表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

4/33

必要だって言ってください 前編

 それからしばらくの間、ツタンカーメンはカルブの前に現れなかった。

 遺体から内臓を取り出して乾燥させる職人の仕事を、ただ見ていても退屈になったのだろう。


 ミイラの作り方は職人によって異なるし、時代によっても変わってきて、その多くは企業秘密として伏せられている。

 脳みそをどの順番で取り出すのかも工房によって異なり、作業の一番最初に遺体の鼻から金属の棒を突っ込んで掻き出すところもある。

 カルブの祖父の流儀では、エジプトの気温がもたらす自然の腐敗に任せて軟らかくなるのを待って、遺体を傾け、ドロドロになった脳みそを鼻の穴から流れ出させる。


 ものを考えるのは心臓の役目で、脳みそは鼻水を作るだけの器官。

 だから捨ててしまっても死後の世界での永遠の命に影響はない。

 この時代のエジプトではそう考えられていた。


「三千年後の世界では脳みそが一番大事ってなってるみたいなんだけどな」

 不意に背後から声をかけられ、カルブが驚いて振り返ると、ツタンカーメンの幽霊の指先がカルブのほっぺたを……つつきそうになって触れられずにすり抜けた。

「トート神がね、いろいろ見せてくれたんだ」

 困惑顔で頬を掻くカルブに、ツタンカーメンはケラケラと笑う。

「おれの頭蓋骨、できるだけ丁寧に扱ってくれよ。余計な傷をつけたら後の世の学者先生に、おれが頭を殴られて暗殺されたなんて言われちまうからな」


 カルブはますます困惑した。

 神々の書記官の、人の体に鳥の頭のトート神は、知恵と時間を司る。

 ならばツタンカーメンは未来を見てきたのだろうか?

 それにしても脳みそが大事だなんて、カルブにとっては初耳だった。


 ツタンカーメンが作業台の横にしゃがみ込み、自分の遺体のいびつな形の頭蓋骨を指で小突いた。

 霊体の指はやはりすり抜けた。

「近親婚って、未来じゃ禁止されてたよ。子供がこうなる原因だからって。先に言っといてほしかったよなー」

 腕を組み、スッと立ち上がって自分の遺体を見下ろす。


「三千年後の金持ちは、さらに未来で生き返るために、脳みそを氷で保存してるんだ」

「氷ねぇ」

 言われてカルブは首をひねった。

 氷なんてよっぽど高い山の上に行かなければ手に入らず、カルブも実物を見たことはないが、すぐに解けてしまうというのは聞いている。

 氷自体が保存できないのに、どうやって氷を使って保存なんてするのだろうか。


「あ。信じてないな。未来人は機械で氷を作るんだぞ」

「それが本当ならその機械の作り方を教えてください」

「ダメ。教えたらおまえ、それを作ろうとするだろ」

 そしてツタンカーメンは急にまじめな顔になった。

「神々の世界にもいろいろルールがあってな、現世に影響の出ることは教えてもらえないんだ。例えば、未来人はミイラも心臓もなくっても脳みそさえ残しておけば復活できるって考えてるなんて突拍子もない話を、おまえみたいな一介のミイラ職人に言いふらされても誰も相手にしないけど、おまえが実際に氷を作ったら皆はおまえの話を信じてしまう。だからダメ」


「ふーん」

 カルブは内心では興味心身だったが、あえて気のない声で答えた。

 ツタンカーメンの真面目顔が何だか気味悪く思え、つれない態度を取っていればまたバカっぽく騒ぎ出すかと思い、からかいを込めてそうしたのだ。

 しかし遺体の処置作業に戻りつつ横目で霊体の様子を伺うと、ツタンカーメンは曇った表情のままだった。


「おれ、ちょっとヤバイことやっちゃったんだよ。トート神の目を盗んで、見ちゃいけないって言われてたもんを見ちゃってさ」

「その話はオレが聞いても良いのですか?」

「うん。もう終わったし。おまえ、アンケセナーメンが再婚するって話、聞いた?」

「ええ。ヒッタイト王国の王子達の中から、誰でもいいから適当な方を婿に迎えたいと手紙を出されたとか」


 王妃アンケセナーメンは、ツタンカーメン王の妻。

 ツタンカーメンにはまだ子供が居なかったので、王妃様の再婚相手がエジプトの次の王になる。


 エジプト王国は前のファラオが行った宗教改革で内戦寸前にまで陥り、それをツタンカーメン王が鎮めた。

 そのツタンカーメンの死により国内が再び混乱に陥る恐れがあり、となればその混乱につけ込んで他国が侵略を仕かけてくるのも容易に予測できる。

 ならば長年の敵国であるヒッタイトとあらかじめ仲良くしておいて、そのヒッタイトに他の国から守ってもらうのは、うまい戦略であるようにカルブには思える。


 夫の葬式も終わってないのに再婚なんて、と、庶民の話であれば思ってしまうが、王族とはそういうものである。

 王妃からの手紙を受け取ったヒッタイトの王は歓喜し、今まさにザナンザ王子の一行がエジプトへ向かっている最中である。

 そこまで思い出してカルブは首をかしげた。


「オレの立場でも耳に入る程度のうわさが、知るのをトート神に禁じられるようなものなのですか?」

「いや、見ちゃいけないのはそれじゃなくって、夢枕に立つ方法が書いてある魔術書」

「他人の夢の中に出られるんですか?」

「道具が要る。トート神のを勝手に使った。バレて怒られて箱に鍵をかけられちゃったんでもう使えない」

「それは……残念でしたね……」

 王妃や側近など、話したい相手は大勢居ただろうに。


「で、ザナンザに夢の中で脅しをかけて、エジプト行きをやめさせた」

「へ?」

「アンケセナーメンに手を出したら呪ってやるって。ザナンザのやつ、エジプトに来るのは怖いけどヒッタイトに帰れば親父さんにどやされるってんで、そのまま姿をくらましちまったぜ」

「何でそんな……」

「だってあいつチャラ男だぜ?」

「ちょちょちょ、ちょっと待ってください! え? え?」


 一般市民として漠然と思い描いていたエジプトの平和な未来図がガラガラと崩れていく。

 頭を抱えるカルブを眺め、ツタンカーメンは乾いた笑い声を響かせた後、不機嫌そうに腕を組んだ。

「政略結婚がしたいって手紙を出したの、アンケセナーメンじゃねーんだよ」

「じゃあ誰が?」

「わかんねーけど、たぶんおれの側近だろうな。アイとホレムヘブのどっちか」

「国のためを考えてのことでしょう?」

「本人の意思じゃないんだぞ!!」


 急に怒鳴られたカルブは、言葉の意味よりも、どうして自分が怒鳴られなければならないのかという方に駆られてカッとなった。

 こんなの八つ当たりじゃないか。

「王族なんて政略結婚が基本でしょう!? ツタンカーメン様とアンケセナーメン様だってそうだったじゃないですか!!」

「もしもあいつがおまえの嫁ならどう思うんだよッ!?」

「自分が王族だった場合のことなんて考えるだけ馬鹿馬鹿しいですっ!! アナタ方だって自分が庶民だった場合のことなんて考えないでしょうっ!?」


 しばらく睨み合い、そのまま互いに沈黙する。

 カルブの方が先に冷めた。

「ザナンザ王子は今頃どうしているんでしょう。もしアナタの夢枕攻撃をただの夢だと考え直せば、アナタはもう手出しできないわけですよね?」

「別の国に行こうとして迷子になっている」

「砂漠で迷子って!? シャレになんないっスよ!? もしザナンザ王子一行がそのまま野垂れ死にでもしたら……」

「死ぬってそんなに悪いことかよ?」

「!?」

 カルブは自分の目の前に居るのが幽霊なのだと改めて思い出した。

 そしてカルブの脅えた表情を見て、ツタンカーメンもまた自分が死者だと思い出したようだった。


「……壁画ギルドの宿舎でみんなを助けた時のアナタは、そんな悪いヤツには見えませんでした」

「自分のためだよ。おれの墓をきっちり造らせるためだ。もう意味ないかもしンないけどな」

 ツタンカーメンは、アヌビス神の像の台座に腰かけて、細い足をわざとらしくプラプラさせた。

「おれの心臓、女神マアトの羽より重くなっちまったかもな」

「知りません!」


 カルブはミイラに向き直った。

 作りかけのミイラ。

 幽霊のせいで作業が遅れてしまったが、今日は遺体から脳みそを取り出す日なのだ。

 腐りやすい脳みそを捨て去り、復活の日に備えて遺体を保存する。


 遺体の頭部を抱きかかえたところで、カルブは複雑な気持ちになった。

 頭部をこのまま傾けさえすれば、すでにドロドロになった脳みそは鼻の穴から流れ出るのだが……

「……どうすればいいんですか? このやり方が正しいって教えられて、ずっと信じてやってきたのに……」

「今まで通りにやっちゃっていいよ。どの道、今のエジプトでは脳みその保存なんてできないし」

「続ける意味なんてあるんですか?」

「おまえが役人に怒られないため」


 工房に充満する嗅ぎ慣れた薬品のニオイが、急に吐き気を催すものに感じられた。

 ツタンカーメンがゲラゲラと笑い出した。

 カルブは仕事を切り上げて家に帰ることにした。

 どの道、今日は朝から働きすぎた。


 カルブはツタンカーメンを取り残して燭台の炎を吹き消した。

 窓からはすでに夕日も去って、工房内は一瞬で暗闇に包まれたが、幽霊には気にならないのかファラオは笑うのをやめなかった。

 工房を出る時、見張りの兵士に、今日の独り言はこれまで以上に変だったがこれも儀式なのかと問われ、もちろんだと答えた。

 ファラオはいつまでも笑い続ける。

 カルブの耳にしか届かないその声は、ひどく不気味に響いていた。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ