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前編

大阪城が震撼している。

天下随一の城と謳われたあの大阪城が、である。

亡き太閤(たいこう)豊臣秀吉(とよとみひでよし)天正(てんしょう)十八年、戦国乱世を統一し、天下の主となって以来、大阪城は豊臣家の威信を示す象徴のような存在であった。

安土が焼失し、小田原が陥落した今や日ノ本一の名城は紛れもなくここ大阪なのだ。

が、それも過去の栄光となって久しい。


幕政が始まってより十年の月日は、世の流れが完全に豊臣家から徳川家へと移り変わるには充分すぎる年月であった。

否、あの慶長(けいちょう)五年九月十五日、まだ残暑も厳しい初秋の日、天下分け目の合戦とも称された関ヶ原の戦の、たった一日の決着によって、豊臣家はすでにその命脈を絶たれていたのかもしれなかった。


太閤が好んだ黄金に彩られた天守閣も主を失って輝きを(くすぶ)らせつつある。

今や、その天守は太閤の忘れ形見である豊臣秀頼(とよとみひでより)と彼が最後に愛した側室、(よど)(かた)のふたりによって守られるのみで、かつての荘々たる威厳はもはや望めない。

秀頼に至ってはいまだ戦場の経験もない二十一歳の若さだった。


時代の移り変わりとはかくも残酷なものである。


徳川家康(とくがわいえやす)

かつて海内一と称された今川家の人質より始まる彼の戦国は"忍耐"という一言が表すように屈従に堪え忍ぶ日々であった。

革命的思想と強大なる軍事力で全国の大名家を切り従えていった織田信長(おだのぶなが)へ追随し、戦場を駆け巡った若き日。

太閤秀吉に臣従し、その筆頭家老として豊臣家を守ってきた壮年期。

彼は四海に轟く実力を有しながら、常に一歩先んずる先駆者たちの手によって前途を阻まれていたのである。

その家康へ明確に天下を意識させたのは太閤の死と、やはり慶長五年の戦が大勢を覆し、彼に架された豊臣家という(かせ)(くさび)を打ち込んだ事が大きな要因であったことは間違いないだろう。

齢七十三、この歳にして家康は人生において最も充実した時を迎えていた。

江戸に開いた幕府と将軍職を息子の秀忠に譲った家康の最後の事業は、心血を注いだ幕府の基盤を磐石の物と固めることにある。


"何としてでも豊臣家は滅ぼさねばならぬ"


耐えることによって生き延びてきた彼もその野望を忍ぶ必要はもはやない。

天下の主が入れ替わる時が来たのである。徳川は豊臣に対し、およそ呑めるはずのない要求を三つ持ちかけた。


"家康は戦を望んでいる。そうそうは思い通りにさせるものか"


大阪へと報を持ち帰ったのは重臣、片桐且元(かたぎりかつもと)。豊臣恩顧の武将たちの中で今やただ一人の生き残りであった。


「嫌じゃ、嫌じゃ、嫌じゃ!ウチはぜーったい嫌じゃ!」


「しかしながらお母公(ははぎみ)


「しかしやないやろ、且元。自分、なに言うてるかわかってへんの?」


「重々承知しております」


「やったら、はよ戦仕度せんかい、あほんだら!」


淀殿が憤るのも無理はなかった。

且元は平伏したまま床についた握りこぶしを震わせる。

しかれどももはや豊臣に道はないのだ。徳川の要求を呑み、戦を回避するより他、道はないのだ。


江戸幕府が大阪方へ望む和平の条件は三つ。


一つ、豊臣秀頼の江戸への移住

一つ、豊臣家の大阪よりの退去

一つ、淀の方を人質に差し出すこと


いずれも豊臣家にとって屈辱的な内容の要求である。

およそ対等の立場から物を言っているとは思えぬ。

いや、立場の話をするならばまだ豊臣家のほうが江戸幕府よりも権威は上なのだ。

にも関わらずこのあからさまな恫喝。

特に淀殿にとって三つ目の要求は絶対に呑めぬものであった。


「まーったく、何のために駿府(すんぷ)まで行ってきたのかわからへんやないか、自分。年寄りの物見遊山ちゃうねんで?」


「仰せの通りであります。返す言葉もございませぬ」


「はぁ、何でこないなことになるんや。ウチの人生は産まれたときから散々やわ。もうウチには秀頼しかおらん。せやのにそれすら奪おうやなんてほんま腹立つ話やで。自分もそう思わへんか?」


淀殿。

亡き太閤の側室となるより以前の名を茶々という。

あの戦国の魔王、織田信長の妹君であるお市の方を母に持ち、豊臣家にとっては本来主筋に当たる人物である。

彼女の人生も波乱に満ちた正しく苦難の連続であった。

戦国において主家が滅びるなどという話は珍しいことでも何でもない。

だが、彼女はそれを二度も経験しているのだった。

眼前で焼け落ちる自らの城を二度も目の当たりにし、父親や母親が落命する瞬間をも二度、経験しているのである。

一度目は天正元年、小谷城(おだにじょう)

父、浅井長政(あざいながまさ)自刃。

奇しくも浅井氏を滅ぼしたのはまだ羽柴姓を名乗っていた頃の太閤秀吉である。

二度目は十年後の天正十一年、北ノ庄。

お市の方が再稼した織田家の重臣、柴田勝家(しばたかついえ)の最後である。

この時ばかりは母、市も戦国の世の儚さを感じたのであろう。

勝家と共に果てる道を選んだ。

柴田家を滅亡へと導いたのもやはり太閤秀吉だった。

二度までも主家を滅ぼした秀吉に茶々がどのような想いで身を委ねたのかは知る由もない。

だが彼女が息子秀頼に傾ける全身全霊の愛情だけは紛れもなく本物であった。

例え憎き仇との間にもうけた子供であろうと、彼女は母親であった。

秀頼だけが淀殿の全てなのである。


彼女の辛辣な言葉をもはや老境に差し掛かった且元が反論もせずに一身に受け続けるのは先の理由のみが原因ではない。

且元もまた、浅井長政に仕えた後、太閤秀吉に取り立てられてここまで生き延びてきた人間なのである。

幼き日の淀殿を且元は知っている。

あの溌剌とした子女をここまで追い詰めたのは、あるいは戦国という世の魔物なのかもしれないが、その一因は豊臣家がこれまで流してきた多くの血にあるのだ。


同時に淀殿が且元に向ける軽蔑の色にも彼は黙して耐えるしかなかった。

片桐且元は天正十一年、羽柴秀吉と柴田勝家の戦において目覚ましい功を挙げ、賤ヶ岳七本槍(しずがたけしちほんやり)と呼ばれる猛者のひとりに数えられた。

つまりは淀殿にとって且元もまた母を殺した張本人に違いないのだ。


「戦はなりませぬ、お母公」


「自分、わかってないと思うからゆうとくけど、それしか言ってへんで。はぁ、アホ草。ウチは魔王信長の姪御やぞ?畿内一の美男子と呼ばれた浅井長政の娘やぞ?」


「いえ、浅井の殿様はどちらかと言えば恰幅の良いお方でとても美男とは…」


「ノリで言うただけや!ホンマ腹立つやっちゃなぁ。これだから昔を知っとるヤツは好かん」


淀殿はもういいというように掌をはためかせると且元に下がる様、命じる。

だがそれで引き下がる且元ではない。

無駄に時を重ねて生きてきた訳ではないのだ。年を重ねた分だけ分別をわきまえてきた。そして皺を重ねた分だけ厚かましくもなった。

今は下がるべき時ではない。

何故なら今日は天守の上席に淀殿だけではなく、秀頼も座っているのだから。

秀頼が自分の話に耳を傾けている以上、まだ下がる訳にはいかない。

豊臣政権下で携わった折衝(せっしょう)は数知れず。

交渉の押し引きは肌で知っている。


「お母公、今は多少の無理を呑んでも和平を乞うべきでございます。それが引いては御家の存続に繋がるのです」


「乞う?地に頭つけてお願いするのは徳川のほうやろが、ボケ!自分、矜持はないんか?豊臣家の家臣やっちゅう矜持が!ええ加減にせえよ。いてまうぞ、ワレ」


大阪に来てからと言うものの磨きがかかる淀殿の毒舌に且元も口を挟む隙がない。昔はこんなお人ではなかったのだ。

優しく、気高く、美しいお人であった。

方言も使ったりはしなかった。

いつからこうなってしまったのか。

いや、考えるまい。

老い先短い自分にそんな余計な事を考えている時間はないはずだ。


「おかん、その辺にしとき。わいは聞きたいで。且元の話」


秀頼がふくよかな頬に笑みを乗せて言った。包み込むような眼差しであった。


「ま、秀頼がそう言うんならもうちっとだけ聞いてやらんでもないわ」


淀殿も秀頼には甘い。

当然だ。

秀頼が産まれてからの二十一年間、彼女の人生は秀頼のものだった。

二十一年前と言えば淀殿もまだ女の華盛りである。それを捨て、懸命に豊臣を守ってきた彼女の覚悟は並々ならぬものがあった。

眉間に刻まれた深い皺から辛酸を舐め尽くした彼女の人生が窺い知れる。


「で、且元。お前の真意はどこにあるんや。こないな無理な要求呑んで、わいらに益することは何ぞあるんかいな?」


「戦を避けられまする」


「アホ抜かせ!面子(メンツ)丸潰れやないか!」


「おかんは黙っとき」


「はうぅ…」


秀頼は柔和な面持ちに厳しい眼差しを乗せて且元を見つめた。

これまで馬に乗って戦場(いくさば)を駆けた事もなく、大阪の城より外に出た事もない秀頼の体躯は丸々と肥え太り、決して戦国大名のそれではなかったが、この人の心を射止めるような目元だけは父親譲りだった。亡き太閤殿下は不思議な魅力を持った方で、どんな無理難題を突きつけられても、くしゃりと笑った笑顔と小皺の寄った目元で見つめられると誰も断ることはできなかった。


こうやってご尊顔を拝していると市井(しせい)流布(るふ)される下世話な噂話が如何(いか)に荒唐無稽なものかという事がよくわかる。

大阪市中の町人たちが曰く、秀頼公は太閤秀吉の子種ではないというのだ。

豊臣秀吉は世に聞こえた女好きで、数知れないほどの側室を囲っていたことでも名を馳せていたのだが、正室高台院(こうだいいん)を始め誰一人として彼の子供をその身に宿すことはなかった。

ところが、である。

淀の方が側室として仕えるようになってからすぐに太閤殿下に子が出来た。

幼名を(すて)と名付けられた豊臣鶴松(とよとみつるまつ)公は生来身体が弱くすぐにこの世を去られてしまったが、淀の方は二度目の子宝にも恵まれた。

(ひろい)公、すなわち秀頼である。

今まで全く後継ぎができなかった太閤秀吉の子を二度もその身に宿した。

この事実ひとつを取っても確かに市井の民の好みそうな話ではある。

だが、噂に拍車をかけたのはやはり淀殿の美貌に原因があるだろう。

四十を過ぎたとはいえ彼女の美しさは衰えを知ることがない。

眉間に刻まれた皺が苦労を偲ばせるとはいえ、逆にそれが儚げな女性の魅力へと繋がっている。

且元とてあの浴びるような毒舌さえ無ければ思わず引き込まれていたであろう美しさであった。


彼女の浮世離れした美はひとつの仮説を生んだ。

淀殿と豊臣家臣の不義密通という仮説を。

その相手として選ばれたのは、あの慶長五年の大戦において豊臣方を実質的に率いていた西軍の総帥・石田治部少輔三成(いしだじぶのしょうみつなり)である。

今でこそ罪人としてその名は地に落ちた三成だが、当時は豊臣家の次代を担う人物として目されていたのだ。

そして、何より、彼もまた音に聞こえた美男子であった。

籠の鳥として大阪に囲われる淀殿を不憫に思った三成が密かに彼女との逢瀬を重ねたのだという。

天下分け目の合戦と呼ばれた関ヶ原の戦も淀殿を守るための戦であったのだと。


成程、面白い仮説ではあるし、それなりに筋も通っている。

が、やはりそれは秀頼公を知らぬ者の言である。

且元は目の前に座すこのお方が亡き太閤殿下の忘れ形見であることを疑う気持ちは全くない。

人懐っこい笑みに、誰にでも分け隔てなく振る舞うお姿は正しく太閤秀吉の生き写しだった。

それに言いにくい事ではあるが笑うと目尻に皺が寄って猿を思わせる面構えになるのも太閤殿下譲りであった。


「なぁ、且元。戦を避けられるゆうてもわいにはよーわからん。正直な話、ほんまに戦が起きたとして、わいらは徳川に勝てへんもんやろか?」


「恐れながら、万に一つも勝ち目はございませぬ」


「よーいうわ、アホ!バカ!グズ!」


「おかんは黙っとき」


「はうぅ…」


淀殿を軽くあしらうと秀頼は眼を細める。


「そうは言うてもなぁ…確かにわいの才なんか太閤殿下の足元にも及ばん。戦のやり方なんて何もわからへん。けど、わいかて天下に聞こえた豊臣家の後取りや。わいが"徳川を討て"と一声かければ今でも十万から兵を起こせる思うてる。それでも勝てへんか?」


「勝てませぬ。戦は数ではないのです。例え十万を集めたとて、今の大阪に豊臣恩顧の家臣達はもはやおりませぬ。我らが頼むのは精強とはいえ、関ヶ原の戦で没落した牢人衆(ろうにんしゅう)でしかないのです。かような現状で誰が指揮をとるというのでしょうか?かような現状で果たして徳川譜代の家臣団に太刀打ち出来るものでありましょうか?」


「そ、そんなん…何とでもなるやろ…どつきまわしたったらええやないか!」


「おかん」


「はい…」


且元は顔を上げて秀頼に眼を向ける。

"わいの才は太閤殿下の足元にも及ばん"

秀頼はそう言った。

とんでもないことだ。

秀頼公は確かに戦を知らない。

だが、彼はそれを補って余りあるほどに聡明であった。

彼にはわかっているのだ。

且元に言われずとも豊臣家の存続の為には徳川へ頭を垂れるしかないことがわかっているのだ。

秀頼が且元に投げ掛けた疑問は全て、徹底抗戦を主張する母、淀の方を納得させる為の演出に過ぎないのだ。

太閤殿下に負けぬ機知。

秀頼公がある限り、豊臣が滅びることはない。

且元はそう確信した。

今、豊臣家に必要なのは時だった。

時を稼ぐ事だった。

徳川家康は御年七十三。

もはや先は長くない。

太閤秀吉の死が天下を震撼させたように、大御所家康の死は必ず幕府を根底から揺さぶる火種となるはずだった。

その時こそ豊臣家が立ち上がる時なのだ。

秀頼公を先頭に抱き、整然と江戸に向けて兵を進めるのはその時なのだ。

もはや、自分がその日を迎えることは叶わないと且元は悟っている。

だからこそ、こたびの折衝は片桐且元最後の大仕事であった。

何としてでも戦を避ける。

且元が死しても、家康が死しても、秀頼はまだまだ生き続けるのだから。


「先程から聞いていれば片桐殿はずいぶんと戦がお嫌いと見えますね。賤ヶ岳七本槍と讃えられたあの日の猛将はどこへ行ったのか…」


淀殿が沈黙した代わりに、口を開いたのは剃り上げた月代(さかやき)に理知的な広い額を光らせた主戦派の筆頭家老であった。


大野修理治長(おおのしゅうりはるなが)


大阪城の政務全般を取り仕切る今や豊臣家中最大の実力者である。

淀殿の信任も厚い。

それもそのはずで彼の母親は淀殿、いや浅井家に産まれた茶々の乳母を務めた大蔵卿局(おおくらきょうのつぼね)であった。

淀殿が執拗に徳川家との戦争を望むのも信頼する治長の献言が影響していることは間違いがなかった。

治長は長きに渡り、戦場ではなく謀略の世界に生きたきた事もあり、その洞察力は豊臣家中でも随一のものがあった。

太閤殿下が亡くなった後、徳川が豊臣家に対して反旗を翻すことをいち早く見抜き、真っ先にそれを防ぐための行動に出たのは治長であった。

彼は石田三成に与する事なく独力で家康に対抗し、殿下が亡くなったのと同じ慶長四年の内に徳川家康の暗殺計画を実行に移した。

結果としては失敗に終わったその計画ではあったが彼は流罪の憂き目にあいながらも再び大阪へ戻り、徳川への敵意を燃やし続けた。

それ程に彼は徳川征伐に己の全てを賭けているのだ。

秀頼に和平を決断させるにおいて最も高い障害は淀の方ではなく、この大野治長なのである。

彼を攻略しない限り、和平の道は開けない。


「もはや武を持って事を決する時代でもあるまい。今は幕府と和を結び力を蓄えるが肝要」


「甘い。片桐殿は"荀子"をご存じないのでしょうか」


「荀子だと?」


「人は産まれながらにしてその性は悪であると」


知らぬわけが無い。

"人は産まれながらにして道徳的規範を有している"と唱える孟子の性善説に対して荀子は性悪説の立場を取った。

人の本質は悪である。

人は法や(ことわり)で縛らなければ獣と同じ畜生道へ落ちる。

裏切りが横行し、親兄弟であってもいつ敵となるか知れぬこの戦国の世においては確かに荀子の説は的を射ていると言えるだろう。

だが、時代は変わった。

いま豊臣と徳川の関係は完全に破綻を迎え、一触即発の状態を迎えているとはいえ、民草から見れば戦乱の時代は既に終わったのだ。

これから先、性善説が性悪説に取って変わればいいと且元は思う。

否、そのような世を創ることこそ戦乱を生き抜いた我らの務めなのだ。


「ここで我らが徳川に和を乞えばどうなるかは火を見るよりも明らかだ。世間は豊臣の権威は失墜したと見る。もはや豊臣に天下の主たる資格は無いと見る。そうなればどうする?そうなれば秀頼様を持ってしても徳川に抗しうるだけの兵力を集めることは不可能だ。わかるか、且元?我々に選択肢などは無い。戦うしかないんだよ。臆病者の老いぼれは下がっていろ。豊臣家はこの大野治長が守る」


「下がるのはお主だ、治長。戦を知らん若造が好き勝手な事を申すでないわ」


「ほぅ、それは秀頼様の事を言っておられるのかな?」


「ぐ…」


「意地の悪い事、言うなや治長。且元かて豊臣を想う気持ちはお前と一緒やで」


「ははっ。ですが、秀頼様。果たして本当に片桐殿は豊臣家を想って行動しているのでしょうか?」


「どういう意味や?」


治長は冷めた笑みを口許に浮かべると手元の扇子をぱちりと弾いた。

感情を廃した視線で且元を睨み付けると言った。


「そもそもこの度の徳川家の我らに対する要求。その根本的な原因はどこにあったのでしょうか?この十年あまり、大阪方と江戸幕府はうわべだけとはいえ友好的な関係を保ってきました。ですがここに来て突然の豹変。その原因は何だったのでしょうか?あなたにはお分かりですね、片桐殿?」


話の矛先が自分を向いたことで且元の背中を一筋の汗が伝った。

当然、且元はその原因を知っている。

いや、且元だけではない。

秀頼も淀殿も知っている。

そもそも今回、且元が駿府に出向き徳川家康へ拝謁したのもその原因について申し開きをするためだったのだから。


「方広寺の鐘…」


「作用、その通りです、片桐殿」


方広寺鐘名(ほうこうじしょうめい)事件。

二年前から豊臣家が推し進めてきた方広寺の大仏修繕事業。

その最後の詰めという段階で起こった徳川家との軋轢(あつれき)である。

大仏殿に納める鐘へ秀頼は日ノ本の新しい時代への祈りを込めようとしていた。

平和を祈念し、誰もが安息の内に暮らせるように、願いを込めたいと考えた。

そしてその祈りを秀頼は文言に託したのだった。

方広寺に納められた鐘には平和を望む豊臣家の想いが刻まれた。


"国家安康 君臣豊楽"


上も下もなく、武士から百姓まで日ノ本に暮らす全ての人々が平和の内に生を享受できますように。

そう願って刻まれた碑文であった。

だが、これが豊臣家にとって命取りになった。


江戸幕府はこの文言に激昂した。

曰く、"大御所家康公の名をふたつに裂くとは何事か。その上で豊臣家が栄えるように祈るとは許しがたい。これは呪詛である。宜しい、戦を望むのならば受けて立つ。全力で参られよ"


全く持って迂闊(うかつ)だった。

方広寺鐘名事件はこれまで穏便に進んできた豊臣と徳川の関係を完全に崩壊させてしまった。

駿府へ赴いた且元の弁明も虚しく、徳川家は先の三つの要求を豊臣家に強いた。

これは、この十年間、徳川との折衝役を務めてきた且元が犯した最大の失態であった。


「方広寺の件に関し、徳川方へ納得のいく説明が出来なかったことは申し開きの仕様もなく、わしの責務だ。これさえなければもっと違う形の交渉も出来たやも知れぬ」


「ああ、私が指摘したいのはその事ではありませんよ、片桐殿」


「何?」


「もっともっと根本的な事ですよ。おわかりにならないか?方広寺の鐘名、あの問題の鐘名を南禅寺(なんぜんじ)清韓和尚(せいかんおしょう)に書かせたのは、他でもないあなただと言うことだ、片桐且元。あんたは方広寺修繕の総奉行だった。あんたなら鐘名の文言を操作することができた」


「何が言いたい、治長」


「茶番は止めろよ。貴様は豊臣家を売ったんだよ。家康と結託して我らを追い落とすつもりなんだろ?和平を乞う?面白い冗談だ。そうやって豊臣家を一大名家の地位に落としこむのが策だったんだろうが、そうはいかんぞ。貴様の思い通りにはさせん。言ったはずだぞ、豊臣家はこの俺が守るとな」


「ちょい待ちいや、治長。そんなん証拠がないやろ?いくら何でも言ってええ事と悪い事があるで」


「確かに証拠はございません。直接的な証拠は…」


その言葉には含みがあった。

治長が淀殿へ視線を向けると後を引き継ぐように淀殿は話し始める。


「実はな、ウチも独自に使節を駿府に送ってたんや。その使節が先日戻ってきてな、言うんや。徳川は弁明を受け入れたて。三つの条件なんか出さへんかったって。使節はウチがいっちゃん信頼しとる大蔵卿や。間違いない情報やで、これは」


先程まで真剣に且元の話を聞いていた秀頼が眼を伏せる。

唇を噛んで俯いた。

嵌められた。

気付いたときには遅かった。

今日のこの場は自分を断罪する為の主戦派の罠だったのだ。

片桐且元は自身の命運がここで尽きたことを悟った。

敵は身内にありか。

自嘲気味に笑う。

謀略において大野治長はこれまで武辺で生きてきた且元の一歩も二歩も先を行っていた。


「片桐且元、何か言うべき事はあるか」


「ございませぬ」


且元は治長に対して平伏した。


「これまで豊臣家に尽くしてきた貴様へのせめてもの情けだ。腹を斬ることを許そう」


切腹か。

ここまで周到な準備の為された謀略に会ってはもはや詰め腹と表現したほうが正しいのかもしれなかったが、首をはねられないだけ幾分かましだった。

治長が壁に掛けられた刀から脇差しを取り出すと床に放った。

且元はそれを拾い上げると鞘を払おうと手を動かす。


「待ち」


声がかかった。

秀頼が且元の指を抑え込んでいた。


「腹なんか斬らんでええ。斬らんでええからさっさと荷物まとめてこの城から出てき」


「秀頼様!なりませぬ!」


「せや!こいつは徳川とグルになっとんたんやで!」


治長と淀殿が怒声をあげる。

何としてでも腹を斬らせたいらしい。

ここまで脅威に思われれば武士(もののふ)として本望というものだ。


「じゃかましい!」


今度は秀頼が大声を挙げる番だった。


「ここはわいの城や。わいの豊臣家や。家臣の処遇はわいが決める。且元、罪一等を減ずる。直ちに大阪城より退去せよ」


「御意」


拝謁して且元は主命を承った。

事ここに至ってはもはや豊臣家に居場所はない。

且元は大阪城に与えられた自分の政務所へ戻ると必要な道具一式を家宰に運ばせる手筈を整え、自身は身ひとつで城を去る準備に入った。


天正元年の小谷落城から数えて四十一年の月日が流れていた。

半世紀近くの時を豊臣家の元で過ごしてきた。

片桐且元にとっても豊臣家は己の全てであった。

時代の岐路に立ち、自分はもはやその中心に立つことはないのだと思えばこれまでの人生がひどく虚しいものに感じられた。


「堪忍やで、且元」


城の欄干に手をかけ、己の余生に想いを馳せていると後ろから声がかかった。

豊臣秀頼であった。


「これは、秀頼様。このようなところへ来られては風邪を引きまする」


「ええて、楽にしい」


地に頭を着けようとする且元を両手で制すると、秀頼は且元の隣に並んで大阪の町を見下ろした。


「この町がもうすぐ戦場になるんやな。お前を退けたっちゅうことはそういう事なんやな」


且元は何も答えなかった。

太閤秀吉が発展させた大阪の町。

町を照らす灯の光は確かにそこに民の暮らしがあることを思わせる。


「やっぱ、わいは太閤殿下には敵わへんな。家臣の事もおかんの事もなんもわかってへんかった」


「そのような事は…秀頼様はご立派に務めを果たされております」


「持ち上げんでええて。ほんま、よー出来た家臣やな。口が上手いのはおとん仕込みかいな」


秀頼は微笑むと欄干を離れ且元の前で頭を下げた。


「お…お止めください、秀頼様!」


「片桐且元、長年に渡る豊臣家への忠義、父秀吉に変わって礼を言う。本来、かつて賤ヶ岳七本槍と呼ばれたお主が一番、徳川と戦いたかったであろう。そのお主が屈辱に耐え、常に徳川との折衝の矢面に立ってくれたこと、感謝してもしきれるものではない。開戦と決まった以上、大阪は死地となるだろう。この城を退去した後はもはや豊臣家に義理立てする必要はない。直ちに江戸幕府へ帰順を申し出よ」


「な、何を言われるのですか!」


「生き延びよ」


寂しげに笑った。


「わいは人が死ぬのは好かんのや」


且元の頬を涙が一筋伝った。

この人は産まれるのが早すぎた。

この戦国の世に生を受けるには秀頼公はあまりに優しすぎた。

家臣ひとり見殺しに出来ぬその優しさで天下人とは。

世が世なら名君足り得たであろうか。

且元がその姿を見ることはもうない。


「風邪引きなや。達者でな」


「御意…」


それが片桐且元が豊臣秀頼から受けた最後の拝命であった。


慶長十九年十月一日、片桐且元大阪城を退去。

同日、江戸幕府、大阪方へ宣戦布告。


豊臣家の落日はこの日より始まる。



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