」
「普通の人の食事ってどんななんだ?」
「オレのを見てるでしょう?」
「乾燥豆をお湯に入れてふやかしただけのやつばっかじゃん。そーじゃなくって家庭料理ってやつ!」
「男の一人暮らしで悪かったですね。フツーなんてのにあんまり期待しちゃダメですよ」
「贅沢したいわけじゃねーよ」
「そうじゃなくって……いえ、それもありますけど……今は国中がアナタの喪に服している時期なんですから、肉や魚は食べられないし、市場全体がどんよりしています」
「そうなのか?」
「エジプトの全ての国民は、ファラオの死を嘆かなければいけないのです。先代のファラオが亡くなられた時はオレもほんの子供でしたが、うかつに笑い声でも上げれば役人が飛んできてひっぱたかれるような状況でした。みんながちゃんと悲しんでいるか、あちこちに見張りが立っていましてね」
当時の首都はアマルナ地方のアケトアテンで、ここテーベとはずいぶん離れているのだが……
「テーベ中が重た~い空気に覆われていました。エジプト王国全土がそうだったんですよ。後で聞いたらアケトアテンはもっとずっと大変だったそうです。今はテーベが首都なんだから、それはもうすごいことになってるはずです」
そのはずだった。
市場は閑散としていなければいけないのだ。
にもかかわらずその空間は人であふれて、商品を売り込む声と値切りを求める声が騒々しく交差していた。
奥の方には丸太を組んだ屋台もあるが、大半の店は地面にシートを敷いただけで、その上に穀物や服の生地や生活雑貨品などが並べられている。
肉も魚も売られていた。
「お、おかしいですよこんなの! アクエンアテン様の時はそれはもう厳格で厳粛で! 油断して牢屋に入れられちゃった人も大勢居て! ああ、きっと役人が、神官やら将軍やらの王宮内の争いに気を取られてて、そのせいで取り締まりが手抜きされているんです! 前の時はホントに町中の誰もが嘆き悲しんでたんですよ! いろんな意味で!」
カルブとしては、自分がウソをついたわけではないとわかってほしいだけだったのだが……
(あれ……? もしかしてオレ、とんでもなく失礼なことを言っちゃってる……?)
自分が敬われていないと知って、ツタンカーメンは傷ついているのではないだろうか。
ファラオの幽霊はゆっくりと市場を見渡してから、カルブの方を振り返った。
「おれ、こっちの方がいいや」
屈託のない笑顔だった。
「カルブも肉とか食っていいからな」
「ツタンカーメン様……」
「ん?」
「どうして死んじゃったんですか……?」
「チャリオットの事故で」
「そうじゃなくて……」
王として、もっと長生きしてほしかった。
ツタンカーメンには見るもの全てが新鮮なようで、あちらこちらとキョロキョロし、調理される前の羊の姿に目を丸くしていた。
「あれはお供え用か、でなければ貴族への贈答用です。家畜の肉は高級品ですからね。庶民はこっち」
人波を掻き分けてカルブがずんずん進む先で売られているのは、ナイル川で獲れた魚に、ナイル川の水で育てた大麦、エンマー小麦、ソラマメ、ヒヨコマメ。
人はナイル川とともにある。
この時代のエジプトには定まった通貨はなく、買い物は物々交換で行われる。
カルブは今回のミイラ作りの報酬の一部として先に受け取ってあった葡萄酒を小麦粉と取り替えるついでに、ティラピアやナイルパーチなどの魚を手に入れた。
果物屋の前を通り過ぎ、カルブがふと振り返ると、ファラオの幽霊が半透明の手に半透明のイチジクの実を持ってかぶりついていた。
「ツタンカーメン様、店の物を食べるのには代わりに渡す物が必要でしてね」
「バカにするなよ。それくらい知ってるよ。カーだけなんだから別にいいだろ」
カーとは生命に宿るエネルギーのようなもので、生き物は肉体と魂とカーの三つの要素でできており、肉体と魂はカーによって繋がれている。
例えばご先祖様のお墓に羊の肉をお供えすると、ご先祖様は羊肉のカーだけを食べ、羊の魂は冥界へ行き、物質としての肉は腐る前に神官が持ち去る。
ちなみに今のツタンカーメンは、魂がアヌビス神に借りたカーをまとっている状態で、ツタンカーメン自身のカーは工房のミイラの中で眠っている。
店先のイチジクが目に見える勢いでしなびていく。
カルブは慌ててそれを先ほど購入したばかりのティラピアの干物と交換し、他人の目から隠すために自分の口に押し込んだ。
「へへっ。半分こだな」
「こっちはしなびかけなんでおいしくないです」
それぞれ手の甲で口もとの汁を拭き、二人は次の店へと向かう。
「おーい! カルブ! 久しぶりじゃねーか!」
若い男性の集団が、昼間だというのに酒のニオイのする息で呼びかけてきた。
どうやら友人の一人が昨夜、恋人とケンカをしたらしい。
カルブも一緒になって愚痴を聞いて慰めて、やっと友人達が立ち去ると、ツタンカーメンの姿が見えなくなっていた。
「ツタンカーメン様!!」
カルブが死した王の名を大声で呼ぶと、周囲の人がギョッとしたような視線を向け、クスクスと笑う声やそそくさと走り去る足音が響いた。
(先に帰っちゃったのか……?)
カルブは一人で買い物を続けた。
ハチミツはすぐに見つかったが、卵と牛乳はあちこち探し回らなければならなかった。
日暮れの風が吹く中を、荷物を抱えて寂しく歩く。
(五歳の子供じゃあるまいし! ちょっと目を離しただけで居なくなるなんて!)
実はカルブ自身も幼い頃に同じようなことをやっている。
買い物中に母親が馴染みの店員と世間話を始めてしまい、カルブは一人で先に帰ろうとして迷子になってしまった。
大人達の立ち話を聞いているのがつまらなかっただけではない。
そばに居るのにこっちを見てもらえないのが悲しかったのだ。
(……ツタンカーメン様にはオレしか居ないんだ)
カルブは走り出した。
自宅に着いたが誰も居なかった。
今日買った荷物を床に下ろす。
ツタンカーメンはまだ市場に居るのか、それとも工房へ行ったのか。
王宮へ帰ってしまったのなら、カルブがおいそれと捜しにはいけない。
床に並べた荷物に手を伸ばし、ハチミツの入った壷を肩に担ぎ直す。
(ハチミツは傷薬としても使えるから……これはもともと作業用の刃物で怪我した時に備えて工房に置いておくために買ったんであって、ツタンカーメン様のために買ったわけじゃないし、ちゃんと買ってやったぞってツタンカーメン様に見せたいわけじゃないし、ツタンカーメン様を捜しにいくわけじゃないんだからなっ)
自分に言い訳しながら、船着場へ行ってナイル川の西岸に渡り、工房へ歩き出す。
日が沈み、月が昇る。
岩場に伸びる道の真ん中で、ツタンカーメンがいきなり飛び出して、カルブに抱きつこうとしてすり抜け、もんどりうって地面に倒れた。
「どうしたんですか!? そんなに寂しかったんですか!?」
壷を落としそうになって必死で押さえる。
「違うバカ!! 助けてくれ!!」
道の先から誰かの悲鳴が響いた。
ファンアートいただきました!
つーたんもカルブも可愛い!!
ありがとうございましたああああ!!