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さよならしたくありません 前編

 漆黒の悪霊はあれっきり姿を見せない。

 セト神は住処である砂漠に帰り、砂嵐の神としての仕事に戻ったようだ。


 ミイラの乾燥待ちの間に、カルブは護符や包帯の手配のためにあちこち忙しく走り回り、ツタンカーメンはどこにでもいちいち着いてきた。

 大抵は見ているだけだが、河原での薬草探しは幽霊でも手伝えるので嬉しそうだった。

 工房で薬草を煮て、カルブの祖父の秘伝の防腐剤を作る。


 薬草集めが早く終わった分、空いた時間は、トート神から教わったドラ焼きのレシピをあずき以外の豆で再現するための研究についやした。

 カルブもツタンカーメンも、もとのドラ焼きを食べたことがないので何とも言えないが、何度も失敗を重ねてようやく二人にとって納得のいくものが出来上がった。


 そうして一ヶ月が過ぎて、ミイラ作りの作業が佳境に入った。




 すっかり乾いた遺体への防腐剤の塗布が終わる。

 内臓を取り出すために開けた穴を縫い閉じる。

 体の表面に最高級の香油をたっぷり塗ると、間近で見ていた幽霊からも華麗な香りがただよい出した。


「そーいや、おれって生前はこんなニオイだったっけ」

 ツタンカーメンが体をひねって自分の腕や胴をクンクンと嗅ぐ。


 カルブは自分の手についた香油を嗅ごうとして、カルブ自身のニオイを嗅いでしまった。

 死臭と薬品臭が混ざっていた。


「オレの方が死人みたいですね」

「そんなことねーよ。ちゃんと生きてる匂いがするぞ。この辺とか」

 言うやいなやツタンカーメンは、いきなりカルブの首筋に鼻を沿わせた。


「ちょ! それは汗のニオイです! 臭いでしょう!?」

「香油よりこっちの方がいい匂いだ」

「何を言ってるんですか!? これだから王族は……汗のニオイが珍しいってだけでしょう? 香油の方がいい匂いに決まってるじゃないですかっ?」

「いーや、汗の方がいい!」

「香油です!」

「汗ったら汗!」

「香油! まったく……忙しい時に何でこんなくだらないケンカを……」

「おまえがいい匂いだって認めないからだぞ!」

「だーかーらー!」

「汗!」

「香油!」

「汗!」

「香油!」

「汗!」

「そもそも同じ汗だってツタンカーメン様の方がいい匂いがするに決まっているでしょう!?」

「そう思う根拠は何なんだよっ!? おれだって自分の汗のニオイなんてわかんねーぞっ!?」

「そりゃそうでしょう!! いつだって香油のいい匂いでしょう!!」

「ええい、こうなったら、おまえの匂いをおれにうつしてやる!!」

「うわ!? 何をするんですか!?」


 ………………。


 ミイラの完成まではもう少し。

 こんな風にじゃれ合える時間は残り少し。

 生と死を超えて会話できる力は、王の葬式が終わったら、アヌビス神に返さないといけない。


「なあカルブ、長生きしろよ」

「何ですか急に?」

「ファラオってのは即位した時点ですでに神様の仲間ではあるんだけどな、おれより前の代の、現世でも冥界でもおれより長く仕事をしてきたファラオがいっぱい居る中で、おれみたいな若造が認めてもらうのにはそれなりに時間がかかると思うんだ。だからさ……おまえが年食って順当に寿命を迎えるまでに、おれも勉強して修行していっぱしの神様になる。それまでちゃんと現世で待ってたら、おれの権限でおまえも太陽の船に乗せてやるからな」

「じゃあオレは、現世でいっぱしのミイラ職人になります。まあ、オレはアナタの仕事が終わった時点で一人前だって認めてもらえるはずですけどね。そうしたらきっと、じーちゃんの手伝いじゃなくてオレ宛てにたくさん依頼が来るようになります。……オレは、これからどれだけミイラを作っても、誰のご遺体と向き合う時でも、必ずアナタを思い出します。オレのお客さんになる人はみんなアナタを意識してるでしょうから、アナタをミイラにした職人として、アナタの名を穢すことのないように、しっかりやっていきますよ」

「おう! 楽しみにしてるぜ。エジプト一のミイラ職人……てことは世界一のミイラ職人だ!」

「ちょっと待ってっ。世界一って……」

「おれのサイコーの友達だって先輩ファラオに自慢してやるぜ!」

「……はい!……」


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