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後編

十二月十六日、朝から雪の降りしきる寒い日だった。

街道を濡らす六花が煌めきを増すほどに孤立無援となった大阪の城はその寂しさを際立たせた。

片桐且元は徳川の陣所にあった。

わずかな手勢と共に大阪を囲む攻囲陣の只中にあった。

こうなった事に忸怩(じくじ)たる思いが無いと言えば嘘になる。

が、これは秀頼最後の主命に従った結果でもある。

今思えば、大阪城を退去したあの日、大野治長に命じられるままに腹を召していたほうが良かったのかもしれない。

今の自分は生き恥をさらしているだけなのかもしれない。


豊臣家を去った後、大阪から離れた且元へ徳川の使者はすぐに接触してきた。

帰順を迫る家康の要求を今度ばかりは且元も受け入れることはなかった。

秀頼の命があるとはいえ、長年の恩義を忘れ敵方に走るなど且元にはおよそ出来ぬ事であった。

だが、役者は相手が一枚上手だった。

帰順を渋る且元に対し、徳川方は彼の屋敷を破壊し、妻を人質に取った。

再度訪れた幕府の使者は共に大阪を去った弟、貞隆(さだたか)であった。

この時、豊臣家臣としての片桐且元は完全に死したのである。

且元は徳川へ降った。

降伏した片桐家がその身を安堵される為には、あれほど避けようとした戦に参陣するしかなかった。

これほどの皮肉があるだろうか。

豊臣家の為、戦を回避する事に全力を尽くした男が今、その豊臣家を滅ぼす為の戦に兵を出しているのだ。


「殿、大御所様がお呼びでございます」


小姓が側へ控えると内意を伝えに来た。

着陣早々慌ただしい事だ。

出来ればこのまま日和見を決め込みたいところだが、よもやそのような曖昧な態度は許されまい。


「相わかった。すぐに参ろう」


且元は馬を引くと家康の本陣へと駆けた。


「やあやあ、よー参ったのぅ片桐殿!」


到着すると馬を繋ぐ間もなく駆け寄った家康が且元の両手を握って労った。

七十三とは思えぬ機敏さである。

その顔にこそ幾年を重ねた深い皺が刻まれているものの、重い甲冑を身に付けて尚、すっと伸びた背筋と、悠然と家臣団を睥睨(へいげい)する威容は年齢を全く感じさせない。

正しく乱世が産んだ怪物だった。


「皆の者!賤ヶ岳の英雄のおでましぞ!この片桐殿はのぉ、かの賤ヶ岳の大戦で柴田勝家殿と共に太閤殿下を苦しめたほどの豪傑じゃぞ!」


「大御所様、逆でございます…」


「ほえ?そうじゃったかの?近頃、物忘れが激しゅうてのぅ。ま、許せ!」


どこまで本気かわからない。

大御所徳川家康は平然と、呼吸をするように、人を欺ける化狸だった。

太閤殿下との勢力争いに敗れ、豊臣家に臣従したあの日から、彼はずっと天下への野心を胸に秘め続けてきた。

太閤殿下が亡くなられた時、その枕元で豊臣家筆頭家老として秀頼公を守っていくと約した彼が、その舌の根も乾かぬ内に兵を起こした事実を忘れる事は出来ない。好好爺然とした風貌の下に計り知れぬ策謀を張り巡らしているのが徳川家康という男なのである。


「いやいや、それにしてもここまで来るのは大変じゃったろぅ。大阪へ続く堺の街道を押さえているのはあの後藤又兵衛じゃからなぁ」


「いえ、馳せ参じるだけならばどうと言うこともなく」


「ほえー!頼もしい事よのぉ。やはりおことを味方に引き入れたはわしの慧眼(けいがん)よのぉ」


後藤又兵衛基次(ごとうまたべえもとつぐ)は言うまでもなく豊臣恩顧の家臣ではなかった。この大阪へ武士(もののふ)としての最後の生き様を示すために集まった牢人衆のひとりである。

こたびの戦、この戦において戦国乱世が名実共に終わる事を誰もが心の奥底で感じている。

ここ大阪は乱世が産んだ亡霊たちの墓場だ。

無論、自分もそのひとりだと且元は認識している。


「まったく豊臣にも困ったものじゃなぁ。まさか兵を起こすとは…わしは平和的に解決したかったのじゃが、あのように無理難題を三つも投げ掛けられてはのぉ」


「大御所様、逆でございます…」


「ほえ?そうじゃったかの?ふむ、そうじゃ、そうじゃ、確か条件を出したのはわしのほうじゃったわ。いかんのぅ、どうも物忘れが…」


白々しいことを。

且元が秀頼に時を稼がせたかったのと同様に、徳川家康もまた時を待っていた。

豊臣恩顧の家臣が死に絶え、大阪の城が裸同然となる時をじっと待っていた。

いわんや耐え忍ぶことは家康の得意分野である。彼は数十年の間、自分の掌に天下が転がり込んでくるのを待っていたのだから。


「さて、片桐殿。おことの武勇譚を聞きたいのは山々なのだが、実は無駄話をしている時間はあまりないのじゃ。戦は大詰めに入っておる。そこで片桐殿にもひとつ頼みたい事があってな」


家康はそう息巻くものの実のところ、大阪城の総攻めは遅々としてあまり進んではいない。

その原因は城の外へ要塞と見紛うが如き巨大な砦を築いて善戦する無名の将にあった。


真田佐衛門佐幸村(さなださえもんのすけゆきむら)


稀代の名将、安房守昌幸(あわのかみまさゆき)の子息である。

関ヶ原の大戦の折には父昌幸と共に信州上田城(しんしゅううえだじょう)へ立て籠り、現将軍徳川秀忠を足止めした。

秀忠は遂に戦に間に合わず、家康の不興を買うこととなった。

その恨みもあってか、戦後真田父子は徳川家より九度山(くどやま)への蟄居を申し渡され、昌幸は以後の人生を不遇の内に終えることとなった。

そもそも真田家は長年、北関東の信濃を所領としてきた豪族であった。

豊かな緑と広大な河川を有する信濃は戦国乱世において常にその最前線とならざるを得ない土地柄であった。

その中にあって権謀術数を張り巡らせ、どの大名家にも頼ることなく独力で信濃を守り抜いた真田の名声は天下に鳴り響いた。

真田の名を知らぬ者はいない。

上田城の戦いも、十年以上の時が流れた今では伝説として語られる。

が、それも全て安房守昌幸の話である。

関ヶ原の戦を経たとはいえ、息子幸村の名を知るものはなく、その無名の将が今、徳川の精鋭を苦しめているという事実は大阪方の将兵を奮い立たせた。

"真田丸"と称されるようになった砦から出撃し、変幻自在の戦で徳川を翻弄する幸村は確かに亡き安房守昌幸の面影を感じさせる。

秀頼公も戦場に立てば太閤殿下と見紛う精悍な指揮ぶりを見せてくれるのであろうか。

今となっては且元には想像するしかないことであった。


「槍働きならば存分に」


家康からの命は且元にとって豊臣家への恩義を果たす最後の機であった。

わずかとはいえ今、自分の手元には確かな兵力がある。

この攻囲陣の中を離れる事さえ出来れば真田丸に籠る豊臣方の将兵と合流し、徳川の本陣を脅かす機も訪れるであろう。

その時こそ七本槍と呼ばれた片桐且元が最後に槍を振るう時となるのだ。

何としてでも徳川に一矢を報いる。

大阪城を離れた且元に出来る、たったひとつの意地の通し方だった。


「ほえー!感心じゃのぅ。所領を安堵されてすっかり骨抜きになった我が家臣たちに聞かせたい言葉じゃわ。しかしながら片桐殿、おことに頼みたいのは敵陣への斬り込みではないのじゃよ」


「と、言われますと…」


「わしも昔は野戦こそ戦の華と思うておったのじゃが、この年になると辛い戦はできるだけ早く終わらせたいと考えるようになってな。その為にも奥の手を用意させてもらったのじゃ」


「奥の手…」


「左様、片桐殿は蘭学をご存じかな?」


「蘭学と申されますと、南蛮の?」


「うむ、そうじゃ。南蛮では城攻めに火薬を込めた大筒(おおづつ)を用いるという。わしもそれに倣おうと思ってな。ずらりと並べた大筒で大阪の城を直接、狙い撃とうと思ったわけじゃ。さすれば真田の小倅が守る砦なぞ放っておいても構わんじゃろう?」


舐め回すような家康の視線は且元の心の奥底を見透かしているようでもあった。

背筋が凍る。

豊臣家の折衝役として始めて駿府を訪なった日から今まで、もしかしたらずっと自分は家康の掌の上で踊らされていたのかもしれない。

且元はふとそう思った。


「片桐殿にはその大筒部隊の指揮を取って頂きたいのじゃ。どうじゃ、お願いできるかのぅ?」


「大御所様、恐れながら…それは私に大恩ある豊臣の城を砲撃せよとお命じになられているのでしょうか?」


「ま、そういう事になるかの」


何と残酷な命を下すことだろうか。

城の包囲を任せるだけならばともかく、豊臣の家臣であった自分に大阪城を、秀頼公を撃てとは。


「申し訳ございませぬ…それだけはご容赦頂きたく存じまする」


「そうよのぉ、おことには辛い任よ。だがのぉ、これはおことが(まこと)に徳川に心服しているという事を証明する為にも是非やってもらわねばならぬのじゃ」


且元は押し黙った。

沈黙が拒否を示していた。

だが、家康が容赦する事はない。


「わしはそこまでを求めるつもりはなかったのじゃよ、わしはな。おことの徳川への忠節を疑う気は毛頭ない。じゃがのぉ、やはりおことを危険視する者がいるのも事実なのじゃよ。じゃからこそ、おことには二心なき事をこたびの戦において示してほしいのじゃ。他でもないおことの手によって豊臣家に引導を渡す事によってな」


「しかしながら…」


「小早川秀秋にはなりたくあるまい」



それは全くもって世迷い言であった。

元は豊臣方の家臣である自分がこうして徳川の陣へ帰順しているこの状況こそ正しく小早川秀秋そのものではないか。


慶長五年、天下の皺勢を一気に徳川家へと傾けたあの関ヶ原の戦において、最も重大かつ、最も忌まわしい役割を果たしたあの男そのものではないか。


小早川金吾中納言秀秋(こばやかわきんごちゅうなごんひであき)は豊臣家五大老のひとり、小早川隆景(こばやかわたかかげ)の養子にして太閤秀吉の親族に連なる者であった。

大恩ある身にも関わらず彼は関ヶ原の大戦において、土壇場で徳川方へと寝返った。この裏切りが決定打となり石田三成率いる西軍の指揮系統は崩壊。

戦はわずか半日で決着した。

当時、小早川秀秋は若干十八歳。

その若さで名門小早川家の命運を託されたのである。

見えざる重責は余人の計り知れるものではない。

それを考え合わせれば一概に彼の裏切りを非難できるものではなかった。

親兄弟すら信じられぬのが戦国の世なのだ。

生き残るために手段を選んでいる余裕など誰にあろうと言うものか。


しかしながら且元は思う。

そんな時代だからこそ"忠節"とはより一層の輝きを放つのではないかと。

もっとも今の自分にそれを語る資格はもうなかったが。


「大御所様も人が悪いことを仰せになる。小早川を寝返らせたは他でもないあなた様ではありませぬか」


「ほえ?そうじゃったかの?ふむ、言われてみればそうであったわ。ほっほっ、まこと物忘れとは恐ろしいものよのぅ、片桐殿」


その言に徳川家康の真意が透けて見えたような気がした。

家康は全てを忘れろと言っているのだ。

かつて賤ヶ岳七本槍と称された猛将、片桐且元を、豊臣家の家老として幕府との折衝に努めてきた片桐且元を、すべて忘れて大阪城を攻めよと言っているのだ。

それ以外に、長きもの間、豊臣の家中にあった片桐家が生き残る道はないと言っているのだ。


"忠節"とは誠にこの戦国の世において得難いものである。

いつの間にか且元は他の選択肢を全て失っていた。

豊臣家を、秀頼公を、この手で葬り去る道しかもはや且元には残されていなかった。

拝命して家康からの任を引き受けた時、片桐且元に残されていた豊臣家臣としての最後の意地も死した。

それは且元にとって二度目の死であった。


攻囲陣を離れ、砲撃地点へ到着した且元を待ち受けていたのは、既に辺り一面を埋め尽くす程に備え付けられた大筒であった。砲口を天に向け、(そび)える天守を睨む様はそれだけでも恐怖を覚える威容を示している。

だが泰然と構えた大阪の城はそれに全く動じることもなく、待ち受ける将兵はただ家康の本陣をのみ見据えている。

当然である。

大筒はその圧倒的な火力と重厚な見目ゆえ勘違いされがちなのだが、本来は攻城兵器ではない。

(かち)の兵と共に運用し、敵の前線陣地を破壊するために用いる代物なのだ。

その射程は火縄の小銃には遥かに及ばず、二重に囲まれた城の(ほり)を越えて天守閣に砲弾を撃ち込むほどの射程は備えていない。

ならばこの大筒部隊を家康が取り揃えた真意はどこにあるのか。

そう、これは示威行為なのだ。

大筒の砲撃そのものを持って城を落とそうとしているわけではないのだ。

そこに家康の言う"奥の手"があるのだろう。

"奥の手"とは恐らく淀の方を始めとする大阪城の女房衆である。

彼女たちの恐怖を煽る事こそこの大筒部隊の目的なのだ。

砲は天守に届かずとも、発射の際の轟音は天を震わせ、地を揺るがす。

その恐怖たるや普段、戦場に出ることのない女子(おなご)の平静を破るには充分すぎた。

外が崩せぬなら内から崩す。

百戦錬磨の家康らしい狡知に長けた戦略である。


鍋島勝茂(なべしまかつしげ)殿、ご着陣!」


伝令が高らかに叫ぶと大筒の滑車を牽引しつつ、騎馬の一団が且元の陣へと馳せ参じた。

鍋島隊の運ぶ砲は一門とはいえ、徳川方が用意した物とは比較にならない巨大な砲口を有していた。


「アーンヘナーム!アルシュトブリーフト!お初に御意を得まする。拙者、佐賀鍋島藩藩主、鍋島勝茂にござる。歴戦の勇将、片桐且元殿へのお目通り恐悦至極」


勝茂は馬を降りると供手の礼を取りつつ且元の前へ伏した。

それを制すると、且元も馬上を降りて勝茂の前へ立った。


「こちらこそ藩主殿直々のご出馬、痛み入る」


"藩"とは徳川幕府の政権下で新たに定められた大名家の所領を指す制度だった。

佐賀鍋島藩は先年、徳川家康よりようやく所領の安堵を約束された新参である。

関ヶ原の戦では西軍に属した鍋島氏が、幕府への恭順を示す為には豊臣に味方する所将を斬り従える必要があった。

藩祖とも呼ばれる彼の父親、鍋島直茂は元の主家であった龍造寺(りゅうぞうじ)氏を排斥し、鎮西一(ちんぜいいち)の呼び声も高い立花宗茂(たちばなむねしげ)を征伐するなど数多の血を流した末に佐賀の国主として認められたのである。


豊臣家中に連なる者でありながら、今はこうして徳川家のために刀を振るっているという意味においては勝茂も且元と同じであった。


「それにしても凄い砲でございますな。ここにあるものとは比べ物になりませぬ」


「プレシース!当然です!この砲は我が鍋島藩が南蛮より独自に手に入れた最新式にござる。朝鮮から持ち逃げした古くさい大筒とは物が違うのですよ」


自慢気に胸を張った勝茂が砲の取り付けを命じると、鍋島の家臣団は手早く滑車から大筒を降ろし、慣れた手付きであっという間に陣を構築してしまった。


「さあ片桐殿、大御所様さえ知らぬ佐賀鍋島藩の切り札で共に戦果を挙げようではありませんか!」


「大御所様も知らぬ?」


「ヤー、先程も申し上げました通り、この砲は我が藩が独自に手に入れた物にござる。名付けて"国崩し"!さしずめ大御所様は大筒を脅しの道具にでも使うつもりだったのでしょうが…そのような回りくどい方法を取る必要はござらぬ」


その後に続く言葉を想像し、且元は戦慄を覚えた。

出来れば聞きたくはないと願った。


「我が国崩しは従来の大筒とは物が違う!この砲あらば天守を直接狙い撃つことも至極容易にござる!さあ片桐殿、下知を!天守への砲撃をお命じ下され!メットライダーステン!」


勝茂の号令一下、鍋島隊は国崩しの砲口を天高く持ち上げ、天守閣へとその照準を合わせた。


「さあ!さあ!片桐殿!下知を!」


ここに来て且元は鍋島勝茂が自分とは全く違う動機でこの戦に望んでいるのだという事に思い至った。

長年に渡ってここ大阪において豊臣家に忠義を尽くしてきた且元と、所領安堵のために豊臣に臣従した鍋島家とではそもそもの立場が違いすぎた。

且元にとって豊臣家を滅ぼすためのこの戦に参陣することは断腸の思いであった。

だが、鍋島勝茂は違う。

彼にとってはこの戦で武功を挙げ、佐賀鍋島藩の安寧を確実にする事こそが最も重要な目的なのである。


やはり大阪城を出た時に自分の命運は尽きていたのだ。

全てが裏目に出るこの状況にあって、片桐且元の胸中を占めたのは静かな諦念だけだった。


且元は砲撃を命じた。

自らの声で豊臣秀頼の座す大阪城への砲撃を下知した。命令を反復するように勝茂が叫ぶと国崩しは天を切り裂く轟音と共にその砲身を震わせた。

白煙を上げ、放物線を描いた砲弾が緩い軌道で天守閣へ吸い込まれていく。

幾重にも重ねられた破風の、その最上層に矢のように砲弾が突き立つと黒ずんだ煙の後に続いて火の手が上がった。


「アイツステーケンド!素晴らしい!これぞ我が鍋島藩の力だ!大御所様も驚かれたに違いない!」


砲弾が穿った穴から燃え盛る紅蓮の炎は且元の心を城を去ったあの日へ限りなく引き戻していった。

燃え落ちていく欄干は最後に秀頼が自分に声を掛けてくれた場所であった。

最後の主命を受けた場所であった。


「秀頼様…」


「片桐殿、どうなされた?」


勝茂の言葉はもはや耳には入っていなかった。

且元は繋いだ馬に跨がり手綱を取ると、一目散に大阪城へ向けて駆けた。


「片桐殿、どこへ行かれる!持ち場を離れてはなりませぬぞ!」


知った事か。

自分は秀頼の下に行かなければならないのだ。

今からでも遅くはない。

豊臣の陣へ馳せ参じ、牢人衆を率いて徳川の本陣へと攻め入るのだ。


風を切って馬を走らせる。

冬の寒風は老骨の身に沁みた。

"風邪引きなや。達者でな"

秀頼の言葉が甦る。

どうやらお約束は守れそうもありませぬ。


馬が足を止めた。

城のまわりに張り巡らされた壕が行く手を阻んでいた。

火縄の音がする。

壕の奥に陣取る豊臣の将兵たちが自分に向けて銃を構えていた。


「豊臣家家老、片桐且元である!御城の危難に際し、馳せ参じた!参陣を許されたい!」


声の限りに叫んだ。

依然、壕の内側から反応が帰ってくることは無かった。

無機質な銃口は物も言わず且元を狙っていた。


「片桐且元である!参陣を…」


もはや声にならなかった。

涙が頬を濡らし、掠れた声は誰にも届かなかった。

自分の内にまだこんなにも熱い気持ちが残っていたことに驚いた。

同時に今となってはすべてが遅すぎたことにも気がついた。


危険を察知した愛馬が馬首を返す。

且元は手綱を締めるのも忘れ、馬が駆けるに任せて来た道を引き返した。


「秀頼様、ご主命お恨み申し上げます…」


降りしきる雪の中、馬上の老将はひとり呟いた。


慶長十九年十二月二十日、砲撃によって和議に傾いた城内の方針を覆すことは出来ず、豊臣秀頼は江戸幕府との講和を決定。城を守るふたつの壕を豊臣方自らの手で埋めることを条件に平和条約は締結された。


翌、慶長二十年五月、徳川家康は和議を破り一方的に豊臣家へ宣戦布告。大野治長ら豊臣家の重臣は裸同然となった城を出て大阪市中へ出陣。

世に言う"大阪夏の陣"の始まりである。


同月七日、天下に並ぶ物なき名城と讃えられた大阪城は陥落した。

真田幸村を始めとする牢人衆は悉く討死。

豊臣秀頼と淀殿も自刃して果てた。

豊臣家はここに滅亡、戦国時代は名実共に終わりを迎えたのである。


同月二十八日、片桐且元逝去。

まるで豊臣家の終焉を見届けたかのような最期であった。


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