アナタを忘れません 前編
棺は揺れないようにソリに乗せられ、神官達に引かれて王宮へ運ばれる。
耳を澄ませば足音の反響の具合から、廊下を抜けて広間に着いたのだとわかる。
きっと荘厳な柱がそびえ、壁や天井には絢爛なレリーフが並んでいるのだろうけれども、布に包まれ棺に入れられたカルブには何一つ拝めない。
祭壇の上に棺が下ろされ、足音が去っていく。
「おーし、みんな居なくなったー。息していーぞー」
棺のふちから腕を伸ばして、ツタンカーメンがカルブのほほをつっつく。
「息ぐらいはずっとしていますよ……かなりしづらいですけど……」
「体も少しは動かせー。じっとしすぎてると血が固まるぞー」
「はい……周りはどんな状況です……?」
「んーと、まず、棺のふたは開けっ放しだな」
「閉めるのにもいちいち儀式が必要ですからね……」
「広間の出入り口に見張りが居て、退屈そうにダラ~っとしていて……あ、ピシッとした。誰か来た。やばい。アイだ」
「げっ」
カルブは棺桶内に寝そべったまま背筋をピンとさせた。
「予定より早い。それに一人だけなんておかしいな。あれ? 見張りの兵士まで追い払ってる」
棺の脇で怪訝そうにする幽霊の存在に気づくはずもなく、大神官は棺の前にひざまずき、中を覗き込んだ。
「カルブとか言ったか」
名前を呼ばれてビクリとする。
しかし気づかれたわけではなさそうだ。
「若造と見くびっておったが大した腕前じゃ。すでにミイラになっておるというのに、布越しでもファラオの温もりや息遣いが伝わるようじゃ」
カルブは心の中で手を合わせた。
「ツタンカーメン様……」
大神官が棺にささやく。
「貴方がわずか九歳で即位なされたあの日が懐かしゅうございますじゃ。戴冠式が終わるや否や、貴方はアンケセナーメン様とお二人で、王宮の花園へ駆け出してゆかれましたのう。あの頃から貴方は杖にすがる不自由さなどものともしない強い王であられた」
アイの声は、工房で逢った時とは違い、優しげだった。
「わしは貴方がたにはいつまでもあの花園で遊んでいてほしかった。十八歳の今も、倍の三十六歳になっても、その倍の七十二歳になっても、いつまでもずっと、手入れの行き届いた安全な花園で無邪気に戯れていてほしかったですじゃ……」
「いやさすがにそりゃねーだろ」
ツタンカーメンの声が聞こえたはずはないのだが、アイの表情がにわかに曇った。
「貴方には無垢なままでいてほしかった……わしじゃってあんなことをしたくはなかったのに……貴方がアテン神への唯一神信仰を復活させようなんてなさるから……」
「いや、してねーし。ちょっと思いついたんで言ってみただけだし」
「先代アクエンアテン様によって破壊されたアメン神殿を建て直したのは、ツタンカーメン様、貴方です! その貴方が再び一神教に傾倒し、ご自分で建て直された神殿をご自分で破壊なされれば! エジプトは!! 我らが王国はッ!!」
叫び、そして声が詰まる。
「アテン神の一神教信仰、アメン神の多神教信仰。どっちつかずでいることで身を守ってきたわしは、貴方もご存知の通り、他の神官から信頼されておりませぬ。誰にも相談などできず、一人で苦しみ続けたある日、アメン神が夢に現れましたのじゃ。わしはアメン神のお告げに従って、ツタンカーメン様のチャリオットの車軸に細工をいたしました……」
「アメン神はお告げなんかしてねーよ。ただの夢だ。アメン神本人が今そう言った。てめーで勝手に考えすぎて、てめーで勝手に夢を見たんだ」
神の声は残念ながらアイにもカルブにも聞こえなかった。
「アメン神はそれっきり、何の言葉もくださいませぬ。そして先ほどのうたた寝でアテン神が夢に現れて、罪を告白し、許しを求めよと申されましたのじゃ……」
そしてアイは棺の前に深くひれ伏し、床に額をこすりつけた。
「それは本当に言ったってアテン神が言ってる。あーあ、またアメン神とケンカ始めちゃった。神様が現世に手を出すのってすっごい会議して決めなくちゃなんねーのに、アテン神が独断でやっちゃったから」
「またキスをなさるのでしょうか?」
カルブが声を潜めて尋ねる。
「あんまり何度も見たいもんじゃねーな。しかし許すの許さないのって、アテン神が何を考えてるのかさっぱりわかんねーや。当のアテン神が車軸を見ろって言うからさっき見てきたんだけど、確かに細工はされているけど、壊れるとこまでいってないんだ」
「へ?」
「車軸に切れ目を入れるのに思い切りが足りなかったんだろうな。殺意を持ったって部分で謝ってくれんのはいーにしても、おれが死んだのはアイのせいじゃねーよ。そもそもあの事故は車軸じゃなくて……」
その時、広間の壁に笑い声がこだました。
「全て聞かせてもらいましたぞ、アイ殿!」
それはホレムヘブ将軍の声だった。
「大神官ともあろうお方が、何という恐ろしい罪を犯されたのか!」
「う……あ……」
アイが怯えた声を上げた。
何やらモゴモゴ言っているが、カルブには聞き取れない。
「ファラオの仇! 覚悟なされよ!」
ホレムヘブの高らかな声は、何故だか妙に嬉しそうだった。
棺の中でカルブがささやく。
「タイミングが良すぎますけど、これも神様のお導きですか?」
「んーと……ここに居る神々はみんな違うって言ってるな。関わってるんなら来てないわけないし、偶然だろ」
「ちょっと待ってくださいっ。そんなにたくさんの神様がいらしてるんですかっ?」
「だってファラオの葬式だもん」
「神様達はホレムヘブ様を止めないんですか?」
「人間同士の問題だからな。セト神が暴れたのとは事情が違うんだ」
布越しのカルブの耳に、不穏な金属音が響く。
「お待ちなさい!」
不意に飛び込んだのは、もともとか細いのを無理に張り上げたような声だった。
「ホレムヘブがアイを斬ろうとして剣を鞘から抜いたら、アンケセナーメンが侍女を一人だけ連れて入ってきた」
ツタンカーメンがカルブに説明する。
「これも偶然ですか?」
「んにゃ。ヒッタイトの神様が導いたっぽい」
「何で異国の神様が?」
「ザナンザ王子を迎えるために先乗りしてたっぽい。何もせずに帰るのが嫌で、エジプトの神々からの守護の薄いアイにつきまとってたっぽい。で、アンケセナーメンが、もともと来る予定だったのをちょっと時間を調整して話を聞けるようにしたんだな。エジプトの神々も、しょーがないなって顔で見てる」
「では自力で来たのはホレムヘブ将軍だけですか」
「そうなるな。やーい、仲間はずれー」
「ツタンカーメン様、それはやっちゃダメなやつです」
「うー」
叱られてファラオはシュンとなった。
「ホレムヘブ様、あなたがナイル川で殺したわたくしの侍女のイステヤーは、こちらに居るカラヘッヤの親友です」
アンケセナーメンの隣で、暗い顔の侍女が肩を震わせた。
「イステヤーは死ぬ前にカラヘッヤに話していました! ホレムヘブ様が、つーたんのチャリオットの手綱に細工をしているところを見たって! そのことでホレムヘブ様を脅して金塊をもらうつもりだって! その金塊を元手にしてみんなで自由になるんだって!」
どうやら王妃は“ゆする”という表現を知らないらしい。
「ふんっ。一国の王妃ともあろうお方が、たかが侍女の世迷い言を信じるなど……」
「カルブ様のミイラ工房でわたくしを殺しに来た方は、ホズン様とおっしゃるそうですね。ホズン様のお父上はアメン神殿の神官で、ホズン様ご自身も幼い頃は神官としての修行をなさっておられて……でもその神殿は先王様の宗教改革で破壊されて、ホズン様のご両親は絶望の中で亡くなられたと……」
アンケセナーメンの声が震える。
ホレムヘブは王妃がどこまで知っているのか覗き込むように睨みつけている。
「イステヤーやカラヘッヤも同じ境遇で、三人は幼馴染みだそうですね。行き場をなくした神官の卵達をホレムヘブ様が引き取って育てて……そこまでは素晴らしいですわ……でもホレムヘブ様が望んだのは、この方達の幸せではなかった……。あなたはこの方達の素性を隠して自分の手駒として王宮に送り込んで……そして……ホズン様を手引きしてわたくしを襲わせた……」
掌をグッと握り締め、王妃の透き通った声が響く。
「ホレムヘブ様はホズン様を逃がすことだってできたのに!」
「ホズンは、例え逆賊として捕らえられても口を割らずホレムヘブ様の名を出さず拷問にも耐え抜けば、アメン神のもとにきちんと葬ってもらえると信じておりました! それなのに……それなのに……」
「いくら身元を隠すためだからって、遺体を焼き捨てるなんてひどすぎます!!」
泣き崩れるカラヘッヤの肩を、アンケセナーメンが抱き締める。
死者の復活を信じてミイラを作るエジプト人にとって、屍を燃やすのは最大の冒涜。
自分が殺されかけたのに、アンケセナーメンはその襲撃者を哀れんでいた。
「みなさん! お願いします!」
アンケセナーメンが手を振り上げる。
戸口の陰に控えていた兵隊が広間になだれ込み、ホレムヘブを取り囲んだ。
その後ろから神官団もおっかなびっくりついてきて、アイは無事かと様子を伺う。
アンケセナーメンは拳を強く握っており、両目に涙を溜めながらも、その雫はこぼれる直前で堪えられていた。
アイがホレムヘブに歩み寄る。
「何故じゃ……何故おぬしがアンケセナーメン様を……」
「その女がヒッタイトの王子を、異国の神々をエジプトに引き込もうとしたからだ」
将軍の言葉に、神官団の間にざわめきが起こった。
それは神官達の利益に関わる問題だからだ。
「ザナンザ王子が行方不明になったのは、アメン神の呪いであらせられる!」
ホレムヘブの叫びに、ツタンカーメンの幽霊は気まずそうにほおを掻いた。
「ではツタンカーメン様を殺した理由は……」
「アイ殿と同じだ。アテン神への唯一神信仰に戻ろうとしたのが許せなかった」
「おぬしもエジプトの混乱を恐れて……」
「しがらみがあるのは神官の世界だけではない! アクエンアテンの宗教改革の時代を、アイ殿がありもしない信仰心をあると装うことで神官の世界を生き延びたように、私は篤い信仰心を隠すことで軍人の世界を生き抜いてきた! ずっと前から奴を殺したかった! 奴の名が気に入らなかった! あのような半端者の小僧が、あの名を名乗るのをやめさせたかった! アテン神信仰への復帰も、あの名を名乗り続けることも許せぬ! あの速度のチャリオットから落ちても即死せず何日も苦しみながら死んでいったのには笑ったぞ! ツタンク・アメンだと!? アメン神の生き写しだと!? その名は! そのような立派な名は! 私にこそ相応しいのだッ!!」
当事者のファラオと場違いなカルブは、置き去りにされた気持ちでその叫びを聞いていた。
「アメン神はホレムヘブのこと気に入らないって言ってる。あ。アテン神と意見が合った。今、握手した。わー、全部の手と順番にやってる。すっげー時間かかりそー」
ツタンカーメンは棺の端に腰をかけ、遠い世界を見つめながら細い足を揺らしていた。
縄をかけようと取り囲む兵士を、ホレムヘブが弾き飛ばした。
「!」
取り上げられた剣を一瞬で奪い返してアンケセナーメンに斬りかかる……が……刃が届く寸前で、アイがホレムヘブにしがみついた。
「ホレムヘブ! ヒッタイトの王への手紙はわしが……!」
老大神官がしわがれた声を上げる。
「知っている! まだ小僧の遺体を託すミイラ職人も決まらぬうちからな! しかしその女は、知らぬ間に婚約させられたなどと言いつつ拒みもしなかった! このまま生かしておけば、誰を次のファラオにするかわからぬ! あの王子さえ居なくなれば良いという問題ではない!」
兵士達は将軍の顔を、神官達は大神官の顔を見つめて、それぞれの仲間とヒソヒソささやき合う。
兵士も神官も、どちらにつくか決めかねている。
カラヘッヤはおろおろするばかりだ。
「神々は何をしているんですかっ?」
棺の中のカルブは怒鳴りたい気持ちを抑えて小声で尋ねた。
「見てるだけだ。そういう規則だ」
そう言うツタンカーメンもいら立たしげだ。
「み、みんな……アイ様を助け……」
言いかけたアンケセナーメンの背中が、誰かの手に押された。
兵士と神官が隣り合って立っていたので、どちらがやったのかはわからないが、アンケセナーメンはよろよろと一歩前へ踏み出させられた。
そしてそのアンケセナーメンの前髪を、ホレムヘブの刃が掠めた。
「きゃっ!」
しりもちをついたことで距離は取れたが、腰が抜けたのか動けなくなってしまった。
カルブは棺に内側から体当たりした。
棺を台座から落とせば、ホレムヘブの気をそらせるはず。
だけど重たい黄金の棺はビクともしなかった。
ホレムヘブが冷たくあざ笑う。
「これが誇り高きエジプト王妃か!? 何と見苦しい! お前などファラオの肩書きを受け渡すためだけの空虚な器! 王妃の肩書きの他に、お前自身に価値などない!!」
「そんなことはないぞよ!」
アイが叫んだ。
「ツタンカーメン様が即位される前から、わしは王宮でアンケセナーメン様を見守っておった! アンケセナーメン様はわしにとっては孫のようなものじゃ!」
「ハッ! その大事な孫を蛮族の王子に渡そうとしたのか!?」
「何を言うか! わしはアンケセナーメン様に、ヒッタイト王国との架け橋という重要な役割をお与えすることで、アンケセナーメン様の名前を後世に残したかったのじゃ!」
「そのためにエジプトの神殿を異国の神に明け渡せと!?」
「そうではない! ともに暮らせば良いではないか! アテン神もアメン神も異国の神も全て神ではないか! 民の前にどなたを押しつけどなたを取り上げるのでなく、全て崇めれば良いではないか!」
次の瞬間、広間中のざわめきが悲鳴に変わった。
祭壇の上、棺桶の中で、ミイラが立ち上がったからだ。
神官達が口々に神の名と祈りの言葉を唱える。
それは誰の目にも奇跡に映った。
「ホレムヘブを捕らえよ!!」
布越しにくぐもった声。
よみがえったファラオの命令に、従う者も居れば逃げ出す者も居たが、逆らう者は一人も居なかった。
アンケセナーメンが起き上がり、ミイラに駆け寄る。
入れ違いにホレムヘブは崩れ折れた。




