邪神の去り際 1
ツタンカーメンの墜落地点に駆けつけたカルブは、幽霊には触れられないとわかっていながら手を伸ばし「やっぱり」とうなだれた。
地面をたたいた手に砂が張りついた。
幽霊は気絶したまま荒い呼吸をくり返していた。
「……アンケセ……ナーメン……」
わずかに持ち上げられた腕は、カルブが触れられるものでも、触れて良いのでもなかった。
カルブは助けを求めて周囲を見回した。
誰も居なかった。
人も、神も。
セト神は姿も気配もいつの間にか完全に消えている。
それだけでなく、アテン神や他の神々も居ない。
いや、神々が居なくなったのではなくて、カルブの目では見えなくなっただけ。
ツタンカーメンが気を失ったことで霊力の繋がりが断たれ、神々を見る力がカルブから抜けたのだ。
遠くでは混乱の収まらない人々の声。
近くで聞こえるのは風の音と……
ツタンカーメンのうわ言……
「……おれは……死なないから……」
「って、幽霊が何を言っているんですかっ?」
返事はない。
返事ができるような意識は戻っていない。
「……馬のせいじゃない……あの馬達は悪くない……」
「馬って?」
牛なら多く飼われているが、馬は一般的ではない。
カルブが最後に馬を見たのは工房での王妃暗殺未遂の時。
その前は……
「立ち乗り馬車の事故! ツタンカーメン様!? 自分が死んだ時の夢を見ているんですか!?」
揺り起こせないのがもどかしくてたまらない。
あの日、ツタンカーメンが倒れた場所は、ここと同じ硬い地面だった。
いや……
「この場所だ……」
祭りの日、兵士達が警備する中で、虚弱とのうわさを打ち消して王の勇猛さを示すために、白馬に引かれたチャリオットが駆け抜けたのは、この町のこの道だった。
ツタンカーメンの肉体はチャリオットから落ちてすぐに王宮に運ばれて、柔らかな寝台に寝かされたが、足の怪我からの感染症により数日後に命を絶たれた。
空から落とされた魂は、日光に熱せられた地面の上で、死の記憶をなぞっていた。
「邪神はいったい何を……?」
カルブの脳裏を、二度目の死という言葉がよぎった。
それはこの時代のエジプト人にとってもっとも恐れられるもの。
すなわち魂の消滅……
「……おれは……死なない……」
熱に浮かされてあえぐ。
「ツタンカーメン様!」
「……泣かないで……アンケセ……」
あえぎが途切れた。
「ツタンカーメン様ッ!!」
そのまぶたは閉じられたまま、ツタンカーメンがふわりと浮き上がった。
「っ!?」
カルブがとっさに飛びついて止めようとしたが、やはりすり抜ける。
しかし王の幽霊は、カルブの胸ほどの高さで止まり、それより上に行くことはなかった。
ダラリと垂れた足。
支えられているような肩。
どうやら透明な誰かに抱きかかえられているらしい。
「誰……ですかっ?」
警戒を込めた声で問う。
返事はなく、その誰かはツタンカーメンを川の方向へ運んでいった。
慌てて追いかけるカルブの鼻腔を、嗅ぎなれたニオイが刺激した。
これはカルブの仕事場のニオイだ。
「アヌビス神様……?」
カルブはミイラ職人の守り神の名を呼んだ。
見えない誰かがうなずいたような気がした。




