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名前を呼んでほしいのです

「ねェねェ、お風呂? ご飯?」

「ご遺体から腸を取り出しまして洗浄をばいたしまス」

 しつこく絡んでくるツタンカーメン王の幽霊に対し、カルブはできうる限りの平静を装い、うやうやしく振る舞おうとした。

「つまりご飯とお風呂とおれのトリプル・アタック?」

 殴りたかった。

 殴れなかった。

 殴りかかる素振りすら見せられなかった。

 幽霊相手に無意味であるという以前に、この幽霊はファラオだから。


(……このお方に神の教えを説くのは無理だ)

 そんじょそこいらの庶民の霊なら神殿に泣きついて助けを求めるというのも考えられたが、相手はファラオ。

 我らがファラオ。

 偉大なファラオ。

 それが悪霊になって人ン家の工房に不法侵入しているなんて、よそで言えるわけがない。

 カルブはこの幽霊を無視しようと決めた。

 それ以外にカルブに選択肢などなかった。


 遺体の腹部に少しだけ切れ目を入れて、その切れ目に手を突っ込んで小腸を引きずり出す。

 本人の目の前で作業をするのは最初こそ緊張したものの、ツタンカーメンが自らの死を嘆くでもなくグロいグロいとバカ笑いするのを聞くうちに、カルブもだんだん気抜けしてきた。


「なぁカルブ」

 作業台の周りをふよふよとただよいながら幽霊が呼びかける。

「何でファラオ様がオレなんかの名前を?」

「表札に書いてあるじゃん。なーなー、カルブー」

「何ですか?」

「死体なんかいじってて怖くなんないの?」

「別に。幼い頃から祖父や父の仕事を手伝ってきましたから」

「でもこんなグチャグチャしてるし変な汁が出てるし」

「ちょ! やめてください!」

 カルブの作業の手がのろくなってくる。

「やっぱおまえも怖いだろ?」

「そんなことありません! 死体は友達! それが祖父の教えです!」

「そっちの方が怖えーぞ」

「ちょっと黙っててください。これから腸をきれいにするんですから、気を散らすことしないでくださいよ。失敗して傷でもつけたらアナタだって困るでしょう? 死んだ後でも使うんですから」

「腸はいいから心臓をやってくれよ、心臓」

「……王様」

 カルブはがっくりと肩を落とし、王の腸をいったん台に置いて、改めてファラオの幽霊に正面を向けた。


「ん?」

「こんなところで油を売っていないで、冥界へ行きたくないのならば、せめて王宮へお帰りください!」

「やだよ。王宮では今、おれを巡ってもめてるんだもん。歴代のファラオのリストに、おれのことを何て記すかでさ」

「だったらなおさら行かないとダメじゃないですか!」

「やーだよー。おれの幽霊姿が見れるのっておまえ一人だけなんだもん」

「そうなんですか? 何でです?」

「おまえがアヌビス神のお気に入りだから」


 なんと神様からの特別扱い。

 カルブは思わず舞い上がりそうになったが、すぐに疑問が沸いてきた。


「オレの祖父も父も立派なミイラ職人ですが、二人とも幽霊を見たなんて話をしたことはないです」

「ああ。顔がアヌビス神の好みじゃないみたいだ」

「そんな理由ですか!?」

 ちなみにカルブの父と祖父は年さえ違わなければ双子のようにそっくりで、カルブは母親似の繊細そうな顔立ちである。

「それにほら、おれは異例中の異例にして特例中の特例だからな。親父さん達にはそういう場面がなかったんだよ。とにかくそんなわけだから、王宮に戻ったって何にもできないし、居心地が悪いだけなんだ」

「…………」


 ファラオの腸をヤシ油で洗って、ナトロンという塩のようなものをまぶして水分を吸い取る。

 乾いたら亜麻の布で包んで専用の壷に入れるのだが、乾くまでには時間がかかり、その間に他の臓器に取りかかる。

 次は胃だ。


「なー、カルブー。おれの心臓って軽いか?」

「そちらの処置をする順番はもっと後です」

「おれの心臓、軽いだろ?」

「まだわかりません」

「軽いよな?」

「不安なんスか?」

「不安じゃないやつなんか居ないさ」

 ファラオの幽霊はムッとしてそっぽを向いた。


 心臓には生前の罪が蓄積され、罪の分だけ重くなる。

 神々の王が待つ冥界で、全ての死者は裁きを受ける。

 アヌビス神が持つ天秤の、片方に死者の心臓を、もう片方に正義の女神マアトの羽を乗せて、神々の書記官のトート神が釣り合いを見る。

 心臓が羽より重いと、心臓はその場で怪物に食われてしまい、死者の魂は天国に行けないしミイラを作っても復活できない。


「アテン神を崇めている場合はさ、アヌビス神も女神マアトも居なくなるんだ。怪物も出てこない。慈悲深きアテン神は……要するにお人よしだからさ、泣きつけばどんなとんでもない罪人でも許してくれるんだよ。だから先代のファラオは、歴代のファラオのようにたくさんの神々を奉るのを辞めにして、アテン神一人だけを崇めるようになったんだ」

「アクエンアテン様がそんなに悪い方だとは……」

 カルブは軽く言いかけて言いよどんだ。

 一般人の葬式ならば不安がる親族に適当な世辞を言って慰めるのも仕事のうちなのだが、先王には悪評も多い。


「人は皆、何らかの罪を犯してる。自覚があるかないかだけだ。政に携わる人間ならなおさらだ。自覚があるだけ先王はマシな方だった。神官も近頃は政に関わりすぎる。特にアイのやつなんかは、ね」

「ああ……いろいろうわさになってますね」

 大神官アイは、エジプト中の全ての神官達の長。

 しかしその地位は信仰心の篤さではなく、世渡りのうまさによって手に入れたものだといわれている。

 可愛い名前に似合わない悪人顔のジジイである。


「太陽神ラー。冥界の王オシリス。神々のリーダーでもある豊穣神アメン。エジプトには他にも無数の神々が居られ、それぞれに信者が居て神官が居る。自分のところの神様が最高だって、思ってるのは別にいいよ。でもそのために他の神様を蹴落とすような真似を、人間の側がしちゃいけない。

 アメン神の神官は、他の神々の神官に傲慢な態度を取ることがある。特にアテン神の神官に、ね。どちらもただの神官でただの人間なのに。矛盾してるけどそんなことをしているアメン神官にこそ、お人よしなアテン神の加護が必要なんだ」

「本当に矛盾していますね」

「うん。堂々巡りだ」

「でもツタンカーメン様はアテン神への信仰を放棄なされたのですよね? アイ様率いるアメン神信仰の神官達に言われるがままに」


 ツタンカーメン王が生まれた時につけられた名前は、ツタンカー“テ”ン王子だった。

 ツタンク・アテン。

 その意味は、アテン神の生き写し。


 国全体がアメン神を筆頭にした多神教を奉る中で、もともと多神教の中の一人であり一地方の守り神だったアテン神を、アクエンアテンは異常なほど熱心に信仰し、それを国民にも強要した。

 多神教から一神教へ。

 エジプト中、世界中の諸々の神々への信仰を禁じ、アテン神のみを唯一絶対の神として崇めよ。

 アテン神以外は神として認めない。

 どちらが上か下かではなく、居ない。

 唯一神の他には神は存在しない。


 崇める神を一人にしても神官同士の対立は消えず、その強引かつ急速な宗教改革はエジプト国内に深刻な混乱をもたらした。

 カルブの祖父はもともとのアメン神信仰を守りつつも、役人に目をつけられぬようミイラ職人の仕事はカルブの父に譲り、カルブの父には唯一神アテンを信仰するように、カルブにはどっちつかずであるように命じた。


 アクエンアテンの死にともない、アクエンアテンに特別に目をかけられていたツタンカーテンは、わずか九歳で、ならわしにのっとってアクエンアテンの儀礼上の妻である当時十一歳の少女と結婚をしてファラオの地位に着いた。

 ツタンカーテンは幼い頃からアテンの神殿に預けられてアテン信仰を教え込まれてきていたが、しかし即位してすぐに大神官アイをはじめとする神官達から内戦を防ぐためと説かれてアメン神信仰に乗り換え、その際に自分の名前もツタンカアテン(・・・)からツタンカアメン(・・・)……ツタンカーメンに変えた。


「ちまたのうわさじゃそういうことになってるみてーだけどさ、別にアイ達に言われるままにってわけじゃねーんだぜ。だってほらカルブ、おまえ、アテン神がどんな姿か知ってっかよ?」

「もちろん。まだ像を残してありますよ」

 工房の隣の部屋にはさまざまな神様の像が収められており、お客様の信仰に合わせて出したりしまったりする。


 ツタンカーメン王のアメン神への改宗により、唯一神という考えは廃止された。

 多神教の復権は、アテン神の信者への迫害を招き、カルブの父はテーベを離れ、祖父はミイラ職人の仕事に戻った。

 祖父が大神官アイの親戚の目に留まったのは、祖父がアメン神への信仰を守り続けていたからである。

 唯一神信仰に走った実の息子を追放したのも……実際は計算ずくでの独立だったのだが……神官達からの高評価の要因となった。


 多くの職人を抱える大きなミイラ工房には、今もアテン神を唯一神と称え続ける信者が隠れている可能性がある。

 そこでは駄目だとアメン神の神官は言う。

 多神教の中の一地方神としての昔ながらの信仰ならばアテン神を崇めても良いが、唯一神という考え方は許さない。

 アテン神だけを特別視する信仰は、他の神々の存在を、他人が大事にしているものを否定して、争いを生むから。

 よってカルブは、生まれた時には唯一神信仰が国教であったにも関わらず、生まれついての多神教信者のような顔をして働いている。


 カルブがアテン神の像を棚から取り出したのを見て、ツタンカーメンが口の端をゆがめた。

「この生き写しはさすがにねーだろ」


 エジプトの神々の大半は、人間にそっくりか、人間の胴体に動物の頭を乗っけた格好をしている。

 例えば人の体に犬の頭のアヌビス神はその代表。

 犬は墓所を護る聖なる生き物なので、ミイラ職人の守り神にふさわしい姿である。

 神々のリーダーであるアメン神は、この時代の人間が考える理想形のような顔に、この時代の人間が考える理想形のような体をしている。


 太陽神のラーは勇壮なるハヤブサの頭に人の体。

 エジプトにはラー神の他にも、日の出のケペリ神や日没のアトゥム神、太陽の運行を手助けするトート神に、太陽のパワーを瞳に宿すホルス神など、さまざまな太陽関係の神がおられる。

 あまたの太陽神を束ねるリーダーのアメン神もまた、豊穣神であると同時に大気の神であり太陽の神でもある。


 アテン神もそうした太陽神の一人なわけなのだが……

 アテン神の姿は独特であらせられ、もっとも太陽神らしい太陽神であるとも言える。

 外見的にまさに太陽。

 擬人化なんかしていない天体としての太陽。

 つまりただのマル!

 そのただのマルが顔であり頭であって、そのマルから伸びる無数の光の筋が、無数の腕の形になって、地上の人々に救いを差し伸べているのである。

 つまりアテン神の姿には頭と腕しかない。


「さすがに無理がありますね」

「ところが先王サマはそう思っていなかったんだよ。先王サマは、おれのこの貧弱な脚がいつか消えて、胴体もなくなって、このゆがんだ頭蓋骨から腕が生えて本当にアテン神そっくりになる日がくるって本気で信じていたんだ。だからおれを跡継ぎにしたわけ。先王サマはおれのことをアテン神の息子だって思い込んでいたんだよ。アテン神本人に違うって言われたけど」


「確か本当の父親は、アメンホテプ三世様でしたっけ?」

 アクエンアテンの前の代のファラオである。

 名前のとおり、アメン神に忠実だった。

「アイにはそう教えられた。でもそれは、そうしておくのが政治的に都合がいいってだけの話だ」

 アクエンアテンに破壊され、ツタンカーメンによって修復されたアメン神の神殿の壁には、ツタンカーメンの父親はアメンホテプ三世だと書かれている。

「じゃあ……」

 本当の父親は誰なのか、訊いてはいけない空気を感じてカルブは口をつぐんだ。

 ちなみにツタンカーメンの母親は、男ならば本人がファラオになっていてもおかしくないぐらいに高貴な血筋の出だったが、一人息子を生んですぐに亡くなっている。


アメン神の生き写し(ツタンカーメン)に改名したらおれもアメン神みたいなカラダになれるかなって思ったんだ。筋骨隆々に」

「名前だけじゃ無理っしょ」

「努力しなかったわけじゃーねーよ。でも杖なしで歩けるようにすらなれなかった。で、アメン神への信仰心が薄れ始めたら、急に先王サマが懐かしくなって……一応は親代わりだったからさ……名前をツタンカーテンに戻そうかって側近に相談していたところでの事故死。

 だから王名表にツタンカーメンって書くかツタンカーテンって書くかで、アイとホレムヘブでもめちゃってさ。アイは自分がアメン神の神官だからツタンカーメンを、将軍のホレムヘブは宗教にはそこまでこだわってないから、おれの言葉を引っ張ってツタンカーテンを押してるわけ」

「それは……ホレムヘブ様を応援したいですね」

「んにゃ、名前を戻したいってのはそこまで本気だったわけじゃねーんだ。おれは思いつきでちょっと言ってみただけだし、ホレムヘブはアイに対抗したいだけだし」


 カルブは拍子抜けして目をしばたかせた。

 少し考えてから尋ねる。

「ご自分ではどうなさりたいんです?」

「決めらんねー。外国の神様もいいかななんて、生前は思ってたりもした」

「じゃあヒッタイト王国のうわさは……」

「その話はするな」


 カルブは頭を抱えた。

 そしてまたしばらく考える。

「とりあえず王宮へ戻りたくない理由はわかりましたけど、だからってミイラ工房に入り浸る理由にはなりませんよ。現世に居る意味がないんなら、さっさと冥界へ行けばいいじゃないですか」

「ダメ。冥界では今、アテン神とアメン神がおれを奪い合って殴り合いのケンカをしてる」

「殴り合いですかっ? 神々がっ?」

「うん。もう何日も休みなしで続けてる。人間界の陰険な裏工作合戦よりスッキリしてていいよな」


 カルブはまたまた考え込んで、棚からアメン神の像を取り出して右手に掴み、アテン神の像を左手に持ってカチャカチャぶつけて戦わせてみた。

「一対一なら手数の多いアテン神の方が有利でしょうか?」

「いやいや、アメン神はマッチョだぜ。それに他の神々の応援も、手出し無用とはいえアテン神にはプレッシャーになってる。特に女神の集団の黄色い声援はな」

「とにかくそのせいでアナタは現世に足止めを食らっておられるのですよね? それでは他の死者にも影響が出ているのではありませんか?」

「それは大丈夫。他の神様が頑張ってるから」

「やっぱり多神教はいいですね」

「でも仕事が増えて忙しくなっちゃって、ちょっとヒマがあればケンカの見物で、だーれもおれの相手をしてくれない」

 ファラオは深々とため息をついた。


「ご家族は? 冥界にご先祖様が大勢いらっしゃるはずでしょう?」

「会うのは葬式の後だ」

「普通はそうでしょうけれど、ここに居るのよりかは普通に近いでしょう? 神様に頼んだらどうにかしてもらえるのでは? さっさとお母様にお会いして……」

「ヤだ」

「何で?」

「父親のこと、知るのが怖い。実はアクエンアテンでしたとか言われそうだから」

「うわあ」

「うわあとか言うなよ。葬式が終わるまでには覚悟を決めるつもりなんだからさ」

 そしてまたため息。


「おれが死んだのって事故は事故なんだけれどさ、おれってアテン神とアメン神のどっちから天罰を食らってもおかしくないじゃん? だからあんまりチョロチョロして機嫌を損ねたくないんだよ」

 カルブは呆けた顔でファラオを見つめ、いきなりいろいろ聞かされた中で自分が一番に考えるべきことは何なのだろうと考えた。

「……オレはツタンカーメン様とツタンカーテン様のどちらの名前でお呼びすれば良いのですか?」

「つーたん」

「嫌です」

 カルブは即答した。


 ツタンカーメンの親戚関係は非常に複雑で、正確に説明するとやたら長くなるので、ここでは極力省略いたしました。


 アクエンアテンについては続編でメインテーマにする予定ですので、まだつっこまないでくださいっ。


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