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必要だって言ってください 後編

 明日はもう、来るのをやめてしまおうか。

 そんなことを考えながらの帰り道。

 宿舎までまだ距離のある岩場で、カルブは白い影を見て悲鳴を上げた。

「ひゃあ!?」

 しりもちをつく。

 めくれた腰布を反射的に直し、ランプを拾って顔を上げた時には、その影はすでに居なくなっていた。

「つ、ツタンカーメン様? 違いますからね! 不意打ちだったから驚いただけで、お化けなんか怖くないですからね!」

 暗闇に向かって言い訳するが、返事はない。

(くだらないイタズラだ! どこかに隠れて笑ってるんだ!)

 カルブは工房に駆け戻った。


「おや? カルブ殿、何か忘れ物でも……」

 見張りの兵士のアスワドに問われ、カルブは指を口に当てて声を出すなと合図した。

(今度はこっちがアイツを脅かしてやる!)

 カルブは工房の裏側に回り、窓枠にそっと手をかけた。


(居る居る! もう戻ってきてる!)

 月明かりの照らす作業場の隅に、洗ったばかりでまだ濡れている器具。

 部屋の中央の作業台の遺体の上には、カルブが出て行く前にかけておいた虫除け兼ホコリ除けの布。

 ツタンカーメンの幽霊は、台の陰、自分の遺体の足もとで、膝を抱えてうずくまっていた。


(泣いている……?)

 カルブの角度では背中しか見えない。

「おわっ!?」

 身を乗り出そうとして窓枠から手が滑り、カルブは工房の中に転げ落ちてしまった。


「あ……あれ? どした? 忘れ物か?」

「王様、さっき外に出ましたか?」

「ずっとここに居たぞ」

 ツタンカーメンはヘラヘラと笑っている。

 でもそれは悲しみを隠すための笑い。

 幽霊の顔には涙の跡こそ見えずとも、イタズラを隠すための笑いには見えなかった。


 カルブは作業場を突っ切って玄関へ走った。

「外に怪しいヤツが居ました! 泥棒かもしれません!」

 見張りの兵士二人が顔を見合わせる。

 そしてアスワドは周囲の捜索に、アブヤドは離れた場所に居る他の見張りとの連絡に向かい、それが終わるまではカルブ自身が工房を見張ることになった。




 兵士達がかかげるたいまつが去っていく。

「ちょっと待て! 兵士が二人とも離れるっておかしくないか?」

 驚くツタンカーメンを見て、カルブは工房の奥へと戻りながら気まずそうに頭を掻いた。

「今朝ちょっと雑談してて、どういう流れでそうなったのかは覚えていないんですけど、オレ、見栄を張って格闘技が得意だみたいに言っちゃったんですよね」

「マジか? レスリング系か? ボクシング系か?」

「やったことないのでわかりません」

「待て待てこらこら! おまえそーゆーやつだったのか? 女神マアトはウソに厳しいんだぞ!」

「ウソとは言い切れないですよ。やってみたら案外強いかも知れないじゃないですか。それにいざとなったらナイフとかありますし」

「いやいやそれじゃあ格闘技じゃないし……。いやいやいやいや! いざとなったら迷わず逃げろよ! 道具とか薬とかまた買えばいいじゃん!」

「今ここにあるもので一番高価なのはアナタのご遺体ですよ」

「こんなもん売れねーだろ」

「買いたがる変人はいつの時代にも居るものです。問題はあの人影が本当に泥棒なのか……もし悪霊とかそういうのだったら……」

「あ……」

「え……?」

 戸口の日除け布が風に舞う。

 流れ込む月光を背に受けて、白い影が立っていた。


「つーたん!」

 謎の言葉を発し、影がカルブに抱きついた。

「つーたん! つーたん!」

 泣きじゃくる。

 それは幽霊でも何でもなく、生きている女性が白い服をまとっているというだけだった。

 カルブはツタンカーメンに目を向けた。

「まさか……王妃様ですか……?」

 王は黙ってうなずいた。


 しばらくして人違いに気づいたアンケセナーメンは、恥じらいながら謝罪した。

 年は夫より二つ上だったか。

 やつれてもなお美しい顔立ち。

 赤く腫れても品のある眼差し。

 それでいて王妃様でございといったような傲慢さは微塵も感じられなかった。


「それで……あの……つーたんは……」

 アンケセナーメンの瞳が、作業台の上の膨らんだ布をとらえた。

 ふらり、そちらへ歩み出し、ゆらり、いかにも非力そうな手が伸びる。

「いけません! 王妃様!」

 カルブの立場で自分から王妃のお体に触れるようなわけにはいかず、王妃と作業台の間に自分の体を割り込ませる。


 ツタンカーメンの幽霊は、無意味と知りつつ全身で布に覆い被さって、ぷるぷると首を横に振っていた。

 死にたての新鮮な遺体から、永遠に生きるためのミイラへ。

 防腐処置の真っ最中である今は、もっともグロテスクな状態。

「こんなの見せたらアンケセナーメンは気絶してしまうっ」

 ツタンカーメンが悲痛な声を上げた。


「王妃様、王様の姿をお見せするのは……その……」

 グロいからとか、具体的にどうグロいとか、言えずにカルブは口ごもる。

「儀式に反します」

 その場の思いつきである。

「なら、せめて……せめてそばに行かせてください!」

「それは……」

 良いとも駄目とも言えなかった。

 ただ、こんな時間にこんなところまでたった一人で出てきた女性に冷たい言葉は言いたくなくて、カルブが動けずにいる間に、アンケセナーメンはカルブの脇をすり抜けて、夫の遺体にすがりついた。


 先ほどあれだけ泣いたばかりなのに、王妃自身が干からびそうな勢いでこぼれる涙が、遺体を覆う布にしみ込んでいく。

 ツタンカーメンの細い足の、骨折の跡のある辺り。

(乾かしている最中なのに)

 言うに言えずにカルブは目をそらした。

 ツタンカーメンの幽霊はいつの間にか姿を消していた。


(王妃様には幽霊は見えないんだな)

 ファラオがカルブと話せるのは、孤独なファラオに同情したアヌビス神が力を貸してくれているから。

 アンケセナーメンとの会話には、どの神も協力してくれない。

(現世に影響を与えちゃいけないんだっけ。なのにオレだけオーケーってのはつまり……オレはそんなに無力ってことか?)



 いくつもの障害を持って生まれた赤子は、信仰に狂った先王アクエンアテンの目にはアテン神の生き写しと映り、この王子が本物のアテン神となってエジプト王国を治める光景を夢見た。

 しかし他の王族は、王子をひ弱な奇形児と笑った。

 故にアクエンアテンは、他の王族が神の写し身を差し置いてファラオの座を狙うことがないように、さまざまな工作を施した。


 新たな王になるために重要なのが、ならわしにのっとった、先王の未亡人との婚姻だ。

 そのためにアクエンアテンは長年連れ添った妻と別れ、アテン神の将来の妻にふさわしい少女を選び出し、自らの妻として形だけの結婚を執り行った。

 それがアンケセナーメンだ。

 王妃アンケセナーメンをツタンカー()ンと再婚させれば、ツタンカー()ンへの王位継承はスムーズに行われる。


 つまりアンケセナーメンは宗教改革を巡る政争の具。

 前夫ともツタンカーメンとも政略結婚。

 だけどカルブの目の前で流れる涙は本物だった。


 アクエンアテンの、ツタンカー()ン以外を王にしたくないという意志は強く、工作は徹底していた。

 そのツタンカーメンが子を残さずに死んだ今、跡を継げる王族はなく、アンケセナーメンの再々婚の相手がエジプトの次の王になる。



「王宮ではみんな、わたくしを悲しみから立ち直らせようとばかりして、誰もわたくしを悲しみに浸らせてはくれないのです」

 アンケセナーメンはひとしきり泣いてからカルブに打ち明けた。

「次の王を立てるために王妃は一刻も早く再婚しなければならないと言われて、ヒッタイトの王子との婚約も勝手に決められてしまいました。わたくしに断る力などありません。自分の書簡を偽造されても怒ることすらできないのです」

 そしてまた、すすり泣く。

「つーたんが死んでからまだ一ヶ月も経っていないのに……他の人を好きになれなんて言われても……わたくしは……どうすれば……」

 カルブの目には王妃はあまりに弱々しく映った。


「ヒッタイトの王子はエジプトにはおいでになりません」

「……どうしてそんなことをカルブ様が……?」

 ツタンカーメンに聞いたなんて言えない。

「そんな気がするだけです」

 アンケセナーメンは曇り顔に無理やりの微笑みを作ってカルブに答えた。

 逆に気を遣わせてしまったようだ。


「ミイラ職人って、大変なお仕事なのですね」

 アンケセナーメンの目は、棚に並ぶさまざまな薬品や、素人には意味のわからない器具の方を向いていた。

「カルブ様のおかげで、つーたんは安らかに旅立てるのですね」

 ありがとうとアンケセナーメンに言われて、カルブは明日も仕事を頑張ろうと決めた。

 脳みその意味や心臓の意味。

 カルブがどちらを信じても信じなくても、アンケセナーメンを安心させられるならそれで良い。


 王の幽霊は工房の外で待っていた。

 アンケセナーメンの泣き顔を見ていられなかったのだ。

 王妃が名残惜しげに工房を振り返っている隙に、カルブはツタンカーメンに話しかけた。

「女神マアトの羽ですが、あれは生前の罪しか計らないはずです。それにほら、アナタの心臓は、アナタが悪さしている間もずっとここにありました。あの心臓はアナタの死後の罪には関わっていません」

「…………」

「ザナンザ王子はきっと大丈夫ですよ。一国の王子様がちゃんとした道案内を連れていないはずありませんから」

「…………」

「オレは、アナタはピュアな人だって思っています」

「それはわかってる」

「おいっ」




 それからカルブは、アスワドにもアブヤドにも見つからないようにこっそりとアンケセナーメンを王宮まで送っていった。

 なんと王妃はナイル川を渡るのに、渡し舟ではなく、王墓建設の資材を運ぶための貨物船にまぎれ込んでいたそうだ。

「だって渡し舟のチケットをどうやって手に入れればよいのかわからなかったんですもの」

 帰りの船も、貨物船しかない時間帯だったので同じ方法を使うことになった。

 いざ船内に忍び込んでみると、王宮がらみの貨物船は庶民向けの渡し舟なんかよりもはるかにしっかりとした造りで、乗り心地も快適だった。

「それにしても王妃様、いくらお忍びでも護衛の一人もつけないなんて無用心すぎますよ」

「わたくしについてきてくれる人なんて居ません。みんな止めようとするだけです。一人だけ、貨物船のことを教えてくれた侍女が……でも……その人、わたくしに話したいことがあるって言ったまんま突然居なくなってしまって……誰に訊いても何にも知らないって……」


 エジプトは昼夜の温度差が激しい。

 川面を流れる凍えそうに冷たい夜風がカルブの首筋をなでた。


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