邪神の誘惑 2
昼頃に起き出して、カルブは一人で護符作りを始めた。
ツタンカーメンのミイラを守るための大切なお守りだ。
宝石を使うものは専門の工房で、細工の細かい神の像は神殿で作られる。
カルブは小さな板をノミで削って、護符の主となる死者の名を刻む。
王の体がこの世界に永遠に残るように。
王の名前がこの世界で永遠に記憶されるように。
ツタンカーメン、ツタンカーメン、ツタンカーメン……
カルブの机はファラオの名前であふれたが、それでも予定より遅れていた。
カルブは椅子をずらして伸びをした。
邪魔する幽霊が居ないのに、思っていたほどはかどらない。
気がつけばこの時期に手に入るフルーツや、牛乳を分けてもらえる農場のこと、つまりクレープの材料のことばかりを考えてしまっていた。
(だってオレだって食べたいし)
違う。クレープではなくツタンカーメンのことが気になっているのだ。
心配?
正直になれ。
寂しい?
絶対に認めない。
(明日あたり、ツタンカーメン様を連れて農家を巡ってみよう)
そう決めて少しスッキリして、カルブは手もとの作業に戻った。
同じ頃、王宮の真ん中で、ツタンカーメンは石の床にへたり込んで震えていた。
かたわらではイノブタに似た幻獣の頭が高笑いを上げていた。
「アヌビスめ、ケチ臭い奴だ! ほんの少し力を足してやるだけで、見える世界がこんなにも変わるというのに!」
ツタンカーメンの幽霊は、アヌビス神の霊力を借りることで現世をある程度は自由に動けているが、その力は制限されたものだった。
つい先ほどまでツタンカーメンの目には、王宮は陰気ではあるが穏やかなように映っていた。
たとえ嵐の前の静けさだとしても、静かではあった。
しかしセト神の力によって“目を開かれた”今、王宮は得体の知れないバケモノであふれていた。
幽霊を自分のこととするならば、そのバケモノは幽霊とは異なっていた。
ふよふよとただよっているが、顔がない。
服と素肌の区別がつかず、影が地面を離れて浮き上がったようでもある。
(……こいつら……どうしてこんなに不気味なんだ……?)
真っ黒だったり、灰色だったり、白っぽいモノも居るが、いずれからも明るい気配は微塵も受けない。
(……関節だ……)
しばらく見ていて気がついた。
腕や足が、肘や膝の曲がり方ではなく、ヘビの体のようにウネウネとうごめいているのだ。
ソレらは王族が行き来する通路を我が物顔で飛び交い、神官達をつけ回し、役人に体をまとわりつかせていた。
「あれが悪霊だ! お前ら人間が護符で防いでいる“つもり”になっているモノどもだ!」
セト神の声は豪快ながらも、おどろおどろしく響く。
「護符とは神への祈りを受けて、神の力を借り受ける、心の結び目。形だけ取り繕ったところで、信心の足りぬ者に神の力は引き出せぬ。あれではただの飾りだな」
前を横切る神官は、いくつもの護符を身に着けているのに、悪霊が退く様子はない。
「人間どもに悪の心がはびこると悪霊が集まり、悪霊が近くに居ると人間どもの心が悪へと吸い寄せられる。どちらが先とも言えぬし、どちらも常に人の世とともにあるものだ。しかし今の王宮では、ちーとばかし増えすぎておるな」
「こんなものが、今までも、おれの周りに……?」
「見えておらんかっただけでずっとおったぞ」
悪霊の中の一体がツタンカーメンに気づいて襲いかかってきた。
ツタンカーメンは悲鳴を上げ、腕を振り回して抵抗する。
しかし悪霊はツタンカーメンに触れられるのに、ツタンカーメンの手は悪霊の体をすり抜けてしまった。
「フーム、どうやら今までは、お前に悪霊が見えぬ代わりに、悪霊からもお前が見えんようになっておったようだな。アヌビスめはケチではなく過保護か。見せつけて脅えさせてやった方が信仰心も高まるであろうに」
セト神が悪霊の額を指でピンッと弾くと、悪霊は視界の彼方まで吹き飛んでいった。
「ひゃ……あ……」
「騒ぐな。悪霊に憑かれただけでは死にはせん」
ツタンカーメンはホッと息をついた。
しかしその表情を見てセト神は口の端を吊り上げた。
「だがな、悪霊が活性化すると、さまざまな悪いことが起きるぞ。まず病気や事故が増え、次いで毒のあるクモやヘビが数を増やし、人は危険に鈍感になって、時に自らを傷つけたいという衝動に駆られる。人の心に魔が差すことが多くなり、他者の悪い部分に過度に関心が行き、その目は己が愛する者にすらも向けられる。そしてな……毒は効きやすくなり、毒針は陰に隠れやすくなり、護衛は注意力を削がれるのだ」
「こんなやつらが……おれの王宮に……」
「王宮だけではない。量の多い少ないこそあれど、国中のどこにでもおる」
「おれの国に……」
震えが収まった。
恐怖は怒りに変わっていた。
「怒りは悪霊のまき餌になるぞ」
セト神がクククッと笑った。
「特に王の怒りはな。心を静めることだ」
悪霊の姿が見えない状態なら、できた。
見えてしまったら、もう、できない。
通路を行きかう人々が、一斉にひれ伏した。
侍女を従え、護衛に囲まれ、アンケセナーメンが歩いてきたからだ。
周りにどれだけ人が居ても王妃は寂しそうで……
その悲しみをすするように、王妃に悪霊が群がっていた。
「この! おれの妻から離れろ!」
ツタンカーメンが悪霊に殴りかかろうとする。
「よせよせ。お前にそんな力はないわい」
セト神がツタンカーメンの首飾りを掴んで引き止め、ゲラゲラと笑った。
アンケセナーメンが通り過ぎてゆく。
後ろ姿は悪霊に覆い尽くされ、華奢な背中を見送ることすら許されない。
「もともとは善い女だったのだがな。それこそ悪霊など全く寄せつけず、遠巻きに眺めさせすらせぬほどにな」
セト神の声にはあざけりの色がにじんでいた。
「お前を失ったせいで神を信じられなくなり始めておる。こりゃ、信仰心が完全に消えて、護符が無力化するのも時間の問題だな」
ツタンカーメンはビクリと肩を震わせた。
「いかにも弱そうな女だ。悪霊が体の隅をちょっとカジっただけでイチコロであろう。信心の欠けた状態では死後の楽園にも入れぬぞ」
「ア、アアア、アンケセナーメンを助けて! 助けてください!」
「ツタンカーメンよ、我輩は神であるぞ? お前は今、神頼みをしておるのだぞ? 神が人ごときにホイホイと振り回されるわけにはゆかん。まずは供物が必要であろう」
供物。
それこそがセト神の目的であった。
「いったい何を……? おれに用意できるものなら何でも……」
言いながらツタンカーメンの声が小さくなっていく。
生前ならファラオとして命じれば世の中の大抵の物品は手に入ったが、今は……
「クハハ、何を脅えておる? よもや我輩が人身御供を求めるとでも思うたか?」
「い、いえっ、そんなわけでは……」
実際のところツタンカーメンは自分に生け贄になれと言われれば喜んでなるつもりだった。
すでに死んでいるのに生け贄として成立するのかどうかは怪しいが、それであの悪霊どもからアンケセナーメンを守れるのならば安いものだ。
アンケセナーメンを助けてくれるのなら、誰であってもすがりたい。
たとえ目の前に居るのが神話に名高い邪神であっても。
セト神はいやらしく笑う。
「無理難題を押しつけて困らせて楽しもうというのではないぞ? お前にならば、たやすいことだ。まあ、お前にしか頼めぬことではあるがな」
友好的と呼ぶにはあまりに気味の悪い笑顔だった。
「アヌビスはお前に目隠しをしただけだ。アメンもアテンも互いの威信のためにお前を取り合っておるだけで、お前を救おうとはしておらん」
「…………」
「神話にたたえられし善なる神々はお前などほったらかしだ」
「……そんな……ことは……」
「ないと言うのか? なあ、ツタンカーメンよ。知恵の神トートがお前に何をしてくれた?」
「どうしてそんなことを訊くんですか……?」
「知恵の神とまで呼ばれし者が、お前に何を教えてくれた? パンケーキの味? クレープの作り方? お前が知りたいのはそんなモノについてなのか!? 違うであろう!!」
雷のようにとどろく声がファラオの心臓を揺さぶる。
「ツタンカーメンよ、知恵の神トートの書庫へもぐり込め!! 死せるファラオよ、知恵の神トートの秘蔵の書物を持ちい出せ!! そしてそれを我輩に捧げよ!!」
古代エジプトには悪霊という概念はあったのですが、当時の人々は悪霊について記録すると悪霊が永遠の存在になってしまうと考えていたため、資料はほとんど残っていません。
作中の悪霊の設定は、細切れの情報をもとに筆者自身が組み立てたものでございますので、テストに書かないようにっ。