邪神との対決 1
壮麗なる王宮内は、ツタンカーメンの葬儀の準備に追われていた。
窓から風が吹き込んだ。
暑い土地の王宮は、風通しが良いように造られている。
アンケセナーメンは異変に気づいて窓の方を向いた。
いつもは風は王妃の涙をぬぐうように吹くのに、今日の風は、王妃をうとましがっているかのようだった。
まるで、いつまでも泣きやまない幼子に、腹を立てて手をあげる養育者のような……
王族として専門の乳母に育てられたアンケセナーメンにはそのような体験は皆無だが、それでもそれに似た感覚を覚えた。
王妃はバルコニーに出た。
砂漠から来た砂粒が風に舞っていた。
王都の様子がおかしいのはわかった。
その正体を確かめようとして、王妃は長いまつげと虫除けのアイシャドーの奥の瞳をこらした。
アンケセナーメンにはセト神の姿は見えないが、邪神の化身の巨大なカバは、すでに彼女の目と鼻の先にまで迫っていた。
巨大なカバが大口を開けて息を吸い込む。
王宮の中に住み着いていた悪霊達が、王妃の脇をすり抜けて、邪神の口の中に飛び込んでいく。
アンケセナーメンは奇妙な風を受けて髪を押さえた。
無意識ながらも可憐なしぐさだった。
王宮の悪霊を取り込んで、邪神の体はさらに大きさを増した。
日の出の書をにぎりしめて見晴らしの良い広場へ移動していたカルブは、王宮を遠目に眺めてゾッとした。
悪霊を招くのは、生きている人間の悪意。
それが国の中枢に……
ツタンカーメンが暮らした場所、その妻が今も暮らす場所に、こんなにたくさん居たなんて……
邪神が巨大な舌を伸ばした。
アンケセナーメンを舐めようとしているようだが、舌と王妃の大きさの差を考えれば、舐められる前に王妃は押しつぶされてしまうだろう。
そこに……
「ファラオ・キーーーック!!」
ツタンカーメンが割って入り、カバの舌に猛禽類の鋭いツメを突き立てた。
さすがに舌先は敏感で、セト神は舌を引っ込め、何故ここにコイツが居るのかと問うようにファラオをにらんだ。
「アンケセナーメンを助けてくれるって言ったのに!」
黄金のハヤブサが激しくさえずる。
「命を守るとは言っておらぬ! 夫婦そろって悪霊となって我輩に仕えよ! 我輩の領地にて永遠に寄り添わせてやるぞ!!」
とどろく声がカルブのところにも届く。
「アンケセナーメンに手を出すな!!」
「ならばお前一人孤独なまま地獄に引きずり込んでくれようぞ!!」
セト神が吐く息の瘴気がツタンカーメンを直撃した。
「うわあああっ!!」
全ての羽毛が一発で吹き散らされる。
ツタンカーメンはまるで丸焼きにされる直前の鶏肉のような無様な格好になって真っ逆さまに落ちていった。
カルブはすでに祝詞を唱え始めていた。
カルブには人に貸せるほどの力なんかはもともとないが、ツタンカーメンの力を引き出す手伝いならできる。
『聖なるハヤブサに変化する』の章。
すなわち、人間の胴体にハヤブサの頭部を持つ、ホルス神に変身するための祝詞である。
「祝えり祈れり、大いなる神よ! ワレは願う、王のための、なめらかな道を!」
宙を舞っていた羽毛が再びツタンカーメンのもとに集い、まばゆい光を発し始める。
「ワレは願う、王が居るべき場所へ飛びゆけるように! 王は力を増して舞い戻れり!」
黄金の羽毛がツタンカーメンを包んで二度目のマユを形成する。
「ワレは願う、他者を震え上がらせる姿を! なんじに願う、死の国の神々すら恐れなす力を!」
巨大カバの前足がマユを踏みつぶそうとする。
「ワレは願う、王に害なすモノが王に近づかぬように! 王を弱者のごとく扱わすなかれ!」
マユはひらりとカバの足をすり抜け、カバの頭よりも高い位置へと上昇する。
「祝えり祈れり、ああ、神々よ、父オシリスが息子ホルスに正義と真理を語る時、他の神々は口を閉じて耳を傾けよ! 祝えり祈れり、ああ、オシリス神よ、ホルス神に伝えし言葉を王にも伝えたまえ!」
マユ全体が心臓のように脈打つ。
「ワレは願う、王に思うまま空を飛び回らせたまえ! なんじの魂を王に見せ、なんじの姿を王の上に現し、王に王としての権利と能力をもたらしたまえ! 全生命を司る冥界神のごとく、王がそこに居ると示させたまえ!」
マユが砕け散り、中から新たな姿のツタンカーメンが現れた。
「おのれ、ホルスめ……」
邪神セトがうなった。
二回目の変化を遂げたツタンカーメンのシルエットは、壁画や彫像のホルス神とはいくらか異なっていた。
顔はツタンカーメンのまま。
額にはいつも通りの王冠。
体形も人間のものとほとんど変わっていないが、背中に翼が、腰からは尾羽が生えている。
頭巾や腰布は羽毛となって、体にピッタリと張りついている。
いずれの羽にもハヤブサの特徴的な白と茶色の模様が見られた。
ツタンカーメンが両腕を広げた。
左右の手にはそれぞれ王しゃくをにぎっていた。
左手には牧畜を表す、先端が鉤状になった杖。
右手には農耕を表す、先端にふさのついた杖。
その二本の王しゃくで自ら風を起こして滑空する。
それはファラオにふさわしい神々しい姿だった。
参考資料
『世界聖典全集. 前輯 第10巻』
大正九年、出版。
研究番号 七八
今回もお世話になりました。
旧漢字の「為」に当たる文字が「鳶」に見えてしまって、ハヤブサなのにトンビ?と、かなり混乱しました。




