息もできない心地です
悲鳴を上げて逃げ出したカルブは、日干しレンガの宿舎に閉じこもって自宅から持ってきていた小さめのアヌビス像を握りしめ、毛織の布団をかぶって何時間も祈り続けた。
砂漠の国では昼は暑くとも夜は寒い。
今はまだ日が暮れたばかりの時刻だが、カルブは震えが止まらなかった。
祖父とカルブの二人しか使わない小さな宿舎も、カルブ一人では広すぎるぐらいに感じられた。
職人がミイラの加工をしている間、死者の魂は冥界の入り口で神々と過ごす。
魂は死から七十日後の葬式の時にいったん地上に戻ってきて、葬式を行ってから本格的に旅立って、冥界の最奥の楽園を目指す。
死者の復活は楽園に着いた後の話だ。
つまり死者の魂は今、冥界に居るはずなのだから、幽霊なんかになって出てくるはずがない。
異国の伝承にそういうものがあるとは聞くが、このエジプトにおいては、アヌビス神の御許にあるはずの魂が時期を無視してさ迷い出るなどありえない。
そう教えられてきた。
なのに現れた。
「アヌビス様、オレをお守りください……あいつは神の裁きを恐れて冥界を逃げ出した悪霊に違いありません……」
布団の中でブツブツとつぶやく。
布団から出るのを恐れているうちに、気がつけば渡し舟の出航時間を過ぎてしまっていた。
(いいさ。どうせ夜の川は危険だ。明日になったら朝一番で東岸へ、町へ帰ろう)
そんなことを思いつつ、いつの間にか眠ってしまって夜が明けた。
一度眠って目覚めてみると、すべて夢だったように思える。
(あの幽霊がまだいたら、神様の教えを説いて退散してもらう! 大丈夫、オレにはアヌビス神がついている!)
朝食の前に一度、朝日を浴びて気合を入れ直そうと考え、カルブは表に出た。
お隣の壁画ギルドの大きな宿舎が騒がしい。
その玄関には日除け布が張ってあるだけで、一般的な建物と同じでドアも鍵もなく、悲鳴や怒号がそのまま垂れ流されている。
「ええい、この悪霊め!」
若い職人の叫びが響く。
カルブは声のした建物に飛び込み……
その直後に自分の無鉄砲さを呪った。
広い部屋に、大勢が雑魚寝するための布団が敷きっぱなしになっている。
その中央に、彼は居た。
幽霊は幻でなく存在し、見間違いでなくツタンカーメン王だった。
王は悪鬼のような表情でカルブを睨みつけた。
「呼吸をするな!」
その言葉にカルブは震え上がった。
いかにファラオの命令でも、死ねと言われて従うわけにはいかない。
「ああ! あそこに悪霊が!」
「悪霊がそこにもこっちにも!」
怯え切った職人達が、てんでバラバラの方向を指差す。
部屋の隅、天井の角。
その先に居るはずのモノの姿は、何故かカルブには見えない。
それでいて部屋の中央、一番目立つ場所にたたずむファラオには、カルブ以外の誰も気づいていないようだった。
「いいから早く息を止めて外に出ろ! こいつら毒ヘビ除けの香と間違えてシェペネの軟膏を火にくべちまったんだ!」
「うげえっ!?」
慌てて回れ右してカルブは宿舎から飛び出した。
シェペネという植物の実には皮膚病を治療する効果があるのだが、燃やして煙を吸うと幻覚を見て、錯乱状態におちいることもある、非常に危険な薬草なのだ。
カルブは戸口の日除け布を引きはがし、宿舎の中をバサバサと扇いで換気した。
隣を見るとツタンカーメンも腰布でバサバサやっていた。
腰布をはずして、両手に持って。
腰布を脱いだということは、パンツが丸出しになっているということである。
ファラオのパンツは三角形の亜麻布で、この時代にはゴム紐はなく、普通の紐で結んで留めている。
形状としてはフンドシに近い。
ツタンカーメンはカルブの視線に気づいて頬を朱に染めた。
「何だよ」
「いえ、そのっ、幽霊が扇いで効果あるんですか?」
「シェペネの霊体を払ってるんだよ」
「なるほど」
騒動はほどなくして治まった。
宿舎にあふれた悪霊は、お薬による幻覚だった。
壁画ギルドの職人達は、あちこちぶつけて軽い怪我をして、集落の外まで飛び出してナイル川に落ちてしまった者も居たが、幸いにも近くにワニは居なかった。
シェペネの煙が晴れて、ツタンカーメンは腰布を巻き直した。
この時代のエジプトでは、男の衣服は腰布一枚というのが基本。
それは王も職人も変わらないのだが……
カルブの腰布は仕事で汚れるのを前提に、安い素材で必要最低限の丈しかない。
対してツタンカーメンのものはいかにも高級そうな見るからに柔らかい布で、たっぷりと取られたドレープがゆったりとしたラインを描きながら膝下までを覆い、足の奇形ぐらいではそこないようのないファラオの高貴な立ち姿を引き立てている。
同じものをカルブが纏っても、きっと服に着られたようになってしまうだろう。
「んじゃ、また後でな」
王が微笑む。
「は、はい……」
「逃げるなよ」
「はい!」
ふわりと宙に浮き上がって飛び去っていく王の背中に、カルブは思わず見惚れていたが……
「悪霊なんざ実在するわけねエ!!」
壁画ギルドの親方が部下達をどやしつける声で我に返った。
カルブはこの親方の部下ではないが、親方とカルブの祖父は古くからの付き合いである。
「もしもファラオが悪霊になってたら……」
カルブはおずおずと尋ねた。
「ああン!? 罰当たりなことを言うな!! 神官に聞かれたら不敬罪でしょっぴかれッぞ!!」
「ですよねー」
それに……
カルブはツタンカーメンの姿を思い出した。
ツタンカーメンのパンツを……
ではなくご尊顔を……
職人達を助けるためにパンツ丸出しで頑張っていた少年王の表情を。
(あの方は悪霊なんかじゃない)
カルブは自分の工房へ走った。
見張りの兵士達にあいさつをすると、昨日の様子を不審がられた。
兵士達もツタンカーメンの幽霊は見えないらしい。
悲鳴を上げたのはミイラ作りのための儀式の一環だったと適当なウソをつき、カルブは背筋を伸ばして工房に入った。
「お帰りなさい、あなた! ご飯にする? お風呂にする? それとも、あ・た・し?」
まぎれもないヤローの声で、キモイ言葉が飛んできた。
ツタンカーメン王は口もとに指を当ててチョコンと首をかしげてみせた。
(やっぱりこいつ悪霊だ)
カルブの額を汗が伝った。
※シェペネとは現代語で言う“芥子”のことです。
つまりアヘンです。
あんまり深く考えないでくださいぃぃい!




